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本を閉じて、物語の終わりに


薄暗い部屋に、かすかな火の光が揺れている。



慣れた手つきで、ベッドの傍らに置かれた水差しを傾ける。中身はもうほとんど残っていない。


一口だけ水を飲ませると、細くなったヒルトンの手が、俺の手にそっと重なった。


「…また、あの時の話を聞かせてくれるか、アイク」



掠れた声で、ヒルトンが言った。


俺は頷き、ベッドの端に腰を下ろす。


彼の傍にいると、不思議と心が落ち着く。



「ああ、いいぜ。どこから聞きたい?」


「あの、砂漠の遺跡に行った時の話がいいな。あの、妙な模様が壁に描かれていた場所だ」


「ああ、覚えてるか。あの時はまいったな。砂嵐にあって、方向を見失いかけたんだ」


「はっ、お前が『大丈夫だ』って顔してたから、俺は安心しきっていたぞ」


「とんでもねぇ。内心は焦りまくってたさ」



遠い日の記憶を辿る。


砂漠の、見渡す限りの砂と、崩れかけた石造りの遺跡。


壁には、確かに奇妙な模様がびっしりと刻まれていた。


あの時、俺たちは何日も砂漠を彷徨い、ようやく港街にたどり着いたんだった。



「北の帝都も凄かったな。あの城壁の高さときたら……首が痛くなるほど見上げたもんだ」


「ああ、人の多さにも驚いたな。迷子になりそうだったぜ」


「紡績の街では、色とりどりの布が綺麗だった。あれを見て、新しい仕入れ先を見つけたんだ」


「密林の中の自然都市郡も忘れられねぇな。木の上に街があるなんて、想像もしてなかったぜ」


「亜人種の街も面白かった。言葉は通じにくかったが、彼らの作る工芸品は素晴らしかった」


「船旅で遭難した時は、本当に死ぬかと思ったけどな」


「はっ、あの時は俺もお前も、情けない顔してたな」


次から次へと、旅の思い出が蘇る。




初めて見た場所、出会った人々、味わった美味しいもの、そして、命の危険に晒されたことも数えきれない。


山賊に襲われたり、魔獣に遭遇したり、街中でいざこざに巻き込まれたり。


その度に、二人で力を合わせて乗り越えてきた。


俺の剣と、ヒルトンの知恵で。




「色々な場所に行ったな、ヒルトン」


「ああ、本当に。飽きることのない旅だった」


「楽しかったよ」


俺の言葉に、ヒルトンは目を閉じたまま、静かに頷いた。




「俺もだよ、アイク。お前と旅ができて、本当に楽しかった」


あれから、もう数十年か。



衛兵を解雇されて、一人で旅に出た。


行く宛てもなく、ただ街道を歩き始めた俺。


たまたま一緒になった野営の時に、ヒルトンが声をかけて誘ってくれた。



最初は少しの間、護衛として一緒に、と思っていた。


それがいつの間にか、こんなにも長い時間になった。



ヒルトンは、出会った頃よりずいぶんと細くなり、皺も増え、まさに老人という姿になっていた。


俺も、鏡を見るたびに、白髪が増え、若い頃の面影が薄れていくのを感じる。


「…アイク」


ヒルトンが、再び目を薄く開けた。


その目に、力はもうほとんど残っていない。




「俺は、先に休ませてもらうよ」


かすれた声。


だけど、どこか穏やかで、寂しさを感じさせない声だった。


「先に行って、向こうで待ってるよ。また、面白い話を聞かせてくれ」



そう言って、ヒルトンはゆっくりと目を閉じた。


呼吸が、次第に浅くなっていく。


そして、静かに、本当に眠るように、その息を引き取った。



部屋に、ヒルトンの穏やかな寝息だけが残った。


いや、もう息はしていない。

ただ、そこにいるだけだ。




「……またな、ヒルトン」



呼び捨てで呼び合うようになったのは、いつ頃だっただろうか。


最初は戸惑ったが、彼が構わない、と言ったから、遠慮なくそう呼ぶようになった。


その方が、お互いの距離が近くなった気がしたのだ。



一人旅のつもりだった。


たった一人で、この広い世界を歩くつもりだった。


衛兵隊という居場所を失って、どこにも属さない存在になってしまったと思っていた。




だけど、ヒルトンが誘ってくれた。


俺を必要だと言ってくれた。



そして、一緒に歩いてくれた。


短い間だと思った。



数ヶ月か、長くて一年か。



それが、十年になり、二十年になり、いつの間にか、こんなにも長い時間を共に過ごしていた。




楽しかった思い出が、嵐のように脳裏を駆け巡る。


危険な目に遭ったことも、辛い別れがあったことも、笑い合って馬鹿な話をしたことも、全てが俺たちの旅だった。


ヒルトンと一緒だったから、乗り越えられたことが沢山あった。彼と一緒だったから、見ることができた景色が沢山あった。



彼の温かい手から、ゆっくりと手を離す。



ヒルトンは、穏やかな顔をしている。満足した旅だったのだろうか。


この旅で見てきたこと、聞いてきたこと、感じたこと。


そして、ヒルトンと一緒に過ごした時間。それを、形にしたいと思った。



ベッドの傍らの机に置いてあった、書きかけのノートとペンを取る。インク壺にペン先を浸し、真新しいページを開く。




『衛兵を解雇されたので旅に出たいと思います』




そう、これが始まりだった。


衛兵隊という居場所を失ったことから始まった、俺の物語だ。



ヒルトンと出会い、二人で歩んだ、この長い旅の物語。


全ての出来事を、覚えている限り書き記そう。


笑ったこと、泣いたこと、驚いたこと、命を懸けたこと。



ヒルトンと交わした会話、彼が見せてくれた世界の彩り。


書き終えた時、それは一冊の本になっているだろう。


俺の旅の記録。


そして、ヒルトンと俺の、共に歩んだ物語。




ペンを動かし始める。



最初のページに綴るのは、あの日のこと。


衛兵を解雇されたこと。


街の門を出たこと。


そして、焚き火を囲む商隊に出会い、ヒルトンと出会ったこと。




旅は終わった。



だが、物語はまだ終わらない。


この手にペンがある限り、俺たちの旅は、この紙の上で続いていくのだから。


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