表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/29

第二章 月園家~第一の殺人

 午後七時、目の前で巴川橋が濁流にのみ込まれて流されていくのを、瑞穂や榊原をはじめとする面々は呆然と眺めるしかなかった。対岸の巴川署の方では何人かの警察官らしい影が慌てて橋のたもとの辺りにやって来て何かをしているのが見えるが、この暗闇に豪雨という状態で何をしているのかははっきりとわからず、やがてさらに激しくなった雨によりその姿も見えなくなってしまった。

「……寺桐さん、ここ以外に警察署に通じるルートは?」

 と、不意に瑞穂の席に座っていた榊原が寺桐にそう尋ねた。それまで呆けていた寺桐はそれで正気を取り戻したらしく、険しい表情で榊原の問いに応えた。

「いや、ない。こんな事を言うのはあれだが、この橋が流されるなど想定していなかった」

「対岸に渡る橋はこれ一本だけですか?」

「上流にもう一本あるが、正直な所かなり遠い。それに、そこを渡った先にある道路とこの警察署の間は登山者や林業従事者ですら立ち入らない深い森林になっている。はっきり言って、この大雨で森を抜けようとしても自殺行為にしかならない」

「つまり、あの警察署は事実上の陸の孤島になってしまったという事ですか」

 さすがに、榊原の表情も険しくなっている。

「どうする?」

「……とにかく、まずは巴川署側と連絡が取れるかどうかを確認する必要があります。橋が流されて警察署が孤立したとしても、現時点で建物が停電している様子はない。ならば、警察無線や電話は通じるはずです。向こうと連絡を取って、今後の方針を確認するのが第一でしょう。その上で巴川署から警官が来る事ができないなら、本庁に連絡して他の警察署から警官を派遣してもらう必要があります。事情はどうあれ、殺人事件が起こっているのは事実ですから。それまでは、私たちと寺桐さんたちこちら側にいた警察官だけで事件に対処するしかありません。もちろん、これが難しい話だという事はわかっていますが」

「そう、だな」

 榊原の言葉に寺桐も同意し、すぐに制服につけている署活系無線を手に取った。

「地域交通課・寺桐から巴川(巴川警察署)。至急、応答願う。繰り返す。寺桐から巴川。大至急、応答願う!

 寺桐は必死の形相で無線に話しかけ続ける。その場の誰もが固唾を飲んでそれを見守っている中、しばらくして無線から声が流れ出した。

『こちら巴川。寺桐さん、どうぞ』

 その場にホッとした空気が流れる。ひとまず無線は通じるようだ。

「今、目の前で巴川橋が流出した! 繰り返す、巴川橋が流出した!」

『え、橋が流出?』

「とにかく、窓から外を見てくれ! 大至急だ!」

 と、そこで無線の向こうで物音がし、何事か話をするような様子があった後、再び相手の声が流れた。

『巴川から寺桐へ。こちらでも橋の流出を確認した。ひとまず、そちらの状況を連絡されたし』

「こちらは殺人現場を確認し、現在、現場及び遺体の保全活動を実行中。その上で刑事生活安全課捜査員の到着待ちだったが、橋の流出前に捜査員がこちらに到着した気配はなし。今後の捜査方針について指示を乞う」

『巴川、了解。ひとまず、橋が流された以上はこちらから応援を出す事が事実上不可能になったと判断する。従って、この件については一度本庁側に指示を仰いだ上で、方針が固まり次第そちらに連絡する事にしたいが、よろしいか?』

「寺桐、了解。それと、こちらでは現在対応する人員が不足しているため、非番中の虎永巡査部長にも緊急で応援要請をしたいと考えるが、いかがか?」

 どうやら今の話を聞く限り、非番で署に出勤していない署員が他にもいるらしい。この状況なので警察関係者が他にいるならぜひとも助けてほしいと瑞穂は思ったが、無線の向こうからの返答は芳しくないものだった。

『それについてだが、虎永巡査部長はすでに真砂課長の要請により一時間ほど前に臨時出勤しており、現在は署内にいる。よってそちらへの応援は不可能』

 その返答に、寺桐は明らかに当てが外れたと言わんばかりの表情を浮かべたが、それを押し殺すようにして無線に応答した。

「寺桐、了解。それでは、そちらからの指示を待つ。一度役場に戻るので、万が一無線が繋がらない場合は役場に連絡されたし」

『巴川、了解』

 そこで無線は切れ、寺桐は榊原の方に振り返る。

「ひとまずこの場でできる事はやった。あとは一度役場に戻って当面の対策を練る事にしよう。ここでずっと雨ざらしになっていてもやれる事はなさそうだ」

「そうですね。それがいいと思います」

 寺桐の提案に榊原は賛成の意を示し、それを確認した上で寺桐はパトカーをUターンして役場まで戻っていった。そして五分ほどして役場につくと鎌崎村長や城田たちがすぐに出てきたが、榊原たちの表情を見て何かあったと悟ったらしかった。

「何かありましたか?」

 代表して寺桐が簡単に勝治殺害事件の状況を説明し、その上で巴川橋が流されて巴川署からの応援が不可能になったと告げる。さすがの鎌崎たちも想定外の事態に言葉を失ったようだが、そんな鎌崎に寺桐はこう言葉を続けた。

「とにかく、署からの応援が当てにできない以上、村のどこかに仮の捜査本部を設置する必要があります。役場に空いている部屋はありませんか?」

「え、えぇ、それなら四階の小会議室が空いていますが……」

「では、そこに。大至急です」

 そう言われて、鎌崎と数人の職員たちが準備をするために役場の中に引っ込んでいく。それを見送りつつも、寺桐はさらに城田に尋ねた。

「関係者の月園蘭さんたちは戻ってきているかね?」

「は、はい! 大久保さんが村長のお孫さんと一緒に連れてきて、現在、役場の小会議室に待機してもらっています」

「後で詳しく話を聞く必要がある。その準備もしておく必要があるな」

 寺桐はそう言って今後何をすべきなのかを頭の中で考えているようだった。と、そこで城田が恐る恐ると言った風に寺桐に尋ねる。

「あの、それよりそちらの方は?」

 その視線は榊原の方を向いている。と、寺桐が何かを言う前に榊原が前に出て頭を下げた。

「失礼。都内で探偵事務所を開いている、榊原恵一です。今回は鎌崎村長の依頼でこの村に滞在していまして、事件の第一発見者の一人でもあります」

「付け加えると、今でこそ探偵だが、かつては本庁刑事部捜査一課の警部補だった男だ。警察官としてはこんな田舎でくすぶっている我々よりもかなりの切れ者だと思った方がいい」

「け、警部補殿ですか!」

 寺桐の言葉を聞いて、城田は思わず背筋を伸ばす。

「元、ですよ。今は肩書きのないただの私立探偵です」

「い、いえ、そうは言われましても……あっ、も、申し遅れました! 自分は城田信彦巡査であります! 今は巴川署地域交通課に所属していますが、ここに来る前には短期間ですが所轄署の刑事課にいた事もあります!」

「ほう、そうだったのか? 初めて聞いたぞ」

 初耳なのか、寺桐が興味深そうに言う。が、城田はなぜかバツが悪そうな顔をした。

「えっと、ほんの一年だけですよ。それ以外はずっと地域課でしたし、刑事課にいた時も小さな事件ばかりで、殺人事件の捜査本部に入った事もありません。上も俺が刑事に向いていないって事にすぐに気付いたんだと思います」

「ちなみに、扱った中で一番大きかった事件は?」

 寺桐のさらなる問いかけに、城田の顔はますます苦々しいものになった。

「多分、駒沢公園で起きたおやじ狩り事件で、犯人だった高校生三人を捕まえた事だと思います。ですので、申し訳ありませんが殺人事件の捜査はほとんど素人に近いです」

「だが、現状ではそうも言っていられない。言った通り、署からの応援はほぼ絶望的だ。少なくとも本庁からの応援が来るまでは、ここにいる我々だけで捜査を進める必要がある」

 寺桐の言葉に、城田も改めて表情を引き締める。

「それはもちろん、わかっています」

「とにかく、動ける人数に限りがある。今、署の方から本庁に応援要請をしているはずだから、本庁の捜査員がつき次第本格的な捜査ができるよう、こちらも準備を整えて……」

 と、その時だった。突然、役場の中から職員が一人飛び出してきて、寺桐を見ると緊張した様子で駆け寄ってくる。

「寺桐さん! 対策本部に警視庁から連絡が入っています!」

「警視庁?」

「ここにいる警察官の誰かを出してほしいと!」

 寺桐と榊原は顔を見合わせる。

「署を通り越して、本庁から直接ここに電話連絡が来るとは」

「普通じゃありませんね。何かあったのかもしれませんが、とにかく出て話を聞いてみるしかありません」

「そうだな」

 榊原たちはそのまま対策本部に入り、寺桐が代表してその電話に出た。最初は落ち着いた様子でこちらの状況を説明していた寺桐だったが、やがてその顔が少しずつ緊張したものになっていき、それからしばらく通話を続けると、「少々お待ちください」と言って保留ボタンを押しながら榊原に受話器を差し出した。

「榊原君、君と話をしたいという方が」

「私に、ですか?」

「あぁ。他でもない、本庁の捜査一課長が話をしたいと言っている」

 その言葉に、榊原は真剣な表情になると、黙って寺桐の差し出す受話器を受け取った。

「代わりました、榊原です」

『私だ』

 低く押し殺した短い声が受話器から響く。だがその声に対し、榊原はあろう事か敬語を崩し、どこか親しい口調で応じる。

「その声は橋本か」

『あぁ、そうだ。久しぶりだな』

 そんな榊原の態度に対し、相手も気にする事なく親しげに応じる。そのやり取りが、この二人の間に他人には立ち入れない何かがある事を証明していた。

 橋本隆一警視正……現在の警視庁刑事部捜査一課長であり、史上最年少で刑事たちの頂点であるそのポストに到達した傑物として知られる人物である。多くの幹部ポストがいわゆるキャリア組の警察官で占められる警視庁だが、百戦錬磨の刑事たちを率いる警視庁刑事部捜査一課長の座だけは数少ない例外であり、慣例的にここには現場叩き上げのノンキャリアの警察官(警視正)が就任する事となっている。とはいえ、ノンキャリアの警察官にとって警視正とは出世の最高到達点ともいえる階級であり、たたき上げの刑事でありながらこの階級まで到達できている時点で無能という事はありえず、本人も相当な経歴の元刑事である事が大半であった。

 そして、この橋本一課長も例外ではなく、彼は元々榊原も所属していた伝説の捜査班……警視庁捜査一課十三係に所属していた刑事の一人であり、同時に刑事時代の榊原の相棒だった人物でもあった。十三係解散時に警察を去る事になった榊原と違って彼は刑事部に残って出世を続け、ついには史上最年少で捜査一課長になるまでになったが、本人は今でも榊原の事を信頼していて、「あの時辞めさえしなければ、捜査一課長の席には自分ではなく確実に榊原が座っていたはず」と臆面もなく言ってのけるほどである。

 それだけに、捜査一課長と民間の私立探偵というかけ離れた立場にいながらも、この二人は気心の知れた関係にあった。だが、この状況にあっては、口調こそ砕けてはいても、両者の間に交わされる会話はかなり深刻なものとなっていた。

『そちらの状況は巴川署からの連絡でこちらも把握している。結論から言おう。現在、巴川村へ向かう県道は集中豪雨を原因とする土砂崩れにより複数箇所が寸断されており、外部から村へ行く事が事実上不可能な状態だ。言うまでもなく、夜間でしかも豪雨が降りしきるこの状況ではヘリを飛ばす事も不可能だ。無論、復旧作業は行っているが、少なくとも夜が明けるまでは我々警察はその村に到達する事はできず、こうして通信設備を使った情報提供が精一杯という事になる』

 覚悟はしていたとはいえ、それはあまりにも重い言葉だった。

『よって、橋の流出により巴川署からの警官の派遣も不可能となった現状、巴川村で起こった殺人事件の捜査についてはそこにいる少数の警察官によって行わざるを得ない状況だ。だが、報告によればそこにいる警察官は駐在を含めてわずか四名。こちらとしては、状況が状況だけに使える人材は使っていきたいと考える』

「何が言いたい?」

『単刀直入に言う。榊原、我々が行くまでそちらの捜査に協力してほしい』

「……」

『元とはいえ、お前は捜査一課の警部補だった人間だ。はっきり言って、今そこにいる人間の中で一番捜査能力が高いのは疑いの余地がなく、その知識と能力は今この状況で必要になるはずだ。犯人にとってもお前の介入は完全に想定外のはず。頼めないか?』

 そう言われて、榊原は軽く息を吐くと確認するように尋ね返す。

「私は構わんが、後で問題にならないか? 元刑事だろうが何だろうが、今の私はあくまでも民間の一探偵に過ぎない」

『緊急事態だ。我々もできる事はすべてやる必要がある。むしろ、お前のような人間がいたのに協力を求めなかった方が後々問題になりかねん』

「……」

『それに、だ。これだけの事件が目の前で起こっていながら、お前が我関せずと無視するとはとても思えない。ならば、最初から捜査一課長の私の名前で協力を要請した方が、お前も動きやすくなるはずだ。違うか?』

「それは……痛いところを突くな」

 榊原は一瞬目を閉じて考えをまとめていたようだが、やがて決然とした様子で宣言した。

「わかった。お前の言うように、私も探偵として目の前で起こった事件を放っておく事はできない。警察が協力してくれるというのならば、私としてもありがたい」

『決まりだな。それじゃあ……』

 と、その時だった。不意に電話口の向こうが騒がしくなり、橋本の声が一度途切れた。かすかに聞こえる向こうのざわめきは収まらず、時折「報告は確かなのか!」だの「何でそんな事に!」だのという声が瑞穂の耳にも聞こえてきた。何が起こったかはわからないが、警視庁側で何かとんでもないこと起こった事だけは理解できた。

 そのまま待ち続けること数分。ようやく電話口に戻った橋本の口調は、先程に比べて明らかに緊迫度が上がっていた。

『待たせてすまない。たった今、巴川署から本庁に緊急の連絡が入った』

「巴川署?」

『あぁ。いいか、落ち着いて聞いてくれ。午後七時十五分頃、巴川署地下一階の留置所内で、殺人事件が発生した』

 ……一瞬、その場の誰もが何を言われたのかわからず、何とも言えない沈黙がその場を漂った。真っ先に反応したのは榊原だった。

「どういう事だ? 一体何があった?」

『そんな事は私が知りたい! 警察署の留置所内で殺人など……あってはならない話だ!』

 橋本がいらだたしげに吐き捨てる。

「誰が殺されたんだ?」

『詳しい情報は私にもまだ届いていない。ただ、殺害されたのは留置所内に収監されていた桶嶋俊治郎という新聞記者と、留置所の監視業務に当たっていた警務総務課の八戸進という巡査の二人だ』

「桶嶋……昼間に捕まったあの記者か!」

 榊原が緊迫した様子で叫び、瑞穂の脳裏には、昼間、月園家の屋敷で捕まっていた新聞記者の顔が浮かんでいた。だが、その後ろに控えていた寺桐や城田は、むしろ八戸の名前の方に絶句していたようだった。

「そんな馬鹿な……八戸君が……」

 だが、橋本からの衝撃的な情報はまだ続く。

『巴川署からは殺害された桶嶋記者について至急調べてほしいとの要請が入っている。現場の状況から見て、犯人は監視業務に就いていた八戸巡査を殺害して留置所内に侵入し、房に収監されていた桶嶋を殺害した可能性が非常に高いと考えられる。となれば、犯人が桶嶋に対して何か恨みを持っていた可能性は捨てきれない』

「二人の死亡推定時刻は?」

『現時点では不明。これから現場に居合わせた医師が簡単な解剖を行うとは言っていたが……』

「その医者というのは、もしかして月園信治氏の事か?」

 話を聞いていた瑞穂の頭に、夕方に警察署に行く予定だと言っていたあの月園家の三男の顔が浮かんだ。

『あぁ、その通りだ。それと、留置所内には桶嶋以外にもう一人収監者がいたが、そちらに関しては襲撃される事もなく、命に別状はないそうだ』

「もう一人の収監者?」

『指名手配犯の鬼首塔乃だ。午後六時頃に村の近くの県道で埼玉県警の刑事により逮捕され、最寄りの巴川署に連行されていた』

 その名前が出た瞬間、榊原の表情が明らかに変わるのを瑞穂は見て取った。

「ちょっと待て! 鬼首塔乃が逮捕されて巴川署に連行されていたというのは確かなのか?」

『確かだ。さっきも言ったように午後六時頃に埼玉県警に逮捕され、記録によれば午後六時二十分頃に巴川署に到着。そのまま留置所に収監された。本来なら逮捕した埼玉県警の施設に連行されるべきだが、この大雨で遠距離の移動が不可能に近かったため、警視庁と埼玉県警が協議してやむなく最寄りの巴川署に連行されたという流れだ』

 そこで榊原は背後の寺桐と城田の方へ振り返った。

「寺桐さん、本当ですか?」

「いや……その時間ならもう署を出て役場の災害対策本部に入っていたから何とも言えない。署からもそんな連絡は入っていなかったはずだが……」

 城田の方を見やるが、彼も困惑したように首を振る。どうもこの二人は鬼首塔乃が署に連行されたという情報を知らなかったようである。

「確かに、わざわざ署活系無線で個々に知らせるような事でもないが……」

 榊原は独り言のようにそんな事を呟く。一方、瑞穂はその『鬼首塔乃』という名前に聞き覚え……と言うより見覚えがあった。

「あの、先生……鬼首塔乃って、確か指名手配犯の名前ですよね? 駅に貼られた手配書のポスターで見た事があります」

「その通りだ。彼女が手配されるきっかけになった事件について何か知っているかね?」

「えっと……そこまでは……」

 瑞穂は申し訳なさそうに答える。確か写真の下に「殺人罪」と書かれていたはずだが、それが一体どんな事件なのかまではよく知らなかった。が、さすがに榊原の方はその『事件』をよく知っているようだった。

「二年前に世田谷で起こった連続殺人事件だ。世田谷区内で六人の人間が無差別に殺害されるという大事件で、当時かなりマスコミを騒がしたはずだが」

「……あぁ! 確かにそんな事件があった気がします」

 瑞穂はポンと手を叩きながら言う。それを横目に、榊原は再び電話口の橋本に話しかけた。

「確認するが、鬼首塔乃は生きているんだな?」

『あぁ、それは間違いない。ただ、彼女も房の中にいたから犯人の姿は直接見ていないらしい』

「鬼首塔乃は二年前に世田谷で起こった事件の容疑で手配されていたはずだが、それについて何か話は?」

『いや、その取り調べをする前に留置所の事件が起こったそうだ。そしてこうなった以上、優先されるべきは現行で起こっている殺人事件の捜査だ。別件の取り調べをしている場合ではないだろう』

「……確かに、それはそうだな」

『いずれにせよ、この件については現状、巴川署内の人間に捜査を一任する他ない。もちろん、何か新たな情報がわかればそちらとも情報を共有する。とにかくそちらは、村で起こったという殺人の捜査に集中してほしい』

「あぁ、わかった」

『……しかし、まったくもって前代未聞の事態だ。外部から隔絶された村で殺人事件が起こり、それを捜査すべき警察署がさらに村から孤立していて、その警察署内でも殺人が起こっているというんだからな。未だかつて、こんな奇妙な状況下で起こった事件はないだろう。そうだな、あえてこの状況に名前を付けろと言われたら……』

 その問いに対して橋本が何か言う前に、榊原がその答えを告げた。

「ダブルクローズドサークル……二重の閉ざされた空間、といった所か」

 榊原の重い言葉に、瑞穂は思わず息を飲む。

『まさにな。ひとまず、現段階で現地に行く事はできないが、我々もできる限りの事はする。負担をかける事にはなるが、よろしく頼む』

「わかっている」

『では、一度寺桐巡査部長に電話を代わってほしい』

 そう言われて、榊原は受話器を寺桐に差し出す。寺桐はそれを受け取り、それからさらに何かを話していたようだが、やがて電話を切って大きく息をついた。

「……とんでもない事になった。巴川署の事も心配だが、現実的に手出しができない以上、私たちはこっちの事件の捜査に集中するしかない。榊原君を含めても五人しか人員がいないわけだが……やるしかない」

 寺桐のその言葉に、城田も真剣な表情で頷く。榊原はその様子を、かなり険しい表情で見つめていたのだった……


 その後、駐在二人も交えた話し合いの結果、先に鎌崎が提案した役場四階の小会議室に、ひとまず仮の捜査本部が設置される事となった。捜査本部と言っても移動式のホワイトボードといくつかの長机が運び込まれただけの簡素なもので、あとは隅に元々この部屋に備え付けられていた旧式の固定電話とコピー機がある程度である。

 各々の生命線となる通信については、現在進行形で殺人が起こっている巴川署側の負担を減らすため、緊急処置として警視庁本部が全ての情報管理を統括する事となった。具体的には、署活系無線を使った巴川村側にいる警察官から巴川署への連絡を制限し、その代わりに車載無線及び電話を使って警視庁本部に直接情報伝達を行う事で、両事件の情報を警視庁本部が集約・管理。その上で警視庁本部から巴川署と役場の捜査本部に情報共有を行うという構図である。これにより、巴川署側は署内で起こった事件だけに集中できる事となり、円滑な捜査活動ができるようになるはずだった。

 ともかく、この状況では贅沢を言っていられない。外からの救援も内の警察署の助けも期待できない今、捜査の拠点があるだけでも充分という認識である。ただ、駐在の二人が災害対応や現場保存のため外に出ざるを得ないため、今の段階で実際にこの部屋にいるのは、榊原を除くと寺桐巡査部長と城田巡査、そして臨時の書記として同席する事が許された瑞穂だけである。そのためここで行われる事も、捜査会議というよりも事件に関する情報の確認・共有が主なものとなった。

 いずれにせよ、四人しかいないこの捜査会議は、橋が流れてから約三十分後の午後七時半時頃から始まった。

「まず、事件の状況を整理します。本日午後六時五十分頃、村の南東にある旧巴川小学校の校庭に人が倒れているのを榊原氏と大久保巡査部長が発見。確認した所、かねてより行方不明だった月園勝治氏である事がわかり、その場で死亡も確認されました」

 正面のホワイトボードの前に立つ城田が事件についての情報を述べていき、榊原たちがそれを聞きながら適宜意見を述べたり疑義を挟んだりするという流れである。

「死因については正式な解剖が行えない状況ではありますが、遺体の状況から絞殺の可能性が高いと判断されます。首にはロープが巻き付いており、首筋に索状痕と吉川線も確認されました。吉川線の存在から首を絞められた際に被害者が抵抗した事は確実で、これも被害者が絞殺された可能性を補強するものとなります」

「解剖が不可能という事は、現時点では詳しい死亡推定時刻についてはわからないという事ですね?」

 榊原の確認に、城田は悔しそうに頷く。

「残念ながらそうなります。遺体は長時間雨に濡れていましたし、現在この村で唯一医療行為が可能である信治氏が隔絶された巴川署にいる関係上、榊原さんが言われるように遺体の解剖が不可能な状況です。なので、遺憾ながら遺体の死亡推定時刻の算出が不可能となってしまっています」

「それは鑑識も同じだ。そもそも鑑識ができる人間がいない上に、雨のせいで大半の証拠も流されてしまっている。警察による通常の捜査ができないという意味では、間違いなく今のこの村は榊原君のいう所の『クローズドサークル』に他ならない」

 寺桐の言葉に榊原も同意するように頷く。

「死亡推定時刻がはっきりしない以上、アリバイ調査も何もあったものではない。せいぜい、勝治氏が最後に確認された時間から遺体発見までの間の動向を確認するくらいしかできないでしょうね」

「生前の勝治氏が最後に確認されたのは、いつの事なのでしょうか?」

「役場への捜索要請が行われた際の助役の話だと、午後五時頃が最後のようです。以降の被害者の足取りについてはわかっていませんが、人知れず屋敷を出たとしか考えられません」

「その話が本当なら、遺体発見まで約二時間……アリバイが完璧な人間は少なそうだな」

 寺桐は苦々しい顔をする。城田は報告を続けた。

「問題は遺体が発見された際、そのすぐ傍に月園蘭さんが立っていたという事実です。通常の捜査の常道に従うなら、当然彼女を疑うべきという事になりますが……」

 城田の遠慮がちな言葉に、榊原は静かな声で情報提供を行う。

「一応、発見直後に本人に話を聞いてありますが、それによると月園家の屋敷を出る前に被害者から声をかけられ、大切な話をしたいので午後七時にあの小学校に来てほしいと言われたとの事です。被害者の表情が真剣だったため行く気になり、遺体発見の少し前に我々のいた鎌崎村長宅をこっそり抜け出して現場に向かい、そこで遺体を発見したというのが本人の弁です」

「それは本当ですかね?」

「あくまで本人の主張です。ただ……」

「ただ?」

「……これは私自身の印象ですが、少なくともあの場で彼女が被害者を殺害したとは思えないのも事実です」

 榊原の意外な言葉に、寺桐がピクリと眉を動かす。

「それは、彼女が君の護衛対象だからそう思いたいだけではないのかね?」

 寺桐の鋭い問いかけに、榊原は表情を変えずに応じる。

「まさか。寺桐さんは、私が犯罪捜査に私情を挟むような人間に見えますか?」

「思わんね。君は身内が犯人であったとしても一切動じる事無く論理一筋で捜査を進める『推理の怪物』だ。例え依頼人が犯人でも、容赦はしないだろう」

 寺桐はきっぱりとした口調でそう断言した。

「その呼び方にはさすがに思う所はありますが……私が彼女が犯人でないと思うのは、感情論ではなくあくまで客観的に見た上での結論です」

「その結論とやらを聞こうか」

「簡単です。言い方はあれですが、発見時、彼女の服や体がきれいすぎました」

 突然そんな事を大真面目に言い始めた榊原に瑞穂は戸惑ったが、寺桐はそれだけで意味を悟ったようだった。

「そういう事か……」

「えぇ。そもそも未成年者の女性である彼女が成人男性の被害者を絞殺するとなれば、かなりの力が必要になります。まぁ、若くて体力のある蘭さんと引きこもっていて運動不足気味の被害者という関係なので絶対にできないとまでは言いませんが、百歩譲ってそれができたとしても、殺害の際に被害者側からかなりの抵抗を覚悟しなければならないのは確実です。実際、吉川線の存在は殺害時に被害者の激しい抵抗があった事を証明しています」

 榊原の説明に、寺桐は先を促す。

「遺体発見時、彼女はブレザーの制服に傘を差した姿でした。その格好で雨が降りしきる校庭の真ん中で抵抗する被害者を絞殺したとなれば、彼女の服や体も激しく濡れたり汚れたりしていたはずです。しかし、発見時の彼女にはそんな痕跡はなく、服も乾いたままのようでした。彼女が鎌崎家で姿を消してから遺体発見までわずか十数分。その短時間に着替えたり体や服を乾かしたりする事は絶対に不可能です」

「犯行時に雨合羽を着ていて、犯行後に雨合羽だけをどこかに隠したとすれば?」

「それでも顔や長い髪は濡れるのを避けられないはず。見た限り、その様子もありませんでした」

「あ、あの……」

 城田が口をはさんで自身の意見を言う。

「殺害は乾いた他の場所……例えば室内で行われ、その後校庭まで遺体を引きずり出したとすればどうですか? それなら犯行時に体が濡れる事を避ける事ができます」

 もっともな意見だった。だが、榊原はすぐにその推理を否定する。

「それはそれで、遺体を校庭に引きずり出す際に濡れる事を避けられません。彼女が被害者を引きずろうとしたら片手ではまず無理ですから、傘を差す事ができない。当然、その間に体はびしょ濡れになります」

「そもそも、遺体を見た限り引きずったような痕跡はなかった。さすがにそれくらいは解剖しなくてもわかる」

 寺桐が厳しい顔で言う。

「ならば遺体を運ぶには担ぎ上げるしかありませんが、それこそ彼女の体力では不可能でしょう。一輪車のようなものを使ったと考えても、今度は傘の問題が再燃してしまう」

「つまり、彼女が犯人だと主張するためには、遺体発見時に彼女が濡れていなかった理由を説明しなければならないというわけですね」

 城田の表情が難しいものになる。シンプルではあるが、それはかなり難しい問題だった。

「仮に彼女が犯人ではないとした場合、彼女の証言も事実という事になる。つまり、月園蘭は月園勝治に呼び出されてあの学校へ向かった」

「一体、彼は何のために彼女を呼び出したんだ?」

 確かにそれが最大の問題ではあるが、本人が死んでしまった今となっては、まったく見当もつかないのも事実だった。

「月園勝治と月園蘭は、確かに血縁上は伯父と姪の関係に当たり、さらに両者とも都内在住という共通点はある。が、逆に言えばそれ以外の繋がりがあるとはとても思えない。あくまで蘭の自己申告ではあるが、この村以外の場所……つまり都内で彼に会った事もないそうだ」

「それが本当かどうかの調査は、現状では本庁に任せるしかなさそうですね」

 城田が悔しそうに言う。と、榊原がそんな城田に質問を投げかけた。

「では、凶器のロープの出自はどうなっていますか?」

「残念ながら、この状況ではそれを調べるのも困難です。何しろ警官が四人しかいないので、いつものような人海戦術を使った捜索には限界があります」

 ただ、と城田は言葉を付け加える。

「あくまで私見ですが、見た限りだと農業などで使用されるロープと似ているように感じます。もしそうなら、村内にいくつもある個人の農業倉庫でいくらでも入手できる代物ですので、仮に入手先がわかった所でここから犯人に辿り着くのはまず無理でしょう。田舎だけあって、その手の農業倉庫へは誰でも自由に出入りできるようになっていますから」

 わかっていた事ではあるが、様々な面で八方ふさがりに近い状況である。誰もが何も言えずにいると、不意に寺桐が発言を求めた。

「現状では、証拠からの犯人特定は極めて難しいと言わざるを得ない。ならばいっそ、動機方面から犯人を絞り込めないかどうかを考えるのが筋かと思うが、榊原君の意見はどうだね?」

 寺桐の提案に、榊原も特に異論はないようだった。

「確かに、現状ではそれが一番でしょうね」

「結構。では早速だが、殺害された月園勝治氏は月園家の長男であり、その月園家では今日の昼頃に先日亡くなった月園葵女史の遺言発表が行われていた。その遺言発表の当日にこうして当事者の一人が殺害された以上、その遺言の内容がかなり気になる所ではあるな」

「確か、榊原さんはその遺言発表の席にいたそうですね」

 城田の問いかけに、榊原は重々しく頷く。

「えぇ。正直な所、かなり異様な遺言と言わざるを得ませんでしたが」

 そう前置きして、榊原は問題の遺言の内容を寺桐たちに語った。改めてその内容を聞いてみても、それがどれだけ異様な遺言であるのか、隅で聞いていた瑞穂にもよくわかる話だった。

「その遺言を発表した島永弁護士は、今現在この村にいないのだね?」

 寺桐の確認に榊原は頷く。

「えぇ。本人は村に宿泊施設がないので秩父市街のホテルから毎日通うと言っていました」

「こうなった以上、彼とは連絡を取る必要がある。遺言の件で確認したい事もあるしな」

「宿泊先がわからない以上、それは警視庁から埼玉県警に照会を頼んでもらうしかないでしょう。もっとも、秩父でも別の仕事があると言っていましたので、まだ宿泊先にいない可能性もありますが」

「歯がゆいな」

 寺桐はそう言うが、こちらから何もできない以上、この件についてはいったん保留するしかないようだった。

「ええっと、ややこしいので簡単に問題の遺言の概略をまとめてみます」

 城田がそう言って、正面のホワイトボードに遺言に書かれていた月園家当主の継承順序を整理していく。




①第一候補は次男・月園武治の娘である月園蘭。この場合、武治は蘭が三十歳になるまで補佐役となる。ただし、以下の条件のうち一つでも満たされた場合は蘭の当主継承権が消滅し、第二候補者に継承権が移動する。

 A、蘭が半年以内に芸能界を引退しない。

 B、蘭が当主就任を拒否、あるいは一週間以内に就任を是とする明確な言動がない。

 C、蘭が死亡する。

 D、武治と琴江に離婚が成立し、なおかつ蘭の親権を琴江が取得する。

②第二候補は長男・月園勝治。ただし、以下の条件のうち一つでも満たされた場合は勝治の当主継承権が消滅し、第三候補者に継承権が移動する。

 A、勝治が一年以内に配偶者を得ない。

 B、勝治が当主継承を拒否する。

 C、勝治が死亡する。

 D、勝治の婚姻が成立したとして、その配偶者との離婚が成立した。

 E、勝治の婚姻が成立したとして、五年以内に子供が生誕しなかった。

③第三候補は長女・月園涼のお腹の中にいる子ども(仮に『甲』とする)。この場合、『甲』の両親である月園涼と月園牧雄が『甲』の成人までは補佐役に就任する。ただし、以下の条件のうち一つでも満たされた場合は『甲』の当主継承権が消滅し、第四候補者に継承権が移動する。

 A,『甲』が死亡する。

 B、『甲』が成人するまでに月園涼・月園牧雄の両名が死亡する。

④第四候補は三男・月園信治か次女・月園奏のいずれかを協議で選出。ただしこの場合、継承されるのは月園家の家督(及びそれに付随する財産)のみで月園財閥の会長の座と運営権は放棄され、新当主は運営権のない名誉役員に就任するのみとなる。

⑤これ以外に想定外の状況が発生した場合については、現行の法律に従うものとする。




「まぁ、大まかにこんな感じですか」

 城田はそう言いながら榊原に確認を取り、榊原もホワイトボードに記された内容を何度か確認した上で肯定の意を示した。

「えぇ、これで大丈夫だと思います」

「それで具体的な内容を確認します。まず月園武治助役の娘さんである月園蘭さんが第一候補になっているわけですが、現状では、蘭さんは当主に就任する気がなさそうなのですよね?」

 城田の言葉に再び榊原は頷いた。

「彼女の態度を見る限りだと、彼女がアイドル活動を辞めるとは思えませんね。拒否する可能性は高いと思います」

「しかし、当主に就任すれば莫大な財産と絶対的な権力を得られるわけですが……」

「出会ってまだ半日ですが、若いながらに彼女はなかなか芯が強そうな女性です。地位と財産のために自身の夢を諦めるような人間ではないと思います。実際、父親の武治氏は遺言発表時にかなり激高していました。もし彼女がすんなり遺言の条件に従うような人間なら、この条件で武治氏があそこまで激昂する事はなかったはず。激高したという事は、娘がこの条件を拒否するだろう事を父親である彼自身が一番よくわかっていたという証ではないかと思うのです」

「なるほど、本人ではなく父親の反応で彼女の本質がわかるという事か」

 寺桐が納得したように呟く。

「となると、武治氏は娘を必死に説得したがっているはずですね」

「遺言の条件上、一週間以内に彼女がアイドルを引退する事を公表しなければ継承権が自然消滅してしまいますからね。武治氏が月園家の権力を継承する手段が娘の補佐役になる以外に存在しない以上、娘を説得して翻意させる以外に手はないでしょうが……あまりやり過ぎるとそれはそれで問題です」

「と言うと?」

「事前に鎌崎村長から聞いた話だと、武治氏と別居中で離婚話が出かけている妻の琴江さんは、娘の蘭さんとは仲が良いらしいのです。武治氏があまりにしつこく説得しようとすると、その話が蘭さんを通じて琴江さんに伝わってしまい、琴江さんが娘を助けるために離婚に踏み切る危険性が出てきてしまいます。そうなったら、どれだけ蘭さんを説得した所で全てが無駄骨です」

「……何だかこの遺言、逆に月園蘭にアイドルを辞めさせないための条項にも聞こえるな」

 不意に、寺桐がそんなコメントを漏らした。

「えぇ、実際問題として、その考え方は的を射ている可能性があります」

「榊原君もそう思うか?」

「遺言を残した葵さんは女手一つで戦後の日本をのし上がった女傑とも言うべき人物です。そんな彼女がアイドル活動をめぐって父親の武治氏と対立する孫の蘭さんに、遺言という形でその覚悟を問うた可能性は充分考えられます」

「ふーむ」

 寺桐は考え込みながら、言葉を紡ぎ出していく。

「では、月園蘭が当主の座に就く気がないとして、そうなると次の候補になるのは……」

「今回殺された月園勝治氏ですね」

 寺桐の言葉に、城田が緊張した様子で答える。

「そうだ。そもそもこの遺言がさっきの話の通り月園蘭の覚悟を試すためのものだったとすれば、葵女史にとっての真に当主を継いでもらいたかったのは第二候補の勝治氏という事になる。実際、勝治氏の『一年以内に誰かと結婚して、五年以内に子供を産む』という当主就任条件は、簡単ではないとはいえ時間的な猶予がある分、月園蘭のそれと比べるとかなり緩いと判断できる。そして、あくまで月園蘭が当主の座に就かない事を前提とすると、勝治氏の死が当主継承に大きな影響力を与えるのは自明だ」

「当主継承の最有力候補が消えてしまうわけですからね。この場合、得をするのは誰でしょうか?」

「普通に考えたら……勝治氏の次の候補になっている涼さんと牧雄氏の夫婦だな」

 寺桐がその答えを告げた。

「正確には候補になっているのは涼のお腹の中にいる子どもですが、その子供が成人するまでの補佐役になれるこの二人が実質的な当主継承者と言えなくもありません。そして蘭さんが当主継承を拒否する可能性が高い現状、二番手の勝治氏がいなくなりさえすれば、事実上の当主の座が二人の手に転がり込む事になります」

「構図としては非常にわかりやすい。ただ……あからさま過ぎる気がするのも事実だ」

 実際、この状況下で勝治が殺害された場合、真っ先に疑われるのはどう考えても涼と牧雄なのである。それがわかっていながらこんなにわかりやすい犯行をするかという話ではあった。

「逆に他の候補者についてはどうでしょうか?」

「動機の面から言えば、皮肉な事に第一発見者で一番怪しい月園蘭が真っ先に候補者から外れる。当主継承が目的ならわざわざ信治氏を殺さずとも、最初から素直にアイドルを引退して当主就任を承諾すればいいだけの話なんだからな。一方、信治氏と奏さんの二人が当主の座に就くためには、勝治氏だけを殺害しても意味がない。実質的な次の候補者である涼さんと牧雄氏を殺害する必要性があり、この場合は今後さらなる犯行が発生する危険がある」

 寺桐はそう分析した。

「実際問題、彼らは当主を継承したいと考えているのでしょうか?」

 城田の疑問に対し、榊原は慎重な様子で答えた。

「実際にあの場の様子を見た限り、表向きにはそんな気配は感じませんでしたね。医者である信治氏は元々当主の座に興味がなく、経済的にも困っていない事もあって『遺留分の遺産さえもらえればそれでいい』という立場のようです。奏さんは態度を明確にしていない事もあって、正直よくわかりません。ただ、もちろんそれが表向きだけの演技で、裏では当主に就きたいと考えている可能性もあるわけですが」

「さすがの名探偵も、彼らの腹の内までは読めないか」

 寺桐が悔し気にそんな事を言う。

「探偵はそこまで万能ではありませんよ。私にできるのは提示された情報を整理して論理的に推理を組み立てる事だけです」

「つまり、まだ推理するだけの情報が足りないと?」

「差し当たって必要なのは、関係者である月園家の面々のアリバイの確認ですね」

 榊原の言葉に、寺桐も同意を示す。

「それについては、今から実際に聴取して確認するしかないな。すでにある程度聴取済みの月園蘭を除けば、ひとまずの対象は当主継承に利害関係がある月園武治、月園牧雄、月園涼、月園信治、月園奏の五人。それ以外の関係者となると、当主継承に直接的な関係はないが、前村長で葵さんの夫でもある満治氏といった所か。だが……」

 言い出しっぺである寺桐自身も「それはない」と思っているようで、最後は口ごもるような言い方だった。いくら元気とはいえ、足腰が弱って杖が手放せない八十代後半の老人が雨の中で成人男性を絞殺するなど、物理的に不可能であると結論せざるを得なかったからだ。そして、それは榊原も同意見のようだった。

「もちろん、関係者としてアリバイの確認は必要でしょうが、私も彼が直接殺した可能性はないと思います。あるとすれば殺害自体は誰か共犯者にやらせたという場合ですが、だとしても動機が全くわからない。満治氏は当主争いにまったく関係していませんし、言い方はあれですが、いつ亡くなってもおかしくないこの年齢でこれ以上の権力を得るためという理由で人生の晩節に殺人で手を汚すとは思えません。それに彼は葵さんの夫という立場上、当主が誰になってもかなりの額の遺産が手に入る事になっているはずです」

「確かにな」

 寺桐は渋い顔をする。とはいえ関係者である以上、彼にも話を聞く必要があるのは確かだった。

「あと、信治氏に関しては巴川署側にいるので、現状では無線で間接的にアリバイ確認をするしかありません。こちらから署活系無線で直接質問するか、あるいは本部に依頼をして間接的に確認してもらうか、どちらでも構いませんがなるだけ早く済ませた方がいいと思います」

「わかっている。これが終わり次第、要請するつもりだ」

 そう言ってから、寺桐は今後の行動指針について告げた。

「では、方針が決まった所で早速動く事にしよう。まずは月園家への聴取だが、これは私と榊原君の二人でやろうと思う。城田君はここに待機し、本庁との情報交換を密に行ってほしい」

「了解です」

 続いて榊原が傍らにいる瑞穂に耳打ちする。

「瑞穂ちゃんは蘭さんたちについてやってくれ。無論、情報を引き出せるならそれに越した事はないが、無理をする必要はない。ひとまず、彼女たちが変な行動を起こさないよう見張ってくれるだけで構わない」

「わ、わかりました」

 瑞穂が頷き、全員の役割が確定した所で寺桐が榊原に声をかける。

「じゃあ、榊原君。行こうか」

「えぇ。正直、何が出るかはわかりませんが……」

 榊原の意味深な言葉に、寺桐が複雑そうな顔を浮かべているのが何とも印象的だった。


 月園家の面々に対する事情聴取は、午後八時過ぎから月園家の屋敷内で行われる事になった。具体的には昼間に遺言発表が行われたあの大広間に机が持ち込まれ、そこで寺桐と榊原が一人ずつ聴取を行う形式である。

 ここでの事情聴取の対象者は、今回の遺言に大きく関係している面々のうち、月園蘭と月園信治を除いた、月園満治、月園武治、月園牧雄、月園涼、月園奏の五人である。最初に呼び出されたのは、蘭の父親で巴川村の助役でもある月園家次男・月園武治だったが、彼は部屋に入って来るや否や、開口一番、こちらを威圧するように大声を上げた。

「一体、何がどうなっているんですか!」

「まぁまぁ、落ち着いてください」

「落ち着いていられるか! 兄が殺されて、その第一発見者が蘭だというじゃないか! 一体、何がどうなったらそんな事に……」

「それを調べるためにこうしてお話を聞いています。とにかく、まずは落ち着いてお座りください」

 寺桐はあえて淡々と言葉を紡ぐ。そんな寺桐を見て、さすがに自身の態度がまずいと思ったのか、気まずそうな顔をして頭を下げる。

「失礼。少し興奮してしまいました」

「いえ、お察しします。ですが、こちらも仕事であるという事はどうかご理解頂きたい」

「それはわかっているつもりですが……ならば、なぜその男もこの場にいるのですか? 彼は警察官ではないでしょう」

 武治の視線が榊原の方へ向く。

「確かに今は違いますが、彼は元々警視庁刑事部捜査一課で警部補をしていた男です。元とはいえ、今この村にいる人間の中では恐らく一番捜査能力が高い人間と言えるでしょう。対処できる警察官に限りがある現状、彼の協力が必要だというのが警視庁上層部の判断です」

「捜査一課の元警部補、だと?」

 武治は信じられないと言わんばかりに榊原の方をもう一度見直す。一方、榊原はすました表情のまま、黙って武治の方を見つめ返した。

「御不満なら、直接警視庁に問い合わせて頂いても構いません。どうされますか?」

「……いえ、結構です。警察が承知しているのなら、私が口を出すいわれはありませんので」

 改めて双方が姿勢を正し、早速聴取が開始される。

「まず、確認しておきたいのですが、本日午後六時半頃に月園勝治さんを探してほしいと役場に電話をしたのはあなたですね?」

「えぇ、その通りです。電話口には大久保巡査部長が出ました」

「そこに至るまでの経緯を説明して頂きたいのですが、その前に一つ。この大雨にもかかわらず、助役のあなたがなぜ役場ではなくこの屋敷にいたのですか? 普通なら、役場の対策本部に詰めているものだと思うのですが」

 寺桐のもっともな疑問に対し、武治は不服そうに少し眉間にしわを寄せながらも、しっかりとした口調でその質問に答えた。

「誤解されているようなので訂正しておきますが、あなた方に言われるまでもなく、私はずっと役場でこの大雨に対する対処をしていました。ですが、実は昨日からまったく休みなく動き続けていましてね。ろくに睡眠もとれていないので、村長から雨が本格的にひどくなる前に一度屋敷に戻って一時間くらい仮眠をしてくるように言われたんです。実際に私も疲れていましたし、これから大雨がひどくなったら休んでもいられなくなると思って、素直にその案に従って屋敷に戻ってきたというわけです。疑うなら村長に話を聞いてください」

「それは何時頃の事ですか?」

「ちょうど午後六時頃に役場を出ました。ですが、いざ屋敷に戻ってきたら、兄の姿がないとちょっとした騒ぎになっていたんです」

「騒ぎ、ですか?」

「はい。牧雄君が『勝治さんがどこにもいない』とか何とか言いながら家の中を探し回っていました。用事があって兄の部屋を訪れたら誰もいなかった、と。で、私も探すのに付き合わされたんですが、本当に屋敷内のどこにもいなくて、もし屋敷の外に出ていたのならこの天気ですから危ないと思って、役場の方に連絡を入れたわけです。駐在さんがそこにいるのは知っていましたから」

「牧雄さんの用事というのは?」

「さぁ。私は知りません。何にせよ、おかげで予定していた仮眠もできないままで、今も眠くて仕方がないですよ」

 武治はそう言ったが、外見からはとてもそう見えないのはさすがだった。

「つまり、午後六時以前はずっと役場にいて、逆に午後六時以降はずっとこの屋敷にいたという事で間違いありませんか?」

「えぇ。一人でいたのは、役場と屋敷の間を移動する時の五分か十分くらいです」

 という事は、彼が屋敷に着いたのは午後六時五分から十分くらいという事になるだろう。

「話は変わりますが、あなたが屋敷を出て役場へ向かったのは何時頃の事でしょうか?」

 武治はその質問にもスムーズに答える。

「色々と遺言発表後の後片付けがあって、結局、屋敷を出たのは午後三時頃だったはずです」

 と、ここで不意に榊原が口を挟んだ。

「遺言発表が終わって屋敷に侵入した桶嶋記者が警察に連行されたのが、確か午後二時過ぎだったはずですね?」

「えぇ、確かその辺りだったと思います」

「つまり、遺言発表終了から後片付けをして役場に向かうまで一時間程度という事ですか?」

「そういう計算になるでしょうね。もちろん、厳密に意識して動いたわけではなく、結果的にそうなったに過ぎませんが」

「なるほど」

 榊原はそう言うと、寺桐に目配せをして黙り込む。それを受けて、寺桐が再び質問を開始した。

「最後に勝治さんが目撃されたのはいつの事なのかわかりますか?」

「午後五時頃らしいです。牧雄君がそう言っていて、その話をそのまま役場に電話で伝えました」

「では、あなた自身はどうですか? あなたが最後に勝治さんを目撃したのは?」

 武治はしばし考え込む。

「……今思うと、遺言発表の席が最後だったはずです。向こうもすぐに部屋に引っ込んで、その後は姿を見ていませんね」

「そうですか。あぁ、部屋といえば、後で勝治さんが宿泊していた部屋を見せてもらえませんかね? 何か証拠が残っているかもしれませんので」

 唐突な寺桐の頼みにも、武治は動じる事なく頷く。

「もちろん構いません。それが警察の仕事でしょうからね」

「早速、ご理解頂けたようで何よりです」

 寺桐は軽く頭を下げて、すぐに別の質問に移る。

「ところで、あなたから見て、勝治さんが殺害された理由に何か心当たりはありませんかね?」

「さぁ。何分、会ったのも久しぶりでしたからね。何か話そうと思っても上の空でしたし、あんな男でも兄として扱わなければならない事を思うと、本当に恥ずかしい限りです」

「日頃から付き合いはなかった、と?」

「少なくともここ数年はそうですね」

「では、他の兄弟の方々についてはどうでしょうか?」

 そう尋ねると、武治は少し考え込みながらもゆっくりと答えた。

「牧雄君とは仕事上の関係もあるのでよく連絡を取り合っています。信治も週に何回かは診療所に来るので、それなりの付き合いはあるつもりです」

「奏さんは?」

「あれは……正直、兄以上によくわかりません。どこで何をしているのか、その辺の情報が全く耳に入ってきませんし、本人もあの調子でまったく会話にならないものですから」

 これについては、武治も本気で困惑しているようだった。

「話は変わりますが、武治さんは今回の遺言についてどう思われますか? 率直な所をお聞きしたいのですが」

 その質問に、武治は顔をしかめながら言葉を返す。

「もしやあなた方は、勝治の死が今回の遺言の内容に関係していると思っているのですか?」

「状況的に、そう考えるのは当然かと思いますが」

「ふん、それはあまりにも安直な考え方だと個人的には思いますが、まぁ仮に百歩譲ってその考え方が当たっていたとしても、そもそもの話として私には動機がありません」

「ほほう、と言うと?」

「当主相続の第一候補はあくまで私の娘の蘭で、兄はあくまで第二候補に過ぎません。なるほど、確かに私にとっては蘭が当主を相続すればかなりのメリットがある。しかし、兄を殺したところで第一候補の蘭が健在である以上、当主継承の順位に変動はない。つまり、殺すだけ無駄という事ですよ」

 そんな事もわからないのかと言わんばかりに武治はまくしたてる。だが、そこで唐突に榊原が口を挟んだ。

「しかし、実際の所、蘭さんは当主を継ぐ気がないという噂もあるようですが」

「そんな事はない!」

 瞬間、武治は顔色を変えると、椅子から立ち上がりながら机を叩いて声を張り上げた。が、榊原が冷静な目で自分を見つめているのに気付くと、取り繕うように作り笑いをしながら言葉を連ねた。

「いや、その……今はただ、一時のブームでちやほやされて舞い上がっているだけです。若気の至りという奴ですよ。ちゃんと話をすれば、あの子は必ずわかってくれるはず。アイドルなどという先の短い『遊び』にうつつを抜かすより、当主の座を継いで地に足をつけた人生を送った方が何倍も幸せになれると……」

「そうですか」

 榊原はそう言って相槌を打ったが、当然、武治の言葉をそのまま信じたわけではないようだった。というより、実際の蘭の態度を見るに、アイドル活動の事を『遊び』などと表現して暗に見下している武治の説得を蘭が受け入れるとは到底思えないというのが隣に座る寺桐の率直な感想だったが、この場で武治にそれを言うような愚は寺桐も榊原も侵さなかった。

「それより、その蘭は! 娘は今、どこにいるんですか!」

「彼女は第一発見者ですのでね。役場の方で話を聞かせて頂いています。ただ、本人が屋敷には帰りたくないと言っていましてね。この状況下で村長の家に戻すわけにもいきませんので、我々の監視の下、役場に泊まってもらおうかと思っています」

「い、いや、しかし……」

「とにかく、本人が拒否している以上、我々警察が彼女を無理やりここに連れてくる事もできませんのでね。御不満があるようでしたら、本人と直接交渉して頂きたく思います。話せばわかってくれる子なのでしょう?」

「……わかりました。後で役場に電話をしてみます」

 自分で言った手前、武治としてはそう言う他ないようだった。

「ひとまず、あなたに聞きたい事は以上です。次は牧雄さんに来るように伝えてください。それと、こちらの指示があるまでは自室で待機しておくように。よろしいですね?」

 寺桐の言葉に武治は一瞬顔をしかめたように見えたが、すぐに無表情になって無言で頷くと、そのまま部屋を出て行く。榊原はそんな武治の背中を、ジッと観察し続けていたのだった……


 長女・月園涼の夫である婿養子・月園牧雄が姿を見せたのは、武治が退室してから約五分後の事だった。その際、牧雄はあくまで夫婦二人で話をする事を主張したが、証言の示し合わせをされる可能性があったため寺桐は頑としてその要求をはねのけ、その強硬な態度に牧雄の方も根負けした形である。

「しかし、とんだ事になりましたなぁ」

 聴取が始まると、牧雄は椅子の背もたれにゆったりもたれかかりながら、表向きは余裕そうな態度で応じた。だが、実際は腕組みした手の指を何度も動かしており、言動に反してかなり気にしているのがわかった。

「とんだ事、ですか」

「えぇ。こういう古い家での家督相続をめぐる殺人など、それこそ昔の小説の中だけの話かと思っていたのですがね。まさか本当にそんな事が起こって、しかも自分がそれに巻き込まれるとは思いもしませんでしたなぁ」

 そう言ってから牧雄は軽く笑い声を上げたが、それが空元気なのは注意しなくても簡単にわかる事だった。

「確認ですが、牧雄さんは月園財閥の関連企業の社員という事でしたね?」

「えぇ、まぁ。今は『ムーン・ワールド・トレード社』の役員をしています。一昔前の『月園貿易』ですな」

「あぁ、何年か前に社名を変更されていましたね」

「財閥内で色々とありましてな。最後は葵会長が決定しました」

「奥様の涼さんもそこの役員だとか?」

「えぇ。私自身はいわゆる入り婿ですがね。そのせいでこの家の中では肩身が狭いのなんの」

 牧雄は冗談っぽくそう言って笑い声を上げるが、その目が全く笑っていない。やはりこの家の中における自分の扱いに思う所はあるようであり、それはつまり、他の人間に負けず劣らず、月園家の当主の地位に対する執着が強いという事でもあると寺桐は思った。が、寺桐はそれに気付かないふりをしながら、早速、質問を始めていく。

「では、改めて事件についていくつか質問させて頂きます。まず、武治さんの話だと、この屋敷で生きた勝治さんの姿を最後に見たのはあなたとの事ですが、それに間違いはありませんか?」

「はぁ。どうやら、そのようですな」

「その時の事を具体的に話して頂けますか?」

「具体的に、と言われましても……。午後五時頃に、屋敷の縁側でぼんやりと庭の方を眺めているのを偶然見かけて、声をかけようとすると、そのまま自分の部屋の方に戻っていったのです」

 牧雄の話はどうも曖昧だった。

「それから後は見ていない?」

「えぇ」

「しかし、あなたはその後で再び勝治さんの部屋を訪れ、そこで勝治さんがいない事に気付いている。これに間違いはありませんね?」

「まぁ、そうなりますな」

「部屋を訪れて勝治さんがいない事に気付いたのは何時頃の事ですか?」

「確か、午後六時ちょうど頃だったと思います」

 あらかじめ思い出しておいたのか、牧雄はあっさりとした様子で答える。

「では、このタイミングで何の目的で勝治さんの部屋に?」

「それは……これからの事について彼と少し話をしようと」

「何の話ですか?」

「ここで話すような事ではありませんよ」

 牧雄はそう言ってはぐらかす。仕方なく、寺桐は別方面から攻める事にした。

「これは皆さんにお聞きしている事ですが、遺言の発表が終わってから遺体が発見される午後七時頃までの間、あなたはどこで何をしていましたか?」

「アリバイの確認という奴ですな。まぁ、不愉快ですが仕方のない事なのでしょうなぁ」

 大げさに芝居がかったリアクションをしながらそう前置きすると、改めて咳払いをしてから彼は自身のアリバイを話し始める。

「遺言の発表が終わった後は、しばらくは自分の部屋に戻って書類仕事をしていましたよ。こう見えても忙しい身でしてな」

「お一人で、ですか?」

「えぇ、まぁ。妻は村の友人に会うために出かけていたようです」

「つまり、明確なアリバイはないと?」

 だが、予想に反して牧雄は首を振った。

「いえいえ、仕事の最中に会社の人間と何度も電話で話をしています。こちらからかける事もあれば、相手の方から連絡がくる事もありました。少なくとも、その電話をしている最中には、私のアリバイは成立しているはずです」

「その連絡は、携帯電話に?」

「それもありましたが、何分、ここは時々電波の入りが悪くなるものでして。部屋に設置されている固定電話も併用していました」

「固定電話、ですか」

「えぇ。詳しい事は、会社の人間に話を聞いてもらえれば充分に証明できると思いますが」

 その確認については後で警視庁側に頼む必要があると寺桐は判断し、話の先を促す。

「しばらくしてからその仕事がひと段落着いたので、午後五時頃に一度休憩するために部屋を出て台所の方へ向かったのですが、そこでさっきも言ったように勝治さんと遭遇したというわけです」

「その時、その場にいたのはあなたと勝治さんだけですか?」

「えぇ、そうです」

 だとするなら、牧雄が午後五時に屋敷の縁側で勝治を見たという証言はあくまで自己申告に過ぎず、その証言の真偽を客観的に証明する事はできないという話になる。そうなると、仮に牧雄がこの事件の犯人だった場合、この証言自体が嘘である可能性を考えなくてはならなくなるため、この午後五時時点における勝治の生存確認情報を全面的に信用する事はできないというのが寺桐の考えだった。

「その後はどうしました?」

「台所でコーヒーを入れて、そのカップを持ってまた自室に戻りました。で、仕事の続きをしていたわけです」

「そしてその後、目的はともかく、午後六時頃に勝治さんの部屋を訪れた、と」

「そうなりますな。あぁ、そう言えばちょうどそれと同じ頃に妻が帰って来て、その五分から十分後くらいに武治さんも帰ってきたはずです」

 妻の涼はともかく、牧雄の証言は先程の武治の証言と今のところ一致していた。

「今回の遺言について、あなたはどのように思われますか?」

 その質問に対し、牧雄は顔をしかめながらこう答えた。

「正直、迷惑な遺言だとは思いますが、葵会長らしいと言えばらしいとも言えます」

「発表直後に、武治さんと一緒になって激高したと聞いていますが」

「いやはやお恥ずかしい。あまりの内容に取り乱してしまいましてな」

 牧雄はそう言って笑いながら軽く流そうとするが、その目元が軽く引きつっているのを寺桐は見て取っていた。

「しかしまぁ、法律上有効な遺言である以上、従わざるを得ないでしょう」

「勝治さんが亡くなられた今、状況は大きく変わっているようですが」

 寺桐はそう言って相手の反応を伺う。勝治が殺された今、蘭が当主継承を拒否する可能性が高い以上、第三候補である牧雄と涼の子供が次期当主になる可能性が高まっている。つまり、目の前の牧雄には動機があるのだ。

「……なぁるほど。確かに私と妻には動機があるようですな。これでは疑われても仕方がない。しかし、私は殺人などという下らない事はしませんよ。日本の警察が優秀な事は良く存じていますからなぁ。仮に誰かを殺して当主になれても、優秀なる警察に捕まっては意味がありませんのでな。小説と現実が違う事くらい、私でなくともわかる事です」

「では、あなたが犯人でないとすれば、犯人が勝治さんを殺した動機に何か心当たりはありませんか?」

「さぁねぇ。何分、彼とは今までほとんど付き合いがなかったものでしてな。見当もつきません」

「東京でも彼と会った事は?」

「残念ながら、ありませんな。仕事上の繋がりはありませんし、個人的に会う理由もありませんので」

「では、他の方々についての印象はどうでしょうか?」

「他、ですか。武治さんとは、まぁ、仕事上の関係などもありますのでそれなりに会って話をしたりはしますよ。信治さんは……風邪をひいた時に診てもらうくらいの関係でしょうかな。奏さんは……申し訳ないが、よくわかりません。会うこと自体珍しいので」

「蘭さんはどうですか?」

「あぁ、たまにテレビに出ているところを見るくらいですね。とはいえ、あまり接点はないものでしてなぁ。一応、うちの社のコマーシャルに出てもらってはどうかという話も出たのですが、さすがにあからさま過ぎるのと武治さんからクレームが来た事もあって、結局この話はなかった事になっています」

「そうですか」

 その後も牧雄は時々微妙に表情には出すものの、最後の最後までのらりくらりとした問答を繰り返した。そのせいもあってか彼から決定的な証言を引き出す事はできず、結局そのまま時間切れになってしまったのだった。


 続いて、牧雄の妻で月園家長女である月園涼が呼び出された。遺言発表の時と同じく和服姿で、しっかり背筋を伸ばして椅子に腰かける。

「月園涼と申します。この度は、兄がご迷惑をおかけしました」

 開口一番、涼はそう言いながら膝の上に手を置いて深々と頭を下げ、丁寧に挨拶をした。が、話し方こそ丁寧だが言葉の節々に棘があるように感じられ、きつい目元も相まって一筋縄ではいきそうにない相手なのは間違いないようだった。

「迷惑、という言い方はあれですな。勝治さんは好き好んで殺されたわけでもありませんし」

 あえて穏やかな口調でそう言う寺桐に対し、しかし涼の態度は大変厳しいものだった。

「いいえ、生前から私たち兄妹や葵お婆様に迷惑をかけておきながら、死んでまで警察の皆様の手を煩わせた上に、こうして私たちに疑いがかかるような事になっている。これは迷惑以外の何物でもございません」

「あまり勝治さんに良い感情をお持ちではないようですね」

「……月園家の責務から逃げたただの卑怯者ですわ。そのせいで、私たちがどれほど苦労をしたのか、あなた方にはおわかりにならないと思います」

 きっぱりとした口調でそんな事を言った後、涼は付け加えるようにこう言った。

「ですが、だからと言って兄を殺すような事は致しません。そんな価値もない、と言えばいいかもしれませんが」

「辛辣ですな」

「事実ですので。あんな人間を兄と呼ばなければならない事に恥ずかしささえ覚えます」

 涼の勝治に対する印象は明白だった。それを確認した上で、寺桐は事件についての質問に入る。

「では早速ですが、勝治さんが殺害された動機について、何か心当たりはありませんか?」

「さぁ。日頃からほとんど付き合いもありませんでしたし、会おうとも思いませんでしたので、私からは何とも。もっとも、あの兄の事ですから、人から恨みを買う事も多かったとは思いますが」

 前の二人とほとんど同じような回答である。もっとも、彼女の場合は二人以上に勝治の事を毛嫌いしているようだったので、普段から会っていないからわからないというのも不自然ではない話のように思えた。

「遺言発表が終わってから遺体が発見される午後七時までのアリバイを確認したいのですが」

「……私が話さずとも、夫からある程度は聞いているのでは?」

 目を細めて逆質問をしてくる涼に対し、寺桐も冷静な態度で応じる。

「一応は。村のお友達に会いに出かけていたそうですね?」

「えぇ。小中学校の頃の幼馴染に。こんな機会でもないと会えないものですから」

「そのご友人のお名前は?」

「葉崎です。葉崎創子。『葉崎商店』のおかみさん、と言えばお判りでしょうか?」

 涼の言葉に寺桐は頷きを返す。『葉崎商店』とはこの村でほぼ唯一の雑貨屋で、村人の日常雑貨品の購入はほとんどここで行われている事が多かった。それだけに警察関係者にとっても馴染みの店で、寺桐自身もその葉崎創子という店のおかみさんとは面識があった。

「遺言の発表が終わった後、彼女の家にお邪魔してしばらく昔話に花を咲かせていました」

「では、その葉崎宅を辞されたのは何時頃の事かわかりますか?」

「それがすっかり話し込んでしまいまして。確か、屋敷に戻ったのは午後六時頃の事だったと思います。雨がひどかったので、葉崎さんの車で屋敷まで送ってもらいまして。ですが、屋敷の中に入ってみると勝治兄さんがいなくなったと夫が騒いでいて、そのすぐ後に武治兄さんも帰ってきました。そして、私がわけがわからないでいるうちに時間が過ぎて、そうこうしているうちに勝治兄さんの遺体が見つかったという連絡が入ってきたんです」

「ふむ……」

 もちろん、話に出てきた葉崎創子という幼馴染に後で話を聞く必要があるが、もしこの話が本当なら、彼女にはほとんど完璧とも言えるアリバイが存在する事になる。

「葉崎さんと話している途中でその場を中座した事はありませんか?」

「いいえ。さすがにお手洗いに行ったりくらいはしましたが、それもせいぜい五分くらいの話です」

 涼の答えは明快なものだった。

「後でその葉崎さんにお話を伺う事になりますが、よろしいですか?」

「えぇ、構いませんわ」

 ひとまず、この件はその葉崎創子の証言を聞くまでは保留にせざるを得ないようだった。

「今回の遺言についてあなたがどう思われているのかを教えて頂けませんか?」

「そうですわね。お婆様が何を考えているのか、最後の最後まで結局わかりませんでしたわ。あの人らしいというか、死んでからも私たちを振り回して楽しいのかというか、そんな気分ですわね」

「しかし、今の状況はあなたにとって有利なのでは?」

 あえて踏み込んだ質問に、案の定、涼は眉をひそめる。

「私にも動機があると?」

「あくまで事実を申し上げただけです」

「……否定はしませんわ。でも、だからと言って兄を殺すほど、私は落ちぶれているつもりはありませんわよ」

 それからもしばらく寺桐は質問を続けたが、涼は最後までその厳しい態度を崩す事はなかった。ただ、表面上のそんな態度の裏で、時折膝の上で握られた彼女の拳に力が入る場面があるのを、榊原は正確に見切っていたのだった。


 本来なら、この次に月園家次女の月園奏に対する聴取が行われるはずだった。だが、ここで予想外の事態が起こった。何と、奏は突然気分が悪いと主張して現時点での事情聴取を拒否し、部屋に引きこもったまま出て来なくなってしまったのである。現段階ではあくまで令状の取れない任意聴取であるため、寺桐たちとしても嫌がる彼女を無理やりこの場に引きずり出す事もできず、彼女に対する聴取は断念せざるを得なくなった。

 仕方がないため、本来最後に行うはずだった当主代理の月園満治に対する聴取が先に行われる事となった。ただし、高齢の満治に大広間まで来てもらうのは大変であるため、今回ばかりは満治の自室に出向いての聴取となる。

「わざわざ来てもらってすまんね。何分、この歳で体が言う事を聞かんものでな」

 満治はベッドの上で身を起こしながらそう言って寺桐たちを出迎えた。今でこそこうして体は衰えているが、何しろ長年この村の先代村長として妻の葵に次ぐ権力者だった男である。それだけに、寺桐たちとしても慎重に振る舞う必要があったが、同時に彼の体調を考えると長時間の質問が難しいのは目に見えていたので、可能な限りピンポイントに絞った質問をせざるを得ないのも事実だった。

「失礼かとは思いますが、何分、殺人事件ですので、形式的にでも関係者全員に話を聞く必要があります。その点、ご了承頂きたく」

「あぁ、言われんでもわかっとるよ。別に何かの小説のように権力を笠に捜査を妨害したりはせんから安心しなさい。むしろ、大切な孫を殺した犯人を捕まえるためなら、喜んで何でも話そうじゃないか」

 満治は穏やかな声ながらも、鋭い視線を寺桐たちに向けながらそう言った。

「恐れ入ります。では、御体にも触りますので手短に」

 そう前置きして、寺桐は満治に対する質問を始める。

「まず、勝治氏が殺害された事についてですが、彼が殺害された理由について何か心当たりはありませんか?」

「……何とも言えんな。ここ数年、勝治とは会っておらんかったから」

「祖父のあなたも会っていなかったんですか」

「そうなるな。わしは何度も会いに来てほしいと催促しておったのだが、向こうにその気がないようでな。まぁ、妻のせいで人生を狂わされたと思っていたようだったから、仕方がないのかもしれんがな」

「妻と言うと、葵さんですか?」

 寺桐の確認に満治は頷く。

「左様。勝治が勤め先を辞めた理由については知っておるかな?」

「噂には。失礼ながらその……葵さんに仕事を辞める事を許してもらえず、鬱状態になったからと聞いていますが」

 寺桐の慎重な答えに、満治は苦々しげに言葉を続ける。

「妻も死ぬ前には反省しておったよ。自分の生涯における唯一の失敗だとな。さすがに気にかけておったようだが、勝治自身が妻と会う事を拒絶している状況でな。結局、どうする事もできないまま妻は死に、そして今日、今にも死にそうなわしよりも先に勝治も死んでしまいよった。人生、無常よな」

 満治は自嘲気味に笑った。

「……これは形式的な質問ですが、遺言発表が終わってから遺体が発見される午後七時まで、あなたはどこで何を?」

「ずっとこうしてここで寝ておったよ。実の所、あの遺言発表の場に出た事も、この体にはかなりの負担でな。疲れてしまって、皆が騒ぎ出すまで横になっておった」

 ある意味予想通りの答えであるが、実際の所、アリバイがどうであれ満治自身が犯人である可能性はほとんどないだろうというのが寺桐と榊原の一致した意見である。なので、この件についてそれ以上突っ込んで聞くような事はしなかった。

「今回の遺言について、葵さんの夫であるあなたがご存知の事を教えて頂きたいのですが」

「詳しい内容までは知らんかったが、妻も色々考えておるようじゃった。具体的な事は島永君と一緒に作っておったから、詳細は彼に聞いてほしい」

「アタッシュケースを開けるための鍵の片割れを預かっておられたようですが」

「あぁ、その仕事だけは生前に妻から頼まれていた。遺言発表の当日までに中身を読まれたくないからと」

「島永弁護士とあなたで一本ずつ鍵を所持し、当日に二本の鍵でケースを開けるという形式ですね」

「左様。随分用心深いとは思っておったが、他ならぬ妻の頼みじゃからな。引き受けんわけにはいかんだろうて」

 そこまで話すと、満治はフウと息を吐いてそのまま布団に横たわった。

「……少し疲れた。まだ何かあるなら、すまないが続きは明日にしてくれんかね?」

「いえ、今の所はこれで充分です。お疲れの所、すみませんでした」

 実際はまだ聞きたい事はあったが、やむなく寺桐は一礼して質問を打ち切る。その隣で、榊原は目を細めて満治の様子を見守っていたのだった……。


 一通りの聴取が終わった時点で、再び役場の捜査本部に戻って捜査会議が行われる事となった。時刻は午後九時を少し過ぎた頃になっており、寺桐たちの顔にも少し疲れが見えているが、誰もそれを言葉に出す事はない。

「話を聞いてどう思った、榊原君?」

「今の時点ではまだ何かを明確に断定する事はできません。ただ、確かなのは殺された勝治氏の人付き合いが驚くほど希薄だったという事です」

「だな。血縁者なのに、誰もかれもが最近の事は知らないだの何だのと、呆れた話だ」

 寺桐がため息をつきながらそんな事を言うが、そんな寺桐に城田が自身の意見を述べた。

「でも、それを逆に言うと、彼らには今回の遺言以外の件で勝治氏を殺害する動機はない事になりませんか?」

「……どうだろうな。もしかしたら何か我々の知らない裏があるのかもしれないが、何度も言うようにこの場でそれを探るには限界がある。もどかしい話だがね」

 と、ここで榊原は話の矛先を瑞穂に向けた。

「話は変わるが、瑞穂ちゃん、蘭さんたちの様子はどうだったね?」

 そう聞かれて、瑞穂は少し慌てたようにその質問に答える。

「えっと、大分、落ち着いたみたいでした。とりとめもない話ばかりしていて、事件の事は聞けていないんですけど」

「それで構わんよ。それより、その途中で武治助役から蘭さんに連絡はなかったかね?」

「あぁ、ありました。蘭さんの携帯に電話があって、屋敷に帰ってくるよう言っていたみたいですけど、蘭さんは拒否していました。このまま役場にいた方が安全だって」

「そうか……」

 傍目から見ても、あの親子がかみ合っているようにはとても思えないというのが瑞穂の直感だった。

「ところで、勝治氏の部屋の調査はどうだったんですか?」

 城田の質問に、寺桐は難しい顔で答えた。

「聴取の後、武治氏の立ち合いで調べてみたが、所持品が詰められたボストンバッグが一つあるだけだった。まぁ、宿泊するためだけの部屋だから、当然と言えば当然だが」

 そのボストンバッグも、めぼしいものはほとんど入っていなかったとの事だった。着替えなどの宿泊用品、財布、携帯電話、携帯の充電器等々、いずれも持っていても何ら不自然ではないものばかりであり、何か手懸りになりそうなものは発見できなかったという。

 と、そこで瑞穂が素朴な疑問を挟んだ。

「あの、ちょっと気になったんですけど、勝治さんってどうやってこの村まで来たんですか? ここって車でしか来られないはずですよね」

 そのもっともな疑問に対し、答えたのは榊原だった。

「私も気になって部屋を調べている時に武治助役に聞いたんだが、最寄駅からバスで来たらしい」

「バス、ですか?」

「あぁ、県道の村の入口の近くに小さなバス停があって、朝と夕方の二本だけだが一応路線バスが走っているそうだ。遺言発表の前日の夕方にそのバスに乗ってふらりとやって来たとの事だ」

「ちなみに、牧雄夫婦や信治氏、奏さんはそれぞれ自分の車で来たそうだ。蘭さんは昨日、父親の武治助役が東京まで迎えに行ったらしい」

 榊原がそう言って補足を加え、それを確認した上で寺桐は話を元に戻した。

「とにかく、アリバイを裏付けるためにも、聴取した証言の具体的な検証が必要だな。武治氏と一緒に仕事をしていた役場の職員に、電話をしたという牧雄氏の仕事相手、それに涼さんと話をしていたという葉崎の奥さん辺りか。個別に話を聞く必要があるが、この大雨の中でどこまでできるか……」

 と、そこで城田がふと思い出したかのように言葉を発した。

「あの、アリバイと言えば、この会議が始まる少し前に巴川署から署活系無線で連絡がありました。例の信治氏のアリバイについての回答です」

 城田の言葉に、榊原は顔を上げた。

「どう言っていましたか?」

「屋敷を出てからは午後六時頃まで診療所で仕事をしていて、そこから巴川署に向かい、到着した午後六時十分以降は巴川署のオフィスで警務総務課の虎永巡査部長と話をしていたという事です。診療所にいた時には通いの看護師さんと一緒にいたというアリバイがあるようですね」

「一応のアリバイはある、という事か」

 榊原は厳しい表情のまま頭を下げた。代わって寺桐が城田に尋ねる。

「向こうは他に何か言っていたか?」

「八時頃から留置所で起こった殺人に関する捜査会議を行ったそうですが、結果はあまり芳しくはなかったみたいですね。結局、根本的な事は何もわからないまま解散になったようです」

「向こうも苦戦しているようだな。まぁ、あっちもあっちでできる事に制限があるからやむを得ないかもしれないが……」

 寺桐が呻くようにそんな事を言った、その時だった。急に部屋のドアがノックされ、役場職員の一人が顔を出した。

「失礼します!」

「どうしましたか?」

「それがその……探偵さんに話をしたいという方がお見えでして」

「私ですか?」

 榊原は眉をひそめる。が、続いて発せられた名前を聞いて、榊原はさらに困惑した表情を浮かべる事となった。

「はい。月園奏さんが探偵さんに話があると」

「月園奏?」

 それは、先程の事情聴取を体調不良を理由に拒否したはずの月園家の次女の名前である。遺言発表の席ではかなり地味な印象だったが、まさか彼女の方からこちらを訪ねてくるなどという積極的な行動をしてくるとは、さすがの榊原も予想していなかったようだった。

「どうしますか?」

「……会いましょう。どんな意図かはわかりませんが、今まで表に出ていなかった彼女の話に興味はあります」

 榊原は即座に己の行動を決める。が、職員はさらにこう続けた。

「あ、それとその……奏さんは、できれば深町さんにも同席してほしいとの事で」

「え、私?」

 驚いたのは瑞穂だった。榊原はともかく、まさか自分まで御指名がかかるとは思っていなかったのだ。

「瑞穂ちゃん、どうするね?」

「それは……同席していいんだったら、もちろん一緒に行きますけど……」

 榊原の判断は一瞬だった。

「決まりだ。この際時間が惜しい。すみませんが、どこかの部屋に準備をしてもらえますか?」

 榊原の要請に職員は頷き、再び部屋を出ていく。

「果たして今度は鬼が出るか蛇が出るか……」

 思わずと言った風な榊原の呟きに対し、瑞穂も何となく不安を覚えたのだった。


 対面の場として提供されたのは、三階の空き部屋だった。そこに机と椅子を運んで臨時の取調室にし、奏の指名通り、榊原と瑞穂だけが彼女に相対する事となった。

「どうも」

 榊原がそう挨拶すると、すでに椅子に座った奏は相変わらず暗そうな表情のまま、無言で頭を下げた。榊原はそのまま机を挟んだ反対側の席に座り、瑞穂はそんな榊原の後ろに控える。少しの間、互いに無言の時間が流れた。

「……榊原恵一さん、ですね……」

 不意に、奏がボソボソとした聞き取りにくい声で話した。

「そうです」

「……初めまして……月園奏、です……」

 あまり感情がこもらない声だと瑞穂は思った。だがその分、彼女が何を考えているのかわかりにくい。

「最初にお聞きしたい事があります。聞いた話だと、あなたは私と瑞穂ちゃんを指名したという事ですが、それは一体なぜですか? その理由について、まずは教えて頂きたい」

 榊原の問いかけに対し奏はすぐには答えようとせず、しばらく無言の時間が続く。が、一分ほどして、奏はか細い声で告げた。

「実は私……以前から、あなたの事を知っているんです」

「私の事を、ですか?」

「はい。それはもう……よく知っています」

 その瞬間……突然、奏の雰囲気が大きく変わった。


「榊原恵一、四十二歳。一九六六年四月三日に神奈川県横浜市にて生誕。父は横浜市職員の榊原文雄で母親は榊原政子。神奈川県立浜川高校卒業後に私立東城大学法学部に進学。大学在学中に両親が事故死し、卒業後に警視庁警察官採用試験に合格してノンキャリアとして警視庁入庁。警察学校卒業後、当初は品川駅前交番所属の交番巡査として勤務するも、その際に関与したある殺人事件を交番巡査の身で単独で解決に導いた推理力が上層部に評価され、特例で巡査部長昇進の上で当時設立されたばかりの警視庁刑事部捜査一課十三係・通称『沖田班』に異動。以降、同係のブレーン役として数多くの事件を解決に導き、二十八歳という異例の若さで警部補に昇進するも、三十二歳の時に担当したある事件における捜査失敗の責任を取る形で一九九八年に警視庁を辞職。以降は品川にて私立探偵事務所を開業し……」


「待ってください!」

 榊原はそう言って、奏の発言を途中で遮った。奏はピタリと言葉を止めたが、その顔には先程までまったく見られなかった不敵な笑みが浮かんでおり、猫背気味だった背中もしっかり伸びている。

 その瞬間、瑞穂は今までの奏の姿は演技で、これこそが彼女の本性であると直感的に理解していた。

「何でしょうか?」

 奏は何事もなかったかのようにすました表情でそう尋ね返す。それを見て、榊原は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。

「……どうやら、ここへきて一杯食わされたようですね。回りくどい事はやめて、単刀直入に聞きましょう。月園奏さん……あなたは一体、何者ですか?」

 榊原の真剣なその問いに対し、奏は不敵な笑みを浮かべながら、先程とは違ってはっきりした口調で己の正体を告げた。


「そうですね。警視庁公安部の捜査官……そう言えばよろしいでしょうか」


「公安の捜査官……だと?」

「はい。さすがに具体的な所属部署名は申し上げられませんが、ひとまず国内情勢担当だという事だけは申し上げておきます」

 警察の公安と一口に言っても、その活動は国内の過激派や右翼・左翼団体、特定の指定団体や犯罪組織などの監視や対策を行う「国内情勢担当」と、海外からのスパイや工作員の摘発や監視、及びそうした諜報絡みの犯罪行為に対処する「国外情勢担当(外事警察)」に大きく分割できる。警視庁の場合、部署名が「公安第××課」となっているのが国内情勢担当で、「外事第××課」となっているのが国外情勢担当という事になるが、奏は自分が「国内情勢担当」のいずれかの部署に所属している捜査員であると告白しているのである。

 奏が明かした自らの「正体」に対し、榊原は一際厳しい表情を浮かべ、後ろに控える瑞穂は情報に頭がついていかず、ただ、今まで地味だと思っていた彼女の姿を見つめ続ける事しかできなかった。だが、衝撃の事実であるにも関わらず、榊原は無言のまま目の前に座る公安捜査官の顔を観察し続けており、当の奏自身もそんな榊原の態度は想定外のようであった。

「意外ですね。もっと驚くかと思ったのですが」

「……さっきあなた自身が言ったように、曲がりなりにも元々警視庁捜査一課に所属していた身です。公安が自身の身分を家族にも秘密にする事くらいは重々承知しています」

「そうですか。話が早くて助かります」

「しかし、それでも公安とはね。まさかとは思いますが、何か潜入捜査でも?」

 榊原のさりげない問いかけに、しかし奏は首を振った。

「それこそまさかです。いくら公安でも、捜査員の実家への潜入をその捜査員自身にさせたりはしません。今回の帰省は仕事ではなく、純粋にお婆様の遺言の発表を聞くためのものです」

「そうですか。しかし、それにしては今のあなたの性格と遺言発表時の様子はかなり違うようですね。しかも、家族の皆さんはさっきまでのあなたの姿を当然と思っているようですが」

 そのもっともな疑問に対し、奏はようやくため息をつきながら答える。

「……思い出すのも恥ずかしいですが、大学を卒業するまでは私は実際にあんな性格だったんです。でも、こうして公安の捜査官として何年も生活していたら、性格の一つや二つくらい簡単に変わってもおかしくないと思いますが」

「なるほど。否定できないのが悲しい所ですね」

 そう言って納得しておいてから、榊原は一度咳払いして改めて問いかけた。

「さて、そろそろ話を本題に移しましょう。その公安の月園奏さんが、お兄さんの勝治氏が殺害されたこの状況下でわざわざ私に面会を求め、あまつさえ本来極秘にしなければならない自らの正体を自分から我々に明かした理由を教えて頂けますか?」

 その問いかけに、奏の方も居住まいを正して答える。

「それを話す前に一つ確認した事があります。今回の事件が起こる直前に、指名手配犯の鬼首塔乃が埼玉県警に逮捕され、巴川署に連行されたという話を聞きました。それは確かですか?」

「……なぜその情報を?」

「鬼首逮捕の情報はすでに警視庁本部にも通達されています。その情報が公安の耳に入り、本部からたまたま巴川村にいた私に連絡があっただけの話です」

 奏は挑むように答え、榊原は黙って頷きを返しながら先を促す。

「話は簡単です。今後この事件の捜査をするにあたり、鬼首塔乃に関する情報も多数入ってくるはずです。その情報を私にも可能な限り教えて頂きたい。そして、今後もし鬼首が孤立した巴川署から救出されて尋問を受ける事になった際には、私にもその情報を共有するか、可能ならば取り調べに同席させて頂きたいのです。これは、公安本部から探偵・榊原恵一さんに対する私を通じた正式な要請となります」

 それは何とも奇妙な頼みだった。実際、榊原も眉をひそめて疑問を呈する。

「わかりませんね。なぜ公安のあなたが鬼首塔乃の事件に関心を? 確かに凶悪ではありますが、あくまでこれは通常の殺人事件。公安に関わる何かがあるとは思えませんが」

 その問いに、奏はいたって真剣な表情で答える。

「でしょうね。確かに現時点で、彼女が起こしたという事件そのものに公安が絡む事情は存在しません。ただ、問題は彼女本人ではなく、鬼首塔乃の父親です」

「父親?」

「はい。鬼首塔乃は今で言う一人親家庭の生まれで、三年前に病死した母親の鬼首鷹乃という女性が女手一つで育ててきました。ただ、育てたのは鬼首鷹乃ですが当然ながら父親がいたはずで、その父親というのがが……あの『竿留勝三郎』なのです」

 その名が告げられた瞬間、榊原の顔色が目に見えて大きく変わった。

「竿留勝三郎、だと!」

「ど、どうしたんですか、先生?」

 これまでにない榊原の反応に瑞穂は当惑する。榊原がこれだけ大きな反応をする場面など、今までに数えるほどしか見た事がなかった。

「そうか……今の子は、竿留勝三郎の名前を知らないのか」

「知らないのかって、有名人なんですか?」

「有名人……あぁ、確かにそうだ。ただし、悪い意味での、だが」

「それって、何かの事件の犯人って事ですか?」

 首をひねる瑞穂に対し、榊原に代わって奏が丁寧に説明する。

「竿留勝三郎は七〇年代に設立され、今となっては『日本最後の過激派』と呼ばれている過激派グループ『血闘軍』の創設者兼リーダーの男です。本人は公安部の執念の捜査で一九八二年に逮捕され、現在は数々の犯罪容疑で東京拘置所に死刑囚として収監されています」

「『血闘軍』……ですか」

 竿留の名前は知らなかった瑞穂だが、さすがに『血闘軍』という組織の名前には聞き覚えがあった。ニュースでもたまに出てくる名前であるし、何より駅に貼られていた指名手配のポスターの中に、この組織のメンバーと書かれた人間が何人かいたのを覚えていたからである。実際、奏もその手配書の件について言及してきた。

「手配書のポスターを見たというのなら、『蟹崎天一郎』や『鯉口征太郎』、『森永八重子』といった名前に聞き覚えがありませんか?」

「あー、確かにそんな名前があったようななかったような……」

「蟹崎は一九七〇年の警視庁品川第八交番爆破事件、鯉口は同じく一九七〇年の東京オーシャンホテル爆破事件の実行犯として有名だ。森永は目立った事件こそ起こしていないが血闘軍創設メンバーの一人と目されていて、蟹崎天一郎の恋人だった可能性がある人物として知られている」

 榊原がスラスラとそれぞれが関与している事件名を告げ、奏も頷きを返した。

「彼らは全部で十人いる血闘軍の創設メンバーのうちの三人で、創設メンバーの中ではこの三人が現在もなお逃走し続けています。この他にも手配されているメンバーはかなりの数に上り、公安もその動向を長年注視し続けている組織です」

「当然、そんな組織のリーダーである竿留勝三郎は、逮捕された現在でも警察関係者なら知らない人間はいない男だ。だが、奴に娘がいたなどという情報は私も初耳だ」

 榊原の疑問に対し、奏は何でもない風に答えた。

「当然です。公安としては恥をさらすようですが、彼女の存在が判明したのは二〇〇〇年代になってからの話です。そして彼女の存在が発覚した後も、我々はその情報を徹底的に極秘にした上で、彼女の動向を常に監視し続けていました」

 榊原は渋い表情を浮かべる。それなら一九九八年に警察を去った榊原がその情報を知らないというのも無理はない話だった。

「彼女が竿留の娘だと判明したのはなぜですか?」

「……申し訳ありませんが、それは極秘事項ですのでこの場で言う事はできません。ただ、先程は『疑い』と言いましたが、実際の所は彼女が竿留の娘である事はほぼ確実です。極秘に採取した彼女のDNAと今も拘置所に収監されている竿留のDNAを比較した所、確かな親子関係が認められましたので」

「そうですか……」

 榊原は何とも複雑そうに呻く。が、それでも驚くだけで終わらず、厳しい顔でこう続けた。

「ですが、公安が彼女の存在を秘密にした理由は何となくですが予想がつきます」

「お聞きしましょうか?」

「簡単な事です。彼女を『血闘軍』の新たなリーダーに祀り上げさせないためですね」

 榊原の答えに対し、奏は感心した風に頷いた。

「さすがですね。仰る通り、『日本最後の過激派』と呼ばれる『血闘軍』は、逆に言えば今なお警察が警戒するだけの勢力を残しているほぼ唯一の組織です。リーダーの竿留こそ逮捕されて死刑判決を受けていますが、竿留逮捕後も残ったメンバーが竿留の奪還を目的とする事件を繰り返し起こしており、すでに述べたように現在も逃亡を続けている幹部も数名います。とはいえ、カリスマ性のあるリーダーだった竿留の逮捕はやはり組織としては致命的だったらしく、その組織力は年を追うごとに確実に弱体化し続け、近年は明確に組織をまとめる人間がいない事もあって組織だった活動をする事自体が難しくなっている状態です。我々の予想では、このまま何事もなければ、あと十年もすればもはや組織としての『血闘軍』は解体するのではないかと考えています」

「ですが、そこに『竿留勝三郎』の娘が出てくれば、話が変わってしまう」

「その通り。そんな存在が明らかになれば、本人が望む望まぬに関わらず、血闘軍の残党たちは彼女を血闘軍のシンボルとして祀り上げ、最悪、新たなリーダーとして据え置く事も辞さないでしょう。そうなれば、弱体化していたはずの血闘軍は再び一つにまとまってしまい、新たな犯行が誘発される事も否定できません。公安としてはそれだけは避けなければならないのです。ですから、鬼首塔乃が竿留の娘であるという情報は、発覚してから今に至るまでずっと極秘にされ続けてきました」

 ところが、と奏は話を続けた。

「そんな我々の基本方針が大きく崩れたのは、二年前に世田谷で起こった連続殺人事件の容疑者として鬼首塔乃の名前が浮上した時です。監視対象だった彼女に殺人容疑がかかり、あまつさえ逃亡を許してしまうという状況に、公安部はパニックになりました」

「まぁ、それはそうでしょうね」

 榊原も同意するように頷く。

「実の所、表向き、あの一件は捜査本部の失策という事になっていますが、その実態は彼女が容疑者として浮上した時点で公安部と刑事部の上層部の間で捜査の主導権を巡るゴタゴタがあり、そのゴタゴタで現場の捜査方針が混乱した隙を突かれて逃亡されたという側面が強いのです。もちろん、これは表向きにはなっていない事ですし、実際に捜査をした現場の刑事たちが知るような事ではありませんが」

 その言い草に、榊原は眉をひそめながら苦言を呈する。

「でしょうね。もし知っていたら、ただでは済まないはずです。あの事件では捜査失敗の責任を取って現場の捜査員が何人か処分されているはずですから」

「それについては言い訳のしようがありません。とにかく、竿留勝三郎の娘が殺人容疑をかけられ、おまけに公安の監視を振り切って逃亡したという事実は、我々にとって看過できない問題です。まして逃亡中に血闘軍などの組織に接触されて祀り上げられでもすれば、今までの公安の努力が無駄になってしまう。なので我々は二年前から彼女の行方を必死になって追い続け、血闘軍などの組織に接触される前に確保する事を最終目標としてきました。幸いにも、今の段階では彼女は『殺人犯』として世間に知られてはいても、『竿留勝三郎の娘』であるという事実まではばれていません。それは現状、血闘軍残党の動きが活性化していない事からも間違いないと思われます。もし情報がばれていたら、血闘軍の残党たちは何が何でも彼女を探し出そうとするでしょうし、その動きに私たちが気付かないわけがありませんので」

「ふむ……なるほど。そんな鬼首塔乃がこの村であっけなく捕まり、しかもそこに公安の捜査員が偶然滞在していたとなれば、公安上層部も慌てるわけだ」

 榊原は一応納得したようではあった。

「我々としては、一刻も早く鬼首から話を聞きたい。逃亡中の彼女に接触した人間の中に危険な人間がいる可能性もありますし、その場合は一刻も早い対処が必要になります。ですので、無理を承知でこのお願いをしています。ご理解頂けませんか?」

「ふーむ」

 それでも榊原は唸るような声を上げ、少し考えてからこう答えた。

「受けるかどうかを答える前に、いくつか質問をしたいのですが」

「どうぞ」

「まず、なぜ、このタイミングで私に正体を明かしたのですか? 殺人事件が起こっている状況とはいえ、公安の捜査官としては正体がばれるような事態は好ましくないはず。にもかかわらず、なぜ自分から正体を明かすような真似を?」

 榊原のそんなある意味当然とも言える問いに、奏は正面から榊原をしっかり見据えながら答えた。

「言ったでしょう。我々公安は、あなたがかつて警視庁でどのような存在だったかをよく知っています。言い換えるとそれは、あなたを敵に回すとどれだけ恐ろしい存在になるかという事も理解しているという事です。しかも元捜査一課刑事であるあなたは、我々公安のやり方もよく知っています。となれば、秘密がばれる可能性は非常に高い」

「まるで、怪物扱いですね」

 榊原は自嘲気味にそう言ったが、奏の顔は真剣である。

「とにかく、あなたがこの一件に関与するというのならば、中途半端な所で正体を暴かれて変に勘繰られるより、最初から正体を明かして協力を要請した方が我々にとっても利益があると判断しました。もちろん、この件については私の独断ではなく、公安上層部の許可も得ていますのでご安心ください」

「別に心配しているわけではありませんが……状況は理解しました」

 一度そう言った上で、榊原はさらに質問を続ける。

「次に、この話の内容ならば別に呼ぶのは私だけでも良かったはず。なぜ瑞穂ちゃんまでこの場に同席させたのですか?」

 確かに瑞穂からしてもそれは疑問だった。それに対し、奏は一瞬瑞穂の方を見やりながら答える。

「探偵の助手を称する彼女なら秘密を守れると判断した事。そしてそれを踏まえて、せっかくの機会なので公安の捜査員として個人的に彼女に聞きたい事があったからです」

「聞きたい事とは?」

「記録によれば、彼女は都内にある公立波ノ内中学校の出身だそうですね。在学時には陸上部に所属していたとか」

 いきなりそんな事を言われて瑞穂は困惑した。

「は、はい。それは確かにそうですけど……」

「その波ノ内中学に、岩手冬葉という数学教師がいたはずです。彼女の事を覚えていますか?」

「岩手先生、ですか? えっと、確かにそんな先生はいましたけど……」

 瑞穂はますます困った顔をする。が、奏は言葉を止めない。

「その岩手先生の当時の学校での様子について教えてほしいのです。これが聞けるのは当時実際に彼女の授業を聞いていた生徒だけですから、私としてはこの貴重な機会を逃したくはないのです」

 そう言われても質問の意味がわからず、瑞穂は思わず榊原の方を振り返り、見かねた榊原が口を挟む。

「一方的に質問するのではなく、理由を教えてもらいたいものですね。その岩手という教師に公安のあなたが注目するのはなぜなのかを。でないと、瑞穂ちゃんも素直に答えられないと思いますし、私としても協力しかねますが」

「……それもそうですね。詳細は明かせませんが、簡単に概要だけは説明させて頂きます」

 そう言ってから、奏は改めて質問の意図を説明する。

「実は、今から数年前に青梅市の山中で彼女の友人が亡くなっていましてね。担当した所轄の公式見解では一応他殺の可能性は否定されていますが、我々はその一件に裏があると考えて極秘裏に調査を行っているのです」

「ほう?」

 思わぬ話に榊原は眉をひそめる。一方、奏はなぜかバツの悪そうな表情で話を続けた。

「実の所、我々がその事件に着目したのは最近の話でしてね。その亡くなった方……仮にAとしますが、とにかくそのAさんが生前書き残していた手紙が見つかったんです。で、その手紙の中に、ちょっと見過ごせない話が書かれていて、公安としてもAの死をもう一度調べざるを得なくなったというわけです」

「その『見過ごせない話』というのは?」

 榊原の当然とも言える質問に、奏は重々しい口調で答えた。

「Aの知り合いと思しき何者かが爆発物の製造及び販売に関与していた疑惑、です」

「……それは、確かに穏やかではありませんね」

 思った以上に深刻な話に、瑞穂は思わず息を飲んだ。だが、話はさらに深刻だった。

「その手紙の記述の内容から、我々はその何者かが裏社会で『ボム・メイカー』と呼ばれている犯罪者の可能性が極めて高いと判断しています。そして自身の正体の発覚を恐れた『ボム・メイカー』がAの口を封じた。我々はその可能性を考え、Aが亡くなった一件の再捜査を行っていました」

「『ボム・メイカー』ですか?」

 榊原が訝し気に尋ね返す。さすがの榊原も、その名前に心当たりはないようだった。

「榊原さんが知らないのも無理はありません。ここ数年、裏社会で急速にその名が広まっている人物ですし、一般には伏せられている異名ですから」

「爆発物の製造および販売の容疑、という事でしたか」

 榊原の確認に奏は頷いた。

「はい。簡単に言うと『爆発物専門の武器商人』とでも言うべき人物で、自作した高性能爆弾を公安部が監視対象にしている裏社会の各組織……各新興暴力団やカルト系の新興宗教団体、それにさっきから名前が出ている『血闘軍』の残党辺りに販売していると考えられています。『ボム・メイカー』というのは裏社会の人間たちによって自然に名付けられた通称で、性別も含めてその正体は一切不明です。公安も奴が出現した頃から全力でその正体を暴こうとしてきましたが、残念ながら未だに何もわかっていないも同然で、わかっている事は奴が製造する爆発物の性能が通常の手製爆弾に比べて非常に高性能であるという事。そして、もしこの爆弾が実際に使用されるような事があれば大変な事になりかねないという事実だけです」

「確かに、聞く限りだとなかなか厄介そうな相手ですね」

 榊原は難しい顔で腕組みしながらそんな感想を漏らした。

「幸い、現時点では爆弾が使用される前に公安が事前に計画を察知し、『ボム・メイカー』から売却された全ての爆弾の押収に成功しているのですが、そんな奇跡がいつまでも続くとは思えません。それだけに大元である『ボム・メイカー』の確保は我々公安にとっては長年の大きな課題となっているんです」

「だからこそ、『ボム・メイカー』の情報につながる情報は重要という事ですか。その『ボム・メイカー』ですが、今までの捜査で他に何かわかっている事はあるのですか?」

 その問いかけに、奏は思案気に口に手を当てながら答える。

「そうですね。まず、『ボム・メイカー』の制作する爆弾は全て一品物のオーダーメイドで、逮捕した買主の供述によると、注文してから実際に納入されるまで数ヶ月程度は見込む必要がある上に、一度に一つの爆弾しか注文できないとの事です。ただ、その分性能は折り紙付きで裏社会の人間たちからの信用はかなり高く、取引には多額の金が動いていると思われます」

「失礼、今、注文と言いましたが、具体的にどうやって?」

 榊原の質問に、奏は丁寧に答える。

「我々の捜査では、ネットの裏サイトが主流だと判断しています。それと、状況から見て『ボム・メイカー』は複数名の組織ではなく、あくまで単独の人間か、多くても二人のコンビである可能性が高いと考えられています。もし組織なら、こんな時間のかかるオーダーメイド方式などしないはずですから」

「確かに、それは私も同感ですね」

 榊原はそう言って奏に同意し、奏はさらに話を続ける。

「次に、『ボム・メイカー』が行っているのはあくまで爆弾の製造と裏社会への販売だけで、自身が爆弾を使用するという事はないようです。『ボム・メイカー』に興味があるのはあくまでも『爆弾を作る事』だけで、『実際に自分で爆発させる事』に興味はないようです。事実、『ボム・メイカー』本人が起こしたと思われる爆発事件は確認されていません」

「あぁ、だから異名が『ボマー』ではなく『ボム・メイカー』なのか。ますますどこか職人臭いタイプの人間だな」

 榊原はそんな独り言を呟き、改めて奏の目を正面から見据えて話しかけた。

「とにかく、それで今になってそのAの死に他殺の疑いが浮かんでいると?」

「えぇ。ですが、表向きにはすでに解決した事になっている事件ですので、明確な証拠がない限り、公安といえど表立った捜査を行う事はできません。なので、現状はあくまで公安単独で極秘裏に捜査をしている状況で、主に発見されたAの手紙に書かれていた『Aの知り合い』の正体を突き止める事に全力を注いでいます」

「それで、Aと友人である岩手という教師の事も調べている?」

 榊原の確認に奏は深く頷いた。

「もちろん、該当する人間は他にも複数いますが、どれだけ可能性が低かろうと、わずかでも可能性がある以上は公安として無視する事もできないのです。仮に違ったとしても少なくとも彼女が事件と関係ない事を確定させる必要があるわけで、そのためには少しでも情報が必要です。とはいえ、万が一彼女が犯人だった時の事を考えると直接彼女に話を聞くわけにもいかず、どうしたものかと困っていました」

「だから当時彼女の教え子だった瑞穂ちゃんから事件当時の彼女の話を聞きたい、と?」

「そういう事になります。もし彼女が本当に『ボム・メイカー』なら、学校での言動に何か不自然な点があるかもしれませんから」

「ふむ」

 榊原はチラリと瑞穂に視線を向ける。この要請を受けるかどうか、瑞穂に無言で確認を取っているようだった。

「えっと、そういう事なら別に話してもいいですけど……でも、話せる事は少ないと思います。というか、私が岩手先生に数学を習ったのって、せいぜい半年くらいだったはずですし」

 そもそも今更の話ではあるが、瑞穂がその岩手冬葉という数学教師の授業を実際に受けたのは、瑞穂が中学二年生の頃のわずかな期間に過ぎなかった。当初は一年の頃から数学を教わっていた別の数学教師が授業を担当していたのだが、夏休み明けにその教師が病気か何かが原因で急遽教師を辞める事になった事から他の学年の数学を担当していた岩手教諭が臨時で瑞穂たちのクラスの数学も担当する事になり、その状況も瑞穂たちが三年に進級した時に新たに赴任してきた別の教師に担当が交代した事で解消されたため、結局瑞穂が彼女の授業を受けたのは半年ほどでしかなかったという事になる。

 瑞穂がそう奏に説明すると、すでに調べてあったのか、奏の方もその辺の事情は理解しているようだった。

「それでも、少しでも彼女についての話を聞きたいんです」

「そう言われても……」

「では、こちらから具体的な事を聞きましょう。その岩手先生の授業ですが、実際に受けてみてどんな感じでしたか?」

 そう聞かれて、瑞穂は遠慮がちにこう答えた。

「どんなって、その……今だから言える事ですけど、正直、お世辞にも上手い授業ではなかったと思います。何というか説明もわかりにくくて、一方的に教科書の内容を説明して問題を解かせるだけみたいな……」

 おかげで受験の時、彼女に習った図形の相似や確率の範囲を理解するのに凄く苦労したと瑞穂は付け加えた。

「つまり、あまりやる気のある教師じゃなかった?」

「やる気というか何というか、毎日忙しそうでかなり疲れている風に見えました。授業も上手く教えられないっていうより、授業を工夫する精神的な余裕がないっていうか……そんな感じだったのを覚えています」

「そうですか」

 奏は少し考え込むと、別の質問に移る。

「彼女は数学の先生だったわけですよね? ならば、理科の知識についても詳しかったのではありませんか?」

「……わかりません。さっきも言ったみたいに教わった期間も長くないですし、少なくとも授業中に理科の話題が出た事はなかったと思います。あ、もちろん授業中に理科絡みの数学の問題の解説とかをする時なんかは別ですけど」

 瑞穂の頭に、水溶液のややこしい濃度計算で何度も間違えた苦い記憶が浮かんでくる。

「では、彼女が何か不審な発言をしたというような事は?」

「なかった……と思います。そもそも授業以外であまり積極的に話すタイプの先生じゃなかったし」

「なら、岩手先生と特に親しかった生徒や教師に心当たりはありませんか?」

 奏の鋭い質問に、瑞穂は必死に考える。

「……顧問をしていた美術部の子ならわかるかもしれません。あとは、学年主任の大下先生とよく話しているの見た気はしますけど、親しかったかどうかまではわかりません」

「なるほど」

「あの……私が話せるのはこのくらいだと思います。あんまり情報がなくて申し訳ないんですけど」

 瑞穂の言葉に、奏は真剣な様子で何かを考えていたようだったが、やがて納得したかのように頷くと瑞穂に頭を下げた。

「結構です。ひとまず聞きたい事は聞けましたので、この話はいったんここまでにしましょう」

 そう言うと、奏は視線を再び榊原の方へ向ける。

「それで榊原さん。話を戻しますが、これ以上の質問がないなら改めて先程の私からのお願いを引き受けて頂きたいのですが、どうでしょうか?」

「……」

 その奏からの問いかけに対し、榊原はしばらく無言で奏をじっと見つめていたが、やがて軽く息を吐くと、姿勢を正して自身の判断を伝えた。

「いいでしょう。私にどんな協力ができるかはわかりませんが、あなたの言うような事情があるという事は頭にとどめておきましょう。その上で、鬼首塔乃に関する情報がわかれば可能な限り伝える。それでよろしいですか?」

「えぇ、今はそれで充分です」

 奏はそう言って頭を下げる。が、榊原も利用されるだけの男ではなかった。

「その代わり、今回の事件についてあなたが知っている情報を私にも教えて頂きたい」

「情報、ですか?」

「もちろん、今回の事件についての情報です。月園家の内情についての話や、勝治氏が殺害された際の月園家の屋敷の状況。この際何でも構いません」

 その要求に対し、奏はしばし考える仕草を見せたものの、やがてやむを得ないと結論付けたようだった。

「……いいでしょう。私にわかる事なら何でも」

「感謝します。では、早速ですが……」

 榊原が何かを質問しようとした……まさに、その時だった。

 急に部屋のドアが激しくノックされ、血相を変えた城田が部屋に飛び込んで来た。奏は瞬時に元の地味な姿に戻ってその場で俯く演技を始めたが、城田はそんな彼女には目もくれず、唾を飛ばさんばかりに叫ぶ。

「榊原さん、大変です!」

 その慌てぶりから、何かよからぬことがあったのは確実だった。そして実際、城田の発した言葉に、榊原たちの表情は一気に険しくなったのだった。


「やられました! 第二の殺人です!」


 時刻は、午後九時四十五分を過ぎようかという頃の事だった……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
奏さんがなんか胡散臭いなとは思っていたが後半で判明。 ある意味当然だが公安でも実家はあるし偶然それに巻き込まれたということだろうな。 引っかかるのは涼さん。 兄は恨みを買うことが多い旨を言ってるが、…
鬼首の素性がわかったところで、巴川署第一の殺人事件の動機を推理すると、 「鬼首と血闘軍絡みの極秘の接触をするために、八戸及び記者の口封じをした」 かなぁと。 もっというと鬼首が巴川管内で捕まったのも巴…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ