第六章 鑑識室
巴川警察署一階南側……つまり、玄関を入って右手の廊下を進んだ先には、二つの小会議室と鑑識係の部屋が並んでいる。その鑑識室の主である種本源三郎警部補は、この日も様々なものが乱雑に置かれた鑑識室の一角で、一心不乱に己の作業に没頭していたところだった。
鑑識係は組織編成の上では刑事生活安全課に所属しており、実際に刑事生活安全課のオフィスにも種本のデスクは用意されている。が、実際の鑑識作業が職務の大半を占める種本はほとんどこの鑑識室にいる事が多く、オフィスに顔を出すこと自体がまれであった。それどころかこの警察署では刑事生活安全課が出てくるような事件自体がほとんど起こらないため、鑑識が呼ばれるのも交通事故の後処理というケースが多く、必然的に自身の所属する刑事生活安全課の面々よりも地域交通課のメンバーの顔の方がよく知っているというよくわからない状況になりつつあった。
事実、この日も種本の後ろで鑑識結果を待っていたのは、地域交通課の奥津輝元巡査部長だった。数日前にこの近くでどこぞの馬鹿な走り屋が起こした交通事故についての鑑識報告を受け取るためで、その報告書ももうすぐ完成するところだった。
奥津巡査部長は仕事一筋の寡黙な男で、どれだけ理不尽な仕事を言い渡されても不平不満を一切言う事なく、淡々と与えられた職務を忠実に実行するタイプの警察官だった。警務総務課の広山紗江巡査と似たようなタイプではあるが、署員の中では彼女以上に自己表現が乏しいと噂されており、あまりに私情を挟まないため「ロボットか何かじゃないのか」と冗談交じりに言う者もいる。が、当の本人はそんな感想にも特に反応を示す事なくただただ職務を遂行するだけなので、ここに飛ばされてきたのもそんな性格からくる人間関係のこじれが原因なのではないかと本気で信じている署員もいた。
今もこうして微動だにする事なく、種本が報告書を完成させているのを無言で待っているわけであるが、種本も種本でそんな奥津の様子には慣れっことでも言わんばかりに、特に気にする事もなく自身の仕事を続けている。本人たちは通常運転なのだろうが、もしこの光景を外から見ている者がいれば、そのあまりに異常な光景に腰を抜かすかもしれなかった。
「……フン、まぁ、こんなものか」
と、しばらくして種本は顔を上げて大きく伸びをすると、手元の書類をクリップでまとめて茶封筒に入れ、それを後ろに控えている奥津に放り投げるようにして手渡す。
「できたぞ。今回もつまらん仕事だった」
そう言いながら、種本は近くにあったボトルの中からガムを一粒取り出し、それを口に放り込んでいらだたしげに噛む。何年か前に体を壊した時に医者から『煙草を控えろ』というような事を言われて代わりにガムを食べるようになったのだが、正直、代替品と言い張るのも難しく、日々のイライラは募るばかりである。
一方、奥津の方はそんな種本の姿に何も思わないのか、受け取った書類を淡々と確認し、それが終わると事務的に一言告げた。
「確かに受け取りました」
「そうかい。何というか、お前さんは本当に感情がないな」
遠慮なくズバッと言った種本だったが、奥津の返事はそっけない。
「よく言われます」
「この後どうするつもりだい?」
「車庫で車両の点検をするつもりです。業務ですので」
「そうかい」
愛想のない奥津に、種本はため息をつくしかなかった。
種本はこの警察署の人間の中では、地域交通課の寺桐巡査部長を超えて最年長の存在であり、ここに来る前から鑑識一筋で長年警察に奉職し続けてきた人間だった。最後の方は大規模警察署の鑑識課でそこそこの功績は上げていたつもりだったが、運の悪い事に部下の一人が鑑識上のミスを起こしてしまい、将来有望なその部下の事を憐れんだ種本が全責任をかぶって自らこの署への左遷を希望したというのが実態である。どうせあと一年程で定年の身であり、それなら将来のある部下の人生を守った方が何倍もいいと思ったのだ。ちなみに、その元部下とは今でも連絡を取り合う仲であり、幸いな事に上手くやっているようである。
「若いのがみんなあいつみたいならいいんだがな。ここの連中はみんな覇気がなさ過ぎる。まぁ、仕方がない所はあるかもしれんが、寂しいものだよ」
「……」
奥津は何も答えない。この男ほど雑談相手としてふさわしくない人間もいないだろう。
「……わかった、もういい。とっとと次の仕事に行けばいいさ」
「……失礼します」
奥津は部屋を出ていく。後に残された種本は深いため息をつき、ガムをもう一粒、自身の口へと放り込んだのだった。