衛兵じゃ無くなった日
古びた木の扉を開けて、埃っぽい酒場の喧騒に足を踏み入れると、もう聞き慣れた笑い声と、くぐもった怒鳴り声が迎えてくれる。
木製のテーブルに並んだのは、顔馴染みの連中だ。
煤けたランプの仄かな光が、皆の顔に影を落としている。
琥珀色のエールをジョッキに注ぎながら、溜息混じりに切り出したのはベックだった。
「しかし、まさかこんな形で終わりとはなあ」
同意を示すように、他の皆も頷く。
テーブルの上には、飲み干されたジョッキがいくつか転がっていた。
酒の勢いを借りなければ、やっていられない気分だったのは、俺だけじゃないだろう。
「俺ぁ、まだやれると思ったんだがなぁ。体が鈍った覚えもねぇし、むしろ経験を積んでいい感じになってきたってのに」
隣に座ったフィンが、悔しそうに拳を握りしめる。彼も俺よりは少し若いとはいえ、もうすぐ三十路だ。
今回の「若返り」の波には、容赦なく飲まれてしまった。
「お前らはまだマシだろ。俺なんて、あと五年は勤め上げるつもりだったんだぞ」
向かいのトムは、四十も近い。
小さな娘が二人いる彼にとっては、まさに青天の霹靂だったに違いない。
「アイク分隊長、あんたが一番大変だったんじゃねぇか? 一番長く勤めてたのに」
ベックが俺を見る。
アイザック、俺の名前だ。皆はアイクと呼ぶ。
この街の衛兵になって、もう十五年以上になるだろうか。
物乞いをしていた頃から数えれば、もっと長い時間をこの街で過ごしている。
あの頃の俺を知る者は、もうほとんどいない。前領主に拾われ、衛兵として育てられた。
思えば、衛兵隊が俺の全てだった。
「まあ、これも運命、とでも言うしかないさ」
そう答えるのが精一杯だった。
新領主への愚痴は、もう飽きるほど言い合った。
先代の領主様とは違い、新しい領主様は随分とやり方が違う。
領地を引き継いでから、すぐに色々なものが変わり始めた。
その中でも、衛兵隊の刷新はかなり大きな出来事だった。
「まさか、あんなガキに言われるとはな……」
フィンが吐き捨てるように言う。
そう、あの日の光景が、ありありと目に浮かぶ。
ある日、俺たち数人は新領主様の執務室に呼び出された。
重厚な扉を開けて中に進むと、新領主様が執務机に座っており、その傍らには、新品のそれはそれは立派な鎧を纏った若い男が立っていた。
二十歳そこそこだろうか。光を反射する鎧と、彼の自信満々な顔が、俺たちには眩しすぎた。
新領主様は、堅苦しい挨拶もそこそこに、今後の衛兵隊の方針を話し始めた。
曰く、組織の若返りを図り、時代の変化に対応できるより機動的で洗練された部隊にする、と。
そして、その新しい衛兵隊の指揮を執るのは、傍らに立つ若者だと紹介した。
彼の出自が由緒正しい家柄であること、素晴らしい剣の腕を持っていることなどを、つらつらと述べ立てた。
そして、本題だ。
衛兵隊を刷新するにあたり、いくつかの人員整理が必要になった、と。理由は明確だった。
「貴官らには、これまでの貢献に感謝する。しかしながら、衛兵隊に求められる資質も変わりつつある。特に年齢、そして家柄や出自は、新たな時代において最も重要視される項目となった。残念ながら、貴官らはその条件に合致しない」
年齢。そして、出自。
俺たちの、十五年、二十年という勤続年数は、何も意味をなさなかった。
長年培ってきた経験や、地道に積み上げてきた実績も。
確かに、俺は分隊長という立場にいたし、以前は領主様の護衛や、式典での警護も務めていた。
戦闘技能だって、上の下、充分に一流と言えるレベルだと自負していた。
だが、決して目立つタイプではなかったし、口下手で自分をアピールするのも苦手だった。
華やかな場所には不似合いな、地味な存在。それが俺だった。
新しい衛兵は、家柄や出自が重視されるらしい。
新領主様の取り巻きや、懇意にしている有力者たちの推薦で、次々と若い、それこそピカピカの若者たちが採用されていた。
彼らは、見た目も華やかで、立ち振る舞いも洗練されている。
俺たちのような貧民上がりや、叩き上げの衛兵は、彼らの基準からすれば「相応しくない」存在だったのだろう。
新領主様は、雇用契約の更新はしないが、これは不当な解雇ではない、必要な手続きは踏んでいる、と言ってのけた。
その言葉には、一切の情けや躊躇はなかった。
隣に立つ若者は、何も言わず、ただ俺たちを見下ろしていた。
彼の目が、俺たちの存在価値の終わりを告げているように感じた。
俺は物乞いから始まり、孤児院を経て、前領主様に拾われた。
生きるためには、汚いこともやった。
盗み、押し入り……あの頃に培った技術は、衛兵になってからも役立つ事もあった。
だが、そんな過去は、新しい時代には不要なものらしい。
いや、むしろ、恥ずべき過去として切り捨てられるべきもの、ということなのだろう。
あの時のことを思い出していると、酒場のざわめきが耳に響いた。
皆の顔には、行き場のない憤りと、これからどうしようか、という不安が浮かんでいる。
「ったく、あんな奴らにこの街が守れるってのかよ?」
誰かが悪態をつく。
「俺ぁ、田舎に帰るよ。親父の畑仕事でも手伝うさ。衛兵なんてガラじゃなかったのかもしれねぇ」
「俺は、この街で他の仕事を探すしかないな。何か雇ってくれる所があればいいんだが」
「俺は決めたんだ。前から話があった、商隊の護衛につくことにしたよ。少し危ないらしいが、金払いはいい」
それぞれの未来が語られる。皆、新しい一歩を踏み出そうとしている。
俺は? 俺はどうするべきだ?
「アイクは? お前はどうするんだ?」
ベックが尋ねた。
皆の視線が俺に集まる。
この街を出て行く者、留まる者。俺はどちらを選べばいい?
ほとんどこの街しか知らない。
衛兵になる前も、街の片隅で生きてきた。
だが、今、この街に俺の居場所は無い。
「……旅に出ようかと、思っているんだ」
ぽつりと呟くと、皆が驚いた顔をした。
「旅? アイクがか?」
「ああ。この街を出入りしていた商隊の連中から、色々な話を聞いてな。遥か遠くの街のこと、見たこともない景色、不思議なもの……ずっと聞いてるだけだったが、今なら行けるんじゃないかと思って」
酒場で、街角で、人から聞いた話。
夢物語だと思っていた遠い場所。
生きるために必死だった頃には考えもしなかった、ただ「見てみたい」という衝動。
「それはいいな!」
「そうか、旅か! アイクにぴったりかもしれねぇ!」
意外にも、皆が賛成してくれた。
「追跡も隠密も得意だろ? 昔の腕が役に立つかもな!」
「おい、それは言うなよ!」
フィンが茶化すように言う。
皆が笑った。
久しぶりに、心からの笑いだったかもしれない。
そうだ、あの頃のスキルは、旅をする上で必ず役に立つはずだ。
衛兵として培った戦闘技術も。
ただ生きるために身につけたものと、この街を守るために鍛えた力。
それらが、今、俺をどこかへと導いてくれる。
「どこへ行くかは、まだ決めてない。気の向くままに、だな」
「アイクらしいな」
「まあ、せいぜい気をつけろよ。旅は危険が多いって聞くからな」
皆が口々に言う。
その声には、俺を案じる気持ちが込められていた。
この地味で口下手な男を、彼らは仲間として認めてくれていたのだ。
新領主や、新しい衛兵たちには理解できない、確かな絆が、ここにはあった。
それから数日後。
俺は長年住み慣れた借家を引き払い、最低限の荷物を纏めた。
愛用の革鎧を身につけ、外套を羽織る。腰には、使い慣れた剣と短剣。
旅装束に身を包み、改めて鏡を見ると、少し見慣れない自分がいた。
さて、出発しよう。
誰にも言わずに、ひっそりと街を出るつもりだった。
別れは苦手だし、大々的に見送られる柄でもない。
ところが、街の門に差し掛かると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
そこには、二十人ほどの人が集まっていた。
元衛兵の仲間たち。
フィン、ベック、トムもいる。
そして、見慣れた街の人々の顔。
酒場の亭主、パン屋の女将さん、市場の魚屋さん、道を挟んだ向かいに住んでいた婆さん……。
「アイク! 見送りに来たぜ!」
フィンの声が響く。
皆が笑顔で、あるいは少し寂しそうに、俺を見ている。
何も知らせていないはずなのに、どうして。
「……どうして、ここに?」
思わず声が漏れた。
「何言ってんだよ、衛兵隊の分隊長様が旅に出るんだぜ? 見送らない訳にはいかねぇだろ」
ベックが肩を叩く。
「気をつけな。いい旅になるように祈ってるよ」
パン屋の女将さんが、焼きたてのパンを差し出してくれた。
「あんたには、いつも助けてもらったからねぇ」
市場の魚屋さんだ。
衛兵時代、市場の警備でよく顔を合わせた。
「また、いつかこの街に帰ってくるかい?」
トムが尋ねた。
「……さあ、どうだろうな。だが、もし帰ってくることがあったら、また一緒に酒を飲もう」
そう答えるのが精一杯だった。
皆と一人ずつ、言葉を交わす。
感謝の言葉。
激励の言葉。
別れを惜しむ言葉。
地味で目立たなかった俺が、こんなにも多くの人に見送られている。
それは、この街で衛兵として生きてきた時間が、決して無駄ではなかった証拠なのかもしれない。
長い時間をかけて、皆と別れを告げた。
温かい言葉と、少し湿った目に見送られ、俺は街の門をくぐった。
振り返ると、皆が手を振っていた。
見慣れた街の風景が、徐々に遠ざかっていく。
さて、行くか。
どこへ行くのか、何が待ち受けているのか、全く分からない。
だが、この足で歩き、この目で見て、肌で感じる旅が始まるのだ。
衛兵を解雇されたからこそ、手に入れた自由。
俺は、まだ見ぬ世界へ向かって、歩き出した。
風が、新しい旅の始まりを告げるように、外套を揺らした。