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ダブルクローズドサークル~巴川村の殺人  作者: 奥田光治
第一部 嵐の前~巴川警察署
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第五章 休憩・給湯室

 巴川警察署一階の北側……すなわち、正面玄関を入って左側の廊下を進んだ先のエリアには、トイレや署員の更衣室、それに仮眠室や休憩・給湯室など、署員向けの部屋が多く存在している。その中の一つ、休憩・給湯室の中では、二人の婦人警官が備え付けのパイプ椅子に腰かけて休憩をしているところだった。一人は地域交通課の山森絵麻子巡査部長、もう一人は警務総務課の広山紗江巡査である。

 山森巡査部長は年齢三十二歳。年齢の割に疲れた表情をしている事が多く、最近は勤務中も体調が悪くなって休憩する事が多くなりつつあった。仕事を優先してきた事からずっと独身で、少し前までは一応恋人もいたのだが、ここに左遷されたのを機に破局する事になってしまった。今はただ、漫然と毎日の仕事を機械的にこなすだけの生活を送っており、将来に対する希望など、とうの昔に捨ててしまった状態だった。

 対する広山巡査は二十代半ばから後半くらいだろうか。三十を超えていないのは間違いないがどうも年齢不詳なところがあり、感情表現が乏しい事も相まって、若くも見えるし何かを達観しているようにも見えるという、何ともつかみどころのない女性だった。もちろん、仕事の上ではちゃんと話をするしコミュニケーションが取れないわけではないのだが、逆に言えば仕事上の話題以外の事を口にする事はほとんどなく、プライベートの事はおろか雑談をする事さえまれという有様だった。よく言えば冷静沈着、悪く言えばコミュ障とでも言おうか。そんな有様なので彼女がなぜ一年ほど前にここに左遷される事になったのかを知る人間は少ないが、この難儀な性格からくる人間関係のトラブルが原因ではないかというのが署員の間におけるもっぱらの噂であり、ひとまず事情を知っている署の幹部たちの話だと、何らかの不祥事でこの警察署に左遷された事だけは間違いなさそうである。

 もっとも、不祥事で左遷されたという意味では絵麻子自身もそう大差ない話だった。むしろ、左遷原因がはっきりしない紗江と比べて、絵麻子の左遷理由は明白であり、そして同時に未来永劫彼女の汚点として残るであろう事だった。絵麻子は紗江の方を見やりながら、今から二年ほど前に起こったその時の記憶を苦い気分で思い出していた。

 その当時、絵麻子は江戸川署交通課に所属しており、主に江戸川区内の交通違反の摘発や交通ルールの啓発活動などを仕事としていた。そんな中、新年度になって新たに江戸川署交通課に配属された新米女性警察官の教育係に任命されたのが事の始まりだった。

 その新米警官……名前は歌峰詩緒といったが、彼女は正義感が強く、警察官として将来有望な資質を併せ持つ人物だった。そんな彼女の教育係となった絵麻子は彼女の資質に期待し、時折厳しくしつつも愛情を持って彼女を教育し、導いていたつもりだった。

 ところが、詩緒が配属してから数ヶ月ほど経過したある日、どういうわけか出勤時間になっても彼女が姿を見せないという事案が発生した。不審に思って彼女が住んでいた警察の女子寮の部屋を確認してもらったが、部屋の中にも彼女の姿はなかった。通常、警察官がどこかに行く際は必ず予定や行き先を報告する義務があるはずだが、今回はそういった報告も一切なかったため、すぐに彼女の捜索が行われる事となった。

 だが、失踪から三日後、事件は最悪の結末を迎える事となった。青梅市郊外の山間部で、詩緒の首吊り死体が見つかったという連絡が入ったのである。遺体は死後三日が経過しており、失踪した当日に首を吊って死亡したのは確実だった。ただ、現場から遺書などは見つからず、当初は自殺と他殺の両面で捜査が行われる事になった。

 結局、その後の担当所轄署による捜査の結果、紆余曲折の末に詩緒の死は自殺であると認定される事となった。だがそうなると、問題となるのはなぜ彼女が自殺をしたのかというその動機である。そして、度重なる検討の末に最終的に持ち上がった疑惑が、その原因として教育係だった絵麻子の不適切な指導……有体に言えば『パワハラ』があったのではないかというものだったのである。

 絵麻子からしてみればこれはまさに寝耳に水としか言えない話であった。もちろん、仮にも教育係という立場だった事もあり、指導のために彼女に厳しい言葉を投げかけた事がないとは言わない。だが、それも常識の範囲内での話であり、少なくともパワハラと言われるような事をした覚えなどないというのが絵麻子の主張だった。しかし、他に自殺の動機がなかった事もあり、絵麻子への追及は過酷を極めた。連日、署の上層部や本庁の監察係からの尋問を受ける事となり、さらに詩緒の遺族からの激しい抗議も重なって、絵麻子の精神は日々摩耗していく事となった。

 結局、これだけ執拗な尋問が行われながら、絵麻子によるパワハラを裏付ける決定的な証拠が出なかった事もあり、最終報告書では詩緒の自殺の動機は「不明」という事で決着している。しかし、結果から言えば疑惑を晴らせないまま曖昧な結論で終わってしまった事が、絵麻子にとってはかえって不幸の始まりとなってしまった。というのも、曖昧なまま終わってしまったため彼女への疑惑自体が消えず、署内で彼女に対するよからぬ噂が流れるようになってしまったのである。絵麻子は署内で腫物に触るような扱いをされる事となり、裏でささやかれ続ける陰口は徐々に陰湿なものへと変化していった。一度張られたレッテルは消す事ができず、彼女の警察内での評価と評判は地の底に落ちた。結果、絵麻子の署内での立ち位置は、単なる厄介者以外の何物でもない存在になってしまったのである。

 この状況に、警察上層部も大いに悩む事となった。公式の報告書の上で絵麻子のパワハラが認定されていない以上、それを理由に絵麻子を解職する事などできないし、無理やり解職してしまうと警察側がパワハラの事実を公に認めた事になってしまう。しかし、だからと言って疑惑の渦中にある絵麻子をこのままにしておくというわけにもいかない。そして出た結論が、厄介者である絵麻子を巴川署に左遷してしまうという折衷策だった。

 上層部の異動指示に、絵麻子は何も反論しなかった。正直、どれだけ無実を主張しても誰も信じてくれないこの状況に、反論する事に疲れたと言った方がいいのかもしれない。結果、絵麻子は江戸川署からはるか離れた巴川署に異動する事となり、それからずっと未来のない疲弊した毎日を送る事になっていたのだった。

「ねぇ」

 ふと、何の気なしにそんな言葉が口から洩れる。向かいに座る紗江はチラリと絵麻子の方を見やり、無言のまま首をかしげて「何か?」というような仕草を見せた。

「あなたは……今の状況に、満足しているの?」

 聞いてから絵麻子は後悔した。満足なんかしているわけがないではないか。この警察署に送られた時点で、大半の人間は何らかの苦い過去を抱えている。そんな人間がこの境遇に満足しているわけがない。

 だが、それに対する紗江の答えは意外なものだった。

「わかりません」

「わからない?」

「私はミスをしてここに送られました。そして、ここに送られたからには満足する事は許されないと思います。ここにいるのは私の罪の償いなのですから、満足する権利は私にはない。私はそう考えています」

「罪、ね」

 それが正しいなら、私の罪は何なのだろう。身に覚えのないパワハラの罪を償えと言うのか? それとも、詩緒の異変に気付かなかった事が罪だというのか。あるいは……

 絵麻子はそこで考えるのを放棄した。どうせ、どれだけ考えても無駄なのだ。考えた所で、ここから出られるわけがないのだから……

「ごめん、変なこと聞いて」

「いえ」

 紗江は視線を外し、気まずい会話は終わる。気分が悪い。ここにいると自然と口数も少なくなってしまう。

「私……何がしたいのかしら……」

 ポツリと呟いた絵麻子の言葉に対し、しかし今度は紗江は反応せず、ただ重い沈黙だけが休憩室に漂っていたのだった……

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