第一章 県道
二〇〇八年九月二十七日土曜日の夕刻、埼玉県警本部刑事部捜査一課に所属する金倉英輔警部補と、その部下の麻布涼平巡査部長は、大雨が降りしきる中、埼玉県南西部の山中を貫く県道を覆面パトカーで走っていた。時刻はすでに夕刻に差し掛かろうかという時間帯になっているが、一寸先も見えないような土砂降りを降らせる厚い雨雲が日の光をさえぎっており、その時間に反してすでに周囲は夜も同然の暗さになりつつある。時折起こる稲光がたまに辺り一帯を照らしてはいるが、所詮はほんの一瞬の出来事であり、しかもそのすぐ後に轟く腹の底に響くような重い雷鳴のせいでまったくもって何の助けにもなっていなかった。
この大雨は今日になって降り始めたものではなく、すでに降り始めてから三日ほどが経過していた。特に今日の午後になってから雨脚が急激に増していて、埼玉県一帯では至る所で土砂崩れなどの被害が発生しており、県警もそちらへの対応を優先せざるを得ない状況である。実際、今こうしてパトカーが走る県道も所々冠水をしており、道をふさぐほどではないとはいえ小規模な土砂崩れも発生しているようである。はっきり言って道路のコンディションは最悪と言っても差し支えなかった。
さて、ではなぜそのような状況で金倉達が県道をパトカーで走っているのかという事になってくるわけであるが、それはこのパトカーの少し前を爆走している車に関係があった。金倉は助手席から正面の車の後部ライトを血走った目で睨みながら、地の底から響くような声で呟く。
「絶対、逃がさないぞ」
一方、この最悪なコンディションの中で必死にハンドルを捌いている運転席の麻布も、無言のまま必死に相手の車に追いすがり続けている。それに対して、前を走る車もこのコンディションの悪い道をスピードを緩める事なく走り続けており、時折スリップしながらも停車しようとしない。悪天候の中、激しいカーチェイスが人知れず展開されていた。
「しかし、こんな所で有名な指名手配犯を見つけるなんて、運が良かったですね」
「あぁ。だからこそ、絶対に逃がすわけにはいかない! 何としても捕まえるぞ!」
そう、二人が目の前の車を追いかけている理由はまさにこれであった。目の前を走る車……それを運転しているのは、現在全国に指名手配されているある事件の容疑者だったのである。
二人がこの指名手配犯を見つけたのは偶然だった。先日起こった別件の事件の追加調査のためにこの近くまで出かけていて、その帰り道に偶然その指名手配犯と思しき人物が駐車場で車に乗り込む姿を目撃。追跡を開始したものの、しばらくして相手も気付いたらしく逃走を開始してこの県道に逃げ込み、かくして悪天候の山間部を貫く県道でのカーチェイスが始まってしまったというわけである。
と、そこでふと麻布が何かに気付いたように言った。
「警部補、ここから巴川村の領域に入ります! 管轄としてはうちではなく警視庁になりますが……」
「構わん! 指名手配犯を追跡中なんだぞ! 管轄だのなんだの言っていられるか!」
「了解です!」
麻布がそう返事して前を走る車の動きに注意を向けた……その時だった。
「あっ!」
麻布が思わず声を上げる。金倉がハッとして前を見やると、前を走っていた車が大きく蛇行し、そのまま近くの外灯に接触して路肩に停車するのが見えた。麻布もパトカーを車の近くで急停車させ、パトカーから飛び出した金倉が拳銃を構えながらゆっくりと車の方へ近づいていく。麻布は万が一車が再び逃走した時に備えて運転席で待機しながら、相手の出方を待っていた。
と、不意に車の運転席のドアが開き、中から人影がゆっくりと出てくるのが見える。それを確認すると、金倉が豪雨の音に負けないくらいの声で鋭く叫んだ。
「動くな! 抵抗するようなら容赦なく撃つ!」
その言葉に、その人影は一瞬動きを止めて何かを考えているようだったが、やがて静かに両手を上げ、そのまま車の運転席のすぐ横に立つ。それを確認すると、金倉は慎重な様子でその人影に近づいて行き、そして素早くその体を拘束した。
「確保!」
その言葉と同時に、運転席の麻布はフゥと息を吐いて肩の力を抜き、しかしすぐに気を引き締め直して無線を手に取ると、本部に連絡を入れた。
「捜一・麻布から本部」
『捜一、どうぞ』
県警本部からの返事を確認すると、麻布は慎重な口調で報告を行う。
「県道××号線巴川村近くにて、指名手配犯・鬼首塔乃と思われる女の身柄を確保! 繰り返す、鬼首塔乃と思われる女の身柄を確保した! 現在時刻は十八時ちょうど! 至急、連行先を指示されたし!」
そんな無線の音声をバックに金倉に手錠をはめられていたのは、どこかふてぶてしい笑みを浮かべた、二十代後半と思しき女性の姿だったのである……