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CHAIN:02-2

鋭い爪が空間を掠めた直後、刹隠の気配が完全に消える。


空気が沈む。

音が消える。

陽射しは変わらず地表を照らしているのに、そこにあるはずの姿が視えない。


「……完全に、消えた」


楓馬が鎖を巻き直しながら低く呟く。

朧は一歩も動かず、刀を半身に構えたまま、視線だけを走らせている。


「……動いてる…速い」


澪の声は震えていた。

視界の端を何かが何度も横切る。

それなのに、影すら見えない。


次の瞬間――風が走った。


刹隠が再び飛び出す。

今度は澪を狙って、真正面から跳び込んできた。


だが、朧が一歩踏み込む。

刀が風を裂き、振るわれる。


空振り。

刹隠は急激な横跳躍で軌道をずらし、そのまま空間に溶けた。


「動きが読めない……!」


楓馬の鎖が、地面と建物を繋ぐように伸びる。

予測される移動先を先回りし、罠のように張り巡らせる。


その鎖が、突如として跳ね上がった。

目に見えない”何か”が、ぶつかっていた。


「…そこ――」


鎖が収束すると同時に、朧が突っ込む。

一瞬だけ浮かび上がった刹隠の輪郭へ、迷いなく斬撃を叩き込んだ。


だが刃は肉を掠めた瞬間、甲殻に弾かれる。


「……外殻、強い」


振動爪を反転させた刹隠が、朧の脇腹を狙って振り下ろす。


だが、再び鎖が割り込む。

攻撃の瞬間に巻き戻されるように、爪の軌道が逸れる。


「視えなきゃ、当たらない」


楓馬が視線を走らせながら、さらに鎖を広域に展開する。

その軌道を読むように、澪が矢を引き絞った。


「……通す」


次の瞬間――

鎖が、”何か”に弾かれる。


同時に、澪の矢がそこへ吸い込まれるように飛び込む。

空間がわずかにゆがみ、刹隠の輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。


その隙を逃さず、朧が踏み込む。

月霞の斬撃が、浮かびかけた影に正面から振り下ろされる。


しかし斬り裂けない。

刹隠の動きが速すぎる。

視認から反応までが、わずかに間に合わない。


「澪、矢を広げて。封じ込める」


楓馬の声。

即座に、澪がうなずく。


「……弾幕、張る」


次々と放たれる光の矢が、広い弧を描いて空中を走る。

刹隠のステルス性能が、干渉粒子の中でわずかに乱れた。


「…視えた!」


楓馬の鎖が一気に収束する。

同時に、朧が踏み込み、刃を振るった。


月霞の一閃が、刹隠の右肩を浅く裂く。

振動が止まり、黒い体毛の隙間から黒い液体が滲み出す。


はっきりとした手応え――初めてのダメージだった。


「…いける」


けれど――

刹隠が低く唸る。

気配が逆流するように膨れ、周囲の空気が一気に張り詰める。


「……来る」


三人の視線が、同時に一点を捉える。

その刹那、刹隠は姿を消し、音もなく空間を横切った。


狙いは、澪。


刹隠が音もなく跳びかかる。

殺意だけが、空間を裂いた。






――雨が降っていた。

まるで空が泣いているみたいに、途切れなく、静かに、地面を濡らしていた。


公園のベンチ。

その上で、二人の子供が身を寄せ合っていた。


「……さむい、ね……おねえ、ちゃん……」


小さな声で呟いたのは妹—―澪だった。

その体は薄いワンピースの裾を濡らしながら、震えていた。

傘も上着もない。

誰かが迎えに来る気配もない。


「……大丈夫。私がいるから。澪は、寒くない」


そう言った姉—―朧は、澪の肩を抱きしめるように覆い被さっていた。

自分だって寒いはずなのに、震えていたのに、それを見せることが許されないと思っていた。


母と父が去ってから、もう何時間が経ったのかも分からない。

玄関の前で、待っていた。

泣きながら、呼んだ。

でも、扉は開かなかった。


夜になり、雨が降り始めた。

公園のベンチにたどり着いたのは、きっと偶然だった。

でも、今はそこが世界で一番安全な場所に思えた。


「……おなか、すいた……」


澪の声が震える。


「……我慢できるよね。だって、澪はえらいもん」


そう言って、朧は澪の髪を撫でた。

ぎゅっと抱きしめると、澪は静かに目を閉じた。

もう泣いてはいなかった。


(……泣かない。私が泣いたら、澪がもっと不安になる)


そんなこと誰に教わったわけでもないのに、幼い朧は無意識にそう思っていた。


「……私が、守るから。絶対に。どこにも行かせない」


その言葉は誰に向けたものでもなかった。

ただ、自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返した。


雨音だけが静かに響く。

その中で、澪は朧の腕の中で眠りに落ちていった。

安堵のような呼吸が、朧の胸元でふわりとほどける。


朧は空を見上げた。

灰色の空は何も答えなかったけれど、その瞳には、幼いながらも決意の光が宿っていた。


「……誰にも、渡さない」


その言葉とともに、朧は澪を抱きしめる力を強くした。

雨に濡れながら、ただひたすらに、妹の体温だけを頼りに。

その夜、二人は寄り添ったまま、眠るように朝を迎えた。


翌日、通報を受けた警察に保護され、行く宛のない姉妹はそのまま児童養護施設へと引き取られることになった。


「お名前は…?家族の方は…?」


何人もの大人が優しい声で尋ねた。

けれど、朧は答えなかった。

澪の手を握りしめ、ただ一歩も離れようとしなかった。

誰にも預けたくない。

誰にも、奪わせない。


施設では「双子だね、可愛いね」と声をかけられた。

最初の数日は、子供たちの輪にも混ざった。

でも少しずつ気づいていく。


誰かと遊ぶと、澪が不安そうに自分を探していること。

澪と離れている間、自分の胸の奥が妙にざわついて落ち着かなくなること。

そして、澪が他の誰かに懐こうとすると、なぜか息苦しくなること。


(……いやだ。誰かに取られるのは、いやだ)


互いにとって、互いしかいない。

それだけが事実だった。


だから朧は決めた。

この場所でも、澪だけは自分の隣に居させると。

少しずつ他の子と距離を置き始め、二人きりの時間が増えていった。


「ねえ、朧ちゃん。今日も妹ちゃんと一緒なの?」


廊下の向こうから、年上の女の子が軽い調子で声をかけてくる。

だが朧は振り返らない。

自分の袖を握って歩く澪の手に意識を集中させながら、静かに歩みを進める。


「……うん。澪がいるから、平気」


短く、それだけ答えて通り過ぎる。

相手がどんな顔をしていたかなんて、気にしていない。


いつしか、二人は他人に反応しなくなった。

話しかけてくる大人も、他の子どもたちも、みんな「自分たちを引き離そうとするもの」に見えたから。


誰かが手を伸ばしても、それを振り払うのは朧。

誰かが声をかけても、必ず澪の手を引いて逃げるのは朧。

澪は、ただ静かに、それに従っていた。

何も言わず、何も拒まず、姉の背中にぴたりとくっついて歩いた。


それが、自分の正しい居場所だと信じていた。

だから、みんなだんだんと距離を置くようになった。

それでよかった。


((だって、あなたは私のものだから))


廊下の先にある、空き部屋の一つ。

もともとは使われていない倉庫。

ふたりだけの秘密基地として、朧が見つけた。


誰も来ない。

誰も邪魔しない。

何より、ここには「他人の目」がない。


扉を閉めると、澪はほっとしたように手を離す。

床に座り、朧の膝に頭を乗せてくる。

それが、いつもの合図。


「お姉ちゃん、……だいすき」

「うん。私も澪がいちばん」


決まった言葉を交わしてから、しばらくの間ふたりは何も話さない。

静けさの中に、ふたりの呼吸だけが重なっていた。


ふと、澪が尋ねる。


「……お姉ちゃん。もし、わたしがいなくなったら、どうする?」


その声は、とても小さくて、壊れそうで。

まるで不安をそのまま結晶にしたようだった。


朧はすぐに答えない。

その問いが、どれだけ恐ろしいものかを知っているから。

しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと言葉を落とす。


「…澪がいなくなったら…私もいなくなるよ」

「……やだ」

「だから、絶対に離れない」


そう呟いた朧の声に、怒気や悲しみはなかった。

ただ、それが真実であるという事実だけが滲んでいた。


澪はそれを聞いて、小さく笑った。

安心したように、無防備な息を吐いた。


「よかった……」


そうして、再びふたりの世界は閉じられた。


誰にも理解されなくていい。

誰にも気づかれなくていい。

世界がどうなろうと、ふたりでいれば、それでいい。


それは、いつもと変わらない夜だった。


施設の消灯時間。

子どもたちはそれぞれの部屋に戻り、灯りは落とされていた。

ふたりだけの秘密基地も、今日も変わらず静かだった。


澪は朧の膝を枕に、うつらうつらと眠りかけていた。

朧はその髪を撫でながら、ふわりと微笑んでいた。


「……ずっとこのままだったらいいのにね」


そう呟いた澪の声は、どこか不安げだった。

まるで、何かが終わってしまう未来を予感しているような。


朧はその言葉に応えず、澪の額に口づける。

何も言わないことが、約束のようだった。


その瞬間。

突如、廊下の奥から悲鳴が響いた。


「──っ!?」


続いて、ガラスの割れる音。

重たい何かが床を這うような、ぬちゃりとした異音。

静寂が、一瞬で地獄へと転じる。


「……蝕依体、だ……!」


誰かの叫びが、恐怖の名を告げる。


天井を這う気配。

壁が抉られる音。

一体、二体──いや、もっといる。

空気の匂いが変わり、部屋の隅にまで「死」が忍び込んできていた。


「澪、逃げるよ!」


朧はすぐに立ち上がり、澪の手を引いた。

だが、扉を開けた先には、すでに血と影が広がっていた。


廊下の奥から、ぬるりと這い出すように姿を現す黒い影。

肉のようで、獣のようで、それでいて人の感情を食む“何か”。


体長1mほどの、異形。

背中からは棘が生え、どろどろに溶けたような顔の中心で、紅い眼だけがぎらりと輝いていた。


「くる……!」


朧が澪を庇うように前に出る。

その体は震えていた。

けれど、その瞳だけは、決して逸らさなかった。


影が動いた。


その瞬間、扉が爆ぜ、朧と澪の身体が吹き飛ばされる。

壁に叩きつけられた朧が呻き、澪が叫ぶ。


「お姉ちゃん!!」


影が、朧に向かって舌のような触手を伸ばす。

もう、間に合わない。

そのときだった。


「……お姉ちゃんに、触らないで!!」


澪の叫びに、空気がひび割れた。


空間が、音もなく歪む。

なにかが解けるようにして霧が滲み出す。


『……聞こえたよ。あなたたちの声』


甘く、優しく、まるで昔から知っているような声。


『守りたいんだよね。守られたいんだよね。――だったら、そうすればいい』


澪の目に映ったのは、空中にふわりと浮かぶ手。

血のように赤い糸が、無数に絡み合った手だった。


同じ瞬間、朧の身体からも光が漏れる。

深い紫と、柔らかな紫が交錯し――ふたりの胸元から、同じ存在が立ち上がる。


『初めまして。縒縁(よりえん)です』


その声は、ふたり同時に、同じ言葉を囁いた。


『ふたりだけがいればいい。それがあなたたちの願いでしょ?』


その囁きに、澪も、朧も、わずかに目を見開く。


『だったら契約しよう。あなたたちの繋がりを、誰にも壊させないために』

『この世界に、ふたりだけの領域を作ろう。誰にも入れない、誰にも壊せない、永遠の共鳴空間を――』

「……契約、する」


朧が、息を吐くように呟く。


「お姉ちゃんと一緒にいられるなら……なんでもいい」


澪が、涙を滲ませながら同じ言葉を重ねる。


ふたりの言葉が重なった瞬間、空気が爆ぜた。

霧が弾け、紫の糸が空間に絡みつく。

その中心に、縒縁の姿が現れる。


無数の糸で構成された半透明の身体。

顔はなく、けれどその存在ははっきりと温かさだけを持っていた。


『契約は成立しました』

『代償は、他者への感情をすべて失ってもらう。互い以外信じられなくなっても、後悔しないでね?』


そのとき、姉妹の間に深紅の“縒り糸”が生まれた。

心臓と心臓を繋ぐように。

決してほどけることのない、共依存の鎖。


次の瞬間。


朧の足元に、一振りの刀が現れた。

月の光を閉じ込めたような白銀の刀〈月霞〉。

澪の手には、透明な光の波紋が刻まれた弦弓〈泡暁〉。


「……澪…もう、怖がらないで」

「うん……お姉ちゃんがいれば、平気」


朧が踏み出す。

澪が弓を引き絞る。


そして、ふたりの魂が完全に重なった瞬間、弓と刀が同時に光を放った。

空間が震え、蝕依体が叫ぶ。

だが、もう遅い。


「……離さないって、言ったでしょ」


静かな声とともに、月霞が影を両断する。

直後、泡暁から放たれた矢が爆ぜ、焼けた霧が吹き飛ぶ。


戦いが終わったとき、部屋の床には焦げた影だけが残っていた。

ふたりは、お互いを見る。


「……ねえ、お姉ちゃん」

「……うん?」

「もう、離れないでいられるの?」

「……ええ。もう、何があっても」


その言葉は、約束でも誓いでもなかった。

それはただ、ふたりの当然の事実だった。


誰かのためじゃない。

世界のためでもない。

ふたりだけの契約だった。






殺意に反応したのは、朧の影。


「……させない」


澪と刹隠の間に、迷いなく朧が割り込む。


瞬間、風が裂けた。

振動を纏った爪が、朧の肩口を狙って振り下ろされる。


しかし朧は、刃を振るう動作と同時に半身を捻る。

月霞の斬撃が、空気を斜めに裂いた。


金属のぶつかる音と火花。

直撃は逸れたが、確かに刃は届いていた。


「今!」


楓馬の鎖が走る。

脚、尾、首筋――三方向から同時に絡みつくように収束する。


だが刹隠は、身を捻ってそのすべてを逃れた。

滑らかで無駄のない動きは、獣というより緻密な戦術機械のようだった。


空間がわずかに揺らいだ。


その直後、澪が弓を引き絞ったまま微かに息を吐く。


「……ここ」


一矢。

放たれた矢は、空中に溶けかけた歪みの中心へ吸い込まれるように突き刺さった。


鋭い音が響き、刹隠の右肩が弾け飛ぶ。

同時に、ステルスの膜が剥がれ、姿が露出する。


光を吸い込む漆黒の毛並み。

鋭利な振動爪。

伸びきった肢体が、横跳びの途中で一瞬だけ動きを止めた。


「視えるようになった」


楓馬の鎖が一気に収束し、膝裏を絡め取る。

同時に朧が踏み込み、跳ねるような一太刀を横腹に叩き込んだ。


刹隠は爪で受け止めようとしたが、前脚にわずかな拘束が残っていた。

タイミングがずれ、刀身がそのまま肉を裂く。


黒い液体が飛び散り、刹隠が苦悶の咆哮を上げた。


「…初めて、声出したね」


楓馬が鎖をほどき直しながら呟く。

刹隠は姿を現したまま、大きく距離を取っていた。


睨み合い。

風も音も、まだ戻らない。


刹隠は身を低く構える。

その視線は、楓馬を真っすぐに射抜いていた。

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