第一章 真犯人
二〇〇八年九月二十八日日曜日正午頃、前日に遺言発表が行われた月園家の屋敷の大座敷に、今回の事件の主だった関係者が一堂に会していた。月園家の面々は元より、殺戮の嵐が吹き荒れた巴川警察署の生き残りたち。事件当時村側にいて事件に巻き込まれずに済んだ寺桐と城田、それに駐在たちや鎌崎村長を筆頭とする村役場の関係者たち。そして、朝になってようやく駆けつけ、警察署が壊滅するという前代未聞の事態の中でこの村で起こった事件を主導的に捜査している斎藤たち警視庁捜査一課の捜査員たちである。
さらに部屋の隅には、刑事たちに厳重に警備される形で、手錠と腰ひもで拘束された指名手配犯・鬼首塔乃の姿もあった。この状況でも一番肝が据わっているのは彼女のようで、どこか不安げな他の面々に対し、彼女は何か試すような態度で榊原を見つめている。もちろん、彼女をここに連れてくる事には反対意見もあったのだが、榊原たっての希望でこうして異例とも言える指名手配犯の同席が実現する事となっていた。
そして、そんな大人数の正面に立ち、今からこの事件の決着をつけようとしている男こそが、『真の探偵』の異名を持つ私立探偵・榊原恵一その人であった。
「榊原、ひとまずこれで全員そろったはずだ」
「すまないな」
「このくらい構わん。ただ、後はお前の推理次第だ。任せるぞ」
「あぁ、わかってる。ここから先は私の仕事だ」
榊原の言葉に橋本は頷くと、そのまま一歩後ろへと下がった。それを確認すると、榊原は一度目を閉じて精神を集中し、再びゆっくりと目を開いて「探偵」としての口火を切った。
「では、全員そろったようなので、始めるとしましょうか」
「始めるって……一体、何をするつもりなんですか?」
何が始まるかわからず困惑気味の虎永に、榊原はあくまで静かな口調で答える。
「言うまでもなく、今回の事件の全てに決着をつけるという事です」
「決着って……犯人がわかったという事ですか!」
虎永が信じられないと言わんばかりの声を出し、場がいっせいにざわめく。
「ほう、これは面白い。もしや、名探偵お決まりの推理ショーという奴ですか?」
信治がからかった風にそう言うが、榊原は真剣な表情でこう切り返した。
「『推理ショー』とは心外ですね。少なくとも私はこれを『ショー』……見世物だなどとは思っていないのですがね」
「それは失礼。ですが、ショーでないとするなら何だというのですか?」
「言うまでもなく、『真剣勝負』の場です。文字通り、己の人生を賭けて逃げ延びようとする犯人と、それを許さない探偵との間の、推理と論理による互いの全てをぶつけた『決闘』と言い換えてもいい」
その静かでありながらどこか迫力のある重い言葉に、その場に緊張が張り詰める。
「……なるほど。理解しましたよ」
その榊原の覚悟を感じ取ったのか、信治はそう言って肩をすくめるとおとなしく引っ込む。それを確認すると、榊原は一度この場の全員を見回した後で、早速、己の推理を静かに語り始めた。
「それでは事件の推理を始める前に、まずは今回起こった事件について簡単に振り返っておきましょう。昨日の夕方から今朝にかけて、この巴川村を舞台に二つの場所で同時並行的に二つの連続殺人事件が発生しました。一つは、巴川橋が寸断され孤立した警視庁巴川警察署を舞台とする警察官連続殺人事件。もう一つは外界から隔絶し、さらには先述した橋の寸断で警察が来られなくなった状態の巴川村集落内で発生した、旧家・月園家をめぐる連続殺人事件です」
榊原は一度言葉を切り、場の全員が榊原の言葉を理解したのを見計らって話を続けた。
「一連の事件が始まったのは、昨日の午後五時から七時頃の間だったと思われます。村側では島永弁護士と月園勝治氏が何者かによって殺害され、巴川署では留置所内で収監されていた芸能記者の桶嶋俊治郎氏と見張り役だった八戸進巡査の二名が殺害。勝治氏の遺体が発見されて巴川署へ通報が行われた直後の午後七時頃に巴川橋が流されて警察署と村の行き来が寸断され、直後に署内で八戸巡査と桶嶋氏の遺体が発見。そこからは事件の現場が分散し、それぞれの場所でそれぞれの事件が進行していったという流れです」
それぞれの人々がそれぞれの反応を示す中、榊原はさらに言葉を紡ぎ出していく。
「最初に一連の事件についてはっきり言える事は、『この事件には最低でも二人の犯人が存在する』……つまり『巴川署側と村側にそれぞれに最低一人ずつ犯人が存在する』という点です。今回、警察署側でも村側でも次々と殺人事件が起こりましたが、それらの事件の中には明らかに犯人が現場にいなければ実行不可能なものも多数含まれていました。少なくともこれらすべての犯行をたった一人の人間が実現する事は物理的に不可能ですし、今回ばかりは豪雨で荒れ狂う巴川を暗闇の中で渡って二つの現場を行き交うなどという手法ができない事も明白。また、犯人が村側で殺人を起こしてから橋が流される前に警察署側に渡って殺人を起こした可能性も、いくつかの根拠から今回はあり得ないと判断しました。従って、少なくともそれぞれの現場に犯行を実際に行う人間が確実に一人ずついた事は自明となります。なので、ここから先推理しなければならないのは『それぞれの事件の犯人は誰なのか』という点になるというわけです」
そう前置きしてから、榊原は本格的な謎解きにかかっていく。
「まず、警察署側の事件について考えてみましょう。そもそもこのような連続殺人事件の場合、犯人を特定するにあたって最も重要になるのはやはり最初に起こった事件です。連続殺人における第一の殺人は、偶発的に起こったという特殊事情でもない限り、当事者が全く警戒していない中で引き起こす事ができる、言ってみれば犯人にとって唯一アドバンテージがある事件となります。それだけに、この第一の事件は犯人にとって確実に相手を殺害できる事になるわけで、必然的にその標的も『犯人が一番殺害したかった相手』となるケースが非常に多く、つまり、被害者に対する明確な動機が存在する事件となるはずなのです。という事は逆説的に、第一の事件の被害者に対する強い動機が存在する人間こそが、犯人の可能性が高いという論理が成立する事となります」
榊原は自身の論理をさらに推し進めていく。
「実際、事件発生直後に署内で行われた捜査会議においても、この考え方に従って犯人の特定が試みられました。第一の事件において、犯人は見張り役だった八戸巡査を不意打ち的に殺害し、その後留置所内に進入して一号房に収監されていた桶嶋俊治郎氏を殺害しています。すなわち、先程の理論が正しければ桶嶋氏に動機を持つ人間こそが犯人である事になります。しかし、実際には表立って桶嶋氏に動機を持つ人間は署内には存在しなかった。結果、捜査会議ではこの時点で議論の行き詰まりが起こってしまったのです」
実際にその捜査会議をしていた生き残りの面々は苦い顔をする。
「そのため、問題の捜査会議では発想を逆転が行われました。桶嶋氏を殺害する動機が存在する人物を犯人とする論理展開では犯人を特定する事ができなかった。ならば、そもそも『犯人の目的が桶嶋氏である』という考え自体が間違っているのではないかという話になります。では、桶嶋氏が標的でないなら誰が真の標的で、そしてそれならばなぜ桶嶋氏は殺害されてしまったのでしょうか。その場合、真っ先に考えられるのは『犯人が標的を誤認したのではないか』という推理です」
その推理をした当人である虎永の顔がますます苦いものとなる。が、榊原は止まらない。
「そうなると、問題となるのは『事件直前に桶嶋氏が房を移動していた』という事実です。指名手配犯の鬼首塔乃が連行され、その際に保安上の理由から彼女を入口から一番離れた場所にある八号房に入れる事となり、それまで八号房に入っていた桶嶋俊治郎が一号房へ移動しています。仮にこの房入れ替えの事実を知らなかった人間が犯人だとすれば、犯行時に『標的ではない桶嶋氏は八号房に入っている』と思って一号房の方へ向かってしまい、そこで桶嶋氏と鉢合わせしてしまったためやむなく正体を隠すために彼を殺害した、という一応の筋書きが成立するようにも思えます」
虎永が頷く。実際、彼はそのように推理をし、そしてその結果、鬼首塔乃に対する動機がありながら入れ替えの事実を知らない奥津巡査部長が怪しいという話になったのである。しかし、その推理は奥津本人によって否定されていた。なぜなら……
「しかし、この考えは『犯人は留置監視室で各房の監視カメラを見ているはず』という事実で否定されてしまいます。何しろ犯人は八戸巡査を殺害した後、監視カメラを停止した上に残されていた記録媒体まで奪っています。その際にカメラの画像を見たのは確実で、当然ながらその際に中に誰が入っているのか確認しなければおかしいのです。桶嶋氏と鬼首塔乃は性別も違いますので見間違えたという可能性は限りなく低い。つまり、犯人が鬼首塔乃と勘違いして桶嶋氏を殺害したという推理は破綻する事となります」
そう、そこまでは警察署内で行われたあの異常な捜査会議でも検討されたのである。ここで虎永が発言した。
「その通りです、榊原さん。その結果、捜査会議では話が再び『桶嶋に動機を持つ人間が犯人』という説に逆戻りしてしまい、その中で奥津が『桶嶋が鬼首の事件における警察不祥事をすっぱ抜いた「真中正義」という社会部の記者に似ている』と言い始めた事で、桶嶋が社会部から芸能部に異動した『真中』という記者だったのではないかという話になってしまったのです。その場合、『真中』の記事をきっかけに処分を受けた柿村君たちには動機がある事になりますし、またそうではなくても、社会部記者だった彼に何らかの動機がある人間がいるのではないかという事になって、結局この議論は桶嶋の正体がわかるまではうやむやのまま終わってしまったのです」
その言葉に、榊原も頷いた。
「そのようですね。実際、捜査会議が終わった後、あなた方から警視庁に対して桶嶋俊治郎の身元調査が要請されています。ただ、その結果、桶嶋俊治郎と『真中正義』には何の関係もない事が警視庁側の捜査ではっきりしました。確かに顔は似ているようですが明らかに別人で、桶嶋俊治郎は入社以来、芸能部一筋の記者だそうです。当然、芸能部一筋の記者と警察官の間に何らかのトラブルが発生するとも思えません。つまり、この事実を持って桶嶋俊治郎に対する動機は完全に否定されてしまうのです」
ここで一度言葉を切り、榊原は一際声を張り上げて推理をさらに一歩前へと繋げていく。
「いずれにせよ、これにて二つの可能性が否定されました。すなわち、巴川署における第一の標的が桶嶋俊治郎であった可能性と、鬼首塔乃こそが標的だった可能性です。しかし、だからと言って動機もなしにこれだけの殺人が起こるとも思えません。ならば、我々は今まで誰も考えて来なかった『三つ目の可能性』について考える必要があるのです」
「三つ目の可能性、ですか?」
紗江が真剣な表情で尋ね、榊原はそれに答える形で推理を展開する。
「単純に考えましょう。事件現場には三人の人間がおり、そのうち二人の人間A、Bが殺害され、Cのみが生き残った。このうちBとCを殺害する動機がある人間こそ犯人であるという前提で推理を組み立てても、犯人を特定する事はできませんでした。ならば、残された可能性はただ一つ。残る被害者Aの殺害こそが真犯人にとって真の目的だったというものです」
「ま、待ってください! それは……」
麻布の叫びに、榊原は推理の結論を告げた。
「そう、留置所内の人間を殺害するために巻き沿いで殺されたとされていた見張り役の八戸進巡査……実は事件の脇役に過ぎないと思われていた彼こそが真犯人にとっての真の標的だったのではないかという考え方です」
「そんな、まさか……」
麻布が絶句するが、榊原は揺らぐ事なく、自身の推理を繰り返す。
「犯人にとっての本命は八戸巡査の殺害であり、残る人間の殺害は『ついで』に過ぎなかったのではないか。それが私の推理の第一歩でした。その場合、留置所内の桶嶋俊治郎殺害は、本命が八戸巡査殺害である事を隠すための動機なきカモフラージュ殺人だった事になる。通常時に八戸巡査だけを殺害すれば、当然ながら八戸巡査に動機を持つ人間が疑われる事となります。しかし、八戸巡査が留置所を監視する業務に就いていた時に殺害され、さらに同時に留置所内にいた人間も同時に殺害されたとすれば『留置所内の人間を殺害するために見張り役の八戸巡査が殺害された』……すなわち『あくまで本命は留置所内の人間である』と捜査側に誤認させる事ができ、八戸巡査に動機を持つ犯人が罪を逃れられる可能性を生じさせることができるのです」
改めて言われてみればかなりシンプルな工作である。が、そこに虎永から待ったがかかった。
「待ってください。真の標的が実は八戸巡査で留置所内の殺人はカモフラージュだった……おもしろい推理だとは思いますが、仮にその考えが正しかったとして、桶嶋記者がカモフラージュ殺人の標的になった理由は何ですか? 仮にその目的で殺人を犯すのなら、より多くの人間が動機を持つであろう鬼首塔乃を狙うか、あるいはいっそ鬼首と桶嶋の二人とも殺害してしまうのが普通のはずです。あえてここで桶嶋だけを狙った理由がわかりません」
もっともな疑問である。だが、それに対する答えも榊原は用意しているようだった。
「二人殺さなかったのは、単純に労力と時間が増えるのを嫌ったからでしょう。何度も言うように犯人の本命はあくまで八戸巡査で、留置所内の殺人はカモフラージュ目的の『ついでの殺人』です。ならば、『カモフラージュ』という目的さえ果たせれば無駄に多人数を殺害する必要はありませんし、下手に殺す人数を増やし過ぎるとそれだけ労力と時間がかかる上に、想定外の証拠が残るリスクも増えてしまいます。この状況で殺人の件数を必要最低限に絞るのはごく自然な思考です」
「……なるほど。では、犯人が一人しか殺せなかったとして、その標的を鬼首ではなく桶嶋にした理由は?」
その問いに対する榊原の答えは簡単だった。
「言うまでもなく、その後の捜査を妨害するためです」
「捜査妨害、ですか?」
「まず、連続殺人鬼である彼女を生かしておけば、極限状況下ではたとえ実際に彼女が犯行不可能だったとしても『この女が何かをしたのではないか』という疑心暗鬼を与える事ができます。あの異常な状況においては、『殺人鬼』は体のいいスケープゴートにしやすい存在なのです。また、単純に連続殺人鬼である彼女を監視するために人員を割かねばならないため、その分の人員ソースを割く事もできる。さらに、犯人が桶嶋記者と鬼首塔乃の房の入れ替えを知っていたとすれば、実際に捜査本部が陥ったような『実は犯人の狙いは鬼首で、間違って桶嶋を殺してしまったのではないか』という推理に誘導する事ができ、房の入れ替えを知らない人間に罪を着せる事もできるというわけです」
「そういう事か……」
榊原のここまでの推理には確かに妥当性があった。だが、そうなると根本的な問題が生じる。すなわち、こんな左遷署の一巡査に過ぎない八戸巡査に対して、関係のない人間を巻き込んでまで殺害するほどの強い動機を持つ人間が、果たして存在するのかという点だ。虎永がそれを尋ねると、榊原も同意するように頷いた。
「その通りです。犯人の本命が八戸巡査殺害だったとして、次に問題となるのは『その動機はどのようなものだったのか』という点です。事が殺人にまで発展している以上、その動機はそれと同等の何かが絡んでいるはず。そう考えた場合、真っ先に思いつくのは八戸巡査がこの警察署に左遷されるきっかけとなった五年前の渋谷の事件です」
榊原はそこで改めて、五年前に渋谷で起こった強盗騒動の話……すなわち、八戸巡査が手配中の強盗を追跡中に人質をとられ、誤って人質を撃ってしまったという一件を説明した。
「この一件で八戸巡査に殺害動機を持ちかねない関係者としては、実際に逮捕された強盗と、その強盗に人質にされた挙句、最後には八戸巡査に撃たれた人質という事になるでしょう。ただし、強盗本人は現在も服役中なので今回の事件に関与しようがありません。次に候補となるのは、八戸巡査の発砲によって肩を撃ち抜かれて負傷した人質の女性ですが、身元は確かなようですし、調べてもらった限り、今回の事件に関係しているような痕跡は確認できませんでした」
そう言った上で、榊原は言葉を続ける。
「そこで、私はこの事件の記録を改めて調べ直したわけなのですが、すると一つ気になる事実を見つけました。八戸巡査が問題の強盗を見つけたのは多くの人が行き交う休日の渋谷の繁華街で、強盗が逃げ出した際、八戸巡査はそんな繁華街で強盗の追跡を始めています。そして、その際の様子を述べた八戸巡査の調書の中に、『行き交う人々を押しのけた』という記述があったのです」
「いや、それは……その状況なら別におかしい話ではないのでは? 犯人追跡が何よりも優先される状況なわけですから、多少周囲の人間を押しのけても非難される事はないはずです」
虎永の言葉に、榊原は頷きを返す。
「確かに行為自体に何らおかしい事はありません。問題は八戸巡査の行為の正当性ではなく、それを行った事によって生じた『隠れた結果』です」
「隠れた結果?」
「八戸巡査はかなり体格の良い警察官でした。そんな彼が強盗を追跡するため周りが見えていない状況で一般の通行人を『押しのけた』場合、押しのけられるだけで終わらず、その場で転倒する人間が出たとしてもおかしくないはずです。そして、その『転倒』が原因で、警察も知らない所で最悪の事態が発生していたとすればどうでしょうか?」
その場がいっせいにざわめく。そんな中、榊原は今回の推理における『切り札』の一つを切ってかかった。
「その考えに思い至った時、私はこの事件を解決するための真の意味での取っ掛かりを得たと思いました。何しろ巴川署側の事件関係者の中にたった一人だけ、『転倒』によって親しい人間が亡くなったという人物が存在していたからです。その人物の死は表向き自宅内で転んで頭を打ったことによるものなっていましたが、もしこれが実際は渋谷の繁華街を歩いている際に八戸巡査に押しのけられて転倒した事によるものだとすれば、そこに八戸巡査に対する『復讐』という動機が出現する事になるはず。すなわち……その人物こそが、巴川警察署側で起こった事件の第一容疑者です」
「ちょ、ちょっと待ってください! まさか……」
榊原の論理展開の行き着く先を悟った虎永が慌てた風に言葉を発するが、榊原は容赦なく『その人物』の名前を告げた。
「今回、巴川署側で起こった連続殺人事件の犯人……それは、同署刑事生活安全課課長の石井盛親警部補である。それが私の結論です」
その結論に、その場はしんと静まり返っていた。特に、石井の部下だった巴川署の生き残り組の顔には「信じられない」と言わんばかりの驚きと絶望が宿っていた。
「石井課長が……犯人……」
「石井警部補の経歴は調べました。元々は丸ノ内署刑事課に所属するベテラン刑事だったにもかかわらず、一人娘が自宅で転倒して頭を打ったことにより意気消沈し、その後取り調べ中に暴力事案を起こして巴川署に左遷されたという事でした。もし、彼が落ちぶれるきっかけとなった娘さんの自宅内での『転倒事故』が、実は八戸巡査の強盗追跡時に押しのけられて転倒した事が原因だったとすれば、彼が八戸巡査を恨む明確な動機が出現する事となります」
「こ、根拠は! その推理が正しいという根拠はあるんですか!」
直属の部下だった響子が必死に反証するが、榊原の答えは容赦なかった。
「まず、記録によれば例の八戸巡査の不祥事が起こったのが今から五年前のゴールデンウィーク最終日に当たる二〇〇三年五月五日。そして記録によると、石井警部補の娘の死亡が確認されたのは同じ二〇〇三年の母の日に当たる五月十一日。ただし、彼女がアパートで独り暮らしだったため死亡から遺体発見まで何日かのラグが存在していて、解剖によると実際の死亡推定時刻は五月五日の深夜頃ではないかとされているそうです。この解剖結果が正しいなら、彼女の死亡時刻は八戸巡査の不祥事があった当日の夜という事になります。これだけでも、偶然と片づけるには怪しい一致と言わざるを得ません」
一呼吸おいてから、榊原は話を続けていく。
「さらに言うと、こういう転倒事故で頭を強打した場合、頭を打った直後は何ともなくとも、その際に脳内で発生した血腫が脳や延髄を圧迫し、頭を打ってから何時間も経過した後で症状が現れて人事不省に陥るという場合があります。医学的には『急性硬膜下血腫』というらしいですがね。ですので、昼間に渋谷で転倒した人間が夜中に自宅で死亡するというケースは充分起こり得る話であると判断します」
「そんな……」
響子が言葉を失う。が、榊原は容赦なく論理を詰めにかかる。
「ちなみに、第一の事件発生当時、石井警部補にアリバイはありましたか? 確か、最初の捜査会議の際にアリバイ検証をしたはずですが」
榊原からの逆質問に、代表して虎永が呻くように答えた。
「……なかったはずです。本人の話では、金倉警部補たちとの打ち合わせが終わった後は、村での殺人事件発生を告げる館内放送があるまで備品保管庫に一人でいたはずです」
「犯行は完全な不意打ちで、被害者二人は抵抗もできないまま殺害されています。ならば、後始末を含めても犯行自体は十分程度で済むはず。その備品保管庫にいたという時間に殺害を決行し、直後に館内放送を聞いて車庫に向かった……そう考えれば辻褄は合うのではないですか?」
「それは……」
響子はもう何も言えないようだった。だが、榊原はさらに話を続けていく。
「そして、一回目の捜査会議が終わった後、第二の犯行は起こった。被害者二人の遺体が安置されていた多目的室で、埼玉県警の金倉警部補が殺害されたのです。この金倉警部補殺害に関しては第一の事件のような計画的なものではなく、口封じ目的の突発的なものだったと考えられます」
「口封じ?」
「端的に言うと、金倉警部補が石井警部補が犯人である事に気付いてしまった、もしくは気付いていなくても将来的に気付かれる恐れがあった。だからこそ石井警部補は先手を打って、多少無理をしてでも金倉警部補を殺害する必要性に迫られたのです。一件目の犯行に比べて二件目がいささか雑な犯行に見えるのも、この『突発的だった』という理由からでしょう」
「し、しかし、それが本当なら、なぜ金倉警部補は一回目の会議の時点で犯人が石井警部補である可能性に気付ける立場にいたんですか? あの段階では、石井警部補が犯人であると断定できるだけの根拠なんかなかったはずですが……」
金倉の部下だった麻布の疑問に対し、榊原は即座に言葉を切り返した。
「それは、金倉警部補だけが石井警部補と八戸巡査を結ぶ繋がり……つまり、石井警部補の娘の死の原因が八戸巡査にある事を知っていたからです。だからこそ彼だけが犯人の標的が鬼首塔乃や桶嶋俊治郎ではなく八戸巡査である可能性に気付く事ができ、その犯人として石井警部補を疑う事ができる立場になってしまったのです」
「金倉警部補が……知っていた? で、でも、一体なぜ? どうして警部補は部外者にもかかわらずそんな事を知る事ができたんですか!」
「どうしても何も、石井警部補から直接聞いたからとしか考えられません。他に情報源がありませんからね」
榊原の単純かつ明快な答えに、麻布が激高したように反論する。
「そんな馬鹿な! これから殺人をしようとしている人間が、事件の核心である動機を事前に他人に教えるなんてありえません!」
「えぇ、そうでしょうね。もちろん、犯人が事件を起こす直前にわざわざ他人に自身の隠された動機を教えるなどあり得ない話です。自分から捕まりに行くようなものですからね」
「だったら……」
「だから、石井警部補が金倉警部補に事の次第を話したのは事件直前ではない。もっと前……それこそ、問題の娘さんの死が発覚した直後だったと思われます」
「え?」
思わぬ事を言われ、麻布が言葉を途切れさせる。その間に、榊原は己の推理を進めていった。
「こちらで調べた限りでは、この二人、今回が初対面ではないようですね。娘さんが亡くなった直後に東京と埼玉にまたがって起こったある窃盗事件の際に、この二人はコンビを組んで捜査をしているとの事です。ならば、この時に石井警部補が自身の事情をパートナーの金倉警部補に話していたとしても、何ら不思議はありません」
と、そこで不意に虎永と信治がアッと声を上げた。すかさず榊原が声をかける。
「心当たりがあるようですね」
「え、えぇ。事件直前、金倉警部補たちが鬼首塔乃を署に連行した時、出迎えた石井警部補に金倉警部補が声をかけていたんです。確か、数年前の巡査部長時代にコンビを組んで捜査をした事があって、その時に色々話をしたのを覚えていないかと……」
「だとするなら、その捜査の際に石井警部補が雑談か何かで自身の娘の死の事を金倉警部補に話していた可能性があります。もちろん、この時はまだ石井警部補自身、娘の死に八戸巡査が絡んでいた事に気付いていなかったのでしょう。彼の行動からして、石井警部補がその事実に気付いたのは事故発生から一年後の辺りだと考えられます」
「どうしてそんな事が?」
虎永の問いかけに、榊原はあっさりとこう答えた。
「言うまでもなく、石井警部補がその時期に取り調べ中の被疑者を殴るという不祥事を起こしてこの警察署に左遷されているからです」
「え……あっ!」
それが意味するところに虎永も気付いたようで、その目を大きく見開いた。
「で、では、石井警部補の左遷は……」
「事がここに至った以上、あの左遷劇も石井警部補自身によって意図的に行われたものなのではないかと疑う必要があります。恐らくですが、娘が死んでから一年が経過したこの時期、石井警部補は娘の死の原因が八戸巡査に突き飛ばされて頭部を打ったことよるものではないかという事に何らかの要因で気付いたのでしょう。そしてその結果、彼は諸悪の根源でありながら罪を逃れてのうのうと生き続けている八戸巡査に憎悪を抱き、娘の復讐のために八戸巡査に近づこうとした。そして、この時八戸巡査が配属されていたのは、不祥事を起こした警察官ばかりが飛ばされる……言い方を変えれば、ある程度の不祥事さえ起こせば意図的に異動する事ができる特殊な警察署だった」
「だから……取り調べ中の被疑者をわざと殴りつけ、八戸巡査のいる巴川署に意図的に異動できるよう仕組んだ、という事ですか!」
それは、娘の死を招いた犯人への復讐を誓う父親の執念だった。
「そういう事です。そして、もし石井警部補が事件直後から娘の死の真相を知っていたのだとすれば、わざわざ一年も待つ必要などない。八戸巡査の左遷がいつ解除されるかわからない以上、すぐにでも行動を起こして左遷される必要があるからです。それをせずに一年も間を置いた時点で、彼が事の真相を知ったのは娘の死から一年後だと推測できるわけです」
「なるほど……」
虎永は納得したように声を漏らした。
「そして左遷された後、石井警部補は心の中で八戸巡査への憎悪をたぎらせながら、彼を殺害するチャンスを待った。しかし、なかなかその機会は訪れず、そのまま四年が経過してしまったのでしょう。このまま何もできずに終わるのか……。他人が知らないだけで、彼の心の中ではそんな焦りもあったはずですが、そんな中、ついに昨日になって長年待ち続けていたその『機会』が訪れたのです。すなわち、署員の何人かが殺害動機を持っている凶悪殺人鬼が、八戸が管理をしている留置所に連行されてくるという千載一遇の機会が」
「……」
もう、誰も何も言えないようだった。榊原はさらに話を進めていく。
「話を金倉警部補の方へ戻しましょう。彼は、石井警部補の娘の死に様やその死亡時期を石井警部補本人から聞いて知っていた可能性が高い。もしこの状況で八戸巡査の過去が調べられ、その際に八戸巡査が追跡中に通行人の女性を突き飛ばしていて、それが石井警部補の娘が死亡した時期とほぼ同一という情報が金倉警部補の耳に入ったらどうなるでしょうか?」
「……八戸巡査と石井警部補の娘の死が繋がってしまう可能性は充分にあり得ますね。金倉警部補ほど優秀な刑事なら、その可能性は否定できなかったはずです」
実際に金倉の刑事としての実力を知っている麻布が悔しそうに言う。
「第一回目の捜査会議では八戸巡査に話が向かう事はありませんでしたが、桶嶋や鬼首が標的という説は煮詰まっていましたから、今後、いつ話が八戸巡査の方に向いてしまうかはわかりません。一般署員はともかく幹部陣は八戸巡査の左遷理由を知っているはずですし、そうでなくても八戸巡査についての情報を警視庁に問い合わせされたら、娘の死の情報を知っている金倉警部補が真相に気付く危険が常に付きまとう。だからこそ、石井警部補は金倉警部補を殺害する他なかったのです」
誰も何も言わない。それはすなわち、この場の誰もが榊原の推理に信憑性がある事を認めている証でもあった。
「……そこまではわかりました。問題はその後です」
と、そこで突然今まで難しい顔で黙っていた信治が話に割り込んできた。が、榊原は怒る事なく無言のまま信治に言葉を促す。
「第一の事件の真の標的が八戸巡査で、桶嶋俊治郎はカモフラージュ目的で殺害された。色々言いたい事はありますが、その説に筋が通っているのは事実です。その後に起こった金倉警部補殺害もあなたの言うような口封じ目的だったとすれば、まだ納得できない事もありません」
そこまで認めた上で、信治は語気を強くする。
「ですが、その後の殺人については石井警部補を犯人と仮定すると無理があり過ぎる。今までの話が本当なら石井警部補はあくまで復讐目的で殺人を起こしただけで、閉じ込められた人間を皆殺しにしようとする快楽殺人鬼ではないはずです。本命はあくまで八戸巡査で、桶嶋俊治郎と金倉警部補がイレギュラーな殺人だったという所までは理解できても、その後に続いた連続殺人は明らかにやり過ぎです。石井警部補に真砂副署長たちを殺害するような動機は存在しないし、殺害しなければならない突発的な理由も存在しない。署の幹部を殺して捜査を妨害しようとしたという動機も考えられなくはありませんが、正直な所それでは大量殺人をする理由としては弱すぎる。殺す事でその場を乗り切れたとしても、どれだけ殺そうがあの警察署は永遠に外界から隔絶されるわけではないのだから、いずれ外部から応援がきて本格的な捜査が始まれば真相が明らかになるのは時間の問題のはず。つまり、殺しても意味がないんですよ」
何より、と信治は続ける。
「肝心の石井警部補は堤防決壊に伴う洪水によって事件の途中で死亡してしまっています。しかし、実際には石井警部補が死んだ後になっても、正親町署長殺しは起こってしまった。いくらなんでも死人に殺人を起こせるわけがない。とすると、犯人はあの時点で生き残っていた人間の中にいると考えるのが自然ではないのですか?」
確かにその点は問題だと瑞穂も思った。だが同時に、榊原がこんなあからさまな疑問点を放置するような事は絶対にないだろうという事も瑞穂はよく理解していた。そして、この疑問にどう答えるのかとこの場の人間の視線が榊原に集中する中、はたして当の榊原は今までと変わらぬ口調でその問いの答えを示しにかかった。
「そう。金倉警部補殺しまでは理解できたとしても、それ以降の犯行を石井警部補が行ったと考えるのに無理があるのも事実です。しかし、警察署側の犯人はあくまで石井警部補ただ一人だとしか考えられない。ならば、こう考えるしかありません」
そして、榊原はとんでもない事を告げた。
「第三の事件以降の犯行は確かに石井警部補が実行犯だったが、それは石井警部補自身にとっても不本意な犯行だった。有体に言って、誰かにけしかけられて行われた、第三者の思惑による犯行だったという事です」
「け、けしかけられた?」
「えぇ。つまり、巴川署における第三の事件以降の犯行は、新たに出現した第三者Xにそれまでの事件の犯人である石井警部補が操られる形で発生した、一種の教唆殺人だったのです。そう考えれば、石井警部補に真砂副署長たちを殺害する動機が存在しないのにも充分説明がつきます。石井警部補に彼らを殺害する動機がなくとも、彼に殺害指示を送っていたXに動機があればいいのです」
あまりに衝撃的な事を言われて、虎永は思わず呆然と呟く。
「いや、操られたって……石井課長がそう簡単に殺人の指示を受け入れるとは……」
「確かに普通ならあり得ないでしょう。しかし、今までの推理が正しければ石井警部補は普通の状態ではなかった。何しろこの時点で、石井警部補はすでに三人もの人間を殺害した後だったんですからね。だとするなら、彼に関する『ある事実』さえ知っていれば、第三者が石井警部補を操る事はそう難しい話ではない」
そこまで言われて、虎永は何かに気付いたようだった。
「まさか……」
「えぇ、極めてシンプルかつありきたりな話です。『今までの犯行をばらされたくなかったらこちらの言う事を聞け』。この一言で、石井警部補はその人物に逆らう事はできなくなったはずです」
確かにシンプルかつありきたりな推論だった。だが、同時にそれは他の署員たちにとってあまりに受け入れがたい考えのようだった。
「し、しかし、石井課長がそれを拒絶したら……」
響子が藁にもすがるような面持ちでそんな反論をするが、榊原は首を振った。
「それはないでしょう。仮に石井警部補が復讐さえできればよく、その後は捕まろうが別に構わないという心境であったのなら、わざわざ関係ない人間を殺害してまで隠蔽工作を行ったり、その後で金倉警部補を口封じ目的で殺害したりする事はないはずです。彼の行動は明らかに『復讐はしたいが自身が罪に問われたくはない』という心境から生じているものです。そんな人間なら、先程のベタな脅しも充分に通用すると思いますが」
「そ、それは……」
理解はできる。理解はできるが、理解したくない。響子がそんな複雑な感情を抱いている事を瑞穂は見て取っていた。ずっと尊敬してきた伝説の刑事の心情がそんな俗物的なものだとは思いたくないのだろう。だが、現実は無情だった。
「そのXは、第二の金倉警部補殺しが起こった時に、巴川署で起こった事件の犯人が石井警部補である事に気付いたのでしょう。そして、石井警部補を操って自身が殺したいと思った人間を始末させる事を思いついた。その上で、Xは秘密裏に石井警部補に接触して脅しをかけ、本来彼がやるつもりもなかった新たな殺人を次々と実行させたのです。そう考えれば、第三以降の殺人において石井警部補に一切の動機がなかったとしても何ら問題はありません」
と、ここでたまりかねたように紗江から待ったがかかった。
「待ってください。確かにその推理は興味深いとは思います。しかし興味深いだけで、それ以上に私にはかなり粗のある推理にも聞こえるのですが」
「粗、ですか?」
「えぇ。第一に、あなたは簡単に『Xが石井課長が犯人である事に気付いた』と言いましたが、一体Xはどうやって石井課長が犯人である事に気付いたというのですか? 本職の警察官たちが公式な捜査会議を行っても突き止められなかった真実に、Xだけがあの段階で気付く事ができたというのはあまりにも出来過ぎています。唯一その可能性があった金倉警部補も第二の事件で石井課長自身に殺されてしまっていますし、あなたの推理は色々都合が良すぎるんです」
「……」
榊原はそれには答えず、黙って紗江に先を促す。紗江はそれに応じる形でさらに冷静に疑問点を挙げていく。
「第二に、百歩譲ってXが何らかの理由で石井課長が犯人である事に気付き、あなたが言うようにそれをネタにして石井課長に新たな殺人を強要したとしましょう。しかし、その場合石井課長がまず考えるのは、Xの指示に従って殺人を犯す事よりも、自身の犯行に気付いて脅迫して来たX自身を排除する……遠慮なく言えば殺害する事だと思います。殺人者が今まで行ってきた犯行の真相に気付いてそれをネタに脅迫してきた人間を殺害するというのは、こう言っては何ですが推理小説なんかだと非常によくある話ですし、それは現実でも変わらないと思います。実際、石井課長の視点から見れば、この状況ではリスクを冒してまでXの指示通り複数の人間を殺害するよりも、そのXただ一人を殺害してしまった方が明らかに楽ですし、今までの推理が正しければ現実に金倉警部補もその動機で殺害してしまっています。この状況で、すでに口封じも含めて何人も殺害している石井課長が今さらXを殺害する事をためらうとも思えません。にもかかわらず、なぜ石井課長はそれをせずに黙ってXの指示に従ったというのですか? 石井課長の心理的に、あまりにも不可解な話です」
紗江は一息置いて、さらに発言を続けた。
「第三に、肝心の石井課長が堤防決壊で生じた洪水で死亡してしまっている点があります。遺体はまだ見つかっていませんが、あの洪水で地下階にいた人間が助かったとは到底思えない。つまり、洪水当時地下階にいた石井課長も死亡している可能性が非常に高いという事です。もし石井課長が全ての事件の犯人であるならば、石井課長が死亡した時点で犯行は終結しなければならない。しかし、実際はその洪水の後にも正親町署長……厳密には焼死体なので判然としませんがこの場は正親町署長と仮定しておきます……が殺害され、犯行は継続しました。現場の状況的に自殺や事故死はあり得ません。石井課長が犯人だったとすれば、この正親町署長殺しは誰が起こしたというのですか?」
紗江が示した三つの疑問は、確かにその全てが榊原の推理の大きな障害となる疑問点だった。だが、榊原ともあろう人間が、推理の段階で出てくるであろうこれらの疑問に答えを出さないままこの場に立っているとは瑞穂には思えなかった。そして案の定、紗江の鋭い質問にも一切ひるむことなく、榊原は余裕を持った様子でそれらの疑問に答えにかかる。
「確かに、広山巡査が示した疑問はこの推理を突き進めるにおいて大きな障害となる問題です。しかし、どれだけ不可解であろうと、実際にそれが起こった以上はその状況を成立させるための理論が存在するはず。それを考えた時、私が最初に着目したのは、先程広山巡査が言った所の『第二の疑問』についてでした」
「石井警部補が、今までの殺人をネタに自身に殺人を強要した犯人Xを排除しにかからなかった理由、ですか?」
瑞穂が思わずつぶやいた言葉に、榊原は頷きを返した。
「その通りだ」
「でも、実際その通りですよね。この状況では脅迫者を排除しない理由はない。にもかかわらずその脅迫者をあえて排除しない理由なんて……」
瑞穂の隣にいた愛美子が困惑気味に呟く。が、榊原の答えは斜め上を行くものだった。
「確かに、石井警部補の心情からすれば、事件の真相を知り、なおかつ自分を脅迫してくる相手を殺しにかかるのは当然の流れです。ただしそれは、その殺すべき相手が金倉警部補のように『隔絶された警察署の中』にいた場合に限られます」
「……は?」
呆けた声を出す麻布を見据えながら、榊原はしっかりとした口調で告げた。
「言ったはずです。石井警部補はあくまで『警察署側の事件の犯人』であると。そしてそれを逆に言えば、石井警部補は警察署の犯人ではあるが、逆に同時刻に巴川の対岸……つまり巴川村の月園家で起こっていた殺人の犯人ではありえない事になります。当然ながら、彼は濁流で隔絶された警察署から出る事はできず、また橋が流される前に村側にいた事実がないからです。つまり、今回の事件にはもう一人、村側で殺人を起こした『第二の殺人者』が存在する。要するに昨日、この村では二人の殺人者が、隔絶された空間でそれぞれ別々に各々の犯行を繰り広げるというある種の『地獄』が出現していたわけです」
そこで一度言葉を切り、聴衆が言葉の意味を飲み込んだところで榊原はさらに言葉を続ける。
「そしてその『村側の犯人』は当然ながら巴川村側にいるわけですから、警察署に閉じ込められている石井警部補がどれだけその人物を殺したくても、絶対に殺す事ができない状態だったはず。ならば、先程の疑問に対する結論は明らかでしょう」
「ま、まさか……」
絶句する麻布に対し、榊原はさらなる結論を叩きつけた。
「石井警部補に警察署側の第三の事件以降の犯行を教唆した犯人X……それは警察署内の人間ではなく、同時刻に巴川村で連続殺人を起こしていた『村側の犯人』だった。そう考えれば全てに説明がつきます。すでに村側で殺人を起こしている以上、その犯人が警察署側でさらなる殺人を企てたとしても、何ら不思議はないはずです」
部屋の中のざわめきが大きくなり、月園家の関係者たちの顔色が変わる。が、榊原の推理は止まらない。
「その上で、残る疑問について考えてみます。犯人が仮に警察署にとって外部である巴川村にいた犯人Xだった場合、まず問題になるのが第一の疑問……すなわちXがどうやって警察署内で起こった事件の真相に気付く事ができたのかという点です。それについて、実は一つ、興味深い証拠が残っています。救出された鑑識の種本警部補が必死で守り抜いた証拠品です」
そう言うと、榊原はビニール袋に入ったある証拠を全員に示した。
「な、何ですかこれは?」
「種本警部補曰く、盗聴器、との事です。これが、巴川警察署で起こった殺人事件の現場で見つかったある証拠品から発見されました」
いきなり出てきた謎の物証に、その場の誰もがざわめく。と、麻布が引きつった声を上げた。
「そ、そんな証拠、我々は何も聞いていません!」
「それはそうでしょう。何しろこれは洪水が発生するまさに直前に種本警部補が見つけた証拠で、彼はこれを報告する間もなくそのまま洪水に巻き込まれてしまったようですからね」
「なら、もったいぶらないでください! 一体その盗聴器は、どこから見つかったというのですか!」
麻布のその問いかけに対し、榊原は淡々とした口調のまま正解を告げた。
「診察鞄のポケット、だそうです」
「え?」
「巴川署で起こった第二の事件……つまり、多目的室で起こった金倉警部補殺害事件。その現場に置かれていた、月園信治氏の診察鞄のポケットから見つかったそうなのです」
「な……」
誰もが絶句し、その視線が信治に集中する。が、一番ショックを受けたようなのは診察鞄の持ち主である信治自身である。
「そんな馬鹿な! 何で……何で僕の鞄からそんなものが!」
「その経緯については後ほど話す事にしましょう。とにかくこの事実が示すのは、第二の金倉警部補殺害事件は、同じ部屋にあった診察鞄の盗聴器でその一部始終を聞かれていた可能性があるという事です。そして実際の犯行の瞬間を聞いていたとすれば、盗聴器を仕掛けた人間……すなわち村側の犯人が石井警部補が巴川署側の犯人である事に気付いても、何ら不思議はないのです」
と、ここで紗江が待ったをかけた。
「待ってください。今の榊原さんの推理だと、これを仕掛けたのは村側の犯人という事ですよね。つまり、月園先生が自らの鞄に盗聴器を仕掛けた上で多目的室に放置し、多目的室内の会話を聞き取ったとは考えていないという事ですか?」
「えぇ。犯行形態を見るに、あの多目的室が金倉警部補殺しの現場になったのは偶然に近いと思われます。起こるかどうかもわからない犯行の音声を聞くために自身の鞄に盗聴器を仕掛けるとは思えないし、さっきも言ったように巴川署側にいた信治氏が石井警部補に殺人を強要したとすれば、石井警部補はまず信治氏の殺害を考えるはず。あくまで盗聴器を仕掛けたのは、昨晩の事件発生時に巴川村側にいた人間……つまり、犯人Xです」
そう言われて、信治は安堵したように大きく息を吐く。だが、さらに戸沼が反論を加えた。
「いや、その理屈は犯人X側にも同じ事が言えるはずです。金倉警部補殺しが多目的室で行われる事を予想できなかったというなら、犯人Xが盗聴器を仕掛けた目的も金倉警部補殺しの際の音声を聞き取る事ではなかった事になる。なら、犯人Xが盗聴器を仕掛けた本来の目的はそもそも何だったのですか?」
もっともな疑問である。が、それに対する榊原の答えは簡潔だった。
「その目的は、恐らくですが『遺言状発表の音声の盗聴』と考えられます」
「ゆ、遺言発表?」
「簡単な理論です。そもそも前提として、犯人Xは橋が流される前の時点で、金倉警部補殺害どころか警察署内で殺人が起こる事など想定していません。つまりそれ目的の盗聴とは考えられない。かといって、信治氏を通じて警察署内の会話を聞こうとしたとも思えない。信治氏があの警察署を訪れた本来の目的は近々行われる署員の健康診断の打ち合わせで、そこに盗聴してまで聞くような情報があるとは思えないからです。となると、盗聴する価値がある事象は、遺言発表くらいしか考えられません」
「しかし、もっと前の会話を聞こうとしていた可能性も……」
「盗聴器の内臓電池は最大で十二時間から十三時間程度でした。仮に金倉警部補の殺害時の音声を聞いたのが電池の切れる直前だったとしても、その場合、盗聴の開始時刻は事件当日の午前九時から午前十時頃。状況はあまり変わりません」
榊原の論理に隙は無かった。
「で、では石井課長の死後に起こった正親町署長殺しの真相は……」
虎永の震えるような言葉に、榊原は遠慮する事なく答えた。
「事がここに至れば明白でしょう。すでに石井警部補が死亡してしまっており、当時巴川署で生き残っていた面々全員にアリバイが成立していた以上、この犯行を行ったのは警察署の外部にいたX本人だったと考えるしかありません。つまり、この最後の事件だけはXが自らの手を下した事件だったというわけです」
「なら、その動機はまさか……」
「単純な話です。Xは石井警部補亡き後に警察署内で殺人を起こせば、生き残っている面々を疑心暗鬼にさせると同時に、これまでの事件の犯人が石井警部補の手によるものではないと印象付ける事ができます。何しろ先程出たように『死者に殺人を起こす事はできない』のですからね。そして、警察署側の犯人が石井警部補であるとばれさえしなければ、必然的に裏で石井警部補を操っていた犯人Xの正体がばれる事もないというわけです」
「つまり、この最後の一件については、殺害さえできれば誰が標的でもよかった?」
「残念ですがそうなります。一番殺しやすかったから正親町署長が狙われた……それだけの話だったのですよ」
「何という……」
虎永は呻くようにしてそう言うのが精一杯のようだった。
「ただ、Xにとって唯一の誤算は、罪を着せるはずだった巴川署側の生き残り全員にアリバイが成立してしまい、誰にも犯行不可能という異常な状況が発生してしまったという事です。それでも生き残った面々は色々推理をこね回してこの不可能状況を理解しようとしていたようですが、蓋を開けてみれば何という事はない。全員にアリバイがあるのも当然で、署内に生き残っていた人間は誰も殺人を犯しておらず、真の犯人は孤立した警察署の外にいた人間だったというわけです」
「という事は、正親町署長殺害はXによる遠隔殺人だったと?」
虎永の問いかけに榊原は頷く。
「孤立した警察署に侵入する手段がなかった以上、そう考えるしかありませんね」
「し、しかし遠隔殺人ならどうしてもそれなりの仕掛けが必要であるはず。警察署に侵入できなかったXがその仕掛けをする事なんて……」
だが、その当然とも言える疑問を榊原はあっさり片付けた。
「簡単ですよ。実際にその遠隔殺人を起こしたのがXだとしても、遠隔殺人の仕掛けを仕込んだのは他ならぬ生前の石井警部補だったと考えればいいんです」
「あ……」
「Xは真砂警部と花町警部補の殺害後に石井警部補に連絡して、次の正親町署長殺害の下準備を指示したのでしょう。『次の事件で石井警部補のアリバイを作るため』とでも言えば彼はこの工作に納得したはず。Xは石井警部補に正親町署長殺害のための下準備をさせ……そして、用済みになった石井警部補を殺害しにかかった」
「さ、殺害!?」
思わぬ言葉に虎永が絶句する。榊原は重々しく頷き、衝撃的な事実を告げた。
「事件の最中にタイミングよく起こり、多くの署員の命を奪ったあの堤防の決壊。おそらくですが……これはXが意図的に引き起こしたものだと考えます」
「何ですって!」
戸沼が叫び、その場に大きなざわめきが起きる。そんな中、榊原は冷静な表情でなおも自身の推理をざわめきに負けないように語り続けた。
「あの状況で洪水が起これば、地下階にいる人間が助からない事は子供でもわかります。ならば、あらかじめ殺したい人間を地下室におびき出した上で堤防を決壊させれば、極めて自然な形でその標的を殺害する事ができるはずです」
「し、しかし、決壊させると言ってもどうやって? 普通のやり方ではまず不可能かと思いますが……」
「恐らくですが、あらかじめ堤防に爆薬でも仕掛けておいたのでしょう。あれだけの川の水量です。例え小規模な爆発でも、堤防に少しでも穴が開けば後は水圧で勝手に堤防は決壊し、多少の爆発の痕跡が残っても水が全て押し流してくれる。爆音についてもこれだけの豪雨と流れる水の轟音、そして堤防自体が決壊する際の音に紛れてしまい、気付かれない可能性が極めて高いはずです」
と、ここで麻布から待ったがかかった。
「いや、それはおかしい! あなたの話だと、橋が流される事や孤立した巴川署内で連続殺人が起こる事はXにとっても完全に想定外の話だったはず。にもかかわらず、それに備えてあらかじめ爆弾を仕掛けておくというのは無理があるんじゃ……」
麻布のもっともな疑問に対し、榊原は即座に答えを返した。
「忘れないでください。この犯人Xは石井警部補を通じて巴川署での殺人の一部を演出した人間ですが、同時に村側で殺人を起こした犯人でもあるのです。つまり、巴川署側の事件を予測する事はできなくとも、自らが村側で殺人を起こす事はあらかじめわかっていた事になる。となれば、いざとなった時に村側の殺人に対する警察の捜査を妨害するための仕込みを事前に警察署側に仕込んでいたとしても何ら不思議ではありません」
「あ……」
思わぬ指摘に麻布が言葉を失う。
「この状況で堤防を決壊させれば警察署の地下階は確実に水没します。ならば、事前に堤防に爆弾一つ仕掛けておくだけでX側が犯行時に取れる選択肢が大きく増える事になるのです。例えば村側の事件で遺体に何か致命的な証拠が残ったと後でわかった際に堤防を決壊させ、地下に安置されている遺体や証拠を地下階こと押し流してしまうとか。あるいはもっと単純に洪水で警察署の機能を停止させるだけでも、続く犯行をやりやすくする事が可能です」
「じゃ、じゃあ……」
「Xが村側で起こすはずだった事件の妨害工作に使う目的で念のために仕掛けておいた爆弾。それを橋の崩落と署内での殺人発生というアクシデントを受けて、急遽署内の殺人に利用する用途に切り替えた。ただそれだけの話だったんです」
衝撃的な事実を告げた上で、榊原は推理をさらに進めていく。
「あの時、正親町署長殺害の下準備をさせた石井警部補に対し、Xは時間を指定した上で『その時刻に自分が正親町を殺害するから、その際のアリバイを作るため、誰か証人と一緒に地下階へ行け』とでも言ったのでしょう。いきなり地下階へ行けと言えば石井警部補も疑うでしょうが、『アリバイを作るため』と言えば罪を逃れたかった彼はおとなしく指示に従ったはずです。彼は部下の柿村巡査部長と一緒に現場調査の名目で地下階へ向かった。そして一度地下階に降りてしまえば、外で洪水が起こった事を察する事は難しいでしょうし、水が侵入してきた後で地下から脱出するのは絶対に不可能。あとはそのまま溺れるのを待つだけです」
「し、しかし! それだと確かに石井警部補を殺害する事はできるでしょうが、それ以外に何人巻き込まれるかわかったものじゃない! にもかかわらず、そんな乱暴な犯行をしようとするなんて……」
そんな戸沼の問いに対し、しかし榊原は恐ろしい事を務めて淡々と告げる。
「簡単な事です。Xにとってこの堤防決壊はあくまで全てを知る石井警部補を亡き者にするためのものでしたが、逆に言えばその際に他の署員が何人巻き込まれようが、その後の犯人の計画には一切影響がないのです。つまりXからすれば、石井警部補さえ死ねば、この洪水で何人死のうが一切構わなかったという事になる」
「そ、そんな……そんな滅茶苦茶な!」
あまりにも残酷すぎる結論に戸沼が呻くが、榊原は容赦ない。
「要するにこの犯行は、石井警部補を必殺するためだけに仕組まれた一種の無差別殺人だった。残念ながら、そう考えれば全てに筋が通るのです」
正親町署長殺害の構図といい、それはまさにシリアルキラーそのものの思考だった。
「狂ってる……」
「えぇ、確かに犯人の考え方は異常そのものと言わざるを得ません」
と、ここで寺桐が静かに尋ねた。
「……榊原君、さっきから言っている正親町署長を殺害した遠隔殺人の仕掛けとは、具体的にどのようなものだったのかね? それを教えてほしいのだが」
「もちろんです」
榊原は頷いて、当事者たちが現場で放棄した謎解きを開始した。
「最後の事件についてのおさらいをしておきましょう。現場は巴川署二階の南側倉庫。被害者は床にまかれたガソリンに火を点けられて焼き殺されており、黒焦げの遺体となって発見されました。まず、最初に言っておきますが、あの黒焦げの遺体は事件直前に署長室からいなくなった正親町署長のもので間違いありません。先程、遺体の指先にわずかに残っていた指紋が正親町署長の指紋と一致したそうです。つまり、正親町首長が洪水の行方不明者の誰かの遺体を身代わりに、自分はどこかに隠れているという推理は残念ながら的外れという事です」
実際に現場でその推理をした虎永たちがバツの悪そうな顔をする。とはいえ、何も情報がないあの状況では致し方がなかったのも事実である。
「結論から先に言いましょう。あの部屋にガソリンをまく仕掛けをしたのは、洪水で殺される前の石井警部補です。さっきも言ったように犯人Xは石井警部補を操る事ができたのですから、それ以外に考えられません」
「つまり、洪水が起こる前の時点で石井警部補により自動的に床にガソリンがまかれる何らかの仕掛けがなされていて、それが洪水後……もっと言うと広山君が部屋を確認した後に作動したという事ですか?」
「そういう事になります」
「……いいでしょう。どのような物かは知りませんが、仮にガソリンをまく仕掛けが石井警部補によってなされたとしましょう。しかし、実際にその仕掛けを作動させたり、被害者を部屋の中に放り込んだり、床にまかれたガソリンに火をつけるのは直接現場にいなければできない事です。対岸にいる犯人Xが一体どうやってこの作業を……」
「だったら、被害者自身に部屋まで来てもらえばいいんです」
榊原の言葉に、誰もが一瞬言葉を失った。
「え?」
「別に犯人自身が被害者をあの部屋に放り込む苦労をする必要はありません。単に被害者が自分からあの部屋に入るよう仕組めばいいんです。そして、この『被害者自身に犯行を行う部屋まで行かせる』というファクターこそが、対岸にいて一切手が出せなかったはずの犯人Xがこの犯行で直接手を下した部分だったのです」
「しかし、あの怯えて半狂乱だった署長をどうやって?」
「なら、その怯えを逆利用すればいい。私がもし犯人Xの立場でその状態の署長を動かそうと思ったら、恐らくこんな言葉を投げかけますね」
そして、榊原はその言葉を告げた。
「『そう言えば、南倉庫の一番奥の箱に小型のゴムボートがしまってあったはず。それを使えば署から脱出できるかもしれません』と」
瞬間、瑞穂の背中に薄ら寒いものが走った。この発言はあくまで榊原の想像である。が、にもかかわらずかなりの説得力があり、実際にその状況でこの言葉を投げかけられたら、自分も探しに行ってしまうだろうという確信があった。それは他の面々も同じようで、誰もが蒼ざめた顔を浮かべているのがわかった。
「怯えている、という事はいつ自分が死ぬかもと恐れているという事。ならば、それから逃れる道を示せば、たとえどんなに細い糸だったとしても、その人間は深く考える事なくその道に飛びつきます。実際にゴムボートがなくても関係ありません。むしろ、ゴムボートがなければ『そんなはずはない!』と逆に必死に室内を探し回るはずです」
「何て巧妙な……」
寺桐が呻くように言った。が、直後に虎永が反論する。
「しかし、犯人Xはどうやって署長に連絡を? 携帯電話だと記録が残ってしまいますし、あの時、洪水のせいで署内の固定電話は使えなくなっていたはず……」
「ならば実際にその時、署長室の固定電話が使えなくなっていたか確認しましたか?」
その言葉に、虎永の反論は止まった。
「い、いえ……」
「あなた方が確認したのは大会議室の固定電話だけ。ならば、使用できなくなっていたのは大会議室の固定電話に通じる電話線だけで、署長室の固定電話は使えた可能性が残されます。偶然色を排除したいというなら、あらかじめ洪水前に石井警部補に大会議室に通じる電話線だけ切断させたというのもありかもしれませんね。これについては、この後で実際に署長室内の固定電話を調べればわかる話です」
「……」
「ちなみに、固定電話は停電時でも通話だけは可能ですので、停電はこの件に対して何ら考慮する必要がない事は言っておきます」
反論がなくなった所で、榊原は再び推理に戻る。
「とにかく、今までの推理通り、正親町署長が倉庫に行ったのが受動的ではなく自発的だったとすると、石井警部補が仕掛けたであろう自動的にガソリンをまく細工にもある程度予想がつきます。例えばそうですね……非常に古典的な糸を使った仕掛けですが、部屋の隅に置かれた棚に糸の一方の端を結び、そのまま床から十センチくらいの所に糸をピンと張って部屋の反対側にある棚まで伸ばし、その棚にひっかけた上で、糸のもう一方の先端にガソリンの入った容器を結び付け、容器は周囲の荷物の位置を変えるなりして入口から見えないようにした上で倒れないようバランスを取って斜めにしておく。で、部屋に入って来た誰かが床に張り巡らされている糸を足なりでひっかけて切ると斜めにしておいた容器が倒れてガソリンが漏れ出すという寸法です。あるいはもっと単純に、ガソリンの容器の下の方に穴をあけておいてからビニールテープか何かでその穴をふさぎ、そのテープに糸を先端をつけて先程と同じように床から十センチくらいの所に張っておく。そして誰かが糸を足でひっかけるとビニールテープがはがれ、あいた穴からガソリンが漏れ出す、という手口でも充分だと思います」
「な、何て単純な……」
「このくらい単純なトリックで充分という事です。犯罪者が全てのトリックを派手にしなければならないなどという決まりはありませんし、もっと言えばこの仕掛けはXが石井警部補に仕掛けさせなければならないものなのです。となると、声の指示しかできない石井警部補が絶対に失敗しないように、シンプルなトリックの方が好都合というものでしょう」
と、ここで紗江が手を上げた。
「しかし、事件直前に私があの部屋を見た時に、この仕掛けは作動しなかったようですが」
「ならば、糸が張られていたのは部屋の奥だったと考えればいい。それなら部屋の入口から中を見た程度では仕掛けは作動せず、引っかかる者を部屋の奥まで来て何かを探すような人間に限定できます。しかも容器が倒れる音がしても、必死にゴムボートを探して倉庫中の荷物をひっくり返している署長には聞こえないというおまけつきです」
「なるほど……確かにそれなら……」
紗江が納得し、続けて虎永が言葉を繋ぐ。
「つまり、石井警部補があらかじめ設置したガソリンの仕掛けを直接起動させたのは犯人Xではなく……」
「犯人Xに操られ、ゴムボートを探すために部屋の奥まで足を踏み入れてしまった被害者自身。タネがわかれば単純で人を馬鹿にしたようなトリックですよ。もっとも、シンプルである分、実際に現場にいた人間からすれば効果はてきめんだったようですが」
だが、ここで戸沼が食らいついた。
「待ってください! ガソリンはそれで部屋にまく事ができたとして、ならば、肝心の火をつけたのは誰なんですか!」
「言うまでもなく、これも被害者の正親町署長自身です。他の面々にアリバイがある以上、それ以外に考えられませんからね」
「しょ、署長自身ですか? ならば、あれは自殺……」
「自殺ではありません。ガソリンの時同様に、正親町署長はそうとも知らずに自分で自分の死刑スイッチを押してしまったのです」
「どういう事ですか?」
「こう言ったら何ですが、これだけ大掛かりな事件を起こしておきながら、最後に使われたのは単純かつ古典的なトリックばかりです。事件当時、地下の発電装置が水没した事で巴川署は停電状態でした。そして、窓一つないあの倉庫は当然真っ暗だった。さて、この状況でどうやって倉庫の中を探しますか?」
「普通は何らかの光源を使います。懐中電灯とか携帯のライトとか」
「えぇ、普通はそうです。しかし、正親町署長はもう一つその『光源』となりうるものを持っていました。ヒントは、署長室のデスクの上に、吸い殻の入った灰皿が置かれていた事です」
「あっ、ライター!」
叫んだのは戸沼だった。
「そう、吸い殻入りの灰皿があるという事は、正親町署長は喫煙者です。ならば、煙草に火をつけるライターを必ず持っているはずです」
「ガソリンがまかれている状態でライターなんか使ったら……」
「一発でアウトだな」
絶句する戸沼の言葉を、虎永が引き継ぐ。
「一連の犯行を整理するとこうなります。洪水が起こる前、犯人Xは石井警部補に指示を出して、二階の南倉庫にガソリンの仕掛けを設置させました。その後、洪水の仕掛けを作動させて石井警部補を殺害し、同時に地下の発電施設を水没させて署内を停電させます。そして、署長室に一人で籠っているであろう事が容易に推測できた正親町署長に連絡を取り、『南倉庫の奥の箱にゴムボートがしまってある』とでも言って、助かりたい一心の彼を二階南倉庫に自ら出向くよう仕組んだ。南倉庫の中は真っ暗だったため正親町署長は持っていたライターで明かりをつけ、そのまま部屋の奥に進んでガソリンをまく仕掛けを作動させてしまいました。あとは一定量ガソリンが漏れたところで正親町署長の持っていたライターに引火し、火の中心にいた署長は焼死または爆死するという寸法です」
「文字通り、対岸からの言葉一つ投げかけるだけで、一人の人間を死に至らしめたというわけですか」
戸沼がそう呻き声を上げ、その横で虎永は犯人Xの悪魔的な手法に絶句していた。
「以上が、正親町署長殺害に使われたトリックです。納得できましたか?」
もはや誰も話そうとしない。ただただ衝撃的な事実に、この場の誰もが圧倒されていた。
そんな中、虎永がポツリと榊原に問いかける。
「榊原さん、教えてください。犯人は……この事件の全てを仕組んだ、村側の犯人Xとは、一体誰なんですか?」
虎永のそんな問いに対し、榊原は少し黙り込んだ後、やがてゆっくりとした口調で答え始めた。
「……一つずつ、犯人の条件を確認していきましょう。まず、この犯人は月園信治氏の診察鞄に盗聴器を仕掛けて遺言公表の場を盗聴し、遺言状の内容を盗み聞きしようとしていました。となれば、必然的に犯人は信治氏の診察鞄に盗聴器を仕掛けるチャンスがあった人間でなければなりません」
榊原は一つずつその条件を列挙していく。
「さらに、犯人が盗聴器を仕掛けた目的が遺言状の内容を密かに聞く事だったとするならば、これも当然ながら犯人は遺言公開時にこの大座敷にいなかった人間という事になる。大座敷にいる事を許された人間であるならば、わざわざ盗聴器を仕掛ける意味がないのだからこれもまた必然的な結論でしょう。また、その『犯人』が盗聴器を仕掛けたタイミングは、目的が遺言内容の盗聴であった以上、遺言状が公開されるよりも『前』でなければならないはずです」
榊原の一言一言にその場の全員が注目する。
「そして、この犯人は石井警部補を操って遠隔殺人を行い、さらには最後に正親町署長の誘導にも成功しています。そこから考えるに、警察署内部の構造にかなり詳しい人間であると判断せざるを得ない。つまり、月園家側の犯人たりうる条件とは『遺言状公開よりも前に何らかの形で信治氏と接触しており、なおかつ大座敷の遺言公開の場に出席していない、警察署内部の構造に詳しい人間』という事になります。そして、一連の事件の中でこの条件を満たす人物は、実はたった一人しか存在しないのです。よって、その人物こそが今回の事件の真犯人です」
そう言われて、瑞穂は必死に今回の事件についての情報を思い出しながら、榊原の言う条件に合致する人間がいないかを確認していった。そして『その人物』に行きついた瞬間、思わず自分の考えが本当に正しいのか疑ってしまった。瑞穂にとって、それはあまりにも意外すぎる人物だったのである。
「さて、何か言いたい事はありますか? 村側で起こった連続殺人の犯人であり、なおかつ石井警部補を通じて巴川署側の殺人を操った犯人でもある……」
直後、榊原は鋭くその人物の名前を告げた。
「大久保忠康巡査部長!」
榊原の告発に対し、部屋の隅の方に控えていた月園家側の事件の真犯人……巴川役場前駐在所の老警官・大久保忠康巡査部長は、眠そうな顔のままピクリと眉を動かしただけだった。だが、そんな大久保に対し、榊原はさらに畳みかけていく。
「あなたが、今回月園家側で起こった連続殺人の実行犯であり、そして石井警部補を操って巴川署側の事件の一部を演出した人間です。反論があるならお聞きしましょうか!」




