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第六章 月園家~激震

 第二の事件が発覚して以降、村側は硬直状態が続いていた。現在時刻は午前三時。役場四階に設置された臨時捜査本部には、榊原と瑞穂の二人だけしかいなかった。

「先生、今の所は大丈夫そうですね……」

「あぁ、何とかね。このやり方が良かったのかわからないが、とにかく最善を尽くすしかない」

 二人とも疲れが見え始めているが、それでもその目にはまだ闘志が見えている。榊原も瑞穂も、それだけこの事件に対して必死だったのである。

 遡る事、数時間前。第二の事件についての一応の検討が終わった後で捜査本部では今後の方針についての打ち合わせが行われ、そこで榊原の『提案』により、事件の真相解明は朝になって本庁の捜査員たちが駆け付けてからでも遅くなく、この場で最も優先されるべきはこれ以上の犠牲者を出さなない事であるという方針が再確認される事となった。要するに、事件の解決よりもこれ以上事件を起こさせない事に全力を注ぐべきだというのが『探偵』としての榊原の見解であり、寺桐たちもそれに同意する形となったのである。

 結果、捜査活動は一時中断という形になり、標的である可能性が高い月園家関係者の護衛に注力する事が決定。結果、こちら側にいる駐在を含めた四人の警察官が月園家に入って寝ずの番をする事となり、捜査本部の方は警察官ではない榊原が守番をする事が決まった。かくして、榊原と「私も先生と一緒にいます!」と言い張った瑞穂の二人だけが捜査本部に待機する事になり、何とももどかしい時間を過ごしているというわけである。

「屋敷の正面玄関を野別駐在、裏口を大久保駐在が見張り、我々署員が屋敷内を適宜巡回する。さらに屋敷の方々には全員大広間に集まってもらい、そこで一緒に寝てもらう事にしよう。正直、これだと次の標的が屋敷の外の人間だった場合はどうにもならないが、完璧ではないにしても、現状ではこれが我々にできる最大の防衛策だ。屋敷の人間にも文句は言わせない」

 出発前に寺桐がそんな事を言っていたのを瑞穂は思い出す。クローズドサークルの状況下で犯人が一番嫌がるのは、生き残った人間に一ヶ所に集まられて持久戦状態になってしまう事。そんな榊原のアドバイスを受け、警察がそれを実行した形だった。

 なお、本来の榊原の護衛対象である蘭は、愛美子と共にこの役場の捜査本部の部屋の隣にある仮眠室で就寝しているはずだった。さすがにこの状況で彼女を放置しておくわけにもいかず、かといって人が圧倒的に足りない中で捜査の主戦力とも言える榊原が捜査本部を離れるわけにもいかなかったため、鎌崎村長らとの協議の結果、折衷案として二人には役場の仮眠室で休んでもらう事になったのである。蘭自身も身の危険を感じているのかこの要請を受け入れ、現在の所、異変らしいことは起っていなかった。

「でも、その代わり警察署の方は大変な事になっているみたいですね」

「あぁ、さっき送られて来た報告だと、すでに五人も殺されているらしい。こちらもこちらで手いっぱいだが、それでも目と鼻の先でそれだけの事件が起こっていると聞かされながら、何の手出しもできないというのはやりきれんよ」

 警視庁側から巴川署の現状についてこちらに報告が入ったのは午前二時四十五分頃の事で、午前二時半頃に巴川署で第三の殺人が起こったとだけ巴川署から警視庁に簡易的な連絡があったという内容だった。巴川署側はもはや本庁へ連絡するだけで精一杯という状況らしく、こちらの署活系無線に連絡が来る事も、逆にこちらからの署活系無線を使った通信に応答する事もほぼなくなりつつあった。巴川署が警察としての機能を徐々に喪失していく有様を、榊原たちも警視庁も黙って見ている事しかできないのである。

「先生でもどうにもならないんですか?」

「前にも言ったが、残念ながら私は万能ではない。できる事には限りがあるし、できない事はどうしたってできない。例えシャーロック・ホームズであっても、詳しい情報が得られなければ推理できないし、自身の手が及ばない場所では何もできないという事だ」

 そうは言いつつも、その瞬間、普段は冷静な榊原が、静かな口調でありながらも本当に悔しげな表情を浮かべていたのを瑞穂は見逃さなかった。探偵という立場上、表面的には冷静さを保ってはいるものの、探偵の自分がいながら殺人を繰り返され続けているというのは榊原としても忸怩たる思いなのだろう。だからこそ、自身の行動が通用する村側の殺人だけはこれ以上何としても阻止しなければならないというのが榊原の判断であり、それが第二の事件が発覚した後の方針変更につながったに違いない。

 幸い、今のところ村側における第三の事件の発生は防ぐ事ができている。が、それが榊原の作戦が功を奏しているのか、あるいは犯人側が最初から二件の殺人で打ち止めにするつもりだったのか、それすらもわからない状況が続いていた。

「とにかく、今はできる事をするしかない。具体的には、今まで集めてきた情報の整理と考察だな」

「それで、こうして資料を確認しているわけですか」

 榊原の目の前には、先程警視庁からファックスで送られて来た資料が広げられている。それは、先程の橋本との通話の際に榊原が要請した、二年前の世田谷区で鬼首塔乃が起こしたとされている連続殺人事件……通称『鬼首事件』についての捜査資料だった。

「考えてみれば、鬼首塔乃という指名手配犯について私たちが知っている事はあまりにも少ない。実際に彼女が今回の事件に関わっている以上、彼女が起こしたという事件についての情報をもう一度確認する必要がある」

「確かにそうですね」

 そう言いながら瑞穂も資料に目を通す。そこには、鬼首事件の概要や関係者の情報などが簡潔にまとめられていた。



『世田谷区内連続無差別殺害事件(通称・鬼首事件)捜査報告書』


【事件概要】

 二〇〇六年十一月二十四日から十二月九日にかけて、世田谷区内で同一凶器によると思われる殺人事件が連続六件発生。本庁刑事部捜査一課及びそれぞれの事件を管轄する六つの警察署による合同捜査本部が第一の事件を管轄する世田谷署に設置され、三百人体制の捜査が展開された。被害者六名にはあらゆる点で共通点がなく、捜査が進まないまま短期間のうちに新たな犠牲者が増え続ける状況であったが、六件目の事件が起こった直後に有力な被疑者が浮上。捜査員数名が内偵調査を進めたが、それを察知したのか被疑者は捜査員の目を盗んで逃亡し、その後行われた自宅の捜査で一連の事件に使用されたものと一致する凶器が発見された事から犯人と断定され、逃亡から一週間後に正式に全国に指名手配された。以降、現在に至るまで被疑者の手によるものと思われる事件は発生しておらず、被疑者の行方もわからないままである。被疑者逃亡から二年が経過した現在、世田谷署内に設置された継続捜査本部で五名の専従捜査班が本案件の捜査を継続して行っており、被疑者発見に全力を注いでいる状態である。


【被害者データ】

①島岸健(殺害日時・十一月二十四日)

 品川区に本社を置く生命保険会社『アスタリア生命』の営業部社員。死亡当時三十五歳。世田谷区在住。第一発見者は警邏中の世田谷署地域課の巡査。遺体が発見された公園は自宅マンションの近所で、最寄り駅から自宅へ向かった際の通勤経路に該当するため、帰宅途中に襲撃されて殺害された可能性が高いと考えられている。出身は石川県金沢市で、都内の大学を卒業後にアスタリア生命に就職し営業部に配属。事件の三年前に同僚の女性と結婚し、その後双子の姉妹(事件当時一歳)を授かっていた。


②堺尚一(殺害日時・十一月二十七日)

 世田谷区内にある都立東秀高校の数学教師。死亡当時四十二歳。中野区在住。遺体は東秀高校の教職員専用の第二駐車場で近所の住人により発見。この第二駐車場は校内の駐車場が手狭になった事から数年前に増設されたもので、学校の校門から五十メートルほど離れた場所に位置している。被害者は自身の車(黒のカローラ)を普段からこの駐車場に停めており、事件当日は午後八時頃まで残業した後、校門を出て第二駐車場に向かい、自身の車の前まで来たところで襲撃されたと考えられている。校内にある第一駐車場と違い、第二駐車場は誰でも自由に出入りができるようになっており、防犯カメラなどの設備も設置されていなかった。両親と妻、事件当時中学三年生の娘、小学六年生の息子の六人家族で、妻も元高校教師であり、結婚前は現代文の担当だった。


③坪内初音(殺害日時・十一月二十九日)

 世田谷区内に本社を置くバス運行会社『セントラル観光』のバスガイド。死亡当時二十八歳。神奈川県川崎市在住。遺体は会社近くの繁華街の裏道で通行中のアベックにより発見。被害者は事件当日まで仕事で京都観光のバスツアーにバスガイドとして同行しており、帰社後にいくつか事務作業をした後、帰宅の途に就いていた。翌日は仕事明けの休暇日だったため、問題の繁華街へはいずれかの店で飲食をするために訪れていた可能性が高いとされる。ただ、どの店を訪れるつもりだったのか、その飲食は一人でするつもりだったのか誰かと一緒でするつもりだったのか、などの疑問については判然としていない。事件当時独身で、事件の二年前に別れて以降、特定の恋人らしき存在は確認されていない。出身地は京都府亀岡市で、故郷に両親は健在。


④団野春人(殺害日時・十二月二日)

 JR東日本社員で、事件当時はJR品川駅勤務。死亡当時三十歳。世田谷区在住。遺体が発見されたのは同じく世田谷区内にある恋人の自宅近くの路上で、第一発見者は犬の散歩をしていた近所の住人。被害者は事件当日宿直明けの休暇日であり、フリーライターの恋人と渋谷へのデートに出かけていた。渋谷のレストランでの夕食後、恋人を自宅まで送り届けた後一人で帰路に就いたが、そこで最寄り駅に行きつくまでの間に殺害されたと考えられている。兵庫県姫路市の出身で、父親は十五年ほど前に事業失敗を理由に自殺。以降は母親が一人で彼を育て上げている。


⑤宇佐見修治郎(殺害日時・十二月七日)

 玉川駅近くに開業する宇佐見外科医院の院長。死亡当時五十六歳。自宅は自身の経営する宇佐見外科医院に併設。遺体が発見されたのは医院近くにある鉄道高架下の空き地で、第一発見者は被害者が帰らない事を不審に思った被害者の妻の依頼で捜索を手伝っていた玉川署地域課所属の交番巡査。被害者は毎朝朝食前にジョギングをする習慣があり、この日も普段通りにジョギングに出かけていた。現場の状況から、ジョギングの途中で空き地近くの自動販売機で飲み物を購入し、現場の空き地で休憩をしていた際に襲われたと見られている。なお、事件当時の宇佐見外科医院は被害者の宇佐見院長と副院長の妻の下に四人の医者が働いていた。夫妻には一人娘がおり、この娘も都内の大学病院に勤務する医者であるが、事件当日は学会の発表のために札幌に出張していた事が確認されている。


⑥道原裕奈(殺害日時・十二月九日)

 世田谷区内にある国吉神社の巫女。死亡当時十九歳。国吉神社は彼女の実家が管理する神社で、彼女自身も国吉神社の社務所横にある神社関係者の施設に居住。第一発見者は神社に参拝に来た近所に住む高校生。同神社の巫女は実家の仕事であり、本人は明正大学文学部宗教学科の一年生でもあった。彼女の両親は彼女が中学生の頃に旅客船の沈没事故で他界しており、さらに彼女の面倒を見ていた姉も事件の数ヶ月前に精神的な理由から自殺している。そのため姉の死後は国吉神社の神主をしている母方の祖父の家に養子入りしていたが、事件当時、祖父は病気のため入院中であり、神社の事は残された彼女が一人で切り盛りしている状況だったという。なお、この祖父は事件のショックから半年後に病死している。



【被疑者データ】

◎鬼首塔乃

 生命保険会社『アスタリア生命』調査部社員。事件当時は世田谷区に在住。出身は東京都目黒区で、母親の鬼首鷹乃が女手一つで彼女を育て上げる。父親に関する詳細は不明だが、少なくとも出産時には姿を消していた模様。私立東城大学在学中に母親が病気で死亡。大学卒業後にアスタリア生命に就職して調査部に配属され、以降、事件までは調査部の中心として仕事をこなし続けていた。なお、第一の被害者・島岸健とは勤務先が同じであるが、両者は部署も違う上に一緒に仕事をした事もなく、少なくとも表向き、この二人が社内で親しく付き合っていた形跡は確認できていない。調査部では主に事件性が疑われる事案や不審死案件といった難易度の高い案件を多く担当し、その関係上、警察や医療機関との折衝も多かったとされる。

 第六の被害者・道原裕奈の自室に彼女の名刺が置かれていた事から事件への関与が浮上。この名刺そのものは正当な業務上の理由から道原裕奈に手渡されていた物であったが、その後の調査で事件への関係性が否定しきれなかった事から捜査本部は監視を続行。しかし、監視開始から数日後に彼女は捜査員の隙をついて逃亡し、逃亡後に行われた自宅アパート(『小此木ハイツ』一〇三号室)への家宅捜索で、ベランダに置かれていた乾燥機の中から凶器のアイスピックが発見。被害者たちに残されていた傷口の形状と一致した上に、問題のアイスピックから被害者全員分の血液が検出されたため一連の犯行に使用された凶器と判断され、当該事件の犯人として全国指名手配がなされるに至った。

 すでに概要でも述べたように、被疑者が逃亡を続けているため、現在に至るまで動機等に関しては一切不明。特に、第三の被害者である坪内初音、第四の被害者である団野春人に関しては間接的な部分まで広げても一切の繋がりが確認できず、現在も捜査が継続されている。




「……これを読む限り、被疑者、つまり鬼首塔乃が連続殺人を起こした動機そのものについては、今もよくわかっていないみたいですね」

 瑞穂の意見に、榊原も同調するように頷く。

「そのようだ。だからこそ世田谷署の継続捜査本部からすれば、今回の鬼首逮捕はまさに悲願そのものだろう。彼女の供述は、今まで不明だった事件の動機を一気に解明する契機になるだろうからね」

「何の関係もない人間を六人も殺した理由、ですか」

「それがわからん限り、事件は解決しないし、世論も納得しないだろう」

「でも、すんなり自白すると思いますか?」

「さぁね。それは、今まで集めてきた証拠と、取り調べをする刑事の腕次第だとは思うが、何分、私は彼女に会った事がないものでね。直接会って話せばどんな相手なのかはわかるし、それに応じて攻め方を計算する事もできるのだが、今の状況では何とも言えない」

「そんなものですか」

「そんなものだよ。何度も言うが、探偵は神様じゃない。犯人を追い詰めるには、それ相応の計算と根拠と、立証のための証拠の準備が必要だ」

 と、そんな事を話していた時、不意に捜査本部に設置された固定電話が鳴り響いた。榊原が素早く受話器をとると、スピーカーから橋本一課長の声が聞こえてきて、瑞穂にも会話の内容がよく聞き取れた。

『榊原だな』

「あぁ。今しがた、さっきそっちから送られてきた鬼首事件の資料を確認しているところだ」

『それは結構。それより、そっちの状況はどうだ?』

「ひとまず、今は小康状態が続いている。だが、捜査が前進しているわけでもないし、さっきのお前からの連絡だと巴川署ではいまだ惨劇が継続中だ。全体として厳しい状況なのは間違いない」

『確かに、そうだな……』

「とにかくほしいのは情報だ。各々の事件についてはともかく、関係者の背後関係や村の外の情報についてはここからでは調べるのに限界がある。これについてはそちら側の捜査が重要になるぞ」

『わかっている。こちらでも色々調べてはいるんだが、その結果、月園家の人間についていくつか気になる情報が入った』

「何だ?」

『まず、長女の月園涼についてだ。話によると、月園涼は現在妊娠していて、その妊娠した子供に当主の継承権が発生する可能性があるという話だったな』

「あぁ」

『その「妊娠」だが……正直、かなり臭い』

 突然妙な事を言い始めた橋本に、榊原は目を細める。

「臭い?」

『というのも、だ。調べた結果、ここ一年の間、月園涼がいずれかの産婦人科に行った形跡が一切確認できない。それどころか病院に行った記録すら残っていないそうだ。お腹が膨らんでいないという事は、まだ妊娠してそう日数は経っていないはず。にもかかわらず一年以上も病院に行った形跡がないというのは……』

 確かに、それは少し怪しい話ではあった。

『それだけじゃない。涼の旦那の月園牧雄についても調べたが、その牧雄が最近接触している人間がいた。梅島美弥子という早応大学在籍の女子大生だ』

「牧雄がこのタイミングで女子大生と接触だと?」

 それだけでも充分胡散臭い話ではある。が、橋本の話は予想の斜め上へと向かい始めた。

『言い方は悪いが、私も最初は牧雄の愛人か何かかと思った。だが、さらに突っ込んで調べるとどうも様子がおかしい』

「どういう事だ?」

『まず、単刀直入に言うが、この梅島という女性、妊娠している可能性がある』

 いきなりとんでもない事を言い始めた橋本ではあるが、榊原は黙って先を促した。

『こちらは先程とは逆に、彼女が何度も産婦人科医に通っている事から間違いないと考えられる。そして、ここ最近の梅島美弥子の金の流れを調べた所、銀行口座に牧雄から相当額の金が振り込まれているのがわかった。ここまで聞いてどう思う?』

「普通なら牧雄がその梅島という女性を妊娠させてしまい、それに対する養育費、手切れ金、堕胎代のいずれかを払ったと考えられるが……」

『あぁ、そうだな。ところが、だ。こちらの調査だと、牧雄が梅島美弥子と接触を持ったのは、彼女の妊娠が発覚したよりも「後」の話だ』

「……何だって?」

 予想外の話に榊原の表情も一気に険しくなる。

『私も最初は耳を疑ったが、間違いのない事実だ。牧雄は梅島美弥子が妊娠した時点では赤の他人で、彼女の妊娠が発覚したよりも後から彼女に接触し、こうして金まで払っているという事になる』

「つまり、その梅島美弥子という女性のお腹の中にいる赤ん坊の父親が牧雄である可能性はないという事か?」

『時系列から考えると、そう考えざるを得ない』

「……」

『それでさらに調べた所、梅島美弥子には牧雄と接触する少し前の時点で若い男の恋人がいたらしい。どうも問題の赤ん坊の父親はこの若い恋人の方だな。だが、この恋人は彼女の妊娠が発覚してすぐに行方をくらませてしまっている。その理由は調査中だが、彼女が妊娠した責任から逃げるためだった可能性が高い』

「その元恋人の素性は?」

『残念だが、そこまではまだつかめていない。引き続き捜査中だ』

「……」

『とにかく、今までの話をまとめると、妊娠していると言っている月園涼には病院への往診記録が確認できず、一方夫の月園牧雄は妊娠している女子大生に接触し、どういうわけなのか彼女に大金を支払っている事になる。榊原、これをどう思う? 私にはどうにも嫌な想像しかできないのだがね』

 その言葉に対し、榊原は怖い顔で自身の推測を告げた。

「月園涼は実は妊娠していない……そう言いたいのか?」

『あぁ。遺言の内容だと、葵にとっては次世代の跡継ぎがいる事が当主継承に際しての重要項目になっていたはず。実際、葵は子供のいる人間については、本人ではなく子供の方に当主継承権を設定していたはずだ』

「武治ではなく蘭、涼や牧雄ではなく生まれてくる子供『甲』、といった感じだな」

『そうだ』

「そして、それを知った涼と牧雄が、涼が妊娠をしているという嘘を遺言作成前の葵に話し、当主継承を有利にしようとした?」

『お腹が膨らんでいない今ならまだ誤魔化せる。時期が来れば涼が「極秘に入院している」とでも言ってどこかに身を隠し、あらかじめ多額の金銭と引き換えに譲り受ける事を決めていた梅島美弥子の生んだ赤ん坊を自身の子供として表に出す、といった所か』

「聞いているだけでも胸糞悪い話だ」

 榊原はそう吐き捨てるように言い、瑞穂も全く同じ嫌悪感を抱いていた。そしてそれは電話口の橋本も同じだったようである。

『同感だ。もちろん、現時点では証拠はない。ただ、状況的に可能性が高いのは確実だ』

「……」

『ところで、一つ思いついたんだがな。仮に殺された島永弁護士が、涼と牧雄が仕組んだこのカラクリに気付いたらどうなると思う?』

「……まぁ、大変な事にはなっただろうな。何しろ、遺言状の条件では当主の第三候補は涼と牧雄ではなくあくまで生まれる子供になっている。その子供の存在がフェイクだとしたら、当主継承どころの話じゃなくなるし、遺言の管理者である島永弁護士からすれば許せる話じゃないだろう。下手をすれば、月園財閥内での本人たちの地位も危うくなる可能性すらある。実質的に自業自得の話ではあるが」

『そうだ。つまり……殺人の動機になる』

「……」

『勝治を殺害したのは当主継承の順番が自分に来るようにするため。何度も言うように第一候補者の月園蘭が拒否の構えを見せているから、実質的な邪魔者は第二候補の勝治のみ。その勝治がいなくなれば候補の順番は涼と牧雄の子供『甲』に来るはずだ。そして、島永弁護士を殺害したのはこの子供のカラクリを何らかの形で知られてしまったから。遺言の管理をしている彼にこの話を知られたら法的な対抗処置を取られてしまう可能性が高く、それに耐える事は二人にはできない。だから、そうなる前に口を封じるしかなかった……』

「理屈は通るな。だが、出来過ぎているような気もする。それに、この二人には島永弁護士殺害時の一応のアリバイが存在する」

 確かに、彼らのみならず誰を犯人と指摘するにしても、それぞれのアリバイが大きなネックになる事は間違いなさそうだった。

『いずれにせよ、この線はもう少し掘り下げた方がいいと思う。まだ不明瞭な事も多いし、こちらも引き続き捜査を続行するつもりだ』

「わかった。で、もう一つの情報というのは?」

 榊原の問いに、橋本は少し声を静めて答えた。

『末っ子の次女、奏についてだ。彼女については本当に情報が出てこない。捜査一課が総力を結集して情報収集に当たっているにもかかわらず、だ』

「……」

『六年前に都内の大学を卒業した所までははっきりしている。だが、その後がまるでわからない。住所も就職先も交友関係も不明だ。一体どうなっているのか……』

 それは彼女が公安の捜査員だからという一言に尽きるのだが、現状、それを言っていいのかどうかの判断はつかなかった。榊原も今の所は話す気がないようであり、黙って橋本の話を聞いている。

『とにかく、現状でわかっている事は以上だ。何かわかり次第、こちらも適宜そちらに情報を提供する。逆に、何かそちらから我々にしてほしい事はあるか? できる限りはやってみるつもりだが』

「そうだな……」

 榊原は少し考えた後、不意にこんな事を言った。

「橋本、巴川署の件だが、今署内にいる署員の面子は把握できているのか?」

『あぁ、もちろんだ』

「なら、その署員たち全員の詳細な経歴情報がほしい。直接的な手出しができない分、今のうちにやれる事は全てやっておきたい」

『……わかった。至急まとめさせて、後でそちらにファックスを送る』

「頼む」

 電話が切れる。榊原は大きく息を吐いて受話器を置いた。

「先生……」

「どうも、色々複雑な事になっているようだ。情報を一度整理してみる必要があるかもしれないな」

 そんな榊原の言葉を聞きながら、瑞穂は何げなく時計を確認した。時刻は午前三時半。夜もすっかり更けているが、時折聞こえてくる雨音はやみそうにない。

「それにしても、一体この雨、いつやむのかなぁ……」

 思わず瑞穂がそんな事を呟いて天井を見上げた……まさにその時だった。

 突然、村のどこからか、ドンッと大きな音が響き、続いて何とも言えない細かい振動が足元から伝わって来た。榊原と瑞穂は思わず立ち上がり、周囲を警戒する。

「じ、地震ですか?」

 瑞穂は思わずそんな事を口走っていたが、すぐに違うと直感した。今まで経験してきた地震とは微妙に音や振動が違う。

「いや、これは……土砂崩れか、あるいは……」

 と、そこへ鎌崎村長が顔色を変えて部屋の中に駆け込んできた。

「榊原さん!」

「鎌崎村長、これは一体……」

「わかりません! 今、職員が確認をしています。大きな被害がなければいいんだが……」

 と、そこへ捜査本部の電話が鳴り響く。反射的に近くにいた鎌崎が受話器を取ったが、話を聞いているうちに、その顔がみるみる蒼ざめていくのが瑞穂にはよくわかった。

「そんな……こんな時に……」

 絶句する鎌崎。それだけで、何か悪い事が起こったのは明白だった。

「あぁ……あぁ……わかった、引き続き状況を監視してくれ。くれぐれも二次災害だけは起こさないように」

 通話が終わる。鎌崎は、すっかり血の気が引いた顔で振り返った。

「榊原さん……」

 そして、鎌崎はその「最悪の事態」をこの場ではっきりと告げる。


「堤防が……巴川の堤防が決壊したとの連絡が……」

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