第三章 刑事生活安全課オフィス
巴川警察署の署員のオフィスは、三部署とも一階の正面入口から入って正面にある受付の奥のスペースにある。デスクはそれぞれの部署ごとに分かれており、それぞれの部署の間がパーテーションで区切られているという構図だ。入口から見て向かって左が地域交通課、中央が警務総務課、右が刑事生活安全課という事になっている。
その刑事生活安全課のそれぞれのデスクに、三人の警察官が座っていた。全員が刑事生活安全課に所属する警察官……名目上は一応『刑事』という事になるが……であり、奥の独立したデスクにいるのが刑事生活安全課課長の石井盛親警部補、手前のそれぞれのデスクでパソコンを操作しているのが柿村謙也巡査部長と、源響子巡査であった。仮にも刑事という事で彼らは警察官の制服ではなくスーツを着込んでおり、全員が一言も話す事なくパソコン作業に没頭していた。
「……ふう」
そのうちの一人、柿村巡査部長はそう息を吐くと、椅子の背もたれにもたれかかって大きく伸びをした。刑事生活安全課はその名の通り刑事課と生活安全課がまとめられた部署で、それゆえに仕事の範囲はかなり広い。具体的には通常の刑事課の担当する犯罪捜査、鑑識作業、防犯活動以外に、生活安全課が担当する保安、少年犯罪、組織犯罪、暴力団関連事案、薬物犯罪、銃器犯罪などの取り締まりも管轄となっている。これは、場所が田舎であるだけに事件がほとんど発生せず、通常の刑事課の管轄事案だけではあまりにも仕事がなさ過ぎる事と、それでいながら署員の数が少ないが故にいくつかの仕事をまとめて行う必要があるための処置であるが、正直、こういう田舎であまり起こりそうもない事件の担当をとりあえず一緒くたにしただけとも取れる話であり、管轄の広さに反して仕事量は一番少ない部署となっていた。
ちなみに、残る地域交通課は文字通り地域課の仕事と交通事故捜査や交通安全の啓発活動などが仕事で、名目上は村に二つある駐在所の警官もここに属する事となっている。さすがにこれらの仕事は田舎だろうが都会だろうがその内容に変わりはないため、負担を考慮して管轄もこれだけとなっているが、実質的な仕事量という意味ではここが一番多い。残る警務総務課は捜査活動というよりも主に警察署そのものの運営に関係する部署で、会計、厚生、広報、給与・人事管理などに加え、留置所の管理や本部や駐在所員などから送られてくる無線通信の管理なども仕事となる。いずれにせよ刑事生活安全課よりは仕事量は多く、それがまた刑事生活安全課がこの警察署の中でも一番の閑職であるという事実を嫌でも思い知らされる事になっていた。
実際、柿村がここに配属されてから、組織犯罪だの暴力犯罪だの薬物事件だのに遭遇した事など一度もない。というか、どれだけ規模の小さい暴力団でもこんな何もない山間部の田舎を拠点にしようとは思わないだろう。かといってこんな小さな村で何か大きな事件が起こるわけもなく、この警察署に捜査本部が設置された事など過去にさかのぼっても確認できない。たまに仕事があったとしても軽犯罪や喧嘩の仲裁に呼び出される程度で、主な仕事内容が村内にある猟友会のメンバーが所有する銃器の登録作業や、その猟友会に依頼されて行う害獣駆除という時点でこの部署の扱いがよくわかるというものである。
そんな刑事生活安全課であるが、今日は珍しく仕事があった。昼過ぎに村にある屋敷に不法侵入した人間がいるという連絡があり、駆けつけた駐在がその不審者を捕まえたのである。久々に起こった刑事事件であるが、柿村たちがやった事は駐在が連行して来たその不審者の身柄を署で引き取り、簡単な取り調べをして調書を取り、それを踏まえた上で報告書を作成する事だけであった。今まさに柿村たちがしているのがその報告書の作成業務であり、不審者本人はとりあえず地下の留置所に留置してあるが、正直そこまで大した被害もないため、朝になったら釈放する事になるだろうと思われた。
「俺、何やってんだろうな……」
不意に、そんな言葉が柿村の口から洩れた。それが聞こえたのか正面に座る源響子巡査が一瞬柿村の方を見やったが、結局何も言わないまますぐに自分の仕事に戻ってしまった。そんな後輩の態度を見て、柿村は自己嫌悪に襲われたように顔をしかめた。
柿村がこの警察署に飛ばされる事になったのは、二年前のある失敗が原因だった。その当時、柿村は世田谷署刑事課に所属する刑事だったのだが、そこである殺人事件の捜査に関わる事となった。今思えば、それが全ての不幸の始まりだったわけだが、当時の柿村は意気揚々と現場に向かい、無残に殺害された被害者の遺体を前にして「絶対犯人を捕まえてやるぞ!」などと青臭くも心に誓ったものである。
それは、世間でも大きく報じられるような大事件だった。捜査本部こそ世田谷署に設置されたが、本庁はもちろん、周辺の所轄署からも応援の刑事が多く駆け付けた。実の所、目の前にいる源響子もその時に世田谷北署から応援として駆け付けた新米刑事であり、実際の捜査では他でもない柿村とコンビを組んで活動していた。もちろん、その時はまだこんな不愛想な態度ではなく、それなりに上手くやっていたはずだった。
やがて捜査の結果、この事件には一人の有力容疑者が浮上した。ただ、この時点では証拠が足りなかったため即座の逮捕は見送られ、しばらくはその容疑者を監視しつつ他の捜査員が証拠を固めるという方針となった。そして、柿村は容疑者の監視業務を命じられたのだが……結論から言えば、これが失敗した。柿村たちの監視体制に不備があり、あろう事か容疑者の自宅からの逃亡を許してしまったのである。不幸中の幸いは、逃亡後に行われた自宅の家宅捜索で事件の凶器が発見され、この容疑者が犯人である事がほぼ確定した事であったが、当の犯人に逃げられてしまっては話にならない。しかも悪い事に、この失態は事件を取材していたある新聞記者にすっぱ抜かれ、警察不祥事の特ダネとして世間を大いに騒がせる事となった。
結果、警察上層部としてもこの一件に関わった人間を処分せざるを得なくなり、当事者でもあった柿村と響子を含む現場の捜査員数名に対する左遷処分が決定。柿村たちは数ある左遷先からこの巴川署に飛ばされる事となり、そのまま二年以上の時間が経過する事になってしまったのである。
そんな事を思い返しながら柿村がチラリと奥の課長席を見ると、そこには刑事生活安全課長の石井盛親警部補が黙々とパソコンで書類を作成していた。年齢は五十代前半から半ばくらいだろうか。一応、柿村から見れば直属の上司と言う事になるが、仮にも刑事生活安全課の長であるにもかかわらず、丁寧な物腰の温厚というか覇気がないというかとにかくそんな人柄の人物で、柿村は日々何か物足りなさを感じていた。
聞いた話ではあるが、石井は元々東京都心部にある丸ノ内署刑事課所属の刑事で、数々の事件を解決して功績を挙げてきたベテランだったらしい。らしい、というのは今の石井の姿を見てもその有能な刑事だった姿が全く想像できないからで、実際、ここに来てから石井が何らかの事件を捜査した事など一度もなく、何か起こっても柿村たち部下に丸投げして、自分は事案解決後の書類整理ばかりしているという有様だった。
これもまた聞いた話であるが、石井がこんな左遷署の一課長にまで落ちぶれるきっかけとなったのは、かわいがっていた一人娘の突然の死によるものだったらしい。遺体が見つかったのは死後数日が経過した母の日の事で、何でも一人暮らしをしていた自宅アパートで転倒し頭を打った事による突然死だったらしいが、すでに妻も病気で亡くしていた石井にとって彼女の死はかなりの精神的ダメージを与えたようであり、その後の石井はすっかり覇気をなくして仕事にも身が入らなくなってしまったとの事だった。そして挙句の果てに娘の死から約一年後、感情が不安定になっている時に取り調べ中の被疑者を殴りつけて怪我を負わせるという不祥事を起こしてしまい、それまでの功績からクビこそ免れたものの、めでたく巴川署に左遷される事になったという話である。
聞くところによると、柿村がここに左遷された時点で石井はすでに二年間もこの閑職の椅子に座っていたらしいが、それからさらに時間が経った今に至るまで、彼がどこか他の署に異動するというような話は一切聞こえてこない。その姿を見ると、これがかつて優秀と言われた刑事の末路なのかと無常さを感じると同時に、自分もいずれこの男のように無気力になってしまうのかという将来に対する不安が襲ってくるのだった。
ふと前を見ると、仕事をさぼっていると思われているのか、響子が怖い顔でこちらを見ていた。柿村は首を振り、仕事をしている事を示すように響子に向かって片手を上げると、改めてパソコンのキーボードに向き直る。だが、いざキーボードを打とうとすると、奥の廊下から地域交通課の花町課長が急ぎ足でやって来るのが見えた。何事かとそちらを見ていると、花町はそのまま地域交通課のデスクがある場所へ向かい、受付のテーブル越しにそこにいるであろう地域交通課の署員たちを見やる仕草を見せた。
「何だ、寺さんと城田だけか」
花町のそんな声が聞こえてくる。刑事生活安全課の場所からはパーテーションでよく見えないが、どうやら今、地域交通課のデスクにいるのは、花町の言う所の「寺さん」と「城田」……寺桐宗平巡査部長と、城田信彦巡査の二人だけのようだった。このうち寺桐巡査部長はこの署内の中では二番目に年長の警察官で、長年出世を二の次にして警察に奉職してきた大ベテランだった。それだけに立場上は上司である三課の課長たちも彼の事は「寺さん」と呼んで敬意を示しており、なぜそんなベテラン警察官がこんな左遷部署にいるのか疑問に思う者も多かったが、それを聞いても本人ははぐらかすだけで、幹部以外でその実情を知っている人間はいないと思われた。風の噂では、以前所属していた部署で自身の部下が殉職してしまい、その責任を取る形で自らここへの異動を希望したという事らしいが、それが本当なのかどうかは永遠の謎である。
ちなみに、もう一人の城田巡査の方は調子のいい今どきの若者といった人間であるが、そんな彼の左遷理由はまさかの「警察手帳の紛失」という他の面々と比べるとずっこけそうになるようなもので、当の城田本人もその事を話題に出されるとさすがに不機嫌になる事が多かった。とはいえ、これは自業自得だから仕方がないだろう。一年ほど前にここに赴任して以降、渋々といった風ではあるが一応ちゃんと仕事はこなしているようだった。
と、そんな事を考えていると、パーテーションの向こうからその寺桐巡査部長の穏やかな声が聞こえてきた。
「そのようですな」
「他の二人は?」
「さぁ。どこにいるのやら。奥津君はさっき鑑識に行ったようですが」
「そうか……」
「何かありましたか?」
「いや、この大雨で役場の方に避難所が設置されたので、念のためにこちらからも人員を送ろうという事になった。寺さん、悪いけど、ちょっと行ってもらえないか?」
「えぇ、構いませんよ。ちょうど書類仕事も終わった所ですし」
「助かる。あと、城田。お前も寺さんといっしょに行け」
「え、自分もですか?」
「そうだ。寺さん一人で行かせるわけにもいかないし、だからと言って私が行くわけにもいかない。他に人がいない以上、お前が行くしかないだろう」
「はぁ……わかりました」
どこか納得できない風な声ではあったが、城田が素直にそう返事する声が聞こえてくる。
「それじゃあ、課長。パトカーを一台、使わせてもらいますよ」
「あぁ。何かあったら連絡してくれ」
その言葉と同時に、寺桐と城田の二人が合羽を着ながらオフィスを出て、署の奥にある車庫へ通じる渡り廊下の方へ向かっていくのが見えた。何気なくオフィスの時計を見やると時刻は午後六時。柿村は一際大きなため息をつくと、今度こそパソコンに向き直り、報告書の作成業務を再開したのだった……。