第五章 巴川警察署~第三の殺人
「何を考えているのかしら?」
虎永が目を開けると、面白そうにこちらを見ている女……指名手配犯・鬼首塔乃の顔が目に入った。見た目こそ美人の類であるが、その整った顔の裏に『殺人鬼』という毒蛇を隠し持っている事を考えると、おいそれと気を許すわけにはいかなかった。
「勝手に喋るな」
「退屈なのよ。何が起こっているのかは知らないけど、命に係わる事なら私にも教えてほしいわね」
「お前に教える事などない」
「そう? 残念ね」
塔乃はからかうようにそう言って、虎永が本格的に怒りそうなのを見て取ったのか、肩をすくめてそのまま黙り込んでしまった。
……前回の不毛な捜査会議の終了後、各自がそれぞれの動きを見せる中で、虎永は戸沼と交代する形で応接室における鬼首の監視業務に就いていた。現在時刻は午前一時。予定では午前二時少し前に再び紗江と交代する事になっている。
「……なぜ殺した?」
と、沈黙に耐えられなくなった虎永が不意に塔乃に尋ねた。塔乃は興味深げに虎永を見やる。
「喋っちゃ駄目じゃなかったのかしら?」
「勝手に喋るなと言っただけだ。答えろ」
「……残念だけど、私は殺していないわ。大体、ずっとここに閉じ込められていたのに殺せるわけがないじゃない。何でもかんでも私のせいにしないでほしいわね」
塔乃は手錠がかけられた両手を持ち上げ、手のひらをヒラヒラさせながら楽しそうに答えた。
「そっちじゃない。お前が今回の殺人の犯人でない事はよくわかっている。不本意だがな」
「ふーん、わかってくれて嬉しい、と言うべきなのかしら?」
「そうじゃなくて、なぜ二年前、お前は都内であの連続殺人をしでかしたんだ?」
「あぁ、そっちね。こんな状況だからすっかり忘れてたわ」
塔乃は小さく笑った。その態度に、自然と虎永の口調も厳しくなる。・
「無差別に六人も殺したんだろ。一体何があったらそんな事ができる?」
「そうね……本当に、何でそんな事ができるのかしらね?」
「とぼけるな! こっちは真剣に聞いている」
「なぜ? さっきも言ったけど、私は今回の事件の犯人じゃない。だったら、二年前の事件の事なんか聞いても何の役にも立たないと思うけど?」
予想外の塔乃の反論に、虎永は言葉を詰まらせる。
「それとも何? お巡りさんは二年前のあの連続殺人が今回の事件と関係あると、本気でそんな馬鹿げた事を考えているの?」
「……」
虎永はその問いに答えられなかった。さすがに関係ないとは思うが、同時に鬼首塔乃が逮捕されたのと同時にこの事件が起こっているのも事実なのだ。これを偶然と片づけていいのかどうか、今ある情報で判断する事は虎永にはできなかった。
「だったら、私が何かを答える義務もないわよね。別に正式な取り調べってわけでもないわけだし、そもそもそんな事ができる状況じゃないみたいだしね」
「もういい、変な事を聞いたこっちが馬鹿だった」
虎永は舌打ちして一瞬顔をそむけたが、それからしばらくして、ポツリと小声で答えを返した。
「……実際問題、犯人はどんな気分でこの殺人を繰り返しているのかと思ってな。六人も殺したお前なら、犯人の気持ちがわかるかと思った」
塔乃が何となしに感心した表情を浮かべて虎永を見やる。
「そんな事、わかってどうするつもりなの?」
「さぁね。ただ、この事件を解決する何かのヒントになるかもしれない」
「どうかしら? その程度で解決できたら、警察は六人も殺される事はなかったんじゃないかしら」
塔乃の口ぶりはどこまでも他人事のように聞こえた。そんな塔乃の態度に、虎永は間違いなくイラつきを感じていた。が、塔乃は虎永の態度を気にする事なく、手錠を見せつけるようにしながらさらに言葉を続ける。
「それに、不用意な事を口走って殺されたらたまったものじゃないし。この通り、私は今反撃もできないわけだし、慎重に行動しないとね」
「……どういう意味だ?」
「簡単な話。あなたが私を信じられないみたいに、私もあなたを信じられないだけよ。もしかしたら、当のあなたが犯人の可能性だってあるわけだし」
塔乃の言い分に、虎永は反射的に立ち上がって一喝する。
「ふざけるな!」
「残念だけど、大真面目よ。少なくとも私から見たら、まったく犯行の機会がない私よりは充分犯人の可能性があると思うんだけど」
虎永は反射的に言い返そうとしたが、結局何も言えないまま塔乃を睨みつける。塔乃も口元に笑みを浮かべながらジッと虎永を見つめ返し、緊迫した空気が部屋の中に張り詰めるのを虎永は感じた。そのまま無言の時間が過ぎていく。
と、その時その緊張を破るかのように、不意に応接室のドアがノックされた。鬼首を警戒しながら虎永が立ち上がってドアを開けると、交代要員の紗江がそこに立っている。咄嗟に時刻を確認すると、午前一時五十分を過ぎた頃だった。
「交代です」
あくまで事務的な紗江の言葉に、虎永はなぜか安堵を覚えながら、肩の力を抜いて言葉を返した。
「あぁ、わかった。何か署内で変わった事は?」
「今の所は何も」
「そうか。なら、いいんだが……」
これ以上、何も起こらないのに越した事はない。ひとまず安心しつつ、虎永は申し訳なさそうに続けた。
「また負担を押し付けて悪いな」
「仕事ですから」
紗江はあくまで淡々としていた。そのまま簡単に引き継ぎの言葉をいくつか交わし、監視業務を交代して虎永は部屋を出る。だがその時に、鬼首が意味ありげな表情でこちらを見ているのが、虎永にとっては何とも印象的であった。
「あ、交代ですか?」
応接室でを出た後、オフィスに向かうため南階段を下りた所で、虎永は柿村と鉢合わせをしていた。どうやら一人らしく、空元気を出してはいるが、顔に浮かぶ疲れの色は誤魔化せていないようだった。とはいえ、ここでそれを指摘しても意味がないのはわかっているので、虎永はあえて気付かない風に言葉を返す。
「あぁ、そうだ。柿村君はここで何を?」
「いえ、もう一度多目的室の現場を見に行こうかと思って。何かわかるんじゃないかと……」
「捜査熱心なのはいい事だが、あまり無理はしないようにな」
「わかっています。でも、ジッとしていられなくて。もちろん、課長の許可はもらっています」
「なら、他部署の私が口出しできる事はない」
そう言ってから、虎永はついでという風に尋ねた。
「ところで、月園先生がどこにいるのか知らないか?」
「月園先生だったら、オフィスでぼんやりしているのを今見ましたよ。やる事がなくて退屈そうでしたね」
「やっぱりか。なら、話し相手になってやるとするか」
そう言って虎永がオフィスに向かおうとした……その時だった。何気なく周囲を見回していた柿村の視線が、急にある一点で止まった。
「ん、あれ?」
「どうした?」
「いや、あの扉……開いていませんか?」
そう言われて、虎永は南階段のすぐ横にある車庫に続く渡り廊下を見やる。すると確かに、廊下の一番先にある車庫に入る扉が半開きになっているのが見えた。
「さっき見た時は、確かちゃんと閉まっていたはずですけど……」
「車庫の中に誰かいるのか?」
扉が半開きになっている以上、そうとしか考えられない。しかし一体誰が、何の目的で? 虎永の頭にそんな疑問が浮かんだが、それに答えを出すよりも先に、体が動いていた。
「確認するぞ」
「あ、えぇ。そうですね」
その言葉を背後に、虎永が渡り廊下から車庫へ向かった。半開きの扉をゆっくり開けると、車庫の中は薄暗い照明がついていて、巴川署が所有する数台のパトカーが並んで停車しているのが見えた。一台分だけスペースがあるが、これは村にいる寺桐巡査部長と城田巡査が使っているからである。とにかく何か異常がないかと、虎永は真剣な表情で車庫の中を観察しにかかった。
と、そんな虎永の視線が、不意にある一点で止まる。扉を出て左手……つまり扉に一番近い場所に停車している一台のパトカー。その車内に誰かがいるように見えたのだ。目を凝らしてよく見てみるとそれは……
「課長?」
思わずそんな言葉が虎永の口から洩れる。確かにパトカーの運転席と助手席に人影が見える。そして、その運転席側に座っている人影が、虎永の上司である真砂の顔に見えたのである。
それだけならまだいい。だが、事態はもっと切迫していた。というのも、その運転席にいる真砂は目を閉じたまま座席にもたれかかっており、虎永がその姿を見つけてから全く動く素振りを見せないのである。まるでそう……今まで見てきた死体になった被害者たちと同じように……
「課長!」
虎永は思わずそう叫び、雨の中、パトカーの方へ向かって走り始めた。異変を感じたのか柿村もその後に続く。そしてパトカーに近づくと、助手席に座っている人影の顔もはっきりとわかってきた。その人物は……
「花町課長!」
柿村がその名を告げる。そう、それは地域交通課課長の花町義直その人だった。だが、花町も真砂と同じく目を閉じて左の窓にもたれかかるような態勢でまったく身動きをせず、何か異常な事が起こっているのはもはや明白だった。
「課長、大丈夫ですか! 課長!」
虎永は意を決してパトカーの窓を叩くが、それでも二人に反応はない。いよいよもって異常な状況であるが、それと同時に、虎永はこの状況になぜかデジャブを感じ取っていた。どこかで、これと同じような光景を見たような……
「これ……もしかしてガス?」
「え?」
「ガスですよ! 自動車を使った練炭自殺の状況によく似ています!」
「あっ!」
虎永は思わずそんな声を上げた。確かに、この状況は以前何かの機会に現場に立ち会った練炭自殺の状況と酷似していた。だとすれば、不用意にドアを開けるのは危険である。下手な開け方をすれば、漏れ出した一酸化炭素を吸い込んで二次災害が起こりかねない。
その間にも、柿村は素早く窓から車内を覗き込んで中を確認していたが、不意にその動きが止まった。
「ありました!」
虎永がそちらに駆け寄ると、パトカーの後部座席の足元の部分に、見覚えのある特徴的な形の物体がかすかな煙を出しているのが見えた。それは……
「練炭を燃やすために使う練炭コンロです! 今、車内は一酸化炭素で一杯になっています!」
「どうする?」
「とにかくこのままドアを開けたら車庫内に一酸化炭素が充満してしまいます! 換気扇……いや、車庫のシャッターを全開にしましょう!」
柿村のその言葉に頷くと、虎永は電動シャッターの開閉装置のある場所に駆け寄り、換気扇を入れると同時にシャッターを開く作業を行った。鈍い音とともに電動シャッターが開いていき、同時に外から雨風が車庫内部に吹き込んでくるが、この状況ではある程度はやむを得ない。
そして、ある程度シャッターが開いたところで、ようやく二人はパトカーのドアを開けにかかった。が、案の定というか、ドアには鍵がかかっていて開ける事ができない。
「くそっ、どうすれば……」
と、その時だった。開けっ放しにしておいた渡り廊下の扉の向こうから、鑑識の種本が不機嫌そうな顔でのっそりと顔を出した。
「おい、何だか騒がしいが、何かあったのか?」
鑑識室の前で騒いだせいで、うるさくて様子を見に来たらしい。が、この状況では彼の登場は渡りに船だった。
「あ、種本さん! 実は……」
虎永が簡潔に状況を説明する。状況が切迫している事を知った種本の動きはさすがに素早く、すぐに柿村に他の面々を呼んでくるよう指示を出し、了承した柿村が署内に走っていくと、自身は鑑識室からスパナを持ち出して来てパトカーに近づいていった。
「今から後部座席の練炭コンロがあるのとは逆側の窓を割る! 少し離れてろ!」
虎永が指示に従ってパトカーから距離を置くと、種本はスパナを振り上げてパトカーの後部座席の窓を叩き割り、すぐに自身も虎永の近くへ退避した。
「少し時間を空ける」
その間にも、柿村の知らせを受けた署員たちが次々と駆け付けてきて、目の前の光景に息を飲む。そして窓を割ってから十分後、開け放たれたシャッターから吹き込んでくる風で充分換気ができたと判断し、虎永たちはいっせいにパトカーに近づいて行った。
「課長! しっかりしてください!」
種本が割れた窓から手を突っ込んでまず助手席側のドアを開け、花町を車内から引きずり出す。次いで運転席に座っていた真砂も救助され、二人は車庫の床に仰向けに寝かされた。すぐさま信治が二人の状況を確認しにかかる。見ていた誰もが固唾を飲んでその作業を見守っていたが、それから大して時間を置く事もなく、信治は重苦しい声で宣告した。
「……駄目だ。遅すぎた」
それは、巴川署の課長職二人が一度にこの世を去った事を告げる合図であった。また人が死んだというその事実に、虎永は何も言う事ができず、他の面々と同様にその場に棒立ちになるしかなかったのだった……。
午前二時四十五分、捜査本部の置かれている二階の大会議室は重苦しい空気が漂っていた。それも無理もない話で、すでに捜査本部は崩壊寸前の様相を呈していた。
第三の犯行……決して許してはならなかった三度目の事件が起こってしまった。しかもその被害者は、これまで捜査本部……否、巴川警察署を実質的に牽引し続けてきた二人の課長なのである。捜査の実質的な責任者である石井警部補が健在だからこそまだ捜査体制の完全崩壊という最悪の事態には陥っていないが、もう一人の幹部である正親町署長は相次ぐ犯行にもはや精神が限界近くになっているようであり、正面の机で頭を抱えながら何やらブツブツ呟いている状態である。この先もし石井警部補がいなくなるような事があれば、その瞬間にこの警察署の『警察』としての機能は崩壊するだろうと虎永は直感していた。そしてそれは他の面々も同じ思いであろうという事は、痛いほどよくわかる話だった。
だがそれでも、自分たちが警察としてまだ機能している以上、『職務』として犯人を特定するために捜査会議を行わなくてはならない。逃げたり犯人特定を投げ出したりする事は許されない。それがこのクローズドサークルが、よくある推理小説に出てくるようなクローズドサークルと違う最大の点であった。
「……辛いかもしれませんが、始める事にしましょう。まず、今回の事件の概要について説明を」
石井の言葉を受けて、どこか虚ろな表情をした柿村がふらつきながら立ち上がり、事件の概要について説明しにかかる。
「被害者は……被害者は副署長兼警務総務課長の真砂是義警部と、地域交通課長の花町義直警部補の二人。本日午前二時頃、本署建物横の車庫内に停車してあったパトカーの中で遺体となって発見されました。発見者は自分と虎永巡査部長。南階段を下りた所で車庫に続く渡り廊下の先の扉が半開きになっている事に気付き、不審に思って中を確認した所、発見した次第です」
その言葉と同時に、こちらもすっかり疲れた様子の信治が立ち上がって報告する。
「簡単な検視しかできていませんが、現状でわかっている事だけ。死因は二人とも一酸化炭素中毒で、死亡推定時刻は恐らく午後一時半頃かと思われます。警察関係者なら知っている人が多いと思いますが、一酸化炭素は一度吸引してしまうと極めて短時間で被害者の体の自由と意識を奪い、そのまま死に至らしめてしまう危険な気体です。その恐ろしさは今まで起こった多くの火災における死因の大半が焼死ではなく一酸化炭素中毒であるというこの一点だけでも充分理解できると思います。おまけにあらかじめ一酸化炭素が発生しているという事実を認識していない限りは自覚症状もほとんどなく、臭いなりに気付いた時にはもう体の自由が利かずに手遅れというケースが極めて多いのも特徴です」
続いて鑑識の種本が報告を加えた。
「パトカーの後部座席の足元部分に、以前この近辺で起こった練炭自殺事件の証拠品として押収されて、そのまま資料室に保管されていた練炭入りの練炭コンロが点火状態で置かれていた。車を使った練炭自殺や排ガスの逆流事故の事例を挙げるまでもなく、密閉された車の中でこんなものが点火されていたら致命的だ。あの狭さじゃ、極めて短時間で二人は意識を失ったろうよ」
「とはいえ、二人がパトカーに乗り込んだ時点で一酸化炭素が充満した状態ではさすがに臭いなりで気付かれたはずですので、これが仕掛けられたのは二人がパトカーに乗り込む直前だと思われます。それなら乗り込んだ時点ではまだそこまで臭いが充満しておらず、そこから一酸化炭素が充満して臭いに気付いた時にはもう手遅れになっているというわけです。犯人がやる事は点火した練炭コンロを後部座席の足元に二人に見えないように置くだけですから、やろうと思えば誰でも可能な犯行です」
柿村がそう補足する。
「結構です。犯行の形態自体はよくわかりました。問題は、言うまでもなく誰がそれをやったのかという事ですね」
「状況的に、これまで起こった二つの事件の犯人の可能性が高いと考えます。というより、それ以外考えられません」
響子が強い口調で言う。そしてこの期に及んで、その意見に反対する人間はこの場にいないようだった。
「ただ、その前に確認しておきたいのですが、被害者の二人はなぜあのパトカーに乗っていたのでしょうか。遺体の様子を見る限り、誰かに無理やり乗せられたというわけではなさそうですが」
「えぇ、確かに遺体には争ったような痕跡は確認できませんでしたね」
石井の疑問に、信治もそう言い添える。だが、この疑問に答えたのは、今まであまり発言をしてこなかった地域交通課の奥津だった。
「石井課長、自分にはそれについて少し心当たりが」
「何でしょうか?」
「あの二人ですが、以前から何か二人だけで話をしたい時に、駐車場のパトカーを使う習慣があったのです。従って、今回もそうだった可能性が非常に高いと愚考します」
何でもない風に淡々と言う奥津の言葉に、石井は眉をひそめる。
「それは本当ですか?」
「肯定です。実は自分、以前に実際にあの二人が駐車場のパトカー内で話をしている光景を偶然目撃した事があり、その際に花町課長から詳しい事情を聞いていたのです。聞くと、あの二人はこの署に来る以前から同期の関係で、事件の捜査の際などに人に聞かれない話を車の中でするというのはよくあった話なのだとか」
虎永からすれば初耳の話だった。だが、そうなると思い当たる事があった、
「石井課長、確か前回の捜査会議の後で、真砂課長と花町課長が何か小声で話し合っている姿を見ました。もし、あれが人に聞かれたくない話で、後でいつものようにパトカーで話そうというような事を言っていたとすれば……」
「それを狙ってあらかじめパトカーに練炭を仕込む事は可能、という事ですか」
石井は真剣な表情で考え込んだ。と、奥津が再び発言を求める。
「自分でも偶然目撃できたくらいですので、犯人が事前にこの習慣を知っていたとしても何ら不思議はないと考えます。また、二人が乗るパトカーが非常口から一番近い場所に停車してある車両になるだろうという事もある程度予測できるはずです」
「パトカーの鍵は車庫の隅に予備が保管してあるはず。それを使えば仕掛け自体は誰でもできると思います」
戸沼もそう言って続いた。ただ、そうなるとここからの検証はかなり厄介な事になる。
「犯人のやる事は、二人が来る少し前に車庫に行き、パトカーの後部座席に火のついた練炭コンロを置くだけ。作業自体は一分もかからず可能です。おまけに今回は死亡時に犯人が現場にいる必要すらない。アリバイの検証は今まで以上に困難かもしれません」
「それでも確認しないわけにはいかないでしょう」
石井は決然とした様子でそう言った。
「私は今までの現場を回って捜査をしていました。ただ、一人きりでいる時間も多かったので、この仕掛けを行う時間は残念ながらあったと言わざるを得えません」
そしてそれは同じ刑事生活安全課の柿村と響子も同じだった。石井の指示でそれぞれがそれぞれの捜査活動をしており、アリバイはないに等しいというのが彼らの主張である。
「俺も同じだよ。今までと同じく、ずっと鑑識室に缶詰めだったから、アリバイも何もない」
種本も首を振りながらそう言う。
「鑑識室は車庫へ続く渡り廊下の目の前ですが、何か変わった事はありませんでしたか?」
「何度も言うが作業に集中していたし、あそこは防音性能が他の部屋に比べてもかなり高くなっている。だから外の様子は、シャッターの開く音が響いてくるまではわからなかった」
続く戸沼も似たようなものだった。
「自分は前回の捜査会議後に虎永巡査部長と鬼首の監視を交代し、その後は基本的に通信室で業務を行っていました。午後一時と午後二時の捜査本部への定期連絡以外はずっと通信室にいましたが、午後一時の連絡の時点では被害者の二人はまだ捜査本部内にいたはずで、二時の報告に向かおうと部屋を出た瞬間に署内が慌ただしい事に気付き、現場へ駆けつけた次第です」
さらに、すっかり顔を蒼ざめさせて体調が悪そうな絵麻子の言葉が続く。
「私はその……ずっと捜査本部にいました。確か、奥津巡査部長も一緒だったはずです。でも、時々所用やトイレに行ったりはしていたから、完全なアリバイとは言えないかもしれませんけど……」
顔を蒼ざめさせた絵麻子の言葉に、話を振られた奥津も緩慢に頷く。
「本部にいたという事は、真砂副署長たちの姿も見ているという事ですか?」
「はい。ですが、戸沼巡査が通信の報告に来てから少し経った午後一時十五分くらいに二人は本部を出て行って、その後の行動はよくわかりません」
奥津は淡々と答える。ひとまず、午後一時十五分に本部を出た被害者たち二人が車庫に向かい、そこからパトカーに乗り込んで一酸化炭素中毒で一時半頃に死亡したと考えれば、時間的な辻褄は合っているようだった。
「月園先生は?」
「ずっと一人でオフィスにいました。話し相手の虎永巡査部長が鬼首の監視をしていて暇だったもので。どうせやる事もありませんのでね」
「その虎永君はどうですか?」
「前回の会議終了後から、ずっと鬼首の監視をしていました。監視業務を広山君と交代した直後に南階段で柿村君と会って、そこから遺体発見の流れになったわけです」
その紗江は今も引き続き鬼首の監視業務に就いていて会議には参加していない。話も聞けていないため、虎永と交代した午前一時五十分以前にどこで何をしていたのかは現状ではわからないと言わざるを得なかった。ただ、他の面々から彼女を見たという話が出ない以上、どこかに一人でいた事は間違いなさそうである。
「麻布巡査部長はどうですか?」
「……疲れていたので、一階の小会議室で少し仮眠を。申し訳ないとは思いましたが……」
麻布はやや緩慢な口調でそう答える。もっとも、今の彼の立場を考えれば無理もないだろう。この場において埼玉県警所属である彼は本来部外者である上に、指示を仰ぐべき上司はすでに殺されてしまっているのである。この場で誰の指示でどう動いていいのかわからないのも当然であるし、下手に動き回って怪しまれるくらいなら提供された控室に閉じこもっているのが一番だと判断したのかもしれなかった。
とにかく、これで残った面々のほとんどのアリバイは出揃った。最後に残ったのは正親町である。
「署長はどうですか?」
「ん……あぁ……私、ですか……」
相次ぐ惨事に心が追い付いていないのか、本来ここのトップとして皆を率いなければならないはずの正親町は、もはや上の空の状態だった。
「そうですね……署長室にずっと一人で……」
またか、と虎永は思わず心の中で舌打ちをした。この男は事件が起こってから、何もせずにずっと署長室に引きこもり続けている。もちろん、それがとんでもない名演で犯人がこの署長という可能性もなくはないのだが、さすがにもう少しシャンとしろと言いたくなってくる。実際、他の面々も似たような気持ちのようであり、その空気を読んだ石井が少し強い言葉で話しかける。
「署長、しっかりしてください。ここのトップはあなたです。本来ならあなたが我々の指揮を……」
石井がそう言って諫めた、その瞬間だった。
「勝手な事を言わないでください!」
突然、それまで心ここにあらずの状況だった正親町の顔が思いっきり引きつり、両手で机を思いっきり叩いて立ち上がると、甲高い叫び声を上げてずっと押し殺し続けていた感情を爆発させた。
「何なんですかあなたたちは! いつもは頭でっかちの若造だのなんだのと馬鹿にしておきながら、いざ何か起こると全責任を私に押し付ける! そして今回のこれですよ! 責任、責任、責任、責任! もううんざりです! 私は責任を取って処罰されるために警察官になったわけじゃない!」
その剣幕に、不覚にもその場の誰もがひるんでしまった。言っている事は子供の駄々そのものだが、もはやこの若い署長の心が限界だという事だけは間違いないようだった。
「署長、落ち着いてください。今そんな態度を取られたら……」
「もう知りませんよ! やるなら石井課長、あなたが勝手にすればいい! あなたたちが何をしてどう失敗した所で、どうせ全責任を取らされるのは私なんだ! だったら私にいちいち確認せずに、好き勝手にやればいいでしょう! 私はもう知らない! 勝手にやって、勝手に死ねばいいんだ! その代わり、私は絶対に生き残らせてもらう! 絶対に!」
そうヒステリックに叫ぶと、正親町は荒々しく席を立って、そのまま捜査本部を出て行ってしまった。しばらくして隣の署長室の扉が閉まる音が聞こえる。残された者たちは、ただただ唖然としてその様子を見ているしかなかった。
「……困りましたね」
ようやく、石井がそれだけポツリと呟く。続けて種本も気の毒そうに言葉を発した。
「この修羅場、あの若署長には荷が重すぎたみたいだな。さすがに同情できない事もないが……」
「信治、お前がカウンセリングでもしてあげればよかったんじゃないか?」
虎永が隣の信治に小声でそう言うと、信治は肩をすくめて答えた。
「心療内科は専門外でね。あそこまでこじらせたら、僕の腕ではどうにもならない。ましてちゃんとした人間でも油断したら気が狂いかねないこんな状況では、何をやっても無駄だろう」
「そうだな……」
とにかく、これで正親町については本格的に当てにならなくなった。虎永はただ苦々しい顔を浮かべるしかなく、他の署員たちも似たり寄ったりの顔をしているのが印象的だった。
「全員、まずは落ち着きましょう。この状況で取り乱すのが一番の悪手です。我々は警察官です。どんな状況であっても、落ち着かなければなりません」
石井はできるだけ冷静にまとめようとするが、その声にもさすがに疲れが見え始めている。百戦錬磨の刑事である石井も、限界が近い事は確実だった。そしてそれは、虎永たち署員側も同じである。正親町ほどではないとはいえ、皆が皆、精神的に参りかけているのも事実であった。考えてみれば当たり前だが、警察官だからどんな極限状況でも大丈夫とはならない。こうなってしまえば、警察官もごく普通の人間と大差はないのである。
「……皮肉ですけど、こうなると最初に全員の拳銃を封印したのは英断だったみたいですね。この状況下では、誰がいつどんな理由で発砲してもおかしくない。それがないだけマシというものです」
戸沼がポツリとそう呟く。本来ならば「そんな事はない」と反論すべき場面なのだろうが、その言葉を発せられる人間は、残念ながらもうこの場には誰一人としていなかったのだった……。