CHAIN:01-2
次の日の朝。
朝の光がゆっくりと部屋に差し込む頃、楓馬はまだ少し眠たげな足取りでリビングに入った。
いつもなら、台所には湯気が立ち、食器の音が静かに日常を告げている。
けれどその朝、部屋は不自然なほど静かだった。
ソファには、母親が座っていた。
パジャマのまま、ブランケットを膝にかけて、テレビもつけずにただ前を見つめている。
背筋はわずかに丸まり、両手は毛布の端を無意識に握っていた。
「……おはよう、楓馬。ちょっとだけ頭が痛くてね。今日はゆっくりしようかなって」
そう言って見せた笑顔は、どこか疲れきっていた。
目元だけが笑っておらず、口元の動きがぎこちない。
楓馬はソファの前で立ち止まり、しばらく黙って母を見つめた。
「……学校休もうか?僕が側にいた方がいい?」
そう尋ねると、母親はゆっくりと首を横に振った。
「大丈夫よ。寝れば、元気になると思うから」
「……分かった。しっかり休んで、無理しないでね。今日は早く帰ってくるから」
朝ごはんを食べ終わる頃には、母はもうソファに横になっていた。
毛布にくるまり、呼吸は浅く、目は閉じたまま。
静かに食器を片付けて、音を立てないように水を流す。
制服に着替え、靴を履きながら、もう一度声をかける。
「行ってきます」
返ってくるはずの「いってらっしゃい」は、なかった。
母を心配しながらも、僕は学校へ向かった。
それから、何日も同じような朝が続いた。
母は「大丈夫」と笑っていたけど、その笑顔はどんどん薄くなっていった。
料理をする時間が減り、会話も短くなっていき、いつの間にか笑わなくなった。
「今日はちょっと疲れてるだけ」
そう言う日が、ただ延々と続いていった。
それでも、僕は毎朝「行ってきます」を欠かさなかった。
そして、一年が過ぎたころ。
母は、完全に部屋から出てこなくなった。
顔を合わせることもなくなり、食卓に並ぶこともなくなった。
カーテンは閉じっぱなしで、部屋の電気すらついていない。
返事が返ってくることは、もう珍しかった。
学校では、誰にも気づかれないように笑っていた。
明るく、元気に、いつも通りを演じた。
「すごいね」
「優しいね」
そう言われるたびに、どこかで安心していた。
”ちゃんとできてる”って思いたかった。
壊れていく家の中とは違う、自分を保てる場所がそこにあった。
誰かを救うことで、自分の中の欠けた部分を埋めようとしていた。
そして二年目。
沈んでいく日々の中で、終わりだけが水面を割るように突然訪れた。
激しく雨の降る真夜中。
家中に木霊する母の悲鳴に、意識がゆっくりと浮かび上がる。
「ん……、母さん……?」
目を擦るが、視界は霞んだまま。
暗闇がまとわりつき、夢と現実の境目がじわじわと溶け合う。
再びまぶたを閉じかけた、そのとき。
鼓膜を刺すようなサイレンが、夜の闇を切り裂いた。
音が膨れ、風圧のように部屋の空気を押し潰す。
一気に目が覚めた。
冷たい汗が背中を伝い、心臓が異様な速さで脈打つ。
急いで布団を蹴飛ばし、素足のまま床に飛び降りる。
急いで部屋のドアを開けた瞬間、廊下の突き当たり──母の部屋の前で、父が呆然と立ち尽くしていた。
「父さん!」
名前を呼ぶ声が、喉の奥から飛び出す。
素足のまま駆け寄ろうとしたその時、父が振り返った。
その顔は今まで見たことがない、恐怖と混乱と絶望にまみれた形相だった。
「楓馬、離れろ!こっちにくるな!」
怒鳴るような声が、鼓膜に鋭く突き刺さる。
「なんで?母さんは…、母さんはどうしたの!?」
叫ぶように問いかけた僕の目が、ふとドアの表面に留まった。
扉の白い木目に、赤黒い斑点が散っていた。
壁にも、床にも飛び散った何かが乾きかけ、べたりと貼りついている。
金属のような、鉄臭い匂いが鼻を刺す。
理解が、脳に遅れて届く。
そして一気に背中を駆け上がる冷気。
……間に合わなかった。
もう扉の向こうで全てが終わっていた。
――僕は救えなかった。
あの日以来、父さんは変わった。
口数が減った。
目を合わせなくなった。
けれどある夜、不意にぽつりと呟いた。
「お前が、母さんの一番近くにいたんだろ」
声が震えていた。
怒鳴っているわけじゃない。
ただ、吐き出すように続けた。
「お前が、支えてやるべきだったんだよ」
楓馬は何も言えなかった。
心の奥底でずっと響いていた声が、父さんの口を通して現実になっただけだった。
お前が救えなかったんだ。
その言葉が、もう言葉じゃなくて、呪いのように染みついていた。
――僕が救えなかった。
そればかりが、頭の中で何度も反響する。
「助けたい」なんて、結局は自己満足だったんじゃないか。
「届いてる」なんて信じてたのは、僕が安心したかっただけじゃなかったのか。
だから、思ってしまう。
僕が殺したんじゃないかって。
そう思うたび、胸の奥が冷たく締めつけられる。
誰かが苦しそうな顔をしていても、すぐに動けなくなった。
声をかけようとしても、喉が塞がる。
手を伸ばす前に、頭の中であの日の扉が浮かぶ。
また、届かなかったらどうする?
また、僕が最後の希望だったら?
そう考えた瞬間、体が動かなくなる。
下手に関わったら、壊れてしまうのはきっと自分じゃなくて相手の方だ。
僕が救おうとした人間は、もういない。
それなのに、また誰かに手を伸ばして、その手が引き金になったら。
もし、また同じことが起きたら。
救うって、なんだろう。
隣にいること?
声をかけること?
信じること?
どれも全部やったのに、失った。
だから誰かの苦しみに気づいた瞬間、無意識に目を逸らしてしまう。
助けたい、でも怖い。
救うことが、怖い。
机の引き出しを開ける。
冷たい金属音と共に、銀色のカッターナイフが手の中に収まる。
プラスチックのボディ、使い古された刃。
何度も紙を切り、段ボールを裂き――
今度はすべてを断ち切るための道具になろうとしている。
(救えない僕に、価値はあるの?)
手が震えている。
いや、違う。
怖いからじゃない、迷っているからだ。
まだ、どこかで救えると信じている自分がいるから。
刃を親指で押し出す。
シャキン、という音がやけに大きく響いた。
首元に当てる。
喉仏のすぐ左、頸動脈の上。
ここなら、一瞬で意識が飛ぶって、調べた。
(此処に刺したら、僕は救われるの?)
僕はゆっくりと、瞼を閉じた。
皮膚に触れた刃は、意外なほど冷たくて、生々しい。
ほんの少し力を込めれば、赤い線が走るはずだ。
それだけで全部が終わるはずなのに。
――この先も誰かを救えないのならば…
僕はただの空っぽだ。
助けることでしか、自分の存在を証明できない。
役に立たないなら、意味がない。
生きてる意味がない。
「…生きていけないんだよ」
声に出すと、喉が詰まった。
涙じゃない。
ただ、体が拒絶している。
まだ死にたくないと、身体が言っている。
でも、心は。
助けられなかった母の顔が、浮かんだ。
何もできなかった自分が、許せなかった。
手に、力を込めようとした。その瞬間――
『なにをしているんだい?』
静かすぎる声だった。
驚くほど近く、耳元で囁かれたように。
ゆっくりと、重い瞼を開ける。
まず見えたのは、煙のような黒。
次第に焦点が合い、霧のように漂うその中に、ひときわ異質な”光”があった。
人ではない。
けれど、長年の知己のように、まっすぐこちらを見つめていた。
「…え……?」
出た声が、自分のものとは思えないほど震えていた。
黒い霧がゆっくりと渦を巻き、楓馬のまわりを囲み始める。
まるで何かを品定めするように。
いや、ずっと前から全てを知っていたような仕草で。
そして――
その霧の中心で、“それ”は静かに微笑んだ。
悲哀すら滲ませた、底知れぬ深さを湛えた笑み。
『年相応に見えるのに、君の行動には僕ですら、恐怖を覚えるよ』
その声は柔らかかった。
けれど鼓膜ではなく、脳の奥に直接触れるような、どこか異質な響きを持っている。
『空虚を感じたとき、人は諦める道を選びやすい。楽だからね。それが、一番簡単な選択肢だ』
淡々としていた。
けれど、その言葉は冷たく、容赦がない。
楓馬の背筋を、氷の指先がなぞるように冷たいものが走る。
黒い霧がゆっくりと背後へと回り込み、肩に手を添えるように近づく。
そして、耳元にふっと息を吹きかけるように囁いた。
『――はじめまして。僕は燐哭。悪魔という類のもの。そして、君が――』
霧が収束し、目の前にその姿を現す。
灰色の瞳が、楓馬の内側――奥底にある“痛み”を見据えるように、まっすぐ射抜いた。
『一番、欲しているものさ』
「……!」
楓馬の喉が震えた。
しかし、その心のどこかが“この存在”に強く惹かれていた。
『興味があるって顔をしてる。いいねぇ。素直な子は大好きだよ』
その声は穏やかだ。
だが、そこには体温も、感情も感じられない。
ただの“音”なのに、心の奥を優しく撫でるような、妙にリアルな感覚を残した。
『楓馬、早速だけど――君には、苦しみの選択と、諦めの選択をあげよう』
燐哭はすっと手を広げた。
霧がその周囲で舞う。
まるで目に見えない天秤がそこにあるかのように。
『僕を喰うか、僕に喰われるか。選んでいいよ』
「は…?」
楓馬の顔が強張る。
言葉の意味が、即座に理解できなかったわけじゃない。
ただ、それが”現実の選択肢”として突きつけられたことに、脳が追いつかなかった。
『“喰う”を選んだ場合』
燐哭の手が楓馬の胸元へと伸びる。
指先が霧と共に肌をなぞるように、触れた。
『君は僕と契約し、僕を取り込むことになる。見返りとして、今まで救えなかった誰かをも救える、“力”を授けよう』
その瞬間、楓馬の頭にノイズのような映像が走る。
叫ぶ人。崩れる建物。
血塗れの誰かをその腕で引き上げる――“救済”の幻像。
『ただし代償として、君の“心の安寧”は消える。感情は摩耗し、眠る夜も減るかもしれない。そして、ほんの少しだけ、人間じゃなくなる。それだけさ』
笑いながら、まるで小さなリスクを話すかのような口調で続ける。
『――一方で、“喰われる”を選んだ場合』
燐哭の瞳が鋭く細まり、笑みの角度がゆっくりと変わった。
『君はこの場で死ぬ。僕がその魂を嚙み砕き、君の肉体を乗っ取る。僕は完全な姿で顕現できるし、君は“自分には価値がない”という証明を、死によって完遂できる』
呑み込まれることを先取りしているかのように、霧が楓馬の足元から這い上がってくる。
『如何かな?御堂楓馬。自分の価値を、死で終わらせるか――他人を救う力に変えるか。どちらでもいいんだ。僕はどちらでも嬉しいよ』
燐哭は、あくまでも優しく、あくまでも選択を尊重する態度だった。
だが、その“どちらでもいい”という言葉の裏には、決して逃げ場のない圧力があった。
「……意味が、わからない……」
楓馬は首を横に振った。
けれど、それは拒絶ではなく理解したくないという意思だった。
『意味は単純だよ。君が望む“力”と“死”を、選ばせてあげるってだけ』
燐哭は悪びれる様子もなく、ゆっくりと床にしゃがみこむようにして、楓馬と視線を合わせた。
けれど、肌に感じるのは生温い霧のような体温だけ。
「なんで……僕に?」
『それを訊く?楓馬、君はもう“限界”の音を鳴らしてる。一番大切だった人を助けられず、自分も助けられない。そのくせ“救いたい”なんて呪いみたいに繰り返して――』
霧がふっと、楓馬の背後に回り込む。
首筋に冷たい空気が触れる。
『なら、救えるようになればいい。それだけだ。』
「……そんな、簡単に……」
『簡単?違う違う。とても簡単なんて言えないよ。心の安寧を捨てるのは、死ぬより辛いことだってある』
燐哭の声が、耳元で囁くように落ちてくる。
『でも、君はすでにそれを失いかけてる。違うかい?』
楓馬の喉が、かすかに震える。
『君がこの部屋で刃を当てた瞬間。君の“人間としての境界線”はもう揺らいでる。それをほんの一歩、僕と共に踏み越えるだけだよ』
「……それでも、僕が…本当に誰かを救えるって、言い切れるの…?」
『言い切るよ、悪魔だけどね。僕は兄弟と違って、誠実さが売りなんだ』
ふっと笑う。
その顔は優しげで、それがまた不気味だった。
『救える。少なくとも、今のまま泣いて眠れなくなる夜よりは、遥かに前へ進めるだろうね』
「……」
楓馬は黙った。
目を伏せ、指先に力が入る。
カッターナイフはまだ手の中にある。
けれど、さっきまで感じていた“重み”はなかった。
彼の中で何かが、静かに変わろうとしていた。
『選んで。喰うか、喰われるか。僕はどちらでも構わない』
「……一つ、聞いてもいい?」
『どうぞ』
「……僕が、君を“喰った”あと…誰も助けられなかったら、どうなるの?」
燐哭は笑みを深め、囁いた。
『君はきっと、壊れるよ。でも、壊れた先にも道はある。人間って、意外としぶといんだ』
そして、ふと微笑んだまま、さらに言葉を重ねる。
『”誰も救えなかった自分”を、君は絶対に許せない。……そして僕も、それを許す気はないよ』
恐ろしいほど美しい笑み。
けれど、その裏には明確な線引きがあった。
――救えなければ、自分を責める。
――救えなければ、悪魔もそれを赦さない。
逃げ道は、どこにもなかった。
楓馬は手の中のカッターナイフを見つめる。
その刃先に映るのは、幼く、それでも決して逃げようとしない瞳。
そして――乾いた音を立てて、それを床に落とした。
「……燐哭、僕は君を“喰う”よ」
視線をまっすぐに向ける。
虚ろではない。
けれど、そこに希望もなかった。
それでも、確かに前を向く目。
燐哭は、心から満足そうに微笑む。
『素晴らしい選択だ、楓馬。――じゃあ、契約しよう』