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第七章 巴川警察署~崩壊

 それが起こった瞬間、虎永は信治と一緒に捜査本部のある二階大会議室にいた。


 大会議室にはほとんど誰もいなかったが、虎永と信治以外にはもう一人、警務総務課の広山紗江巡査が無表情にパイプ椅子の一つに腰かけていた。紗江も虎永も肉体・精神の両面から疲労困憊であり、見かねた戸沼が一時通信業務を中断して、応接室に居座る鬼首塔乃の監視業務を行う事になっていた。人員が少なくなるにあたって、この鬼首塔乃の監視業務が大きな負担になっているのは明白であるが、だからと言って監視を放棄して彼女を自由にするわけにもいかない。何とも苦しい状況が続いていた。

 すでに捜査本部としてのまとまりは無きに等しく、各々がそれぞれの判断で今までの事件の捜査をしたり与えられた業務をこなしたりと、連携も何もない状況になっている。それは虎永たちも同じで、二人は疲れた表情で大会議室のパイプ椅子に並んで座っている事しかできなかったのだった。

「手詰まり、に見えるんだが」

 不意に信治がぼそりとそんな事を呟いた。虎永は無言で信治の方を見るが、信治は難しい表情でそれ以上何も言わなかった。

「手詰まり、というのは?」

 仕方がなく虎永が先を促すと、信治はこの男には似合わない重苦しい口調で話を続けた。

「言葉通りだよ。門外漢の僕が見ても、この先採れる選択肢がなくなりつつあることはよくわかる。何というか、真綿でじわじわ絞め殺されている気分だ」

「……警官として、反論ができないのがつらいな」

 虎永としてはそう言うしかないのが歯がゆかった。

「大体、ここがちゃんと機能しているなら、この大会議室にいるのがこの三人だけというのはおかしいだろう。全ての責任を放棄して引きこもった署長は論外だが、それ以外の人間も捜査とは名ばかりで、それぞれが自分の事しか考えず勝手に動き回っている。警察官も人の子という事なんだろうが……これだけ立て続けに事件が起こって、誰もかれもが色々限界を迎えているのは明らかだ」

 虎永は返す言葉もなく、ただ黙って信治の言葉を聞くしかなかった。が、信治の方も黙っているのが苦痛なのか、虎永の反応を待つことなく一人で話し続ける。

「しかし、この犯人は一体どんな基準で人を殺して回っているんだろうな」

「と言うと?」

「これが何か法則に沿って殺人を繰り返しているっていうならわかるが、今回の犯人、殺す相手に一貫性がなさ過ぎる。最初に留置所を襲って留置されていた記者と監視役の警官を殺し、その次の被害者はたまたまここに来ただけだったはずの埼玉県警の刑事。そうかと思えば、次の狙いは二人の課長だ。無差別殺人にしたって節操がなさ過ぎるし、それでいてどういうわけなのか連続殺人鬼の鬼首は殺していない。ここまでくると節操がないというか、支離滅裂と言った方がいいかもしれない」

「それは……確かにそうだが」

 それはさっき、虎永自身も鬼首塔乃にぶつけた疑問だった。だが結局、塔乃には答をはぐらかされ、虎永もその疑問には答えが出せていない状況なのである。

「まぁ、本職の警察官たちにわからない事が僕にわかるわけもないんだが……犯人の思考が読めないだけに、こっちも次の犯行を予測できないのが痛いな」

「まだ続くと思うか?」

「逆に聞くが、虎永は犯行がこれで終わると思うか?」

「……」

 残念だが、この状況でそんな楽観的な事を考えられるのなら、皆が皆ここまで疲弊などしていないはずだった。警察署を舞台としたこの動機もよくわからない無差別殺人はまだ続く可能性が高い……少なくとも、この場の誰もがそう思っているのは確かだった。

 と、ここで信治はチラリと大会議室正面にかけられた時計を見やる。

「っと、そんな事を話しているうちに、もう三時半か。夜明けまであと数時間くらいかな。相変わらず雨はやみそうもないが、村の方は今、どうなっているんだろう」

「気になるか?」

「それはもちろん。何しろ、勝治兄さんが殺されたわけだからな。ここ最近、付き合いはなかったし、お世辞にも仲がいいとは言えなかったが、それでも僕の実の兄だ。殺されたとなれば、僕としても犯人を許す事はできない」

「そう、だな。もっとも、この状況では私たちには何もできないが。向こうにいるという名探偵とやらが、何かを掴んでくれるのを祈る事しかできないが……」

 虎永がそう言って何気なく窓から外の闇を眺めた……まさにその時だった。


 突然、腹の底に響くようなドンッという鈍い大会議室に衝撃音が響き、続けて何か轟音のような音がこちらへ向かって近づいて来るのを感じたのだった。


「何だ、今のは?」

「わからない。わからないが、碌な事じゃなさそうだ」

 虎永と信治は思わず中腰になりながら思わず互いの顔を見合わせ合っていた。もう一人部屋にいた紗江もパイプ椅子から立ち上がり、警戒気味に周囲を見回している。そしてその間にも、轟音は確実に警察署に向かって確実に近づいていた。

「これは……」

「外だ!」

 不意に信治がそう叫び、大会議室の窓に駆け寄ってためらうことなく開け放つ。すぐにそこから大粒の雨が吹き込んできたが、それに構う事なく暗闇の向こうへ目を凝らしていた信治は、次の瞬間、顔を引きつらせながらこの男らしからぬ絶叫を上げた。

「まずい……まずい、まずい! これは、まずい!」

「どうしたんだ! 何があった!」

 虎永の叫びに対し、信治は血の気の引いた表情で『轟音』の正体を告げる。


「洪水だ! この近くの堤防が決壊したらしい! 川の濁流がこっちに向かってくるぞ!」


「なっ……!」

 予想外の事を言われて、虎永は一瞬頭が真っ白になった。だがそれも、虎永が踵を返してその場から駆け出そうとするまでだった。

「おい、どこへ行く!」

「通信室だ! あの濁流がこの警察署に突っ込んで来たら、二階はともかく一階と地下階は確実に水没する! 今すぐ通信室から放送して、一階より下にいる全員を二階に避難させないと……」

 が、その直後だった。一際大きい音が響くと同時に警察署の建物が大きく揺れ、次の瞬間、署内が停電して真っ暗になると同時に、一階から複数の悲鳴が上がった。

「これは……」

「くそっ、遅かった!」

 信治が悔しそうに呻く。それはまさに、決壊した堤防から警察署の敷地内に流れ込んだ濁流が署の建物に到達し、一階の窓や扉を突き破る形で、大量の水が署の一階と地下階に流入した事を意味していたのだった……。


 虎永、信治、紗江の三人があらかじめ用意してあった懐中電灯を手に大会議室を飛び出すと、隣の署長室から正親町が、そして奥の応接室から戸沼がほぼ同時に顔を出した。

「今のは、何なんですか!」

 出てきたはいいが顔を真っ青にして呆然自失としている正親町に代わって、奥から戸沼が緊張した様子で叫ぶ。こうなっては、応接室で鬼首塔乃の監視を続けるどころではなくなったらしい。

「堤防が決壊して濁流がこの建物を直撃した! おそらく、一階より下は壊滅だ!」

「なっ、そんな……」

 虎永の返事に戸沼は絶句する。いずれにせよ、こうなった以上は次の行動を決めなければならないが、署長の正親町が呆然として動けなくなっている現状、この中で一番階級が高い虎永がこの場を指揮する必要があった。

「とにかく、今からでも救助に向かう必要がある! 私は信治……月園先生と一緒に北階段へ向かうから、戸沼は広山君と一緒に南階段へ向かってくれ! そこに生存者がいるようなら救助するように! ただし状況が状況だ! 自分の命を最優先にしてくれ!」

「し、しかし鬼首塔乃はどうしますか! 監視が誰もいなくなってしまいますが……」

 虎永は一瞬逡巡したが、こうなっては鬼首の事を考えている場合ではないと判断した。

「緊急事態だ! 救助活動の間のみ、監視は一度放棄する! 応接室の扉にしっかり鍵をかけ、扉の前に障害物を置くなりして出られなくした上で救助活動に向かえ! どのみちこの状況では逃げ出しても二階から脱出する事はできない。救助活動が済んだ後の事はその時に考える!」

「わ、わかりました!」

「署長、それで構いませんね?」

 虎永の念押しに対し、一瞬遅れた後、正親町は緩慢な動作で無言のまま頷きを返した。

「広山君、行ってくれるか?」

「もちろんです」

 答えると同時に、紗江は正親町の脇をすり抜けて戸沼の元へと速足で歩いていき、応接室を封鎖する作業を始める。それを確認すると同時に、虎永と信治は役に立たない正親町をその場に残し、そのまま踵を返して北階段の方へと向かった。

「どう思う?」

「行ってみないとわからないが、少なくとも地下にいた人間は逃げる間もなかったはずだ。あの水の量だと、地下階は天井部分まで完全水没していてもおかしくない。下手すると即死もあり得る」

「くそっ、よりにもよってこんな時に……」

 虎永は思わずそう吐き捨てるが、考えてみれば署内の殺人事件でそれどころではなかったとはいえ、外は災害の真っただ中なのである。ならば、こういう事が起こりかねない事は想定しておくべきだった。

「おい!」

 と、北階段に着いたところで信治が声を上げ、階段の一階と二階のほぼ中間地点に誰かがへたり込んでいるのが見えた。懐中電灯の光を向けると、そこにいたのは下半身がずぶ濡れになった麻布巡査部長の姿だった。

「大丈夫ですか!」

 虎永が呼びかけながら駆け寄ると、麻布は弱々しい動きながらもなんとか頷きを返し、震えた声で自身の状況を説明した。

「危なかった……突然窓の外から水が流れ込んできて……反射的にこの階段を駆け上って……」

「他の人は?」

「わ、わからない……近くに奥津巡査部長がいたけど……どうなったのかわからない……」

 すぐに虎永が懐中電灯で北階段付近を確認する。署内に流れ込んだ水の高さは一階の腰元くらいの高さまで達しており、そんな中、地下へ通じる階段に大量の水が未だに大きな渦を巻きながら吸い込まれ続けているのが見えた。もし今この場で水の中に入れば、その瞬間にこの階段の水の渦に巻き込まれて完全に水没した地下階に引きずり込まれ、二度と脱出する事はかなわないだろう。ザッと確認した限り、麻布の近くにいたという奥津の姿はどこにも見えなかった。

 と、その時、暗闇の向こう……南階段の方から何か叫ぶような悲鳴が聞こえてきた。どうやら、向こうにも生存者がいるらしい。

「信治、ここは任せてもいいか?」

「もちろんだ。すぐに行って来い」

 その言葉を聞くと同時に、虎永は一度階段を駆け上がって二階に戻ると、相変わらず署長室の前で呆然としている正親町の横を通り、戸沼と紗江がいるであろう南階段の方へ向かう。そしてそこで、最悪の光景を目にする事となった。

「しっかりして! こっちを見て!」

 階段の一番下……そこに戸沼と紗江が立っていて、戸沼は必死の形相で今まさに水と一緒に地下階へ引きずり込まれそうになっている二つの人影……源響子巡査と山森絵麻子巡査部長の二人を助けようとしていた。戸沼は階段の上から下半身を水につけたまま今にも流されそうになっている響子の右手を必死に握りしめており、その響子の左腕が恐怖のあまり顔面蒼白となってほぼ全身が水没している山森巡査部長の右手を握りしめている状態である。流されかけている二人分の体重を支えている事もあって戸沼だけでは引き上げに苦労しているらしく、紗江は戸沼が転落しないよう彼の体を後ろから支えるのに精一杯のようであった。

「大丈夫か!」

 虎永はそう叫びながら彼らの元へと駆け寄った。

「あ、虎永さん!」

「引き上げられそうか?」

「ちょっと厳しいです! 手伝ってください!」

「もちろんだ!」

 そう言うと、虎永は戸沼と一緒に響子の右手を握りしめ、一気に引き上げにかかる。が、その瞬間、ついに限界を迎えたのか、戸沼と虎永の手が届かない場所にいた絵麻子の手が、唯一の生命線だった響子の左手から離れてしまった。

「あっ!」

 紗江が思わずそんな声を漏らすが、もう遅い。絵麻子の体は濁流の流れに押し流され、そのまま水が渦巻く地下階の方へと引きずり込まれていく。そんな絵麻子の顔には、死相とも言うべき恐怖に満ちた表情が張り付いていた。

「い、いや! 助けて! 私、こんな事で死にたく……イヤァァァァァァッ!」

 断末魔を上げたその直後、彼女は地下階へと続く水の渦に巻き込まれ、その姿が見えなくなってしまった。それが彼女……山森絵麻子巡査部長の最後の瞬間である事を、その場にいた面々は受け入れられずにいた。

「そんな……いや……私……どうして……」

 響子は呆然としてそんな事を呟いていたが、こうなっては彼女だけでも助けなくてはならない。虎永は戸沼に目配せし、それを受けた戸沼もすぐに我に返ると、今度こそ響子を引き上げにかかる。幸い、彼女は無事に階段の上に引き上げる事に成功し、そんな彼女を抱えながら、虎永たちは水から離れるように階段を駆け上って二階へと逃げ込んだのだった。

「私が……私がちゃんと握っていたら……山森先輩は……」

 響子は頭を抱えながら虚ろな言葉を吐き続ける。その気持ちはわからないでもない。が、今はそんな事を気にかけている場合ではなかった。

「こっちで助かったのは源巡査だけか」

「北階段の方はどうでしたか?」

「麻布巡査部長が何とか階段の途中まで逃げ延びていたが、他に人はいなかった。山森巡査部長は今我々の目の前で地下に飲み込まれた。となると、あと生死が確認できていないのは……」

 そこまで言って、虎永は言葉を言いよどむ。が、そんな虎永の代わりに紗江がその答えを淡々と告げた。

「地域交通課の奥津輝元巡査部長と、刑事生活安全課の柿村謙也巡査部長と鑑識の種本警部補。それに……刑事生活安全課長の石井盛親警部補の四人、ですね」

「この四人の行方に心当たりはあるか?」

 虎永の問いかけに、ずっと応接室にいた戸沼は首を振ったが、紗江は冷静に答えた。

「確か、石井課長は柿村巡査部長と一緒に地下階の現場をもう一度調べに行ったはずです。もし、洪水の時に地下階にいたとすれば……」

 その先は紗江も言いたくないようだった。

「奥津巡査部長については?」

「すみません、私も知りません。種本警部補は鑑識室にいたと思いますが……」

 一階であるとはいえ、この濁流で恐らく鑑識室も水没している。この状況では種本の安否を確認する事は不可能と言わざるを得なかった。まして、居場所のわからない奥津はなおさらである。麻布の話から一階にいたのは確実なようだが、そのまま絵麻子同様に地下に引きずり込まれてしまった可能性すらある。

「一度大会議室に戻ろう。とにかく事がこうなった以上、もう捜査どころじゃない。今後の方針について真剣に検討する必要性がある」

「……そうですね。残念ですが、今ここでこれ以上できる事はありませんし」

 戸沼も唇を噛み締めながら同意し、紗江も無言で頷く。三人は未だにすすり泣き続けている響子の体を支えながら、暗闇の中、大会議室の方へと向かったのだった……。


 午前四時頃、電気が切れて暗闇に包まれた大会議室には生き残った面々が集まっていた。ただし、生存者全員というわけではない。ここにいるのは虎永、信治、戸沼、紗江、響子、麻布の六人だけ。鬼首塔乃は相変わらず応接室に閉じ込めたままとなっており、そしてもう一人……

「署長は?」

「……本格的に署長室に立て籠もってしまった。確かに色々と精神的に限界のようだったが、無責任にも程がある」

 信治が少し怒りを込めて言う。名ばかりとはいえ、この緊急事態に署の最高責任者が自らの責務を完全に放棄してしまっているのだから、怒りたくなるのも当然である。とはいえ、こうなった以上、もはや署長に構っている余裕など誰にもなかった。

「いないものは仕方がない。とにかく、さっきも言ったが、こうなってしまった以上、もう捜査なんかしている場合じゃない。というより、捜査しようにも現場も死体も証拠も全部地下階の水の底に沈んでしまったから、捜査しようがない、と言った方が正しいかもしれないが」

 虎永の言葉に、反論する人間は誰もいなかった。もうすでにこの場において、捜査本部……というより、巴川署の警察組織としての機能は完全に崩壊したと言っても過言ではないようだった。

「簡単に目視しただけだが、幸いと言うべきか堤防が決壊したのは署のあるこちら側だけで、村側への洪水はないようだ」

 ひとまず、村側に被害がないというのは朗報ではある。が、それはすなわちこちら側の状況がますます悪化したという事でもあった。

「とはいえ、その分こちら側の洪水被害は深刻だ。確認した限り、流入した水の高さは一階の腰の高さくらいまであった。地下階が満水になって水が流入する余地がなくなれば階段近くの渦も消えるだろうから、そこまで待てば一応一階の捜索をする事はできる。もっとも、下半身が水浸しになるという条件を受け入れれば、の話だが」

 返事はない。この場の誰もがそんな事をしたくないと思っているのは明白だった。

「電気が消えたのは、地下にあった自家発電装置が水没したせいだろう。復旧のめどが立たない以上、電気は二度と点かないと思った方がいいかもしれない」

「さすがに電気がゼロでは、通信室の通信装置も使えません。それに洪水で電話線をやられたのか、固定電話も不通になっていました」

 戸沼がそんな報告をする。試しに虎永が近くに置かれた電話の受話器を手に取ってみるが、確かに受話器からは何の音も聞こえてこなかった。

「携帯電話は?」

「通信基地局自体に問題が起こっているのか、圏外になる事が多くなっています。通じたり通じなかったり……正直、安定しませんね」

 つまり、閉ざされたこの状況でも唯一可能だった外部との通信さえもがいよいよ制限されつつあるという事である。事態は最悪の方向へ着実に突き進みつつあった。

「とにかく今回の洪水で、石井課長、柿村巡査部長、奥津巡査部長、種本警部補の四人が安否不明の状態となり、山森巡査部長は我々の目の前で地下階へ引きずり込まれてしまった。甚大な被害だと言わざるを得ない」

「地域交通課は事実上の全滅ですね。刑事生活安全課も生き残っているのは源巡査一人だけ。警務総務課はまだ生き残りがいる方ですが……」

 戸沼はそう言って言いよどむ。彼の言う通り、警務総務課はまだ虎永、戸沼、紗江の三人が生き残っているのに対し、地域交通課は文字通りの『全滅』、刑事生活安全課は響子以外が死亡か安否不明という惨状である。おまけに指揮を執るべき課長級の幹部は三人とも消え、最高責任者の正親町は役に立たない上に、いつどのような形で暴発するかもわからない鬼首塔乃という殺人鬼を抱え込んでいるという、もはや「詰み」に近い状況なのだ。今から何をしようとも、それが茨の道なのは明らかな事だった。

「今後についてだが、犯人を突き止めるよりも命を守る事を優先したいと思う」

「犯人逮捕を諦めるわけですか?」

「諦めるわけじゃないが、それはここが解放された後に本庁主導でいくらでもできる話だ。事件が解決しても、我々が全滅してしまっては話にならない。幸い、洪水発生までのここの状況は外部にも伝わっている。朝になって雨が小康状態になり次第、必ず救助は来ると判断する」

「つまり、それまでは何としても生き残れと?」

 麻布の確認に、虎永は深く頷いた。

「そうなりますね」

「……基本方針に異論はありませんが、それでも無視できない要素があります。例えば、鬼首塔乃の監視については放棄するわけにもいかないと思いますが」

 麻布の意見に、虎永も同意した。

「もちろんです。それについては引き続き交代で見張りをせざるを得ないと思います。幸い警務総務課はまだ人数が残っていますので、今まで通り我々が交代で見張り業務を継続するのがいいかと」

「源巡査も衰弱気味ですし、それが一番ですか」

 麻布がチラリと見やると、響子は毛布をかぶってすっかり憔悴しきった顔をしていた。これまでに起こった数々の事件の衝撃に加え、さっき絵麻子を助けられなかった事で色々限界を超えてしまったらしく、肉体的、精神的にかなり衰弱しているのは間違いなさそうである。彼女については、一度この部屋で休ませるのが最善の処置だと虎永は判断した。

 だが、これに対して紗江が思わぬ反論をしてきた。

「虎永巡査部長、お言葉ですが、これだけ人数が減ってしまった今となっては、鬼首塔乃の監視にリソースを割くのはあまりにも本末転倒だと考えます。動ける人間が限られている以上、無駄な業務にリソースを割くべきではありません」

「しかし……」

「ですので、鬼首塔乃の監視はここにいる全員で行うべきです。それ以外に活路はないと思います」

 その言葉が何を意味するのか、虎永は瞬時に悟り、そしてあまりに突飛な考えに絶句した。

「正気か?」

「現状、それしかないと考えます。私としても苦渋の決断ですが……」

 そして、紗江はその『考え』を告げる。

「鬼首塔乃を応接室からこの大会議室に移し、この場にいる全員で監視しましょう。もちろん、手錠で厳重に拘束した上で、です」

「……それしかないか」

 本音を言えば、そんな博打じみた事は警察官として許容できない。が、この状況でそれが最善策である事も事実だった。

「……わかった。戸沼と広山君の二人で鬼首をこの部屋に連れて来てくれ」

「了解です」

 指示を受けて二人が応接室へ向かおうとする。と、そんな戸沼の背中に虎永は声をかけた。

「戸沼、お前は大丈夫か?」

「大丈夫か、と言いますと?」

「いや、その……こう言っては何だが、またしても目の前で人を助けられなかったわけだから……」

 そんな虎永の態度に、戸沼は彼が何を言いたいのか悟ったようだった。戸沼はかつて、山岳遭難者の救助中に要救助者を死なせてしまっている。その時のトラウマが蘇らなかったかと聞いているのだ。だが、戸沼はやせ我慢気味に笑いながら虎永に言葉を返した。

「正直、かなりきついのは確かです。本音を言うと、山森巡査部長を助けられなかったあの瞬間、後さき考えずに泣き叫んでその辺の壁を殴りつけたい衝動もありました。ですが、あの時自分は源巡査の手を握っていました。あの場で自分が取り乱せば、助けられる命を助けられなくなってしまう。だから、必死で感情を押し殺しました。そうしなければならないと思ったからです」

「……そうか。いや、すまなかった」

 謝罪する虎永に、戸沼は無言で頷きを返すと、紗江と共に鬼首塔乃の元へ向かったのだった。


「ちょっと見ない間に、随分滅茶苦茶な事になっているみたいね。ここ、本当に警察署なのかしら? まるでどこかのゾンビゲームに登場した警察署みたいね」

 戸沼と紗江に引き連れられてきた鬼首塔乃は、大会議室に入るや否や、開口一番そんな事を言った。待ち構えていた虎永が一喝する。

「余計な発言は認めない! これよりしばらく、お前を我々全員の監視下に置く。お前はおとなしく座っている事だ」

「だったら、最低限何かあったかくらい教えてくれてもいいじゃない。それを教えてもらう権利すら私にはないのかしら?」

「余計な発言は認めないと言ったはずだ!」

 虎永と塔乃が睨み合う。が、このままでは埒が明かないと思ったのか、紗江が言葉を挟んだ。

「堤防の決壊で、警察署の一階から下が水没した。ここから抜け出すには救助を待つしかない」

「広山君!」

「自分が逃げられないという事を教えただけです。これでもう、逃げ出そうという気も起こらないでしょう」

「……」

 塔乃は何かを考えている様子だったが、やがて観念をしたのか、肩をすくめながら用意されたパイプ椅子に腰を下ろした。すかさず戸沼と紗江が手錠で厳重に手足を拘束する。

「これでいいでしょ。何も邪魔はしないわ」

「……余計な事はするなよ」

 そう言うと、虎永は近くの椅子に腰かけて大きく息を吐いた。何とか気を張ってはいるが、正直色々と限界であった。むしろ、この中で一番自分を保てているのが塔乃である可能性さえある。

「手筈通り、これ以上の捜査活動は行わず、救助が来るまでこの部屋で全員固まって待機する。各々が自身の体力を温存し、朝の救助活動に備えよう」


 ……それから三十分ほど時間が経過した。時刻は午後四時半頃、大会議室は重苦しい空気に包まれていた。

 鬼首塔乃は部屋の隅に移動され、そのすぐ横のパイプ椅子で戸沼が目にクマを作りながら監視業務を続行している。虎永と信治は窓のすぐ傍の椅子に腰かけてぼんやりとしており、麻布は一番正面の席に腰かけ、テーブルに肘をつきながらブツブツ言っている。響子はそのすぐ近くで毛布をかぶりながら震えていて、紗江は一番入口に近い所で椅子に座って目を閉じていた。

 誰も、何も喋ろうとしない。皆が皆、自分の世界に引き籠ってしまっている。虎永からしても、ほとんど一緒にいた信治以外の人間が信じられなくなりつつあった。

「あと、一時間半」

 と、不意に隣の信治がぼそりと呟いた。

「何だって?」

「あと一時間半で朝の六時だ。さすがに、昨日遺言の発表を聞いた時にはこんな事になるとは想像もしていなかった。遺言絡みのゴタゴタに巻き込まれるかと思ったら、それとは全く関係のない所でクローズドサークルの殺人事件に巻き込まれている。まったく……わけがわからない」

「……」

 それは虎永も同じ気持ちだった。まさか、よりにもよって警察署内で古典推理小説的な連続殺人が起こるなどと、誰が想像しただろうか。

「それより、運んでおいて何だが、あれ、役に立つと思うか?」

 信治はそう言って、部屋の正面の方を目で示す。そこには、ここに立て籠もる際に念のために隣の武道場から持ち込んだ竹刀や木刀が無造作に置かれていた。

「わからないが、ないよりはましだろう」

「それはそうなんだが、これだけの事が起こると、どうも頼りなく思えてくるのが不思議だな。実際、僕はあれを扱えないだろうし」

 剣道の経験がない信治がそんな愚痴を漏らす。

「しかし、他に武器がない以上は仕方がない。願わくば、あれを使わないまま終わりたいものだけどな」

「あぁ。それについては同感だ。しかし、こんな時に限って時間が経つのが遅く感じる。もしかしたら、極限状況下における時間の感じ方について研究したらおもしろい結果が出るかもしれない。いや、もうそんな研究論文があったか?」

「それは冗談として受け取ったらいいのか?」

「そう思いたいところだな。こんな状況だと、冗談の一つでも言っていないと心が持たない」

 そう言って信治が力なく笑った……その瞬間だった。


 ドンッ、と腹の底に響くような重い振動音が署内中に響き、次いで火災報知器が鳴り響く音が、暗闇に包まれた巴川署の二階に鳴り響いたのだった。


 その瞬間、虎永は反射的にパイプ椅子を蹴り飛ばすようにしてその場に立ち上がっていた。他の面々も似たような反応で、唯一拘束された塔乃だけが訝しげな表情を浮かべている。

「っ! 誰がやられた!」

 虎永は条件反射的にそう叫びながら、部屋の中にいない人間を確認しようとする。が、現状生存が明らかな人間は、この時点で間違いなく全員大会議室の中にいた。

「全員ここにいます!」

「なら、今の音は……」

 と、ここで紗江が意見を述べた。

「いえ、もう一人、ここにいない生存者がいるはずです」

「……まさか」

 その瞬間、虎永は大会議室を飛び出し、隣の部屋……すなわち署長室へ向かおうとした。だが、その前に、虎永の視界にとんでもないものが飛び込んで来た。

「嘘だろう……」

 暗闇に包まれ、火災報知器が鳴り響く巴川署二階の廊下。その一番南の奥……階段の辺りからかすかではあるが黒い煙のようなものが漂っているのだ。

「あれは……」

「火事だ!」

 信治が叫び、大会議室にあった消火器を手に掴んで走っていく。一瞬遅れた虎永もすぐに手近な廊下にあった消火器を手に取り、後に続く。

「誰か署長室を確認してくれ!」

 後ろにいる面々にそう叫びながら、虎永は煙の元へ到着する。そこは、南階段を上がってすぐの場所にある倉庫で、その中から黒煙と明るい炎が噴き出ているのが嫌でもわかった。

「くそっ!」

 信治と虎永、そしてすぐ後から消火器を持って駆けつけてきた戸沼と麻布の合計四人で、噴き出してくる炎に向かって消火器を一斉に吹きかける。幸い、発見が早かった事もあってか、全ての消火器を使い切る前になんとか炎は鎮火する事ができた。

「そっちの窓を開けろ!」

 虎永の指示で戸沼が備品保管庫前の廊下の窓を開け、充満した黒煙を外に排出する。開けた窓から雨が吹き込んでくるが、もはやそんな事は問題ではない。と、そこへ署長室を確認した紗江が近づいて来て首を振った。

「署長室には誰もいませんでした」

 もはや誰も何も言わない。黙って今しがた火を消したばかりで焼けただれている倉庫内を確認する。すぐに、室内から特徴的な臭いが漂ってくるのがわかった。この臭いは……

「ガソリン、ですね」

 戸沼がその正体を答える。実際、小規模な爆発も起こったらしく、倉庫の扉は吹き飛んだ上に焼けただれてしまっていた。そして、全員が懐中電灯の明かりを室内に向けると……

「ウッ!」

 麻布が呻き声を上げる。窓すらない狭い倉庫の一番奥……


 そこに、もはや誰ともわからなくなった焼けただれた遺体が転がっているのを、虎永たちは確かにはっきりと見たのである……



 ……それから約十分後、簡単な検視を終えると、虎永たちは無言のまま大会議室に引き返していた。もはや誰も積極的に捜査活動をしようなどという人間はこの場にいない。そういう意味では、虎永たちはもはや警察官としての職務を完全に放棄している。だが、それはそれとして自らの身を守るためにも、今回の事件についての検証だけはしておく必要があった。

 誰もが疲れ果てた顔をしている中、信治が自身に鞭を入れるようにして検視結果を共有する。

「解剖もできないから簡単な検視になるが、死亡したのは僕たちが発見する直前と考えていいと思う。死因は恐らく焼死か爆死。ほぼ即死だったと考えてもいいはずだ」

 こうなってはいつも通りの人を食ったような敬語を放す余裕もないらしく、虎永に話すような砕けた口調になってしまっているが、誰も咎める人間はいない。それだけ、ここにいる人間はギリギリの所まで追い詰められてしまっていたのだ。

「やはりガソリンですか?」

「室内に漂っていた臭いは確かにガソリンだ。洪水になる前に車庫にあったパトカーの給油口から盗んでおけば、用意自体は誰にでもできたはず」

 犯行自体はいたってシンプルである。何者かがあの倉庫内にガソリンをまき、そこに被害者を放り込んで火をつけた。疑念の入る余地のない、単純かつ明快な殺し方である。問題は、あの被害者が誰で、そしてこのタイミングで誰が殺したか、であった。

「こんな状況では、被害者の身元特定なんか不可能だ。一応、あの遺体が男である事だけは間違いないが……」

 信治が疲れた様子で言う。

「あれは一体誰なんでしょう?」

「一番可能性が高いのは、署長室から消えた正親町署長だ。だが、問題はそれ以外の可能性も存在していて、その可能性を現状の私たちでは否定できない事にある」

「その他の可能性というのは?」

「その正親町署長自身が犯人である可能性だ。彼が洪水で行方がわからなくなっている誰かの遺体を燃やして自身の死を偽造し、どこかに隠れている可能性がある」

「ですが、あの後二階の部屋は全て調べましたが、誰も隠れてなどいませんでした!」

 戸沼が反論する。実際、その可能性を考えて、事件後に動ける全員で二階を全て調べつくしたのだ。だが、自分たち以外に隠れている人間などどこにもいなかった。

「だが、半分浸水している一階は調べられていない。どこかの部屋の机の上にでも上って隠れている可能性はゼロではない」

「もしそうなら、我々にはどうしようもありません。こちらから一階に探しに行くのは、この状況ではあまりにも危険すぎます」

 戸沼が悔しそうに言う。が、事態はもっと深刻だった。

「いや、それならまだいい。問題は、被害者が誰であれ、あれをやったのが私たちの中にいるかもしれないという可能性だ。だが……」

「今回ばかりはこの場にいる全員にアリバイがある! この状況で一体どうやって署長を殺す事ができるっていうんだ!」

 麻布が頭を抱えて絶叫する。しかし、それは虎永たちの方が聞きたい疑問でもあった。何しろ、洪水が発生してからほぼずっと、正親町以外の全員がこの大会議室に固まっていたのである。この状況で一体誰が殺人を犯せるというのだろうか。

「一応、完全なアリバイというわけではありません。拘束されている鬼首を除けば、何だかんだ、それぞれ五分程度ずつくらいは部屋の外に出ていた時間はあるはずです」

「ですが、それでも五分です! 一体何ができるっていうんですか!」

 麻布が半狂乱状態で叫ぶ。事がここに至れば冷静な判断が不可能になりつつある事を、いい加減にこの場の誰もが自覚しつつあった。

「ガソリンをまく作業は洪水以前にやってあったという事は考えられませんか? その後、気絶した被害者をあの部屋に放り込んで、火をつけるだけなら……」

「爆発があってから私たちがこの部屋を飛び出すまで一分もかかっていない。物がガソリンだから、火をつけてから爆発までは一瞬だ。そしてその爆発の瞬間、この部屋には全員がいたんだぞ」

「なら、火は何らかの装置で自動的に着火する仕組みを……」

 戸沼が必死に可能性を考えるが、それに冷や水を浴びせたのは紗江だった。

「いえ、事前にガソリンをまいてあった可能性はないと思います」

「なぜですか?」

「なぜなら洪水の直後、二階の部屋を一度確認した時に、私があの倉庫を確認しているからです」

 それは、極めて重要な証言だった。

「確かか?」

「はい。ドアを開けて、そこから懐中電灯で中を見ただけですけど、中には段ボールや荷物だけで、誰もいませんでした。それに、ガソリンがまかれている様子もなかったはずです」

「なら、ガソリンがまかれたのは少なくともそれ以降か」

「しかし、そんな機会があった人間は……」

 と、ついにここで麻布が切れた。

「もういい! もうたくさんだ!」

 突然の叫びに、誰もが息を飲む。

「もう……たくさんだ……殺人も……捜査も……推理も……たくさんだ……」

 そう言って、麻布は嗚咽を漏らし始める。そんな彼の態度を責める人間は、この場にはもう誰もいなかった。

「……なら、これからどうしますか?」

 比較的冷静な戸沼の問いかけに、しかし誰も何も答えない。やむなく、虎永が自身の見解を告げた。

「……どうもできないだろう。捜査が不可能である以上、もはや我々にできるのは、全員でこの部屋で固まって互いを監視し合い、朝になって救助が来るのを待つだけだ。我々の中に犯人がいたとしても、ずっと見張られている状態では何もできないはず。それ以外に、この状況下で対抗手段は存在しない」

 虎永の言葉に、反論する者はいなかった。実際、事がここまで大きくなってしまうと、もうそれ以外に選択肢が残されていないのだ。

「とにかく、ここから先はこれ以上の犠牲を出さない事に全力を注ぐ。捜査だの犯人探しだのは救助された後でいくらでもすればいい。現在時刻は午前五時。幸い、雨も小降りになりつつあるし、数時間もすれば夜が明ける。救助が来るのも近いだろう」

 虎永は自分に言い聞かせるように言った。それはもはや、警察官の職務を完全に放棄すると宣言したようなものであるが、誰もそれを咎めなかった。

「願わくば、次に目が覚めた時に、今までの事が全て悪夢であればいいんだが……そう都合のいい事は起らないか」

 虎永は自嘲気味にそんな事を言うが反応はない。もはや誰もかれもが一言もしゃべらないまま、どこか緊迫した空気のまま、ただ時間だけがむなしく過ぎていく事になったのである……。

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― 新着の感想 ―
地元の署が留置所が3Fで、ここは地下なんだな、地元は川の近くだから浸水したらやばいからな、とか読み始めのころ思っていたんだが、実際に起きると目も背けたくなる悲劇だな。 そしてさらなる被害者。 遺言状も…
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