第二章 署長室
巴川警察署は先述したように署員二十名以下の小規模警察署であり、左遷先という意味合いが強いためか離職率もかなり高い。内訳も署長と副署長を除けば、警務課と総務課、地域課と交通課、刑事課と生活安全課がそれぞれ合同部署となっており、本来公安業務や要人警護、機動隊の運用を管轄するはずの警備課は「こんな所にあっても意味がない」という事なのか存在しない。よって組織的には部署が三つしか存在せず、しかもそれぞれの部署もトップの課長を含めて各々四人ないし五人程度しかいない上に、警務総務課に至っては人手不足なのか副署長が同課の課長を兼任しているという有様であった。
そんな巴川警察署の二階にある署長室で、巴川警察署署長の正親町村正警視は、デスクのすぐ後ろにある窓の前に立ってぼんやりと大雨が降る外の景色を眺めていた。署長という身分に反して年齢は三十代前半だろうか。童顔である事もあってか威厳とは程遠い容姿であり、どこか神経質というか頼りなさげな雰囲気が漂っている男だった。
この若さで署長になっている事からもわかるように、正親町はいわゆるキャリア組の警察官であった。東京大学法学部卒業後に警察庁に入庁し、お決まりのエリートコースに乗って若いながらも出世を重ねてきた。彼自身、その事は誇りに思っていたし、このまま将来的には日本警察の中枢として活躍する事になるのだと疑う事すらしていなかった。
だが、一年ほど前に順風満帆だった彼の人生は大きく歪む事となった。当時、警視庁に出向していた正親町は赤坂署に設置されていた連続強盗事件の捜査本部の幹部の一人として捜査の指揮を行っていたのだが、捜査中だった彼の部下の捜査員が偶然犯人グループのアジトを発見したという報告があった際に、功を焦った正親町は他の捜査班の応援の到着を待たずにすぐに犯人を確保するように指示を出してしまったのである。その結果は最悪で、捜査員の接近に気付いた犯人グループとの間で銃撃戦が発生してしまい、犯人の全員逮捕と引き換えに捜査員二名が殉職。さらに、アジトのあったアパートに住んでいた他の住民二人に犯人が撃った弾の流れ弾が当たって重傷を負うという惨事に発展してしまったのだった。
結局、事件そのものは犯人の逮捕という形で無事に解決したものの、安易な判断で捜査員を殉職させ、一般市民にまで被害を出してしまったという事実は正親町にとって致命的だった。正親町からしてみれば、それまでの強盗事件で犯人が銃器を使用した形跡がなかったためまさか銃撃戦になるとは思っていなかったというのが本音であったが、こうなってしまったからにはどんな言い訳も通用するものではない。彼はこの若さにして早くも警察内部における出世の道を閉ざされる事となってしまい、結果的にこんな僻地の左遷部署の署長に押し込まれてしまう事となってしまったのである。肩書きこそ『署長』であるがはっきり言って名ばかりだけのものであり、何もやる事がないまま、毎日この署長室で一人寂しくぼんやりと過ごす事がここ最近の彼の日常である。
事実、実際にこの警察署の実務を動かしているのは御飾り署長の正親町ではなく、本来彼の指揮下にあらねばならないはずの課長職三名であるというのが、この警察署に所属する警察官や村人たちの間における暗黙の了解だった。それぞれの部署の長であるこの三人は階級こそ正親町より下で表向きは正親町の顔を立ててはいるのだが、全員が正親町よりも年上の叩き上げのベテラン警察官ばかりで、人生経験が浅い正親町一人だけではどうあがいても太刀打ちできない相手ばかりであった。階級も副署長も兼任している警務総務課長が警部で、残り二人が警部補となっており、今でこそ諸事情によりこうして左遷先であるこの警察署に配属されているが、叩き上げ……つまりノンキャリアの警察官としてはしっかり昇進している方であり、実務能力という面では正親町など足元にも及ばない存在である事も事実であった。
その現実がわかるからこそ、正親町は自分がどうしようもなくふがいなく、そして無気力感にさいなまれる毎日を送る事になっていた。果たして自分はこんな田舎でくすぶるために警察官になったのだろうか……。入庁した時に抱いていた希望と誇りももはや過去の話。今はただ己の境遇に絶望し、そのみじめさをひたすら噛み締める事しかできなかった。
と、そんな事を考えながら目の前の暗闇を流れる漆黒の巴川を眺め続けていると、不意に署長室のドアがノックされた。正親町は緩慢な動作でゆっくりドアの方へ振り返り、机の上に置かれた吸い殻入りの灰皿を固定電話の横にどけながら、どこか投げやりな様子で返事をした。
「どうぞ」
その言葉と同時に署長室のドアが開けられ、四十代半ばと思しき目つきの鋭い男が部屋の中に入って来た。その男こそが、巴川警察署の三部署の長の一人である地域交通課長の花町義直警部補であった。
「署長、お忙しい所、失礼します」
本人はいたって真面目な顔であるが、正親町からすれば皮肉以外の何物でもない言葉を発しながら花町は一礼する。正親町は少しこめかみを引きつらせながらも、表面上は冷静な口調で一回り以上年上の花町に応じた。
「構いません。何かありましたか?」
「はっ。実は先程、村役場からうちに連絡がありまして。この大雨で河川氾濫や土砂崩れの危険があるという事で、役場に臨時の避難所及び対策本部を開設するという事です。つきましては、うちにも災害対応の協力をしてもらえないかと」
正親町は眉をひそめる。
「役場という事は、要請者は鎌崎村長ですか」
「えぇ。それが何か?」
「そうですか……」
そう言いながら、正親町の表情は目に見えて苦々しいものとなっていた。普通、こういう村長からの要請は警察署長に直接行われてしかるべきものであるはずだ。にもかかわらず、自分ではなく花町の方に連絡を入れている時点で、巴川村村長の鎌崎辰蔵が自分をどう見ているのかがよくわかるというものである。そして、それがわかった所で自分にはどうしようもないという現実が、正親町の自尊心をさらに激しく傷つけていた。
一方、花町の方はそんな正親町の心の内を知ってか知らずか、淡々と話を続けていく。
「すでに駐在には適宜村内を巡回して災害の発生に注意するよう連絡を入れましたが、署から誰も出ないわけにはいかんでしょう。何人か役場に行った方がいいと思うんですがね」
「それは、花町課長の意見ですか?」
「いえ、一般常識としての話です」
花町は表情を崩さずそんな事を言う。何にせよ、結論は見えている話だった。
「……わかりました。何人か役場に行かせてください」
正親町はそう言ってあっさりと許可を出す。どうせ拒否する権利は自分にない。そもそもの選択肢がない以上、無駄に抵抗して意味もなく疲れるのは御免だった。
そんな正親町の考えがわかっているのかどうか、花町は慇懃無礼に頭を下げる。
「ありがとうございます、署長」
「人選はどうするつもりですか?」
「他の課の手を煩わせるのも悪いので、ひとまずうちから二人ほど出そうかと」
「そうですか」
「それで、よろしいですか?」
花町の念押しをするかのような確認に、正親町は深く考える事もなく機械的に頷いた。
「任せます。不備だけはないように」
「了解しました」
そう言って一礼すると、花町はそのまま部屋を出て行った。部屋の中には再び正親町だけが残される。それからしばらくして、正親町は窓から外を見ながら、ポツリとこう呟いた。
「私が何か言っても聞く気はないのでしょう。好きにすればいいんです」
その何もかもを諦めたような言葉を聞いた人間は、口に出した本人以外、どこにもいなかったのだった……。