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第四章 月園家~第二の殺人

 県道から巴川村に入ってすぐの場所の道の脇に、廃墟となった建物が一つ存在する。集落の中心部からやや離れた場所にあるこの木造一階建ての建物は地元の人間から『巴館』と呼ばれていて、実際に建物の前にある蔓草が絡みついた看板には古ぼけた字でうっすらとその名前が記されているのが確認できる。

 この『巴館』は元々、十数年ほど前までこの村の公民館もしくは集会場のような役割を担っていた建物で、現役時の行政上の扱いは『巴川村役場別館』というものだった。当初はこの建物こそが村の役場として使われていたのだが、平成初期頃に現在の鉄筋コンクリート製の四階建ての役場が村の中心に立てられると役場としての役割はそちらに移転。その後もしばらくは地域の集会場としてイベントなどに使われていたが、建物そのものの老朽化などが深刻になった事から十年ほど前に封鎖が決定。しかし、役場側が建物を解体する予算が捻出できなかった事もあり、現在も封鎖された建物の廃墟がそのまま村の入口に残っているという状態が続いており、管理もあまりできていないのか建物の周囲は雑草が生い茂っている状態となっていた。

 午後十時過ぎ、城田から「第二の殺人の発生」の知らせを聞いた榊原たちは、パトカーでこの村の入口にある『巴館』の廃墟へと向かっていた。玄関の前には大久保巡査部長が待っていて、榊原たちの姿を見るとすぐに駆け寄って来る。

「あっ、お待ちしていました!」

「状況は?」

「ひどいものです。とにかく、こちらに」

 大久保の案内で、建物の中へ進む。その間にも、寺桐は素早く大久保と会話をして事件の情報収集に努めていた。

「第一発見者は?」

「見回りをしていた役場の職員の方二人です。村の入口の確認に向かった所、廃墟のはずのこの建物の扉が開いている事に気付き、不審に思って中を確認したのだとか。結果、建物の中に遺体が転がっているのを発見し、慌てて近くを偶然パトロールしていた私に知らせたという流れです」

「その二人は今どこに?」

「放っておくわけにもいかなかったので、ひとまず私の駐在所に待機させてありますが、よろしかったですか?」

「それで結構です。後で話を聞く必要がありますので」

 そんな会話をしつつ中に入るとすぐの場所に上がり框があるのがわかった。その上がり框の左右にトイレと給湯室、正面のガラス戸の向こうに十六畳の和室があるというシンプルな構図の建物である。そして、問題の遺体がその十六畳間の中央にうつぶせになって倒れているのが、上がり框からもよく見て取れた。 

 建物の中は闇に包まれているが、大久保の持つ懐中電灯の明かりに照らされたスーツを着たその小柄な人影の首にロープのようなものが巻き付いているのがここからでもはっきりとわかり、その事実がその人物が死んでいる事を嫌でも思い知らせている。そしてその頭に生えている白髪に、瑞穂ははっきりと見覚えがあった。だが、瑞穂は最初自分の見ているものがどうしても信じられなかった。なぜなら、目の前に倒れているその人物は、この場にいるはずのない人物だったからである。瑞穂は誰に言うでもなく、思わずその人物の名前を呟いていた。

「まさか……島永弁護士……ですか?」



 殺されていたのは月園家の人間ではなかった。あの血塗られた遺言状を公表した月園家の顧問弁護士・島永東朔郎その人だったのである。



 その変わり果てた姿を見て、その場にいた誰もが絶句する。それも当然で、この場の誰もが次の被害者が島永弁護士になるなどとは全く考えていなかったし、そもそもの話として島永弁護士は本来この場にいるはずがない……というより、いてはならない人間なのだ。昼間の遺言発表の後で村を出て秩父の市街地にある宿泊場所のホテルに向かったはずで、そんな彼がなぜこんな場所で殺されているのか、瑞穂からすれば全く意味のわからない話だった。

 だがこの時、同時に瑞穂の頭にはなぜか、生前の島永が語っていた『むしろできるなら、何もかもがスムーズに決まって、すぐにでも東京に帰りたいものですよ』という言葉が鮮やかに蘇っていた。今思えばとんでもない死亡フラグになってしまったわけだが、実際にその状況に遭遇してみると、笑う気には全くなれなかった。それは榊原も同じだったのか、榊原は彼の遺体を見ながら、誰ともなしにこう言葉を漏らしていた。

「どうやら、もう二度と東京には帰れなくなってしまったようです。本当に……残念です」

 とはいえ、いつまでもこのまま感傷に浸っているわけにもいかない。早速、事件についての検証がこの場で始まろうとしていた。

「そもそも、島永弁護士がなぜここにいる? 確か話によると、遺言の公開が終わった後で村を出たはずじゃなかったか?」

 寺桐の言葉に、榊原は深い頷きを返す。

「えぇ、そのはずです。秩父のホテルに戻るつもりだと本人が言っていました」

「だが、実際はこの村でこうして殺されている」

 寺桐は目を細めながら重い口調で言った。

「さっきの会議の後、本庁から埼玉県警を通じて島永弁護士が宿泊予定だったホテルを特定してもらったが、連絡によると、そのホテルの部屋に彼はまだチェックインしていなかったそうだ。ただ、榊原君の話で秩父でも仕事があるという事だったので、仕事が終わってホテルに来るのを待っていたそうだが……」

「実際は仕事どころか村に残ったままで、こうして殺されてしまっていた、か」

 と、ここで瑞穂が口を挟んだ。

「一度村を出て、事件の事を聞いて戻ってきた可能性はありませんか?」

 もっともな推測だったが、榊原は慎重な答えを返す。

「可能性がないとは言わないが、問題は事件が発覚した時点でこの村に通じる道が土砂崩れでふさがれてしまっている事だ。つまり、彼は事件発覚より前に戻ってきていたか、あるいは最初から『村を出た』という話自体が嘘で、密かにここに残ったままだったのかのどちらかという事になる」

「それは……まぁ、そうなりますよね」

「どちらにせよ、『秩父での仕事』云々が嘘だったというのは間違いなさそうだ。となると、この村の近くに彼の自動車が隠されている可能性があるわけか」

 榊原がポツリとつぶやいた言葉に寺桐が反応する。

「自動車?」

「この村に出入りするには自動車が必須です。実際、島永弁護士も自身の車でこの村にやってきたと生前に言っていました。しかし、村の内部に自動車を駐車したら密かに村にいる事がすぐにばれてしまいます」

「それは……確かにそうだな。そもそもこの村で、外部からやってきた車を駐車できる場所は少ない。せいぜい役場の駐車場くらいだし、それ以外の場所に見かけない車が駐車していたら、村人の誰かが気付く可能性が高い」

 寺桐は唸り声を上げながらそんな事を言う。

「ですが、だからと言ってあまりにも村から離れた場所に車を置いたとも考えられません。この悪天候に加えて、島永弁護士自身がかなりの高齢で、歩ける距離には限界があるからです。となると、最大でも村から徒歩十分程度の場所に駐車したと考えるのが妥当でしょう。考えられるとすれば……この村の西にある県道の道路脇のどこか、でしょうかね」

「それについては後で調べる必要はあるな。ただ、今はそれよりもこの場の調査が先だ」

 とにかく、今回も鑑識や検視はほとんど期待できない状態である。この場にいる警察官は駐在を含めて四人だけで、そこに元刑事の榊原が加わっているだけという有様だ。一応、さっきの話が本当なら月園奏も公安の警察官であるわけだが、先程の言動から見るに、榊原以外の人間に正体を明かす可能性は限りなく低いと言わざるを得なかった。実際、新たな事件が起こったと聞くや否や、彼女は「何かわかったら教えてください」とだけ言って、そのまま屋敷に戻ってしまっていたのである。

「やれる事をやるしかないか」

 幸い、今回は遺体が濡れていない。ならば、検視ができる可能性があった。専門ではないとはいえ、元刑事の榊原や寺桐なら簡単な検視ができない事もないのである。とはいえ、ここはあくまで現職の寺桐に任せた方がよさそうではあった。

「寺桐さん」

「あぁ、わかっている。どうやら私が検視をした方がよさそうだ」

 寺桐もそれは理解していたのか、榊原が何か言う前に慎重に遺体に近づいて行った。そして、しばらく遺体を観察しながら、所見を述べていく。

「遺体が動かされた形跡はない。死斑や硬直の具合から考えて、死後四時間から五時間……いや、四時間半程度までは絞れそうだな。もちろん詳しくは解剖が必要だが、現状でそれは無理だろう」

「今、午後十時過ぎですから、死亡推定時刻は午後五時半から午後六時頃と考えてよさそうですね」

 榊原は素早く死亡推定時刻を逆算し、寺桐もそれに同意する。

「つまり、最初に殺された月園勝治氏の死亡時刻とほぼ同じ頃という事になる。もっとも、勝治氏の詳細な死亡推定時刻がわかっていないから、どっちが先に殺されたのかまではわからないが」

「いずれにせよ、さっき瑞穂ちゃんが言った『勝治氏の死を聞いて慌てて戻ってきた』という可能性は除外してもよさそうですね。その時点で、島永弁護士はすでに死んでしまっているわけですから」

「同感だ」

 そう言いながら、寺桐はさらに検視を進める。

「死因は恐らく絞殺だな。毒物を使われていたら話は変わってくるが、索状痕もはっきり残っているし、まず間違いないと思う。他に外傷もなさそうだ」

「月園勝治殺しに使われたのと同じ凶器ですか?」

「現状では断定はできんが、少なくとも首に巻き付いたロープは勝治氏の首に巻き付いていたそれとよく似ている。同一犯だとすれば、ロープを用意した時に同じものを複数本用意していたとしてもおかしくはない」

 そう言ってから、寺桐は逆に榊原に尋ね返す。

「一応聞いておくが、女性にもこの犯行はできると思うか?」

「被害者は高齢な上に小柄ですからね。絞殺とはいえ、若くて体力があれば、女性にも充分犯行は可能だと思います」

「だろうな。つまり、その観点から犯人を絞る事はできないというわけだ」

「被害者の所持品はどうなっていますか?」

「待ってくれ」

 そう言って被害者のポケットなどをあさるが、所持しているものはそこまで多くないようだった。

「財布、ハンカチ、ポケットティッシュ……大したものはなさそうだ」

「携帯電話や車の鍵がありませんね」

「あぁ。携帯は仕事で必要なはずだから持っていないとおかしいんだが、ないという事は犯人が持ち去ったという事か」

「車の鍵もないという事は、犯人が島永弁護士の車をあさりに行った可能性が高いと思います」

「ますます、彼の車の捜索が必要になったというわけか。あとは……あれは被害者の傘のようだな」

 そう言って部屋の隅に寺桐が目をやる。瑞穂がそちらに目を向けると、確かに濡れた黒い傘が部屋の隅に転がっているのが見えた。どうやら、犯人と格闘した際にあそこまで弾き飛ばされたらしい。

 一通り調べ終わると、寺桐はゆっくりとその場で立ち上がった。それを見て、榊原は改めて寺桐に話しかける。

「それで、ここまで調べた上で、寺桐さんはこの事件をどう思いますか?」

 榊原の質問に、寺桐は何とも言えない難しい顔を浮かべた。

「正直な所、想定外の被害者だ。次の殺人があるとすればまた月園家の誰かが狙われると思っていたんだが、まさか部外者の弁護士が殺されるとは……」

「これで、ますます動機がわからなくなりましたね」

 寺桐が悔しそうに言い、城田は困惑した様子でそんな感想を漏らす。榊原はそんな彼らの言葉を聞きながらジッと現場の状況を観察しているようだったが、瑞穂にとっても、島永が殺されたというのはあまりにも予想の斜め上を行く状況だった。

「前提として、勝治殺しと今回の島永弁護士殺しは同一犯と見ていいと思うか?」

「凶器が同一の可能性が高い以上、そうだと信じたいところですけどね。ただでさえ署内側にもこれとは別の殺人犯がいるはずなのに、これ以上、別の動機で動く殺人犯が増えるのはたまったものじゃありませんよ」

 城田は慎重な言い回しで寺桐の疑問に答える。確かに、勝治殺しを受けて別の誰かがこれ幸いと便乗して自身が動機を持つ島永弁護士を殺害して連続殺人に見せかけ、その罪を勝治殺しの犯人に着せようとした可能性がないとは言えない。が、同時にそこまで考えてしまうときりがないというのも事実だった。

「では仮に、勝治殺しと今回の一件が同一犯によるものだったと仮定しよう。その場合、考えられる動機は何だ? やはり例の当主争い絡みか?」

「島永弁護士は確かに当主争いの当事者ではありませんけど、遺言状の執行役……言ってしまえば当主争いの監督役というか審判のような役割だったわけですよね。だったら、その監督役を殺す事で遺言の執行そのものが不可能になるようにしようとしたとか」

「だが、遺言状の公表前ならともかく、肝心の遺言はもう発表されてしまっている。この段階で島永弁護士を殺したところで遺言内容そのものに大きな影響はない。結局は別の弁護士が執行役を引き継ぐだけの話だ」

「……ですよねぇ」

 城田も難しい顔をしたが、すぐにこう続けた。

「それなら、例えば口封じというのはどうでしょうか?」

「口封じ?」

「これは勝治が島永弁護士より前に殺されていたという前提に立った推測ですけど、島永弁護士が何らかの理由で勝治殺しの犯人もしくは犯人につながる情報を知っていたという場合です。で、そこから己の犯行がばれる事を恐れた勝治殺しの犯人が口封じ目的で島永弁護士を殺した、とか」

「……確かに、ないとは言えないが」

 寺桐は渋い表情ながら、城田の意見に妥当性がある事は認めた。が、それで完全に納得したというわけではないようである。

「ひとまず、その辺の検討は後にしよう。それより、榊原君はこれからどうすべきだと思うね?」

 その問いかけに対し、榊原はあくまで慎重で、そして現実的だった。

「とにかく鑑識作業ができない以上、ここはいったん封鎖しましょう。本格的な捜査は朝になって応援が来てからで充分だと思います。私たちだけではこの場でできる事に限界がありますので、やるべき事に優先順位をつけて取捨選択しなくては、結果的に何もできないまま終わってしまいます」

「やっている事は、まるでトリアージだな」

 そう言いながらも、榊原の提案に寺桐も賛成する。

「しかし、封鎖と言ってもどうする。この豪雨では見張りを置くのも難しいし、そもそも見張りに割けるだけの人員もいない。誰かに侵入されて現場を荒らされたら元も子もないぞ」

「あくまで緊急措置ですが、遺体を映せる位置に役場の備品のハンディカメラを隠し置いた上で、正面の扉に鎖でも巻き付けてから南京錠をかけておきましょう。それで朝までに誰かがここに侵入して現場をいじる可能性は潰せるはずです」

「……それしかないか。この状況ではやむを得ないな」

 寺桐が榊原の案を了承し、それを確認した上で榊原はさらに別の進言をする。

「そして、この状況で優先すべきなのは、さっき言った島永弁護士の車の確認と確保です。もしかしたらそちらに重要な証拠が残っている可能性がありますし、この雨で車がどうにかなる前に一刻も早く確保しておく必要があります」

「確かに、優先すべきはそっちだな」

 ひとまずの方針は決まると、後の行動は早かった。すぐに指示を受けた大久保が役場から必要な備品を持って来きて、榊原の言ったように遺体を映せる位置にハンディカメラを設置すると、『巴館』正面の扉を閉めて、そこに何重にも鎖を巻き付けてから南京錠を設置する。そして一通りの作業が終了すると、榊原たちは大久保にしばらくここの監視を頼んだ上で、すぐさま次の行動……島永弁護士の車の発見に向かったのだった。

 

 問題の島永弁護士の車が見つかったのは、それから少し経った午後十時十五頃の事だった。パトカーで県道に出て捜索した結果、榊原の予想通り村の近くの県道の脇の少し開けた退避場所のような場所に、木々の影に隠されるように黒のセダンが停車しているのが発見されたのである。そこは村の入口から北に少し行った所で、榊原の推測通り、村まで歩いて十分程度の場所だった。

「本庁にナンバーを照会したが、島永弁護士の所有する車で間違いないそうだ」

 パトカーの車載無線で交信を終え、セダンの傍に戻ってきた寺桐がそう告げる。他の榊原、瑞穂、城田の三人は傘や雨合羽姿で問題の車を観察していたが、肝心のセダンはパトカーのライトに照らされて森の中に浮かび上がるようにその姿を見せており、どことなく不気味な雰囲気を醸し出していた。

「この大雨じゃ、車の周辺の痕跡は全て流されてそうですよね」

 瑞穂が少し残念そうに言う。実際、絶え間なく降り続ける雨のせいで地面はすっかり泥沼になっており、車体の下もぐちゃぐちゃになってしまているようだった。

「あぁ。足跡もタイヤ痕も何も残っていない。仕方がないとはいえ、歯がゆいものだ」

「でも、あっちに比べたらは壊れていないだけましですよね」

 瑞穂がチラリと後ろの方を見やる。ここから村の方へ数百メートルほど進んだ場所……そこにはもう一台無人の車が路肩に突っ込むような形で停車していて、その無残な姿をさらしていた。そして、その車こそが少し前に鬼首塔乃が逃走に使っていた車である事は、すでに本庁に確認済みだった。

「考えてみたら、他に捜査員がいないんだから、連行する時に車を置きっぱなしにするのも当然ですよねぇ」

「あぁ。もちろん、重要な証拠物件だから後で回収するつもりだったとは思うがね」

 とにかく今は、こちらのセダンを調べる必要がある。だが、窓から一目車内の様子を見た時点で、異常があるのは明らかだった。

「どうも、物色されているようですね」

 榊原が懐中電灯の明かりを車内に照らしながら言う。実際、車内はかなり荒れていた。ダッシュボードは開けられて車検証などが助手席側に散らばっており、後部座席には蓋の開いた革製の鞄とシルバーのアタッシュケース、そしてそれらの鞄の中にあったと思われる書類が大量に散乱しているのが見て取れた。

「犯人の仕業か?」

「島永弁護士本人がこんな事をするとは思えませんし、他に考えようがないでしょう。それに車の鍵は当然被害者が持っていたはずで、入手するには殺害後に死体を物色して奪うしかありません。犯人がやったと考えるのが妥当です」

「だったら、車内の調査が必要になるが……どうする? このままここで調べるか?」

 寺桐の言葉に、榊原は少し考えてから首を振った。

「いえ、こんな暗闇の大雨の中で調べるより、どこか落ち着いた場所に車ごと運んでから調べた方がいいと思います。寺桐さん、村の中に自動車の修理工場はありませんか?」

「あぁ、ガソリンスタンドが併設された個人経営のが一つある。何しろ車がないと生活できない村だからな」

「では、そこに連絡してレッカー車を出してもらってください。どこか保管場所の候補はありますか?」

「そうだな……確か、役場の裏手の駐車場の隅の方に、役場の公用車を駐車するためのシャッター付きのガレージがあったはずだ」

「そこにしましょう。余裕があれば、向こうの鬼首が乗ってきた車も押収したいところですが、あくまでこちらが優先です」

 話が決まると後は早かった。すぐにレッカー車の手配が行われ、榊原たちが写真撮影をしている間に、村の方から大型のレッカー車が姿を見せた。運転してきた修理工場の親父の話だと、どうもこの天気で事故車が出る事を想定して最初から準備をしていたらしい。

「時間がかかると思うから、榊原君たちは先に役場に戻っていてくれ。これ以上、捜査本部を空にしておくわけにもいかない。車の回収作業が済んだら知らせる」

「えぇ、私もそれがいいと思います」

 寺桐の指示に榊原も同意する。

「城田君、二人をパトカーで役場まで送って、役場側にガレージの使用許可をもらってくれ。終わったらまたこっちへ戻って、収容作業を手伝ってほしい」

「わかりました」

 城田はそう言ってパトカーに戻る。榊原もそれに続こうとして、瑞穂がその場から動かずに暗闇の中に続く県道の遠く向こうを見ているのに気付いた。

「どうしたね?」

「あ、えっと……そう言えば、県道は土砂崩れでふさがっているんだったなぁって思って」

 ここからでは土砂崩れの起こった場所は見えない。だが、この暗闇と天候では土砂の撤去作業が進んでいない事は、瑞穂にも容易に想像ができる事だった。

「先生、本当に朝になったら助けは来ると思いますか?」

「……信じるしかない。さっきも言ったが、今は私たちにできる事をするしかない」

「そう、ですよね。信じるしかないんですよね」

 瑞穂はそう言うと、それでも不安そうな顔をしながら榊原の後に続き、大雨が降りしきる中、パトカーに乗り込んだのだった。


 役場に到着すると、城田がガレージ使用の交渉のために鎌崎村長のいる対策本部に向かっている間に、榊原と瑞穂は寺桐に言われたようにそのまま役場四階にある捜査本部に戻った。するとそれを見計らったかのように息つく暇もなく本部の電話が鳴り響き、反射的に榊原が受話器を手に取って応対した。

「はい、捜査本部」

『橋本だ。榊原だな?』

 相手は東京にいる捜査一課長の橋本だった。

『今しがた、寺桐巡査部長からお前が捜査本部に戻った旨の連絡を聞いた。今、大丈夫か?』

「問題ない。それより、こちらの状況は聞いているか?」

『寺桐巡査部長から一通りの連絡は受けている。島永弁護士が殺害されたという話だが』

「あぁ、その通りだ」

 榊原も簡単にこの場の状況を説明する。一方、橋本の方もすでにいくつか手を打っているようだった。

『島永弁護士の事務所および自宅への家宅捜索についてはすでに手続きを進めている。だが、時間が時間だ。自宅はともかく事務所には誰もおらず、そちらの捜索は朝になるのを待つしかない』

「やむを得ないか」

『しかし、まさかこんな形であの島永弁護士の訃報を聞く事になるとは思わなかった』

 電話の向こうで橋本は重々しくそんな事を言う。榊原の元同僚である橋本も、島永弁護士の事はよく知っているはずだった。

「最近の島永弁護士について、警察として何か知っている事はあるか? 生前の本人から聞いた話だと、刑事裁判の弁護を中心に活動していたようだが」

『それは間違いない。実際、うちが解決したいくつかの事件の裁判も担当していたはずだ』

「彼を恨んでいる人間は……まぁ、かなりの数がいるだろうな」

 橋本が何か答える前に、榊原は自分で答えを言った。

『私もそう思う。何しろ東京地検特捜部の元検事で、刑事事件中心の弁護士だからな。恨んでいる人間が全くいないという事はまずないだろう。今、そちらの洗い出しも進めているところだ』

「わかった。他に何か情報はあるか?」

 榊原の質問に、橋本はすぐに答える。

『あの後、こちらでも色々調べたが、結果、興味深い事がいくつかわかった。まず、第一の事件の被害者である月園勝治氏の都内にある自宅を家宅捜索した。彼の自宅は台東区内にある安アパートの一室で、中は物がかなり乱雑に散らかっていた。で、机の周囲を調べた所、「取材ノート」と書かれたノートが一冊見つかってな。勝治は以前の職場を辞めて以降、知り合いの編集者の伝手で文章を書いて生活していたという話は知っているか?』

「あぁ、鎌崎村長から聞いた」

『その「文章」だが、ちょっとした短編小説からルポまで何でも書いていたらしい。で、問題の取材ノートに最新の取材対象が書かれていたんだが……それが、勝治の両親が死ぬ事になった「旭沼事件」関連の内容だった』

 その情報に榊原は眉をひそめる。

「という事はつまり、勝治は独自に旭沼事件を洗い直していたと?」

『部屋の様子を見る限りではそうなる。まぁ、勝治は事件の第一発見者だし、子供が両親の死の真相を知りたいと思うのは当たり前の話だから、別にそれが悪いという事ではないんだが……』

「やけに歯切れが悪そうだが?」

『あぁ、その取材ノートの内容なんだがな。軽く読んでみた限りではあるんだが……どうも詳しすぎる』

「詳しすぎる?」

『遺族とはいえ、素人の物書きが調べられる情報の範疇を超えている。明らかに当時の捜査関係者しか知らないような情報まで書いてあった。状況証拠だが、勝治に当時の捜査情報を教えた捜査関係者……もっとはっきり言えば「勝治の協力者」がいた可能性が高い』

「『協力者』……確かに、事態がこうなっては少し気になる情報ではあるな」

 榊原が同意すると、橋本はさらにこう続ける。

『それでだ。調べた所、実は巴川署の関係者の中に、捜査員として旭沼事件に関与している人間が二人いる事がわかった。一人は副署長兼警務総務課長の真砂是義警部。もう一人は地域交通課長の花町義直警部補だ。二十年前、この二人は間違いなく月園和治殺害事件の捜査本部にいた』

「本当か?」

『あぁ。榊原、どう思う? 月園和治殺害事件の捜査に携わった捜査官二人が、よりにもよって月園家が本拠を置く巴川村の警察署に赴任しているこの現状。偶然だと思うか?』

「偶然じゃないと言いたいのか? しかし、一警察官が人事に介入して意図的にここに異動するのは難しいと思うが」

『普通はそうだが、その警察署は普通じゃない。あまり言いたくないが警視庁の左遷部署として扱われている警察署だから、逆に言えば何か不祥事を起こせば意図的に異動できる可能性があるとも言える。もちろん、他の左遷署に飛ばされてしまう可能性もあるから博打には違いないが』

 橋本は苦々しげにそんな事を言う。と、今までの会話を聞いていた瑞穂の頭にふと思いついた事があった。

「もしかして……」

「ん?」

 瑞穂の呟きに気付いた榊原が振り返る。

「何だね?」

「……えっと、本当に単なる思い付きなんですけど、もしかして今回の事件で勝治さんが蘭さんを小学校に呼び出した理由って、まさにその『協力者』を得るためじゃないかなぁって……」

 言っているうちに自信がなくなったのか瑞穂の声は小さくなっていったが、予想に反して、榊原はその瑞穂の思い付きを真剣に検討しているようだった。

「つまり、勝治氏が両親が亡くなった『旭沼事件』を調べるための協力者として蘭さんを引き込もうとして、その説得のために彼女を小学校に呼び出したという事かね」

「はい。蘭さんは都内在住でこの村とも距離を取っていますし、同じ都内在住の勝治さんとなら連絡を取りやすいかなぁと思って。それに目を付けた勝治さんが蘭さんを仲間に引き入れようとした可能性はないかなぁって……やっぱり、変ですか?」

 だが、榊原の反応は意外にも良好だった。

「……いや、あながちその推理は荒唐無稽とも言えない。他に候補がない以上、私もその可能性は充分にあり得ると判断する」

「ほ、本当ですか!」

 瑞穂はホッとしつつも、もしそうならこの事件の構図がどう変化するのか、そこまでは考えつかなかった。実際、榊原も今の考えを全肯定しているというわけではないようである。

「ただ、もしその考えが正しかったとしても、勝治氏はどうやって蘭さんを説得するつもりだったのかが疑問だ。よほど有力な証拠でもない限り、彼女を説得するのは難しいと思うんだが……」

『おい、どうした? そっちで何かあったか?』

 と、電話口から橋本が榊原に呼びかける声が聞こえ、榊原は瑞穂に対して頷きを返しながら再び受話器を耳にした。

「いや、すまない。それより、他には何か?」

『そうだな……あぁ、巴川署から一つ調査要請があった。殺害された桶嶋俊治郎記者について詳細を調べてほしいと言ってきてな』

「その意図は?」

『その桶嶋記者が、二年前に鬼首事件における警察の捜査ミスをすっぱ抜いた「真中正義」という同社の社会部の記者じゃないかと言ってきたんだ。何でも、顔が似ていると言った署員がいたらしくてな。もしそうなら、その記者にすっぱ抜かれた事でこの警察署に飛ばされた人間には動機が発生するという話になるし、元社会部の記者なら他にも恨みを持っている人間がいるかもしれないという事だ』

「動機から犯人をあぶりだそうとしているわけか。で、結果は?」

 榊原も少し興味深げな様子だったが、結果は芳しくないものだった。

『残念だが、桶嶋記者とその「真中正義」という記者は他人の空似だ。日帝新聞に問い合わせをしたが、桶嶋記者は芸能部一筋の記者で社会部に在籍した事はなく、当然刑事事件の取材をした事もないという話だ。真中正義の方は「真壁昌義」というのが本名で、今は国際部に異動して中東の紛争地帯で海外取材中だという事が外務省の渡航記録で確認された。確かに顔が似ている事は事実のようだが、真中記者が今回の事件に関与している可能性はまずないと言っていいだろう』

「その情報、巴川署には?」

『この電話をかける前に私から伝えた。ついでに、こちら側で第二の殺人が起こったという事実も一緒にな。さすがに向こうも驚いていたよ』

「だろうな」

『それで、今後の事についてだが……』

 それからしばらく、榊原と橋本の間で細かい情報のやり取りが行われた。瑞穂は何気なく部屋の掛け時計を確認する。時刻は午後十一時十五分。電話を始めてからすでに三十分ほどが経過しており、島永弁護士の遺体が見つかってからすでに一時間以上も過ぎている。逆にあと一時間もすれば日付が変わる事になるが、ここ数時間に起こった出来事の内容が濃すぎて、瑞穂はとてもその事実が信じられないでいた。

 と、その時だった。

『ん? ……ちょっと待ってくれ』

 唐突に橋本がそう言い、電話の向こうでまた何かざわめきが起こるのが聞こえてくる。その瞬間、瑞穂は何か嫌な予感がした。そして、その嫌な予感は的中してしまう事になる。

『榊原、巴川署から悪い知らせが入った』

「何だ?」

『先程、巴川署内で二度目の殺人が発生した旨の連絡が入った。被害者は埼玉県警刑事部の金倉英輔警部補。鬼首塔乃を逮捕した当人だ』

 刹那、榊原の表情が一気に険しいものへと変わった。

「間違いないのか?」

『残念ながら、間違いなさそうだ。これから一通りの捜査をした後で、再度の捜査会議を行うと言っている』

「……一筋縄ではいかないとは思っていたが、向こうも連続殺人に発展したか」

 しかも、殺されたのは偶然ここに来たに過ぎない埼玉県警の刑事である。事態は現在進行形で事件が進行している巴川署側の方が深刻と言えた。

『一応聞くが、巴川署からそちらの署活系無線に何か連絡はあったか?』

「いや、今の所はない。状況を聞くに本庁とやり取りするのに手いっぱいで、こちらに連絡をする余裕がなくなっているのかもしれないな」

『あぁ、私もそう思う。とにかく、今後も連絡を密に取り合って、情報の共有を確実なものにするしかない。こちらも、調べられる事は調べるつもりだ』

「あぁ、よろしく頼む」

『では、一度この辺で。また何かわかったら連絡する』

 そこで電話は切れる。榊原は大きく息を吐きながら静かに受話器を下ろした。

「先生、一体この村で何が起こっているんですか?」

「何とも言えんね。現状、わかっている事は一つ」

 そう前置きして、榊原は告げた。

「隔絶された警察署と巴川村……双方に一人ずつ連続殺人鬼が存在していて、それぞれがそれぞれの犯行を繰り返しているという悪夢のような現実だ」

 それは榊原の言うように、本当に悪夢としか形容できない状況だった。

「当面は、謎の解明よりもこれ以上の犯行の阻止だな。正直な所、こちらから全く手が出せない巴川署の方はかなり厳しいと言わざるを得ないが……それでも、私の手の届く範囲でこれ以上の殺人を起こさせるわけにはいかん」

「そう、ですね」

 予想外の方向へ目まぐるしく進行していくこの事件に対する榊原の見解に、瑞穂はただ、必死に追いついていくだけで精一杯だった……


 役場裏のガレージに運び込まれた車両への調査が行われたのは、それから一時間ほどが経過した、日付が変わった午前零時過ぎの頃だった。榊原と瑞穂が知らせに来た城田に捜査本部を任せてガレージに来てみると、そこには島永弁護士のセダンのみならず、ずっと放置されていた鬼首塔乃の逃走車も並んで置かれていた。

「何とか二台とも押収できた。一応、元々あった場所には証拠保全のためにビニールシートをかぶせておいたが、正直、この雨だと気休めにしかならないかもしれない」

 セダンの傍らに立つ寺桐が難しい顔で榊原に言い、榊原もそれに応じる。

「この状況です。やれる事はやっておくのが最善だと思います」

「同感だ。とにかく、無事にこうした乾いた場所に運ぶ事ができた。残るは車内の調査だ」

「鍵は?」

「問題ない。我々が立ち会う事を条件に、彼が開けてくれる事になった」

 寺桐の言葉に、後ろに控えていた修理工場の親父が恐縮気味に頭を下げる。

「時間もないし、早速始めようか。お願いします」

 寺桐に言われて、工具を持った修理工場の親父が作業を開始する。その手際は非常によく、数分後には小さな音がして、運転席側のドアの鍵が開いたのが瑞穂にもわかった。

「開きました」

 親父がそう言って下がると、手袋をした寺桐が慎重に運転席側のドアを開ける。そして最初に車内の様子を何枚か写真撮影すると、いよいよ車内に散らばっているものの調査に取り掛かった。

「車検証に自動車税の納税証明書、自賠責保険の証明書……この辺は事件とは関係なさそうだな」

 助手席に散らばっているのはほとんどダッシュボードの中に入っていた自動車関係の書類や小物のようだった。それを一通り調べてあらかじめ車のすぐ傍に広げておいたブルーシートの上に並べていくと、続いて後部座席のドアの鍵を開けて、そちらに散らばっているものの調査にかかる。

「榊原君、このアタッシュケースは島永弁護士の物で間違いないか?」

 寺桐の問いかけに、榊原はゆっくり頷きを返す。

「えぇ。遺言発表の場に持ち込んだアタッシュケースと同じものです。中に問題の遺言状が保管されていました」

「……見た限りだと、問題の遺言状がないな」

 寺桐は後部座席を見回しながらそんな事を言う。

「じゃあ、犯人の狙いは島永弁護士が持っている遺言状だったという事ですか?」

 瑞穂は素直にそんな解釈を述べたが、榊原は意外にもその推測に反論した。

「いや、そうとも限らない。本当に遺言状だけが目的なら、遺言状が入っているアタッシュケースだけをあさればいい。こんな風に車全体をあさる必要はないはずだ」

「確かに、それはそうだな」

 寺桐も榊原の意見に同意する。それを受けて、榊原はさらに自身の推理を重ねた。

「考えられるとすれば、島永弁護士が発表後の遺言状をアタッシュケースに入れていなかったか、犯人が遺言状以外にも何か探す物があったか、あるいは遺言状を盗んだのはあくまでフェイクで、本命は何か別の物を盗むのが目的だったか、ですね。もっとも、その『別の物』が何なのかは今の所見当もつきませんが」

「もしかしたら、その何かはもう一つの鞄の中に入っていたのかもしれないな」

 寺桐が呟く。実際、車の中にはアタッシュケース以外にも、普段の仕事用に使っていると思しき革製の鞄も転がっていて、そちらも中身が車内にぶちまけられていた。もっとも、仮にそうだったとしても何が持ち去られたのか全く予想できないのがもどかしい話だった。

「他にめぼしいものは……」

 と、そこで不意に寺桐の携帯電話が鳴った。寺桐はいったん現場検証を中断して電話に出るとしばらく何かを話していたが、やがて電話を切って榊原に向き直るとこう言った。

「捜査本部に詰めている城田君から、本庁から新しい情報が入ったと連絡があった。埼玉県警の調査で、秩父市からこの村へ向かう途中のコンビニの防犯カメラに、このセダンが村の方向へ走っていく姿が映っているのが確認されたらしい」

「時間は?」

「午後五時二十分頃だ。そのコンビニからセダンが停車していた辺りまでは普通に車で走って十五分ほどの距離になる」

 その情報を受けて、榊原は素早く時系列を確認する。

「大まかに計算して、セダンが先程の停車場所に到着したのが午後五時三十五分頃で、そこから村まで歩いて十分程度。となれば、被害者が遺体の発見された『巴館』に到着できるのは午後五時四十五分以降という事になります」

「死亡推定時刻は午後五時半から午後六時までの約三十分間だったから、この話が本当なら死亡推定時刻を午後五時四十五分から午後六時までの十五分間に狭める事ができる」

 わずかではあるが、それでも一歩前進したように瑞穂は感じた。その間にも、榊原はさらにこう続ける。

「もう一つ、その情報が事実なら、島永弁護士は遺言発表後に村から離れずずっと潜伏していたというわけではなく、やはり一度村を離れてから何らかの理由で再び村に舞い戻った事になります」

「その場合、そんな事をした可能性として考えられるのは、最初から問題の時間に密かに村に戻る事をあらかじめ決めていたか、村に戻らざるを得なくなる何らかの事態が急に発生したか、あるいは誰かに呼び出されたか、だな」

 寺桐が可能性を列挙し、榊原も同意するように頷く。

「そうなると、被害者の携帯電話の確認が必要になってくるでしょうが、携帯は持ち去られてしまっていますからね」

「あるいは、それを隠す目的で携帯を持ち去った可能性もある。まぁ、会話内容はともかく通話記録だけなら電話会社に請求すればわかるとは思うが……」

 と、そこでさらに新たな声が車庫の中に響き渡った。

「失礼します!」

 振り返ると、車庫の入口の方に西巴川駐在所の野別巡査部長が立っているのが見えた。

「ご指示の通り、葉崎創子に対する聴取を行ってきました」

「忙しい時に済まないね」

 寺桐がそう言って野別をねぎらう。どうやら、以前の月園家の聴取の際に出ていた月園涼のアリバイの裏付け調査を頼んでいたらしい。

「それで、どうだった?」

「話を聞く限りですが、概ね月園涼さんの証言と同じで、大きな矛盾はありませんでした」

「矛盾はなかったか……」

 となれば、月園涼には事件当時の完璧なアリバイが成立する事になる。だが、野別はさらにこんな情報を付け加えた。

「ただ、一つ気になる話が」

「何だ?」

「証言によると月園涼さんは午後六時頃に葉崎創子さんに車で屋敷まで送ってもらったとの事で、実際に葉崎さんもそのように言っているのですが……その屋敷からの帰りに、殺害された月園勝治氏らしき人影を見たと証言しているのです」

 思わぬ新証言に、寺桐たちの表情が一気に緊張したものに変わった。

「どこでだ?」

「現場の小学校の門のすぐ手前辺りにある外灯の下を傘を差して歩いているのを見たとか。外灯の明かりで顔がはっきり見えたと言っています」

「正確な時間は?」

「午後六時十分くらいではないかとの事です。雨が強くて速度が出せなかったようですし、その条件で午後六時に月園家の屋敷に涼さんを送った帰りに見たと考えると、確かにそのくらいの時間になるはずです」

 その証言に、寺桐と榊原は顔を見合わせる。

「榊原君はどう思う?」

「……あくまでもこの話が本当であるという前提ではありますが、これが事実なら少なくともその時間まで月園勝治は生きていた事になります。となると、今まで不明だった勝治氏の死亡推定時刻にある程度の目安がつくかと」

「つまり、この目撃証言があった午後六時十分頃から遺体が発見された午後六時五十分までの間のどこかで殺害されたという事になるわけか」

 寺桐はそう解釈したが、榊原はさらにもう一歩踏み込んで自身の推理を告げる。

「それと付け加えるなら、殺害の順番もこれではっきりします」

「順番?」

「今までは勝治氏と島永弁護士、どちらが先に殺害されていたのかはっきりしませんでした。しかし、午後六時十分時点で勝治氏が生きていたのだとすれば話は別です」

「……さっきの話で、島永弁護士が殺されたのは午後五時四十五分から午後六時までの間という事がわかった。となると、先に島永弁護士が殺害され、その後で月園勝治が殺害されたという流れになるわけか」

 と、ここまで聞いたところで瑞穂の頭にふとした疑問が浮かび、思わず口を出していた。

「あ、あの! でも、少しおかしくありませんか?」

 その言葉を聞いた榊原たちが瑞穂の方を振り返り、瑞穂は一瞬ひるんだように言葉を止める。が、榊原は真剣な様子で瑞穂に先を促し、瑞穂もそれを受けて勇気を振り絞りながら頭に浮かんだ疑問点を口にする。

「その話が本当なら、勝治さんが屋敷を出たのは目撃される直前って事になりますよね。それって時間的にギリギリじゃありませんか? だって、牧雄さんが部屋に勝治さんがいない事に気付いたのって午後六時ちょうどの話ですよね?」

「……確かに、タイミング的には本当にギリギリだな」

 榊原は瑞穂の意見に妥当性があると考えたのか、口に手を当てて少し考え込む仕草を見せた。しばらくして、慎重な様子でゆっくりと話し始める。

「少し時系列を整理してみようか。牧雄氏が勝治氏がいない事に気付いたのと涼さんが葉崎創子の車で屋敷に帰宅したのがほぼ同時で、これが午後六時頃。同じ午後六時頃に、武治助役が役場を出て屋敷に向かい始めている。現場の小学校は役場を少し北に進んだ先。屋敷から小学校へ向かうには、役場へ向かうのと同じ道を通るしかない」

「……あれ?」

 と、ここで瑞穂は違和感を覚えたのか首を傾げた。

「でも、変ですよね。仮に午後六時十分に小学校の辺りに勝治さんがいたんだったら、屋敷を出たのは牧雄さんが部屋に来る直前くらいですよね。それで同じ道を歩いていたんだったら、帰ってくる武治さんとすれ違いませんか?」

「というより、その理屈なら、そもそも葉崎創子の車が月園家の屋敷に向かっている途中で勝治氏を目撃していてもおかしくない。目撃したのが帰り道だけだったというのは解せない話だ」

 寺桐もさらなる矛盾点を指摘する。

「二人とも見落とした? あるいは、武治さんが嘘をついている?」

 瑞穂が混乱気味に言う。が、そこで唐突に榊原がこんな事を言った。

「いや、そうなると考えられる事がもう一つある」

「な、何ですか?」

「勝治氏がもっと前の時点で屋敷を出ていて、その上でどこかを経由してから小学校へ向かったという場合だ。この場合、午後六時の時点で勝治氏が別の道を歩いていたとすれば、屋敷から役場へ向かう道で武治助役とすれ違う事はない」

 思わぬ推理に、寺桐は眉をひそめる。

「それはそうかもしれないが……だが、それが事実だったとして勝治氏は一体どこに向かったんだ? 長い間村から離れていた彼が行きそうな場所など、私にはとても思いつかないが」

 もっともな疑問である。だが、それに対する榊原の答えは予想外のものだった。

「例えば……『巴館』というのはどうでしょうか?」

「な、何?」

 思わぬ事を言い始めた榊原に、寺桐はギョッとした表情を浮かべた。が、榊原は止まらない。

「ここまで来れば、その可能性を考える必要があります。一度村を出た島永弁護士が村に戻って来て、あの『巴館』の廃墟で殺害されていた理由。それが、『巴館』で勝治氏と密かに会うためだったと考えれば、これまで意味不明だった彼らの行動に筋は通ります。考えてみれば、あの廃墟はこの大雨の中での密会場所としては最適ですしね」

「じゃあ、何かね。君は、島永弁護士を殺害したのは勝治氏だったとでも言うつもりなのかね?」

「えっ?」

 突然そんな事を言った寺桐に瑞穂は驚きの視線を向ける。が、寺桐は当然と言わんばかりに言葉を続けた。

「可能性としてないとは言い切れない。密会中に何らかのトラブルがあって衝動的に島永弁護士を殺害したか、あるいは最初から殺害目的で島永弁護士を呼び出したか……単純だが、充分あり得る状況だ。榊原君はどう思うね?」

 が、これに対する榊原の答えは微妙なものだった。

「そうかもしれませんし、そうではないかもしれません」

「君にしては曖昧な言葉だな」

「えぇ。これについても可能性が二つありますので」

「二つ?」

「一つは寺桐さんの言うように、故意かどうかは別にして密会中に勝治氏が島永弁護士を殺害した場合。ただしこの場合、勝治氏を殺害した別の殺人犯がもう一人存在する事になり、その犯人は勝治氏が島永弁護士を殺害したのとたまたま同じ凶器・同じ手法で勝治氏を殺害した事になります。問題は、そんな偶然が果たして起きうるのかという事。そして、この村に巴川署の犯人も含めて殺人犯が同時に三人も存在するという状況が成立するのかという点です」

「……もう一つの可能性は?」

 寺桐の問いかけに、榊原はあっさり答えた。

「密会のために『巴館』を訪れた勝治氏が、すでに他の人物に殺害されていた島永弁護士の遺体を発見したものの警察に通報せず、そのまま小学校へ向かってそこで同じ犯人に殺害された、という場合です」

「な……」

 瑞穂は絶句するが、榊原は自身の推理を進めていく。

「仮に、島永弁護士が殺害されたのが到着直後の午後五時四十五分だったとします。このセダンの車内の様子から、犯人は島永弁護士を殺害した後に車の鍵を奪い、この車が駐車されていた県道脇に向かったと考えるのが妥当でしょう。つまり、その時点で犯人は一度『巴館』を離れている。そこへ入れ違いのように勝治氏が『巴館』にやって来て、そこで島永弁護士の遺体を発見した」

「……」

「なぜ、この段階で勝治氏が警察に通報しなかったのか、その理由までは現状ではわかりかねます。島永弁護士と密会しようとした事実を知られたくなかったのか、犯人と疑われるのが嫌だったのか、あるいは他に理由があったのか……その辺りの事は今後の捜査次第という事になるでしょう。とにかく、彼は通報する事なく『巴館』を出て、そのまま小学校の方へ向かった。『巴館』から小学校に向かった場合、葉崎創子が目撃した時間にちょうど小学校の近くに到着するはずです」

「一体、なぜ小学校に?」

「その後に蘭さんとの密会が控えていたからでしょうね。彼が『巴館』での密会にどれほどの時間を費やすつもりだったのかはわかりません。ただ、蘭さんが指定されていた時間は午後七時でした。仮に島永弁護士との密会予定が一時間程度とするなら、そこから小学校に歩いて行けばちょうど午後七時前後になるはずです」

「だが、実際は島永弁護士が殺害されてしまっていて、密会自体がなくなってしまった、結果、彼は予定よりも早く小学校に向かわざるを得なくなった、という事か」

「さすがに死体がある『巴館』にずっと滞在しようとは思わないでしょうからね。だからと言ってまた屋敷に戻るのも、怪しい行動を目撃される危険性が出てしまう。必然的に、次の密会先である小学校へ向かうしかなかったのでしょう」

「確かに、それなら時間的な辻褄は合うか」

 寺桐は唸るようにそんな言葉を漏らす。が、それでも榊原は慎重だった。

「断っておきますが、今までの推理は葉崎創子の目撃情報が事実だったという前提の上に成り立っているものです。さらに言うと、もしこの推理が正しかったとしても、それはそれで疑問は多く残されています。さっきも言った通り、勝治氏が通報をしなかった理由についてもそうですし、最大の疑問は勝治氏が島永弁護士と密会して一体何をしようとしていたのかという点です」

「客観的に見れば、遺言の執行管理者と遺言状における当主継承の事実上の最有力候補が密会しようとしているわけだ。しかもその後、その最有力候補が遺言状における本来の第一候補である月園蘭とも会おうとしていた。正直、かなり怪しい行動と言わざるを得ない」

「やっぱり、遺言絡みの何かという事なんでしょうか?」

 瑞穂が思わずそう言うが、榊原は何も言わずに静かに何かを考えているようだった。と、ここで寺桐が改まった様子で榊原にこんな言葉をかける。

「榊原君、少し話が変わって申し訳ないが、君はこの村で起こった殺人事件と現在巴川署で起こっている事件は別々の犯人によって引き起こされていると考えているのかね?」

「基本的にはそう考えていますね」

「しかし、そうとは限らないのではないのかね。確かに一見すると二ヶ所で同時並行的に殺人が起こっているように見えるが、冷静に考えればこちらで起こった島永弁護士殺しと月園勝治殺しが起こったのは巴川橋が流れた午後七時より前だ。だとするなら、こちらで殺人を起こした犯人が巴川署側に逃げ込み、橋が流れたのをこれ幸いと向こうで連続殺人を起こしているという可能性も考えられると思うのだが」

 思わぬ意見に瑞穂は息を飲んだ。確かに、言われてみればその通りである。が、榊原はあくまでも冷静だった。

「えぇ、確かにその可能性も一度は考えました。ですが、情報が集まる中でその考えは否定寄りになりつつあります」

「理由を聞こうか」

「まず、普通の犯人なら二件も殺人を犯した後でわざわざ警察署に逃げ込むなどという事はしないでしょう。どう考えても自殺行為ですし、逃げ込んだ時点では橋はまだ流れておらず、いくらでも警察の応援が来る可能性の方が高かったわけですからね。もし、この状況で警察署側に逃げ込む犯人がいたとすれば……言いたくはありませんが、それは犯人が巴川署の関係者だったという場合だけです」

 榊原は言いにくい事を遠慮なく告げる。が、寺桐はその辺りの事はあらかじめ覚悟をしていたのか、黙って先を促した。

「ただ、仮にそうだったとしても、この場合犯人は『島永弁護士と月園勝治殺害時に村側にいて、その後橋が流された時点では巴川署側にいた人間』という事になります。そして、今までの情報からすると、この条件に当てはまる人間は二人だけしか存在しません」

「その二人というのは?」

「言うまでもなく、非番なのに急遽呼び出されて巴川署に向かった虎永巡査部長と、健康診断の打ち合わせのために巴川署に向かった月園信治医師です。しかし、結論から言ってしまうと、この二人には村側で殺人を起こす事は不可能なのです」

 榊原ははっきりそう断言した。

「先程の話を再度繰り返しますが、現状でわかっている島永弁護士殺害時刻は午後五時四十五分から午後六時までの間。月園勝治殺害時刻は午後六時十分頃から午後六時五十分までの間です。まず、月園信治医師は午後六時まで診療所で仕事をしていて、これは同じ診療所にいた通いの看護師により確認されています。よって、信治医師が島永弁護士を殺害する事は不可能。そして、信治医師の証言では彼が警察署に到着したのは午後六時十分過ぎで、月園勝治が葉崎創子に目撃されたのもほぼ同じ時間なのです。それ以降、彼が警察署から出なかった以上、信治医師が月園勝治を殺害するのも不可能という事になります」

「そして、同じ事はその信治医師のアリバイを証明している虎永君も同じ、という事か」

 寺桐が心なしかホッとした風に言う。

「もちろん、虎永巡査部長のアリバイが成立するのは勝治殺害においてだけですので、その前の島永弁護士殺害のアリバイについては現時点では何も言う事ができません。ただ、この二件が同一犯の犯行である可能性が高い以上、一件だけでもアリバイがあれば犯行不可能と言わざるを得ないのが現状なのです」

「なるほど。その上で、他に該当時間に村側から警察署に入った人間がいない以上、一連の事件が同一犯という可能性は否定せざるを得ず、村側と警察署側でそれぞれ別の人間が殺人を起こしていると考えた方が妥当というわけか。まったく、君も色々考えるね」

 寺桐の言葉に、榊原は会釈するように軽く頭を下げながら、続けてこう言い添えた。

「もっとも、今までの推理は全て『午後六時十分頃に小学校近くで生きている月園勝治を見た』という葉崎創子の証言が正しかったという前提に立ったものです。ですので、この『葉崎証言』とでも言うべきものの信憑性をはっきりさせる必要があるのも事実です」

「それもそうだな。しかし、わかった事も多いが、謎もさらに増えたよう感覚だ」

 寺桐はフウと息を吐く。

「それについてですが、今後の事について私から寺桐さんに提案したい事があります」

「提案?」

「えぇ」

 そう前置きしてから、榊原は何事かを小声で寺桐に伝える。それを聞いた寺桐の表情が目に見えて険しくなった。

「本気か?」

「現状では、これが最善策かと」

「……」

 寺桐は榊原の『提案』をどうするか考えていたが、他に手がない事は彼自身もよくわかっていたのか、やがて苦渋の表情でこう言った。

「わかった。君の言う通りにしよう」

「感謝します」

 この状況下で榊原が何を『提案』したのか。そして榊原がこの先の何を見据えているのか。瑞穂がその具体的な内容を知るためには、もうしばらくの時間が必要となる……

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