第三章 自供
「私の負けです。ここまで徹底的に負けるといっそ清々しい。いやはや、まさかこんな日が来るとは思いもしませんでしたよ」
敗北宣言をした後も、大久保の態度はまるで変らなかった。そんな大久保に対し、榊原は敬語を崩して険しい声で大久保に確認する。
「認めるんだな? 今回、月園家で月園勝治と島永弁護士を殺害し、そして石井警部補を操って巴川署の惨劇を引き起こしたと」
「えぇ、その通りです。全てあなたの言った通りですよ。元伝説の刑事という肩書は伊達ではないようですな。巴川署の現職の連中と比べてもやはり格が違う。鎌崎村長があなたをこの村に引き入れた事が、今回の最大の誤算でした。いやぁ、本当に参りましたよ」
そう言ってから、大久保はこう付け加える。
「ただ、今までのあなたの話にも出ていたように、巴川署の桶嶋俊治郎記者、八戸進巡査、金倉英輔警部補の殺害には私は一切関与していません。あれは石井警部補が勝手にやった事。それについては、私に罪を着せんでもらいたいですなぁ」
のんびりとそんな事を言う大久保を本庁の捜査員たちが周りを取り囲み、橋本が鋭い声で一喝する。
「貴様、ふざけるな!」
「ふざけているつもりはありませんよ。しかしまぁ、探偵さんは随分運もよろしいようで。今回はたまたま映像が残っていたからよいものの、もし残っていなかったらどうするつもりだったのですかな?」
それは、大久保の純粋な疑問といった風だった。そして、その疑問に対する榊原の答えは非常に簡潔なものだった。
「その時は、別の方向からの追及ができないかどうかを論理的に考えるだけの話だ。それ以上でも以下でもない」
「……なるほど。そうですか」
「逆に私からも聞いておきたいんだが、あんたはこの致命的な証拠の存在に気付いていなかったのか?」
榊原はチラリとノートパソコンに映るドライブレコーダーの映像を見ながら尋ねる。それに対する大久保の答えもまた簡潔極まりないものだった。
「無論、気付いていればそんな重要な証拠を放っておきなどしませんよ」
「という事は、気付いていなかった、と?」
「えぇ。何分、巴川署は日頃から予算不足でしてなぁ。署内の防犯カメラの設置でさえまともにできていない有様で、パトカーへのドライブレコーダーの導入など夢のまた夢という状態だったのですよ。まぁ、滅多に事件が起こらない場所なので導入が後回しにされても仕方のない話ですが、おかげで私もたった今あなたに指摘されるまでドライブレコーダーの存在を失念してしまっていたわけです。こればかりは私のミスでしたなぁ」
その言葉に、巴川署の署員たちがバツの悪そうな顔をする。
「もちろん、島永弁護士の車を物色していた時に、すぐ横の県道を二台の車が猛スピードで通り過ぎた事には気付いていましたが、すぐに顔を隠しましたし、何分薄暗かった事もあって、目撃された可能性は低いと判断しました。当事者たちはカーチェイスに必死で他の事など見えていなかったでしょうし、仮に目撃されたとしてもそれはほんの一瞬の事。明確に私だと断言できるはずもないですし、充分に否定できると踏んでいました。ですが、映像で撮られていたとなれば話は別です。いやいや、そう考えるとこれは本当に失敗でしたな。詰めが甘いとはこの事です」
この期に及んで何でもない風にそんな事を言う大久保に、橋本はいらだった様子で詰問する。
「なぜだ! 仮にも警察官である君が、なぜこんな事をした!」
「……鍵を握るのは、やはり二十年前の旭沼事件か?」
榊原の問いかけに、しかし大久保は自分のペースを崩さない。
「そうですなぁ。少し、昔話をしましょうか」
大久保はあくまで穏やかな声色でそう言うと、自身に集中する視線をものともせず、己の過去を話し始めた。
「あれはそう、一九七〇年だから、もう三十八年も前の話になりますか。私は十九歳の大学生でしてねぇ。当時は大学闘争が激化していて世の中が殺伐としていましたが、私の通っていた大学は奇跡的にもその手の運動はあまり活発ではなく、私は学生運動とは無縁の学生生活を送っていたんです。人並みに勉強をして人並みに青春を送り……そして、人並みに恋人もいましたよ」
大久保は一度言葉を切り、周囲の反応を確かめつつ話を続ける。
「吉良綺羅子という名前でした。変わった名前でしょう? 実際、本人も恥ずかしがっていて、いつか改名したいなんて常々言っていましたが、私はその名前も含めて彼女の事が好きだった。おとなしくて読書が好きな子でね。今でもあの子の控えめでありながら花のように輝いていた笑顔をよく覚えています」
そこで、突然大久保の表情から感情が消える。
「ですが……そんな私のささやかな幸せは、時代のうねりとかいうわけのわからないものに容赦なく踏みにじられてしまったんです。忘れもしない……あの日、勉強熱心だった彼女はある学者の講演会を聞くために都心の方に出かけていました。そして……講演会の会場だったホテルで爆弾テロに遭遇し、いとも簡単に帰らぬ人になってしまったんです」
息を飲む聴衆に対し、大久保は無表情に話を続けていく。
「『東京オーシャンホテル爆破事件』……今ではそう呼ばれているようですね。死者は彼女を含めて十四人。当時活動をしていた過激派の一部がホテルに泊まっていた要人を殺害するために起こしたテロだったそうですが、肝心の要人は予定の変更でホテルに泊まっておらず、何の関係もない人間だけが死んだという最悪の事件でした」
大久保はただ淡々と事実を述べているだけだった。だが瑞穂からしてみれば、それが逆にとても恐ろしく感じられた。何というべきか、話している内容に反して、言葉がとても空虚に感じられて仕方がなかったのだ。
「私は若いながらに彼女の復讐を誓いました。そして、その復讐を果たすために警察官になったのです。やがて警察官として学生運動の余波と戦っている中で、私は綺羅子を殺した復讐相手の正体を知りました」
一呼吸おいて、大久保はその名を告げた。
「鯉口征太郎。血闘軍創設メンバーの一人で、十人いる創設メンバーの中でも特に過激な思想の持ち主として知られる男でした。綺羅子が死んだあの事件は、鯉口を中心とする血闘軍の一部過激派が暴走する形で起こした事件だったのです。リーダーの竿留はこの事件については一切聞かされておらず、一般人に犠牲者を出した事を知って、後で鯉口に対して相当怒ったそうですがね。まぁ、私からすればどっちもどっちですが、とにかく、これで私が復讐すべき相手は決まりました」
その名前を聞いて、瑞穂は思わず手で口を押えていた。鯉口征太郎……その名前は現在も指名手配されている血闘軍創設メンバーの一人として奏から聞いた名前だった。まさかこんな所でその名前が出てくるとは思わず、瑞穂は今回の事件の根深さを知って、背筋が少し寒くなるのを感じていた。
「あれは、一九七八年の夏の事でした。あなたがさっきも言ったように、当時私が配属されていた調布市内の駐在所の管轄内に、薬師寺光廣という厚生省の官僚が住んでいました。最初はそんなに気にしていなかったんですがね。配属されてしばらくして、近所の住人から、この薬師寺という男の自宅に指名手配されている鯉口によく似た男が出入りしているという話を聞いたんです。それを聞いた時、私は心臓が止まるかと思いました」
その瞬間、瑞穂は大久保の表情に悪鬼のような何かが宿ったように見えた。
「後で調べたら驚きましたよ。この薬師寺という男ですが、実は学生時代に一時期ではありますが血闘軍に所属していて、その後色々あって組織を脱退し、正体を知られないまま厚生省の官僚になっていたんです。私は目撃情報に信憑性が出たと思いました。当時の血闘軍は最盛期に比べて勢力に陰りが見え始めていた頃で、切羽詰まった鯉口が、かつてのメンバーで今は官僚になっている薬師寺を脅して、活動資金を搾り取ろうとする可能性は充分にあったからです」
大久保は息継ぎをほとんどせず、ただ淡々と列挙するように言葉を並べ立てていく。
「私はこの情報を上に伝えませんでした。復讐の機会が巡ってきたと考えたからです。そして、その日から業務の合間を縫って可能な限り薬師寺の自宅を見張るようになったのです。そして……思ったよりも早く、運命の日はやってきました」
その瞬間、大久保はゾッとするような微かな笑みを浮かべた。
「私が密かに薬師寺の家を見張っていると、唐突に何の前触れもなく、鯉口がその姿を見せたのです。予想通り、奴は活動資金を得るために薬師寺の家を訪れていました。私は奴が出てくるのを待った。そして、奴が薬師寺の家を出て少しした所にあった人気のない公園で、私は奴に襲い掛かりました。あの時の私は警察官ではなく一人の復讐者でした。だから、最初から逮捕する気はなく、ただただ自分の復讐心を満たすために襲い掛かったのです」
「……鯉口はどうなった?」
榊原の簡潔な質問に、大久保も簡潔に答える。
「死にました」
「……」
「もみ合っているうちに、公園の中にあった階段から転落しましてね。どう見ても状況的に『警察官の職務執行中に誤って殺してしまった』という言い訳ができない事は明らかでした。だから私は、奴の死体を隠す事にしたのです。そしてその死体は、それから三十年以上が経過した今になっても見つかる事はありませんでした」
「では、鯉口征太郎は……」
警察が今までやってきた事が無に帰す可能性がある問いかけに、しかし大久保はあっさり答えた。
「えぇ、死んでいます。もう三十年以上も前に。どれだけ手配しても情報がないのは当然です。彼はもう、この世にいないんですからね」
瑞穂がチラリと視線を送ると、公安の奏が密かに唇をかみしめているのが見えた。彼女からすれば、長年ずっと追い続けてきた相手が、自分が生まれるよりも前の時点ですでに死んでいた事になるのだから何ともやるせない思いなのだろう。だが、大久保の話はまだ続いた。
「それから十年、復讐を終えた私は無気力なまま警察官を続けていました。本当ならば、話はそこで終わっていたはずだったのです。しかし、そんな私に接触してくる人間がいました。薬師寺光廣……あの男が突然私に声をかけてきたのです。一九八八年の事でした」
なぜかここで大久保はため息をつく。
「実の所、薬師寺はあの日、私が鯉口を殺害するその瞬間を密かに見ていたらしいのです。鯉口に脅された彼は、何とか鯉口の弱みを握ろうと密かに家から後をつけました。本人の弁だと隠れ家の一つでも暴ければいいと考えていたらしいのですが、彼が見たのは最寄りの駐在所の警察官として顔を知っている私が鯉口を殺害する光景だったというわけです。こうして、彼は鯉口ではなく私の弱みを握る事となりました。その時はそれまでだったのですが、それから十年経って、彼はその時握った弱みを有効活用しようと考えたようなのです」
大久保は淡々と事実を述べていく。
「あの当時、厚生省は旭沼事件で揺れに揺れていました。旭沼製薬が開発した新薬の認可をめぐって厚生省や厚生族議員に金が渡ったのではないかとされた疑獄事件。そして、薬師寺は当時厚生省の課長職だか部長職だか……とにかく幹部ポストの座にいて、この旭沼事件の当事者の一人でした。彼としては、自身の人生の瀬戸際だったわけです」
「薬師寺は旭沼製薬の疑獄に関与していたのか?」
榊原の問いかけに、大久保は首を振った。
「さぁ、わかりません。本人はやっていないと言っていましたが、どうでしょうね。当時の彼の態度を見れば実際はやっていた可能性の方が高いと思いますが、私からすればどうでもいい事です。とにかく、薬師寺は私に接触するなり、十年前に私が鯉口を殺害した事を知っていて、その証拠も握っていると言いました」
「証拠?」
「私が鯉口の遺体を処理した後、彼は一度遺体を掘り返して、私の指紋が付着した鯉口の眼鏡を回収してから再び埋め戻したのです。油断しましたよ。もう少し周囲を警戒しておくべきでしたね」
自分がやった事にもかかわらず、大久保の声色はあくまで淡白で、まるで他人事のようだった。その態度が、一見穏やかに見えるこの大久保忠康という老警官の異常性を暗に示しているように瑞穂は感じた。
「とにかく、これで私は薬師寺に弱みを握られた形となりました。そして薬師寺はそれを盾に、警察官である私に『仕事』を依頼したのです。それこそが、旭沼事件の疑惑の中心にいた月園和治夫妻の殺害でした」
その言葉が出た瞬間、月園家の何人かは怒りで顔を歪ませた。
「つまり、認めるわけかね。経緯はともかく、二十年前、自分が月園和治夫妻を殺害したと」
「……えぇ。何があっても隠しきるつもりでしたが、あなたのせいで全て無駄になったようです。残念な事ですよ」
大久保はあっさりとその事実を認めた。
「私は依頼通り、月園和治夫妻を殺害しました。鯉口に比べたら、簡単な仕事でしたよ」
「奥多摩にある夫妻の別荘を襲ったのか?」
「えぇ。警察官だと名乗ったら、何の疑いもなく中に入れてくれました」
「どうやって殺した?」
「月園撫子は滅多刺しにして、月園和治は自殺に見せかけて首の頸動脈を切りました。さっきも言ったように、難しい仕事ではありませんでしたね」
生々しい証言に、月園家の面々の中には顔を背けた者もいた。
「しかし、その関係でよく薬師寺に口封じされなかったな。その手の事件の場合、実行犯の大半は始末される事が多いはずだが」
橋本の疑問に、大久保は肩をすくめて答えた。
「私もそう思ってしばらくは警戒していたのですがね。皮肉ですが、私が警察官である事が上手く作用したようです。仮に私を殺したとしても、警察官が被害者となれば、警察側の捜査もいつも以上に苛烈なものとなる。そして、その本気の警察の捜査を突破できるだけの口封じ計画を立てる事が薬師寺にはできなかったのでしょう。そういう意味では、どれだけ偉くなっても奴は所詮三流ですよ。血闘軍から逃げ出し、自分で人を殺す度胸もなく、怖気づいて実行犯の始末にも踏み切れない弱気者。頭はいいのかもしれませんが、それだけですな」
それに、と大久保は続ける。
「向こうにとってもいざという時に自分の言う事を無条件で聞く警察関係者がいるというのは何かと都合が良かったようです。一介の駐在巡査とはいえ、利用価値があるとでも思ったのでしょう。私からすれば迷惑な話でしたがね」
軽いため息をつき、大久保はなおも話し続ける。
「私はその後も警察官を続けましたが、色々疲れていたのかミスが続きましてね。その結果、何の因果か私が殺した月園和治の実家があるこの村の駐在に飛ばされる事になってしまいました。でも、私はそれでもよかったのです。ようやく手に入れた平穏な生活……それを享受できるだけで私は充分でした。本当にそれだけだけが望みだったはずなのです」
と、ここで大久保の声色が低くなる。
「ですが、そのうちどうも不穏な事になってきましてね。どういう事なのか六年前になって、二十年前に旭沼事件を調べた刑事が二人も巴川署に異動してきたのです。言うまでもなく、真砂警部と花町警部補の二人の事ですがね。本当の所がどうだったのかは知りませんが、彼らが私の事を極秘に調べているよう思えてきたものですよ。正直、私からすれば恐怖以外の何物でもありませんでした」
もっとも、彼らからしてみても、まさか部下の駐在にかつて解決できなかった事件の真犯人がいようなどとは夢にも思っていなかったに違いない。
「灯台下暗しとはこの事だな……」
橋本が呻くように言う。
「しかし、実情がわからないだけに、下手に彼らに手を出して藪蛇になるわけにもいきませんでした。左遷署とは言え、相手は一警察署の幹部です。下手に殺すとそれこそ警視庁が本気で動く事になる。私としては気味が悪い状況ではあるものの、一応私を調べている様子がなかった事もあって、放置するしかなかったのです」
「そんな中、今度は月園家の顧問弁護士という立場で、元東京地検特捜部検事の島永弁護士が姿を見せた」
榊原の言葉に大久保は素直に頷きを返す。
「その通りです。異動でやって来た真砂警部たちと違って、これにはさすがに何かしらの意図があるのではないかと考えました。そして私なりに調べた結果、思いもよらない事がわかりましてね。元特捜部検事の島永弁護士は月園勝治君と手を組んで、旭沼事件を独自に調べていたのです。調査を進められたら、私に行きつく可能性がないとは言い切れませんでした」
「だから、当主相続のどさくさでこの二人を消そうとした?」
「三十年も逃げ続けてきたんです。すでに過去に起こった全ての事件で時効は成立していますが、そんな事はこの際関係ありません。私からすれば、今さらこんな所で平穏な生活を崩されるわけにはいかなかったのです」
穏やかな口調に反して、大久保の語る動機は自己中心的で同情の余地がないものだった。
「あんたは事件当夜、まず島永弁護士を『巴館』で殺害し、その後、小学校で勝治氏を殺害した。間違いないかね?」
「……えぇ。あなたの言ったように、あの夜、勝治君は蘭さんに事情を打ち明けた上で、自分たちの調査に協力するよう頼もうとしていました。その際、蘭さんを説得するために島永弁護士も密かに村に戻ってその場に同席する事になっていて、その集合場所として『巴館』が使われる事になったのです」
やはり勝治による蘭の呼び出しは、都内在住で連絡を取りやすい彼女に旭沼事件の調査協力を頼むものだったようである。
「どうやってその情報を知った?」
「……島永弁護士は遺言状の発表以前にも何度か村を訪れていました。さすがに信治君のように彼の手荷物に仕掛ける事はかないませんでしたが、彼の自動車に盗聴器を仕込む事には成功したのです」
「あの車の中に盗聴器を?」
思わぬ話に寺桐が眉をひそめた。
「えぇ。信治君の鞄に仕掛けたちゃちな代物ではなく、もっとちゃんとした盗聴器ですがね。それで遺言発表の前日……つまり一昨日の夜になりますが、遺言発表の準備のために村を訪れていた島永弁護士と、すでに村に来ていた勝治君があの車の中で密会をしましてね。その密会で遺言発表後に蘭さんを協力者に引き入れる話し合いが行われているのを聞いてしまったと、こういうわけなのですよ」
そこで大久保はため息をつきながら首を振る。
「迷惑な話です。私としてはそうなる前に、彼らを消さなければならなかった。これ以上、あの事件を嗅ぎまわる虫どもを野放しにはできませんし、ましてその虫がさらに増えるような事があってはならなかったからです。そんな事になれば、退治しなければならない虫が加速度的に増えてしまいますからね」
その言葉に、瑞穂は背筋が凍るのを感じた。それはすなわち、もし蘭が勝治らの協力者になるような事になれば、蘭を殺す事も躊躇しなかったという事を意味するからだ。蘭自身もそれはわかっているのか、何かに耐えるように拳を握りしめながらもジッと大久保の方を見据えていた。
「相手の行動さえわかってしまえば、殺しそのものは簡単でしたよ。事件当夜、私はパトロールにかこつけて『巴館』を見張り、島永弁護士がやってきたのを見計らって中に押し入って彼を殺しました。そして、彼の携帯と車の鍵、それに彼が蘭さんの説得のために持ち込んでいた『旭沼事件』の資料を奪った上で、県道脇に停められている彼の車に向かったんです。目的は、そこにまだあるかもしれない『旭沼事件』絡みの資料と、捜査の矛先を当主争いに向けるために必要な例の遺言状。そして、車に仕掛けてあった盗聴器の回収でした」
そして、恐らくその間に勝治が『巴館』を訪れ、そこで島永弁護士の遺体を発見したのだろう。だが、彼は警察に通報する事はできなかった。実際の彼の心理がどうだったかについては想像でしかないが、島永弁護士は本来ここにいてはいけない人間であり、自分自身も屋敷を密かに抜け出てきた身である。その状況でこんな廃墟で遺体の第一発見者になったとなれば、最悪勝治自身が疑われる危険性があった。だから彼は島永弁護士の遺体をいったん放置し、蘭の説得に向かう事を優先するしかなかったのである。
「とはいえ、彼が小学校に行く事はわかっていましたからね。時間もありましたし、焦る事はありませんでした。車から証拠を回収した私はその足で小学校に向かい、そこにいた勝治君を殺したのです。本当なら、今回排除するつもりだったのは、積極的に旭沼事件を調べにかかっている勝治君と島永弁護士だけでした。警察署の北の堤防に小型爆弾を仕掛けたのも、何かあった時に警察の捜査を妨害できると思っての事で、それ以上の意味はありませんでした」
ですが、と大久保は続ける。
「天は私に味方をした。こちらで殺人を起こした後で橋が流されて警察署が孤立し、その警察署の中で私以外の誰かが殺人を起こし、しかもその殺人犯が誰なのかが偶然にもわかってしまったわけですからね。ならばこの際、この状況を利用して私に関係ない場所で邪魔者に消えてもらおうと思ったわけです」
「それで、真砂副署長と花町警部補を……」
「はい。ここに来た経緯はどうあれ、彼らが実際に旭沼事件の捜査本部にいた刑事である以上、私にとっては間違いなく目障りな存在です。リスクはなるべく早い段階で消しておくに限るというものです」
「し、しかし、だからと言って無関係な人間を巻き込んでまで……」
戸沼が思わずそんな事を口走るが、大久保はあくまで冷酷だった。
「それがどうしたというのですか? 私は無関係な和治夫妻を含めてもう何人もの人間を殺した『血塗られた人間』です。むしろ、今ここで私のやってきた事がばれたら、必死に罪を逃れて生きてきたこの三十年は一体何のための三十年だったのですか? それを守るためなら、私は今さら何人死のうが躊躇しませんよ」
「なっ……」
戸沼はもう言葉も出ないようだった。だが、あくまで榊原は冷静に質問する。
「確認するが、今回の一件、薬師寺の指示ではなく、あくまで自身の判断でやった事なんだな?」
「……えぇ、間違いありません。今回はあくまで他人ではなく、私自身の利益のために行った犯罪です」
「し、しかし、その薬師寺という男をかばっている可能性も……」
城田の言葉に、大久保は淡々と反論した。
「かばう? 私にあの忌々しい男をかばう理由などありませんよ。彼の悪事を暴けば私の悪事もばれるので何も言いませんでしたが、私を脅した挙句必要もない殺しをやらせた恨みは忘れていません。そもそも、かばうつもりならこの場で薬師寺の名前を出したりしませんよ」
確かにそれはその通りだった。
「とはいえ、こんな大勢の人間の前でここまで徹底的に全てを暴かれてしまっては、もう抵抗する気も起こりません。あぁ、そうですか……私は、負けたんですね。三十年目にしてようやく……負ける事ができたのですね……」
その一瞬、瑞穂はどういうわけか、大久保の本心のようなものが見えた気がした。
「以上で、私の話は終わりです。ご迷惑をおかけします」
その瞬間、斎藤ら捜査一課の刑事たちが大久保の周囲を取り囲み、鋭い声で宣告する。
「大久保忠康! お前を殺人容疑で緊急逮捕する!」
斎藤の言葉と共に大久保の手に手錠がかけられ、同時に新庄が腰にぶら下げられていた大久保の拳銃を押収する。大久保は抵抗する仕草を見せず、おとなしく指示に従った。瞬間、大座敷に一瞬ではあるがどこか弛緩したような空気が流れた。
「これで……全部終わったんですね。よかった……本当によかった……」
愛美子がそう言って涙を流す。彼女だけでなくこの場の誰もがそう感じていた。実際そのはずだった。だが……
「いえ、まだです」
それを否定したのは、他ならぬ榊原だった。
「え?」
「まだだ、と言ったんです。ここまで明らかにしたのは、今回この村で大久保巡査部長と石井警部補が起こした連続殺人事件の真相についてです。ですが、それとは別に、まだ解決できていない事がいくつかあります。巴川村で起こった連続殺人の謎が解明された今、次に解明すべきはそちらの謎です」
「一体、何を……」
動揺する愛美子に対し、榊原は決然とした声で宣告した。
「最初に言ったはずです。私はこの場で『今回の事件の全てに決着をつける』つもりだと。この期に及んでその言葉を撤回するつもりは全くありません」
「で、ですが! これ以上何を解き明かすつもりだと……」
そんな虎永の言葉に対し、榊原は聴衆の一角にいるある人物に視線を向け、この場が始まった時から変わらぬ静かながら芯の通った口調で言葉をかけた。
「まず月園牧雄さん、あなたに聞かなくてはならない事があります」
「わ、私? な、何ですかな?」
狼狽しながらも取り繕うように姿勢を正す牧雄に対し、榊原は容赦なく言葉をぶつける。
「いえ、大した事ではありません。ただ、あなたが少し前に梅島美弥子という女子大生に大金を渡した理由について、この場で聞いておきたいと思う次第でしてね」
その瞬間、牧雄の表情が大きく引きつるのを瑞穂ははっきり見た。
「な、何の話ですかな?」
「そのままの意味ですよ。今回の事件を受けて、警察はあなたの事を徹底的に調べました。結果、あなたがどういうわけか梅島美弥子という妊娠している女子大生に接近し、その女子大生に大金を支払っていたという事実が浮上したのです。なぜそんな事を?」
「いや、それは……」
牧雄は口ごもる。が、榊原は止まらない。
「これが『自分が梅島美弥子を妊娠させたから』というのなら話はまだわかります。ですが今回の場合、あなたが梅島美弥子に接近して金を払ったのは、彼女の妊娠が発覚したよりも後の話です。これはどういうわけなのでしょうかね?」
その言葉に、牧雄の顔色が明らかに変わった。
「……そこまで……調べて……」
「ついでに月園涼さん、あなた、ここ一年の間、産婦人科はおろか病院に一度も行っていないそうですね。妊娠しているというにはいささかおかしな話ですが、何か言いたい事はありますか?」
涼は答えない。ただ正座した膝の上で何かを耐えるように拳を握りしめている。そんな二人の様子を見て、信治は何かに思い至ったようだった。
「もしかして……牧雄君、まさか君は……」
「ち、違う! 言いがかりだ!」
牧雄は必死に叫ぶ。が、榊原は一切容赦をしない。
「言いがかりだというのなら、それこそ信治先生に調べてもらえばいいと思いますがね。涼さんが本当に妊娠しているのか、その真偽について」
涼は言葉に詰まって何も言えず、牧雄は拳を震わせて榊原を睨みつけていた。だが、この時点ですでに勝負は決している。あくまで冷静に自身を見やる榊原の視線に耐え切れなくなったのか、それからしばらくして、牧雄が吐き捨てるように白状した。
「……あぁ、そうだよ! 数年前の検査で、涼が子供を産めない体だとわかった! だが、当主継承の事を考えたらこんな事を葵会長に言えるわけがなかったし、それ以前に子供がいないという事だけでも当主争いで大きく後れを取っていると思った。だから……」
「妊娠していた天涯孤独の女子大生・梅島美弥子に接近し、将来生まれてくる子供を引き渡す条件で彼女に大金を支払った。そしてその子供を涼さんの子供と偽って月園家に迎え入れ、当主争いを有利に運ぶ計画を立てた。違いますか?」
「何という罰当たりな事を……」
今までは傍観者的な立場からこの当主争いを眺めていた信治が、初めて嫌悪感を含んだ言葉で牧雄を非難する。いくら当主の座に興味がないとはいえ、さすがに医者として、生まれてくる子どもの人権をないがしろにする牧雄のこの暴挙は許せなかったようだ。
「つ、つまり……涼には子供がいないという事ですか?」
武治が上ずった声で榊原に確認する。それいかんで今後の当主継承にも大きく響いているのだから彼にとっては死活問題なのだろうが、蘭はそんな父親の態度をどこか冷めた目で見つめていた。
「詳しくは後でちゃんと病院で検査する必要はあるでしょうが、彼らの話が本当なら、遺言状に書かれた彼らの息子『甲』の存在は最初からない事になる。つまり……遺言状の『甲』絡みの項目がすべて無効になるでしょうね」
「そう……ですか」
武治はそう言って安堵の表情を浮かべる。が、榊原の話はここからが本番だった。
「ところで牧雄さん、つかぬ事を聞きますが、あなたはどうやって梅島美弥子の存在を知ったのですか?」
「え?」
不意の質問に牧雄は虚を突かれたような顔をするが、榊原は言葉を緩めない。
「涼さんが子供を産めない事がわかり、あなたたちが今後生まれてくるはずの梅島美弥子の子供を大金で買って自分たちの子供に見せかけようとした。それはいいですが、その計画の前提となる梅島美弥子という『計画に都合のいい存在』をどこでどうやって知ったのかと聞いているんです」
「そ、それは……」
牧雄は言葉を詰まらせる。榊原はそんな牧雄の態度を予想していたのか、答えを待つことなくさらに自身の推論を進めた。
「あなた方と梅島美弥子の間には、今回の一件に至るまで何ら繋がりが存在しない事は警察の捜査ですでに確認済みです。となると、あなたは梅島美弥子の妊娠を知っている何者かから彼女の存在を聞いたとしか考えられないのですが、梅島美弥子は友人どころか自身の両親にも妊娠の事実を伝えていなかった事がわかっています。この状況下では、本人以外で彼女の妊娠を知っていた可能性がある人間は非常に限られる事となる。具体的には、彼女の診察をした産婦人科医か……そもそも彼女を妊娠させ、妊娠発覚後に彼女を捨てて逃亡したという相手の男のいずれか、という事になりますが」
その瞬間、牧雄が大きく顔を引きつらせるのを瑞穂ははっきりと見た。その反応から、どちらが正解なのかは火を見るよりも明らかだった。
「なるほど。その様子だと、あなたが話を聞いたのは梅島美弥子の相手の男……つまり、彼女のお腹の中にいる赤ん坊の父親という事ですか」
「ち、違う! 違うんだ……」
牧雄は必死に榊原の言葉を否定しようとするが、それはあまりにも遅すぎると言わざるを得なかった。そしてその瞬間、榊原の目配せを受けて、何かを悟ったかのように橋本が口を挟んだ。
「梅島美弥子を妊娠させて逃げた元恋人については我々も調べていましたが、つい先ほどようやくその身元が特定できたという報告がありました。名前は金崎良夫。職業は歌舞伎町のホストですが、この男が勤務するホストクラブの実態はある新興暴力団のフロント企業で、近年海外からの麻薬の密売で勢力を拡大しているとして、組織犯罪対策部が密輸ルート特定のために内偵調査を進めているところだったそうです」
「さて、説明してもらいたいものですね。先程も言ったように、梅島美弥子の妊娠の事実を知っていた以上、あなたがこの金崎という男と接触して情報を得たのはほぼ確実です。問題は、なぜあなたと金崎との間に情報交換を行うほどの繋がりが存在しているのかというこの一点です」
「……」
牧雄は答えない……否、答えられないようで、ただ唇を噛み締めて榊原からの「攻撃」を耐え忍んでいる。が、榊原がそれでどうにかなるような人間でない事は、傍らでそれを聞いている瑞穂が誰よりも一番よくわかっていた。果たして、榊原は牧雄に鋭い視線を向けながら、その舌鋒を緩める気は全くない様子だった。
「答えは簡単でしょう。金崎良夫は麻薬の密売で勢力を拡大している新興暴力団の関係者だった。そして、その新興暴力団の海外からの麻薬密輸ルートは現時点では判明していないそうです。そして、そんなグループの関係者とあなたに繋がりがあった。他でもない、月園財閥系の貿易会社『ムーン・ワールド・トレード社』の役員であるあなたとです」
「ま、まさか!」
武治がその可能性に気付いてハッとした表情を浮かべる。
「この新興暴力団の麻薬密売に大手貿易会社の『ムーン・ワールド・トレード社』役員のあなたが一枚噛んでいたとすれば、麻薬密売ルートが特定できないのも納得がいきます。あなた個人が協力しているのか、会社ぐるみの犯行なのかまではわかりかねますが、違うというのなら、組織犯罪対策部がおたくの会社を調べても問題ないはずですね?」
「……」
「どうなんですか、牧雄さん!」
瞬間、牧雄はがくりと大きく肩を落とし、涼は唇を噛み締めながら青白い顔で膝の上で拳を握りしめる。その態度が、榊原の推理が正しい事を何よりも明確に証明している事を、この場の誰もが理解していた。
「仕方が……なかったんだ……個人投資で会社の会計に穴をあけてしまって……葵会長に気付かれたら身の破滅だった……だから……こうするしか……」
「何て……何て馬鹿な事を……」
武治が吐き捨て、今回ばかりは信治も武治に同調するような視線を牧雄に向ける。石井や大久保と違って殺人こそしていないが、牧雄と涼がたくらんだのはそれと同じくらい許してはならない愚行だった。
「……榊原君、これが君が解き明かすべきだと言った『謎』なのかね? いや、確かに見過ごしてはならない事ではあるが……」
寺桐の確認に対し、しかし榊原は首を振る。
「いえ、言い方はあれですが、この一件はある意味『幕間』です。確かに解き明かすべき『謎』ではありますが、そこまで難しいものではない。本命はこの次ですよ」
牧雄夫妻が己の全てを賭けたであろうたくらみを『幕間』と言ってばっさり切って捨てた榊原は、屈辱で引きつった顔をしている牧雄から視線を外すと、その視線を別の人間へと向けた。その人物は牧雄と違ってひるむ事もなく、榊原を悠然と睨み返す。そんなその人物に対し、榊原は心なしか先程よりも真剣な様子で声をかけた
「随分待たせたね。次は君の番だ。最後の最後、ここで決着をつけるとしようか」
「……楽しみだわ。本当に、楽しみよ」
その人物……指名手配犯・鬼首塔乃は、複数の捜査員に囲まれながら意味ありげな笑みを浮かべ、榊原を見つめていたのだった……。




