CHAIN:01-3
燐哭の声が空気を割る。
その瞬間、室内の温度がぐっと下がったように感じた。
楓馬の肌を、冷たい指がなぞるような錯覚が走る。
『目を閉じて。心を差し出すんだ』
楓馬は言われるまま、ゆっくりと瞼を閉じる。
心臓の鼓動が、妙に大きく耳に響いた。
「…これで、救えるなら」
たとえ自分がどうなろうと構わない。
壊れても、汚れても、もういい。
誰かを助けられるなら、それが自分に残された、唯一の価値。
『その覚悟、確かに受け取ったよ』
燐哭の声がすぐ傍に寄る。
息がかかる距離で囁かれた直後、鎖の音がした。
硬質な、そして不吉な金属音。
そして何かが弾ける音とともに、楓馬の胸元から、淡い赤黒の光がにじみ出す。
それは血管をなぞるように広がり、心臓の位置で円を描いた。
『君の魂に、僕の名を刻もう』
燐哭の掌が触れた瞬間、淡い光が楓馬の胸から滲んだ。
内からじわりと広がる、異質な熱。
冷たい炎のように静かで、そして確実に、魂の形を変えていく。
楓馬の呼吸が浅くなる。
それは痛みではなく、変質の予兆。
契約の刻印が、肉体の奥で静かに脈を打ち始めた。
『君の心臓に契約を縛らせてもらったよ』
「……心臓に?」
楓馬は胸に手を当てた。
奥深くで、異物のような脈が打ち続けている。
それは自分の鼓動とは明らかに違った。
冷たく、硬質で、まるで生き物のふりをした機械のような律動。
燐哭はひょいと人差し指を立てると、悪びれもせず言った。
『あれ、言ってなかったっけ?うーん……そっか、言ってなかったかも』
唇に浮かべた笑みは薄く、軽く、底が抜けている。
『でもまあ、もういいよね。今さら契約を解く方法なんて、君にはないし』
そう言いながら、燐哭は指先で空中をくるくるとなぞるように回す。
まるでそこに見えない鎖が絡みついているかのように、楽しげに。
そして、ふとその指を楓馬に向け、心臓の位置を指し示す。
『壊したくなったら、心臓ごと潰してくれていいよ。そのとき死ぬのは君だけだから』
喉の奥でくすくすと笑いながら、燐哭は一歩、ゆっくりと楓馬に近づく。
『さあ。君が僕の力をどう使うのか見せてもらうよ、救済依存—―御堂楓馬』
その声は甘く誘うようでいて、芯には明確な支配があった。
抵抗など意味を成さない。
鎖はすでに深く喰い込んでいる。
鍵は、悪魔の手の中だ。
そして、燐哭は指を鳴らす。
『鎖の世界にようこそ。さあ、地獄を楽しもうか』
言葉の余韻とともに鎖の音が、頭の奥で反響した。
鎖の音が遠のいた、その刹那。
微かに誰かが、自分の名を呼んだ気がした。
「……ま…、……楓馬…」
「おーい、楓馬ー?」
気がつけば、楓馬は食堂にいた。
隣には咲名玖珂が、頬杖をついたまま、じっとこちらを見つめている。
他人の評価がすべて──そう信じて疑わない承認依存。
注目されてないと、息苦しくなるタイプ。
向かいの席では沙門寧火が背筋を正し、静かにその様子を見守っていた。
誰かを尊敬し、その背中を追い続ける尊敬依存。
自分の価値より、咲名を信じることに迷いがない。
「……戻ってきたね。咲名くんが何度も呼んでたよ」
寧火がそっと声をかけたとき、玖珂の指が楓馬の頬をぷに、と突っついた。
「楓馬ってば酷いよ~。ピースしてくれないし、返事もしてくれないし、僕の戦術試験も全然見てなかったし!!」
そう言って、モニター端末をずいと押し出してくる。
画面には、玖珂の個別戦術試験のリプレイ映像が流れていた。
連結双銃《称焰》を両手に、炎の弾丸を描くような軌跡で動き回る玖珂の姿が映っている。
砲呑の軌道を読んでギリギリでかわし、視界外から撃ち抜く。
狙撃、回避、連射、再装填。
――どれも完璧に決まっていた。
「……ね?頑張ったでしょ、僕。褒めてもいいんだよ?」
「……うん、普通にすごいよ。見違えるくらい動きが冴えてる」
静かに言葉を重ねながら、画面をスワイプして次の場面を再生する。
「この角度からの射線取り…前は避けがちだったのに、自分から踏み込めてた。……すごい成長だよ」
その言葉を聞いた瞬間、玖珂の目がぱっと見開かれた。
「……ほんとに?」
信じられないと言いたげに声を漏らしたあと、弾けるように笑顔が広がる。
「え、やった!楓馬に“成長”って言われたの、初めてかも!」
椅子の上でくるりと小さく身体を回し、満面の笑みで喜びを爆発させる。
「ねえねえ、すごいってことは褒めてるんだよね!?すごい成長ってことは、“僕すごい”ってことで合ってるよね!?ふふ、やった~!」
そのはしゃぎように、寧火がわずかに目を細めた。
「…よかったね、咲名くん。ずっと練習してたもんね」
玖珂は笑顔のまま、こくこくとうなずく。
その様子を一瞥したあと、楓馬はゆっくりと視線を移す。
「沙門は、午後の試験だったよね」
そう尋ねると、寧火はいつもの静かな目で頷いた。
「うん。少し緊張してる、かも」
「……無理しなくていい。沙門なら、ちゃんとできるよ」
ただそれだけ。
でも、迷いのない声。
信頼でも、安心でもなく、自然と信じてるという種類の言葉。
寧火はその言葉をしばらく静かに受け止め、小さく微笑んだ。
「……うん。ありがとう、楓馬くん」
やわらかな声が、食堂の空気をふんわりと和ませる。
その余韻が静かに落ち着いたころ、寧火がふと思い出したように、声を上げた。
「そういえば楓馬くん、今週末に外出許可申請出してたね」
「うん」
短く、淡々とした返事。
その横でスープを飲んでいた玖珂が、ぴくりと反応する。
「えー!楓馬、どっか行くの?」
楓馬は少しだけ戸惑ったように瞬きをしてから、視線を逸らすようにぽつりと答えた。
「……カフェ」
「え?」
「……犬カフェに行ってくる」
その瞬間、玖珂の眉が跳ね上がる。
「はぁぁああああああああ!?!?」
思わず椅子から前のめりになり、声を上げた。
けれど怒鳴るでもなく、ジト目で楓馬を睨みつける。
「……楓馬、見損なったよ。僕たちに内緒で癒されに行くなんて……!」
手元のスプーンを置いて、腕を組みながらため息をつく。
その目には、怒っているようで、どこかショックを受けたような色が浮かんでいた。
一呼吸置いて、声のトーンを落とす。
「……で、なんて店?」
その言葉だけ、妙に低く、静かに、まっすぐ。
楓馬の顔をじっと睨むように見つめながら、完全に詰めに入っていた。
「EchoV.A.N……ってとこ」
その店名を聞いた瞬間、玖珂の表情が固まる。
「……最近オープンしたところじゃん!!」
声をひときわ大きくして立ち上がると、椅子がギィと鳴る。
「え、なにそれ、僕あの店この前話題に出したよね!?“ネーミング凝っててかっこいいな〜”って言ってたの、覚えてない!?」
顔をしかめて、両手でぐしゃっと前髪をかき乱す。
「それを……黙って…しかも、行ってくるってもう予定確定してる言い方じゃん……!」
頭を抱えながらゆっくり椅子に座り直し、テーブルに額をくっつける。
「……なんで僕、そういう時だけ存在透明になるの……」
声は小さく、ちょっと本気で傷ついているようだった。
咲名の様子を心配した寧火が、肩をすくめながらぼそっと呟く。
「咲名くんも行けばいいんじゃいかな…」
その瞬間、咲名の顔にぱっと光が差したような表情が浮かぶ。
「──確かに!!」
勢いよく身を乗り出し、机をばんっと叩いた。
「寧火、僕たちも同じ日に行こうよ!」
「でも咲名くん、休みの日は動画撮るって言ってたよね。視聴者参加型の新企画やるって……」
咲名は「うっ」と声を詰まらせたあと、両肩を落として机に突っ伏す。
「そうなんだけどさあ……」
咲名は机に突っ伏したまま、顔だけ寧火のほうへ向ける。
頬をむくっと膨らませ、眉をへの字に寄せて、不満たっぷりのふてくされた表情を浮かべた。
「悔しいけど、僕より犬の方がバズるの!僕のトークより、柴犬のくしゃみの方がいいね付くの!泣けるでしょ、ねぇ!」
言いながら身を起こし、椅子の上でくるっと半回転。
両手を合わせて胸の前で祈るように組み、ぐっと身を乗り出して寧火に詰め寄る。
「お願い、寧火っ!癒されてる僕、絶対画になるし、編集もしやすいし、犬がいれば視聴維持率も完璧だしっ!」
寧火はわずかに目を細めて咲名を見つめ、それから小さく頷く。
「……咲名くんのお願いなら、行く」
その一言で、咲名の目がぱぁっと輝いた。
次の瞬間、勢いよく椅子から立ち上がり、腕を大きく突き上げる。
「やった~!!犬好きの人たちが、僕のことフォローしてくれるかも!もう想像できる!“犬と戯れる男子高校生”ってサムネでしょ?背景は木漏れ日、僕は笑顔でプードルを抱っこ!再生数は初日で5万、コメント欄は“癒しすぎて泣いた”の嵐、タグは #天使かよ #犬より可愛い男子 #秒で保存──これで決まり!」
玖珂は自分の脳内プレビューをそのまま口に出すように、両手で空中にサムネの構図を描きながら一気にまくし立てる。
目はキラキラ、声は弾んで、すでに心は犬カフェの先に飛んでいた。
楓馬はその隣で、ほんのわずかに首をかしげたまま、淡々とコーヒーを口に運んでいた。
一拍置いて、静かに言葉を差し込む。
「…咲名。悪いけど、プードルはいな――」
そこまで言いかけて、楓馬はふと口をつぐむ。
目の前で身振り手振りを交えながら喋り続ける玖珂の顔が、あまりに楽しそうだった。
視線を伏せると、カップの中のコーヒーはもうすっかり冷めていた。
その黒い表面に、彼の顔がぼんやりと滲んでいた。
「……ま、いいか」
(……あの人に、ひとこと挨拶できたらそれでよかったんだけど)
コーヒーを一口すすると、玖珂のテンションの波に身を委ねるように、小さく息を吐いた。
――わずかな静けさが訪れた、その直後。
食堂の天井に設置されたスピーカーから、耳をつんざくような電子音が鳴り響いた。
高く、鋭く、そして不自然なほど無機質な音。
一度聞けば忘れられない、学苑の緊急サイレンだった。
楓馬はすぐに通信端末に視線を落とす。
画面が点滅し、合成音声が無感情に告げた。
『緊急招集。住宅街にて上級蝕依体発生。01、02、03はヘリポートに集合するように』
「──あ、楓馬呼ばれた」
隣で、玖珂が素早く反応する。
スマホを握ったまま椅子をくるりと回し、楓馬の端末をのぞき込んできた。
「上級ってことはけっこうやばめだよね。ちょっと撮れ高あるかも」
軽口を叩く玖珂の声をよそに、寧火が静かに立ち上がる。
まっすぐ楓馬を見つめて、少しだけ眉を寄せた。
「楓馬くん、気をつけて。無茶はしないでね」
その言葉に、楓馬は視線を上げ、ふたりの顔を交互に見たあと、ふっと小さく笑う。
「ありがとう。行ってくる」
立ち上がると、制服の袖口を整え、端末を操作しながら足早に食堂をあとにする。
玖珂と寧火の視線がその背中を見送っていた。
ヘリポート手前の待機室に入ると、神樂坂教官が機体モニター前で腕を組んでいた。
薄い強化ガラス越しに、遠くで回り始めたローターの影が揺れている。
室内は密閉されており、唸るようなプロペラ音も、ここにはまだ届かない。
「悪いな、御堂。出撃要請が入った」
「いえ、問題ありません。いつでも準備はできてます」
楓馬の返答に、神樂坂は一拍だけ間を置いて、わずかに口角を上げた。
「──頼もしいな」
視線を楓馬に向けたまま、片手でヘッドセットのコードを巻き直す。
どこか無駄のない仕草だった。
少しだけ間を置いてから、ふと何かを思い出したように、声の調子を変える。
「…そういえば、中学編入組の戦闘指導をお前に任せたのは正解だった。御堂は、人に物を教えるのが上手い」
神樂坂の口調は相変わらず淡々としている。
だが、その目には明らかな評価が宿っていた。
「あの天才二人に教わっただけあるな。身につけたものが、そのまま指導に出てる」
楓馬はわずかに目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……皆の呑み込みが早かったんです。僕は、その背中を押しただけで」
どこか他人事のような声音だったが、それが嘘ではないこともまた伝わる。
神樂坂はふっと笑い、言葉を選ぶように小さく呟いた。
「……そうか。じゃあ──そういうことにしておく」
軽くうなずきながら、再びモニターに目をやる。
待機室の静寂は、嵐の直前のような張り詰めた空気に包まれていた。
そんな空気を裂くように、鋼鉄の扉がギィ……と鈍く重い音を立てて開く。
制服の前を慌てて整えながら、二人の少女が駆け込むように姿を現した。
「……ごめん、教官…遅くなった…」
先に口を開いたのは、姉の祓間朧。
濡れた前髪を指で無造作にかき上げながらも、足取りは揺るぎなく、視線も真っ直ぐ。
その表情に、焦りや言い訳の色は一切なかった。
隣には、彼女に寄り添うようにぴたりと張りついた、妹の祓間澪。
半乾きの髪の先からは、水滴がぽたりと床に落ちていく。
「……でも、お風呂の時に…呼ぶ方が悪い……」
ぼそりとした声に、わずかな不満が滲む。
濡れた足音さえも、まるで姉に従う影のように静かだった。
神樂坂は彼女たちの姿を確認すると、ちらりと腕時計を見て、小さくため息を漏らす。
「双子、19秒遅刻だ。心構えはできているんだろうな」
「……はい」
朧は静かに応じ、隣の澪の手を迷いなく取る。
澪も自然にその手に指を絡めた。
視線も空気も意味を持たない、二人だけの閉じた世界。
それは、寄りかかり合いながら崩れない、静かで深い共依存だった。
「これで全員揃ったな。──出るぞ」
神樂坂の声が待機室に響いた。
一瞬で張りつめた空気が実戦のそれに切り替わる。
「目標は住宅街ブロックE-7に現れた上級蝕依体。01から03班で対応する」
鋭く指示を飛ばしながら、教官が機体へと歩みを進める。
待機室の扉が軋みをあげて開くと、唸るプロペラ音とともに冷たい風が吹き込んできた。
機体の影が、ゆっくりと彼らの足元を覆っていく。