第三章 巴川警察署~第二の殺人
「あの、すみません。少しよろしいですか?」
突然かけられた言葉に虎永と信治が振り返ると、カウンターの向こうに埼玉県警の麻布巡査部長が少し困ったような表情で立っているのが見えた。何かあったのかと、虎永が椅子から立ち上がって対応する。
「何か?」
「いえ、大した事ではないんですが、うちの警部補がどこにいるのか知りませんか?」
思わぬ問いかけに、虎永たちは一瞬互いの顔を見合わせ、ほぼ同時に困惑した表情を浮かべた。
「警部補と言うと、金倉警部補ですか?」
「そうです。さっきから姿が見えなくて……」
「いや、ここには来ていないはずです」
「えぇ。僕も見ていませんね」
虎永に続いて信治も同調し、麻布は残念そうな顔をした。
「そうですか……すみません、もう少し探してみます。もし見かけたら、私が捜していたと伝えてもらえますか?」
「それは、別に構いませんが」
「ありがとうございます。では」
麻布はそう言って頭を下げ、そのまま廊下の奥へ去って行った。
……あの異常な捜査会議が終わってから、すでに約二時間が過ぎようとしていた。時刻はあと十五分で午後十一時になろうかというところ。外では相変わらず大雨が降り続けており、やむ気配は一向にない。巴川署の状況は全く変わっていなかった。
そんな中、虎永と信治は一階玄関前のオフィスにいた。捜査の中心を担う刑事生活安全課の面々は今も捜査をしているはずであり、実際に今もオフィスでは源響子巡査が殺された八戸巡査のデスクを調べているのが見える。
会議が終わると、会議の参加者たちは各々の仕事や捜査へ散っていった。警務総務課も紗江が引き続き鬼首の監視業務。戸沼は通信室業務へ向かい、残された虎永は真砂との協議の末、業務交代の時間までこうして信治と共にオフィスでの業務をする事となったのである。と言っても、この状況でできる仕事など限られており、結局しばらくすると信治との雑談をする事になってしまっていたのだが、そこに突然、麻布が声をかけてきたというわけだった。
「埼玉県警さんも大変だな」
去っていく麻布を見送りながら、唐突に信治がそんな事を言った。
「大変?」
「意に反してこんな所に閉じ込められた上に、殺人事件に巻き込まれたわけだ。しかも、あくまで御客人だから主導的に捜査をする事もできない。僕がその立場だったら歯がゆいことこの上ない話だ。正直、やってられないね」
「まぁ、確かにそれはそうだが」
信治の言い方はともかく、彼の言いたい事は虎永も少なからず共感できた。と、そこへ廊下の向こうから石井がオフィスに姿を見せる。
「あ、課長。ご苦労様です」
「そちらもご苦労様です。ところで今のは、麻布巡査部長ですか?」
「えぇ。金倉警部補がどこにいるか知らないかという事でしたが、課長はご存知ですか?」
虎永の問いに、石井は眉をひそめる。
「金倉警部補ですか? いえ、申し訳ありませんが見ていませんね」
「そうですか……。それより、課長はどうしてここに?」
「源君に頼みたい事がありましてね。ここにいると思ってきたのですが」
その言葉に、オフィスで何か作業をしていた響子が顔を上げた。
「課長、何か?」
「あぁ、源君。実は至急頼みたい事が……」
と、石井が何か話そうとした瞬間、不意に刑事生活安全課のデスクの固定電話が鳴った。近くにいた響子が反射的に受話器を手に取り、しばらく話し込んでいたが、やがて石井に受話器を差し出した。
「本庁の橋本一課長からです。石井課長に緊急で話したい事があると」
「私に、ですか?」
石井は受話器を受け取る。しばらくは普通の会話だったが、しばらくすると石井の表情がどんどん険しくなっていき、やがてポツリと呟くように声を漏らした。
「……わかりました。善処します。では、これで」
そう言うと、石井は電話を切り、この男としては珍しく深いため息を漏らす。どうやら、何か悪いニュースのようだった。
「課長、何か?」
「……大変な事になりました」
そう前置きすると、
「午後十時頃、巴川村で再び殺人事件が発生したという事です」
「え?」
「我々が何もできないでいる間に、村で第二の殺人を許してしまったという事です!」
それは、ある意味最悪な知らせだった。
「……この件を署長たちに知らせてきます。源君、先程の用事についてはまた後程」
「は、はい。わかりました」
響子が返事をすると、石井はそのまま廊下の奥へ消えていく。と、そこへさらに虎永の横にいた信治が声をかけてきた。
「虎永、悪いが、少し席を外していいか?」
「構わないが、なぜだ?」
「多目的室に置きっぱなしにした診察鞄を持って来る。この状況だと、この先こっちでも何が起こるかわからない。だから、治療道具はできるだけ手近な場所に置いておきたい」
「わかった。できるだけ早く帰ってこい」
「言われるまでもないさ」
そう言うと、信治は肩をすくめて廊下の奥へ歩いて行った。後には響子と虎永が残される。
「大変な事に……なりましたね」
「あぁ、そうだな」
「……それもこれも、あの女がここに来たから……」
不意に、響子が拳を握りしめてそんな言葉を漏らす。
「あの女というのは、鬼首の事か?」
「そうです。あの女さえ来なければ、こんな事には……」
「……気持ちはわかるが、刑事なら事実から目を背けるな。残念だが今回の事件、房の中にいた彼女にだけは絶対に不可能だ。それは君にもわかっているんだろう?」
そう言われて響子はハッとしたように目を見開き、そして申し訳なさそうにうなだれた。
「すみません、私……」
「とにかく、一度落ち着け。休憩室からお茶でも持ってこようか?」
「……ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」
「そうか。ならいいんだがな」
そう言いながら腰をかがめて手近な椅子に座って一息ついた……その瞬間だった。
「う、うわぁぁぁぁっ!」
署内のどこかから、本日二度目となる叫び声が聞こえた。そしてその声は、今別れたばかりの信治のものに他ならなかった。
「今のは……」
「また地下か!」
虎永は椅子から立ち上がると、動けないままでいる響子を残し、そのまま弾かれたように南の階段の方へ走って行った。階段を駆け下りると、すぐそこにある多目的室の前に白衣姿の信治が立っているのが見える。どうやら信治が襲撃されたわけではないようでひとまずほっとした虎永だったが、すぐに信治の表情が、少し蒼ざめつつもかなり険しくなっているのを見て取っていた。
「どうしたんだ!」
「……見ろ」
信治は表情を変えないままただ一言そう言って、目で多目的室の中を示す。それにつられて虎永も部屋の中を見やり……そして見てしまった。
薄暗い多目的室は殺された二人の遺体安置所として使われていて、二人の遺体が乗ったストレッチャーが部屋の中央に並んで置かれている。その二つのストレッチャーの間……部屋のほぼ中央に、一人のスーツ姿の男がうつぶせで倒れているのが見えた。これだけ騒いでいるのに男はピクリとも動く様子がなく、事態が最悪なものになっているのは容易に想像できた。
そのスーツの色合いに虎永は見覚えがあった。そして次の瞬間、虎永は思わずその人物の名前を口走っていたのである。
「か、金倉警部補!」
埼玉県警刑事部捜査一課主任警部補・金倉英輔は、その体を冷たい遺体安置室の床に横たえ、あまりにも短い人生を終える事になってしまったのだった……。
……それから約一時間後、ちょうど日付が変わった九月二十八日午前零時過ぎ、二階の大会議室で二度目となる緊急の捜査会議が行われようとしていた。正面には署の幹部陣が重苦しい表情で座っており、前回同様に石井が司会進行を務める。
「では、二度目の捜査会議を始める。まず、事件概要を」
石井に言われて、今回も柿村が事件概要を説明する。
「被害者は埼玉県警刑事部捜査一課主任の金倉英輔警部補。本日……失礼、昨日の午後十一時頃に本署地下一階の多目的室内で倒れているのを月園先生が発見。先生の叫び声を聞いた署員たちが駆け付け、事態の発覚に至ったものです」
「月園先生、今、柿村君が言った事に間違いはありませんね?」
石井が確認のために尋ね、信治は重々しい表情でそれを認めた。
「えぇ。間違いありません」
「失礼ですが、なぜあの部屋に行ったのかを教えて頂けますか?」
「前回の事件であの部屋で検視をしたわけですが、その際に部屋の中に診察鞄を置きっ放しにしたままだったのを思い出しましてね。色々専門的な道具も入っていますし、取りに行こうとしたわけです」
「見つけた時は一人だった?」
「それはそうですが、その直前までは虎永巡査部長とオフィスに一緒にいました。それはオフィスの防犯カメラを調べればわかるはずです」
「見つけた後は?」
「不覚にも叫び声を上げてしまいましてね。その声を聞いて最初に虎永巡査部長が駆け付けてきて、その後から他の方々も次々やってきました。あとはご存知の通りです」
「なるほど。では、すみませんが引き続き検視の結果について報告して頂けませんか?」
石井の要請に対し、信治は複雑そうな顔で応じた。
「現場に置いておいた診療道具一式が証拠として押収されてしまったので最低限の検視しかできていませんが、ひとまず死因が撲殺である事だけは間違いありません。後頭部を思いっきり殴られていて、ほぼ一撃で即死だったはずです」
殴られたのが後頭部という事は、犯人は金倉警部補の後ろから殴りかかった事になる。金倉警部補に気付かれないよう不意を突いたのか、あるいは、金倉警部補が背中を見せるほど信頼している相手だったのか……
「死亡推定時刻ですが、恐らく発見された時点で死後一時間も経過していないと思われます。せいぜい、三十分前後ではないかというのが僕の推測です」
「遺体発見が午後十一時頃。という事は、死亡推定時刻は午後十時半頃と言う事ですか?」
「あくまで現時点での判定であるという条件は付きますがね。詳細については前回同様ちゃんとした解剖が必要ですが、救助が来るまでそれは無理でしょう。プラスマイナス十五分程度は幅を持たせた方がいいかもしれません」
「ありがとうございます。では、鑑識から何かありますか?」
石井の言葉に、種本が立ち上がって
「あらかじめ言っておくが、まだ第一の事件で押収した証拠品に対する鑑識作業も済んでいない段階だ。従って、現時点では第二の事件に関して凶器など本当に最低限の重要な証拠の鑑定しか行えていない事は理解してほしい。とにかく、証拠の数に対してあまりにも時間と労力が足りなさ過ぎる」
種本の言葉に、文句を言う人間は誰もいなかった。この状況下ではそれも仕方がないのは事実であるし、実際問題としてこの中で鑑識作業ができるのは種本しかいないのである。鑑識作業や証拠の鑑定に遅れが生じてしまうのはやむを得ない話で、むしろこの厳しい状況で最低限の鑑定をしてくれただけでも充分すぎるほどだった。
「とりあえず、現場に転がっていた消火器が凶器だと断定していいと思う。簡単に確認したが遺体の傷口の形状と一致しそうだし、消火器側にも血痕と毛髪が付着していた。出自については恐らく、最初からあの部屋の隅に置かれた消火器を使ったと考えていいだろう」
「足跡は指紋については?」
「採取自体はできたが、あの部屋には署の人間が日頃から多く出入りしている。前回の事件同様、誰の痕跡が残っていても、それだけで犯人だと判断する証拠にはならないだろうな」
「現場に安置されていた前回の事件の被害者……八戸進と桶嶋俊治郎の遺体に、事件前と何か変わった所はありましたか?」
「いや、確認した限りはなかった」
「そうですか……」
「繰り返すが、まだ第一の事件で押収した証拠の鑑定が終わっていない段階だ。今回の事件における他の証拠の鑑定については時間がかかるという事は理解してほしい。現状での報告は以上だ」
そう言って種本は腰を下ろした。
「次に、被害者の金倉警部補の足取りですが……前回の会議が終了した後、彼がどこで何をしていたのか、わかる人はいますか?」
石井の問いかけに、花町が慎重な口調で続けた。
「前回の会議が終わったのが午後九時を過ぎた頃。そこからは各自分散して捜査や職務を行っていたわけだが……麻布巡査部長、金倉警部とは一緒に行動を?」
不意に話を振られて、麻布は緊張した様子で立ち上がる。
「は、はい。一緒に控室に指定されていた一階の第一小会議室に戻りました。そこから一時間くらいはそこで事件の事や今後の事について話をしたりしていたんです」
「彼が部屋を出て行ったのは?」
「そうですね……確か、午後十時頃だと思います。トイレに行くついでに署内を見て回ると言っていたので、そのまま送り出したんです。でも、それから結構な時間が経っても戻らなくて、どうしたのかと思って探していた時に遺体が見つかったのです」
「あなたが第一小会議室を出たのは何時頃ですか?」
「えっと、午後十時四十五分頃だと思います。出てすぐにオフィスにいた虎永巡査部長と月園先生に声をかけたはずです」
麻布の言葉に虎永も頷く。
「確かです。その時間に間違いなく彼から『金倉警部補の行方を知らないか』と声をかけられました」
「では、その後はどうしましたか?」
石井の問いかけに、麻布は実直に答える。
「署内を当てもなく探し回っていました。その間に出会った人はいなかったはずです」
「ふむ。では、金倉警部補が第一小会議室を出てから発見されるまでの間における各自のアリバイを確認しましょうか」
石井の提案に対し、真っ先に声を上げたのは種本だった。
「言った通り、鑑定しなければならない証拠が山ほどあったんでな。ずっと鑑識室で作業をしていたよ」
続いて虎永も自身のアリバイを主張する。
「十時以降は月園先生と一緒にずっとオフィスにいて、今回の事件について色々話をしていました。さっき月園先生が言ったように、それはオフィスの防犯カメラで確認できると思います」
横で信治が無言で頷くのが見えた。が、花町がさらに鋭く突っ込んでくる。
「その一時間の間に君たちに声をかけたのは麻布巡査部長だけかね?」
「……そのはずです」
「金倉警部の姿をオフィスから見た記憶は?」
「いえ、見ていたら印象に残っているはずです」
「では、その一時間の間にオフィスに出入りした人間はどのくらいいましたか?」
この質問には虎永も困った。
「いたとは思いますが……すみません、誰がどの時間にどのくらいオフィスにいたのか、詳しい事はわかりません。防犯カメラを見たらわかるとは思いますが……」
と、ここで隣に座っていた信治が発言する。
「源巡査はずっとオフィスにいたはずです。それと確か、麻布さんが僕たちに声をかけたすぐ後に、石井警部補がオフィスに顔を出したのは覚えています」
「確かですか?」
花町が石井に顔を向けると、石井はあっさりと頷いた。
「確かにその通りです。源君に仕事を頼もうと思ってオフィスに来ました。あぁ、そう言えばその時、本庁の橋本捜査一課長から刑事生活安全課に電話がありましたね」
「電話?」
「えぇ。源君が取ってくれて、すぐに私に代わりました。ですが、それが……巴川村の方で新たな殺人事件が発生したという内容でしてね……」
「なっ!」
さりげなく話された衝撃の発言に、何人かの署員が絶句する。が、石井をはじめとする幹部陣や一部の署員はすでにこの情報を共有していたのか、深刻な顔をこそしたがあくまで落ち着いた態度である。代表して石井が事情を知らない署員に頭を下げた。
「報告が遅れて申し訳ありませんね。しかし、向こう側にこちらから手を出せない以上、こちらの事件の捜査や情報共有を優先すべきと判断しました。実際、橋本一課長からもこちらの捜査に集中するようにとの事でしたし」
「そう、か……。しかし、こっちも大概だが、あっちもあっちで大変な事になっているようだな」
真砂はそう言って思わず窓の外を見やる。が、石井はそれに気付いていないのか、そのまま話の続きを語り続けた。
「とにかく、その電話が終わってオフィスを後にし、この件を報告するために二階の捜査本部に戻ろうと階段を上っていた時に月園先生の悲鳴を聞いたんです。それで私はそのまま捜査本部に駆けこんで、そこにいた真砂副署長と花町課長に一課長からの情報と今しがたの異変についての報告をし、そのまま真砂副署長と共に地下に駆け付けると、あの有様でした」
「では、オフィスに来る前のアリバイは?」
「捜査のために色々な場所を行ったり来たりしていましたのでね。その間に柿村君や源君に指示を出したりはしましたが、アリバイのない空白の時間はあったと言わざるを得ません」
「ならば、その柿村巡査部長と源巡査のアリバイは?」
真砂の問いかけに二人は緊張した様子で答える。
「自分は石井課長の指示で現場となった留置所で捜査を。何か見落とした事がないかと考えて、色々調べていました」
「私も石井課長の指示でオフィスにあった八戸巡査のデスクを調べた後、そのままオフィスの自分のデスクで休憩していました。そこに石井課長がやって来て、少ししてデスクの電話が鳴ったんです」
「君がそれを取ったのかね?」
「はい。相手は本庁の橋本捜査一課長でした。石井課長に代わるようにとの事だったので、その通りに」
響子の証言に石井も同意するように頷き、今度は真砂と花町の方へ視線を向ける。
「逆にお聞きしますが、副署長と花町課長はどちらに?」
「ずっとこの捜査本部にいた。もっとも、私は途中で中座して何度か副署長室に戻った時もあったから、完璧なアリバイというわけでもないが」
真砂が答え、花町も頷く。
「広山巡査は?」
「真砂課長の指示で、応接室で鬼首塔乃の監視を行っていました。その間、一歩も部屋からは出ていませんが、その証人は見張っていた鬼首塔乃一人しかいない事になります」
「鬼首塔乃に何か怪しい言動は?」
「何も。ずっと黙ってソファに座っていました。皮肉な事ですが、殺人手配犯であるはずの彼女にだけは、この一連の事件において絶対に犯行は行えないという事になります」
ちなみに、さすがに二回連続で捜査会議に出席しないのはまずいと判断されたため、真砂の指示で今回は紗江が会議に出席し、代わりに戸沼が鬼首塔乃の監視役という形で欠席している。その戸沼のアリバイについては真砂が聞いていたが、それによると相変わらず通信室で通信業務をしていたらしく、午後十時過ぎと午後十一時過ぎに定期連絡のために捜査本部に顔を出した以外はずっと通信室にいたらしい。そして、午後十一時過ぎに定期連絡のために捜査本部を訪れた際に、捜査本部に残っていた花町から地下階で再び異常が起こったらしいという話を聞いたというのが本人の弁だった。
それを報告すると、真砂は次に奥津に視線を向けた。
「奥津巡査部長は?」
「山森巡査部長と一緒に、外に出て署の裏手の山の確認作業をしていました」
「山の確認?」
「私が命じた」
発言したのは花町だった。
「この大雨で署の裏手の山で土砂崩れが起こる可能性がある。もしここが土砂崩れに襲われるような事があればひとたまりもない。だから、その兆候がないかどうかを確認させると同時に、署の周囲に怪しい人間等がいないかどうかも念のために確認させた」
「結果はどうでしたか?」
石井の問いかけに奥津は実直に答える。
「ひとまず土砂崩れの兆候はなし。また、怪しい人間等も確認できませんでした」
「つまり問題の時間、この二人はずっと外にいたわけだ。前の捜査会議でも言ったように、署の出入りは正面の玄関からしかできない。外にいた彼らには一応のアリバイが成立しているというわけだ」
花町の言葉に石井が引っ掛かった表情を浮かべる。
「一応と言うのは?」
「……非常口を誰かが内側から開ければ話は別というだけの話だよ。こうなった以上、わずかな可能性も見過ごさない方がいいと思うのでね」
と、真砂が奥津たちの方を見てさらに尋ねる。
「一応聞くが、外にいた際に二人が別行動したという事は?」
「ありません」
「な、なかったと思います。はぐれたら大変だと思って、ずっと二人一組で行動していましたので」
奥津は簡潔に、絵麻子は必死な様子で真砂の質問に答える。
「結構。では、最後に署長は?」
「……前回と同じく、ずっと署長室にいました。私が現場に出ても邪魔なようでしたので」
少し皮肉がこもった口調で正親町は答える。が、いちいちそれに反応する署員もいない。それが不満だったのか、正親町はそれ以上何も言わず、ふてくされたかのように腕組みしてしまった。
「今回、完璧なアリバイがあるのはずっとオフィスにいた虎永巡査部長と源巡査の二人だけか」
「ここまでアリバイがしっかりしていると、逆に疑わしく思えてくるわね……」
思わずしたという風な絵麻子の言葉に、虎永はじろりと睨み返す。
「どういう意味だ?」
「……すみません、失言でした」
さすがにまずいと思ったのか、絵麻子はすぐに謝罪をする。が、この場に疑心暗鬼にも似た重い空気が漂っているのも事実だった。
「とにかく、捜査をやめるわけにもいかないが、だからと言ってこれ以上の犠牲を出すわけにはいかない。何か有益な情報はないかね?」
だが、今回は前回と違って活発な議論にはならなかった。留置所という特殊な状況下で起こった前回と違って今回の事件は形態自体はシンプルであり、シンプルであるが故になかなか議論が深まりにくいのである。結局、その後もいくらか散発的に議論が行われたがあまり有意義なものではなく、この異常な捜査会議は平行線のまま時間を食いつぶす事になってしまったのである……。