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第一章 巴川警察署~第一の殺人

 午後七時、濁流によって巴川橋が流出したその瞬間、巴川署のオフィスのカウンターでは、虎永と信治がまだ取り留めもない話をしていたところだった。

 ちょうどその五分前、村で殺人事件が発生したという通報があった旨の館内放送が流れ、オフィスにいた源響子巡査が出動するために慌てて車庫の方へ駆けて行ったのを二人は見送ったばかりであった。当然その後、「この村で殺人とは珍しい」とか「こんな日に事件とはついていない」とか、とにかくそんな話をしていたわけなのであるが、オフィスの時計が七時を告げる電子音を響かせたまさにその瞬間、雨の音をかき消すような轟音が外から響き渡り、あまりの音に虎永と信治は思わず体をすくめてその視線をほぼ同時に外へと向けた。

「な、何だ、今の音は!」

 虎永が思わず叫ぶが、答える者はいない。ただ、明らかに外の様子が慌ただしくなった事だけは二人にもよくわかった。虎永たちが反射的に傘を差して玄関から外に飛び出すと、橋の前の辺りに一台のパトカーが停車しており、そのパトカーの傍らで二人の人影が呆然とした様子で正面の橋を見つめていた。

「どうしたんです! 何があったんですか!」

 虎永が駆け寄ると、そこに立っていたのは、今まさにパトカーで村へ出発しようとしていた合羽姿の石井と響子のコンビだった。もちろん、彼らとしてもこの状況は完全に予想外だったようで、さすがにどうしたらよいのかわからずただその場に突っ立っている事しかできないようである。

「石井課長! 何があったんです!」

 虎永の再びの叫びに、石井がようやく我を取り戻した。

「あ、あぁ。何といいますか……目の前で橋が流されましてね。どうもこの濁流に橋が耐え切れなかったようです。正直、もし橋の上にいたらと思うとゾッとします」

 確かに、パトカーが橋の上にいる状態で流されていれば、パトカーに乗っていた二人はまず助からなかっただろう。まさに間一髪だった。

「橋の上に他に車両や人は?」

「いえ、誰もいませんでした。それは間違いないと思います」

 石井ははっきり断言する。つまり、ひとまず橋の流出に巻き込まれた人間はいないという事になる。ひとまず、それは朗報ではあった。

 だが、直後の信治の発言で、虎永たちは一気に現実に引き戻される事となった。

「しかし、どうしたものかな。誰も犠牲者が出なかったのは幸いだが、これでは村に戻る事もできない」

 そう、橋が流されたという事は、この警察署に閉じ込められてしまったという事でもあるのである。この橋以外に警察署から村に出るルートは存在せず、夜間で、しかもこの大雨となれば、ヘリによる救助もまず不可能だ。

「どうやら、殺人事件の現場に駆け付けるどころではなくなったようですね」

 石井が厳しい表情で結論付ける。目を細めて対岸の方を見ると、さすがにこの騒ぎに気付いて何人かの人間が集まっているようではあったが、この暗がりと降りしきる雨のせいで視界も悪く、しばらくすると雨脚が強くなって対岸で何をしているのかもわからなくなってしまった。

 と、そこへ玄関からさらに誰かが駆け付けてくる。

「一体、どうなってる! 何が起こった!」

 それは、地域交通課長の花町警部補だった。どうやらこの騒ぎに気付いて署から飛び出てきたらしい。虎永たちが改めて簡単に今の状況を説明するが、その結果出た結論は、「自分たちではどうする事もできない」という絶望的なものだった。

「……とにかく、全員一度署に戻りましょう。こんな所に突っ立っていても事態は好転しませんし、無駄に雨に濡れるだけです」

「確かに、それはそうですね」

 石井の言葉に虎永も賛成する。というより、他に方法はなかった。

「源君、すみませんがパトカーを車庫に戻しておいてください」

「わ、わかりました」

 響子は石井から鍵を受け取り、運転席に乗ってパトカーを署の南側にある車庫へと戻しに行く。その間に、残り四人は玄関から署の中へと戻っていった。

「私は署長に報告に行ってくる。今後の対策を練らないと」

 戻るや否や、花町はそう言って二階へ駆けて行った。残された虎永、信治、石井の三人はオフィス前のカウンター近くで一息つき、石井は着ていた合羽を脱いで近くの来客用ソファに置いた。

「うちも今後の方針を決めなければなりませんね。署から出られないとなると、殺人事件の方の捜査は周辺の所轄に任せる必要がありますが、まずはその手続きをしないと……」

 石井がそう言って、早速行動に移ろうとした……まさにその瞬間だった。


「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 突然、何の前触れもなく、署内に絶叫が響き渡った。


 あまりに突然の出来事過ぎて、虎永たちは一瞬体が固まってしまった。正直、何が起こったのかもわからなかった。

「い、今の悲鳴は……」

「地下です!」

 直後、石井が叫び、真っ先に廊下を駆けて階段から地下へと向かっていく。続いて虎永と信治も後に続いて地下階に駆け下り、悲鳴がした方を見やると、留置監視室のドアの前に先行した石井が立っていて、そんな石井の前のドアと室内の間の部分で刑事生活安全課の柿村巡査部長が腰を抜かしたようにへたり込みながら室内を蒼ざめた表情で見つめているのが見えた。どうやら、先程の悲鳴の主はこの柿村巡査部長のものらしい。虎永は迷うことなく彼らの元へ駆け寄り、柿村に声をかけた。

「どうした! 何があったんだ!」

 言っている事は先程の橋の流出の時と同じだったが、状況は全く違っていた。対して、柿村は体を震わせながら室内を指さす。

「あ……あ……あれ……」

「あれ?」

 そう言われて、虎永と信治は条件反射的に柿村が指さす留置監視室の中に視線を向ける。


 ……そして、虎永は見てしまった。


 薄暗い蛍光灯の明かりに照らされた殺風景な留置監視室の床……そこに倒れたまま胸から血を流し、ピクリとも動かないままになっている一人の制服警官の姿を。そして、その物言わぬ屍となり果ててしまった制服警官が誰なのかを、虎永はすぐに理解していた。

 なぜなら、虎永はこの男をよく知っていたからだ。他でもない、虎永と同じ警務総務課に所属する巡査であり、階級的に見れば虎永の部下に当たる若い警察官……


「は、八戸!」

 

 巴川警察署警務総務課巡査・八戸進は、その短い生涯をこんな辺境の地の薄暗い地下室で終えてしまった。『殺人』という、警察署という場所で絶対にあってはならない事象によって……。



 留置監視室に転がっている八戸の死体を見て、虎永は何も言う事ができないでいた。八戸進は大きく目を見開いた状態であおむけに倒れ、もはや何も映らない視線を白い天井に向けていた。そして、その仰向けになった体の左胸に、一本のナイフが突き刺さっているのが嫌でも目に入って来た。

「八戸……嘘だろ……」

 虎永は思わずそう呟いていた。と、虎永の前にいた石井が厳しい声で柿村に声をかける。

「これを見つけたのは君ですか?」

「え、あ、は、はい! 七時半から金倉警部補たちが取り調べをするという事でしたので、その準備のためにここに来たんですが……」

「発見した時刻は?」

「た、確か午後七時十五分頃だったと……」

「そうですか」

 石井はそう言うと、虎永の後ろで緊張した顔をしていた信治に声をかけた。

「月園先生、すみませんが診てもらえませんか? 我々が確認してもいいのですが、後々の事を考えると本職の方にやってもらった方がいいかと思いますので」

 石井の依頼の意味を、信治はすぐに悟ったようだった。要するに、本職の医師である信治に八戸の死亡確認をしてほしいという事なのである。さすがに信治も医師として何度も人の死を見てきただけはあり、すぐに顔を引き締めて石井の要請に頷きを返した。

「わかりました」

「一応、近づく時にはこれを。痕跡を消したくありませんので」

 そう言って石井は鑑識用のビニール手袋と足袋を手渡す。信治は無言でそれを受け取って身に着けると、見守る警官たちに向かって一度頷いた上で留置監視室に転がる八戸の遺体に近づき、早速その生死を確認しにかかった。

「どうだ?」

 虎永の問いかけに対し、しかし信治は軽く調べただけですぐに首を振った。

「駄目だ。蘇生も不可能だと思う」

 心臓に刃物が突き立っている時点である程度覚悟をしていた事ではあったが、いざ実際に告げられると、その事実はその場に重くのしかかる事となった。

「……柿村君、留置所の中はどうなっていますか?」

 と、石井が未だに気後れしている柿村に声をかける。柿村はハッとして横にあるミラーガラスと監視カメラの方へ駆け寄り、留置所の中を確認しようとしたが、直後、なぜか呆然としてその動きを止めた。

「これは……」

 何が起こったのかと、絶句してしまった柿村の後ろから虎永もカメラの映像を覗く。だが、留置所内の様子を常に映しているはずの監視カメラの映像はモニターのディスプレイに一切映っておらず、それどころか機械その物が止まっているように見える。ミラーガラスからでは通路は見えても各々の房の中までは見えず、中がどうなっているのかはよくわからない状態だった。

「監視カメラ装置の電源が切られています」

「……詳しい調査は後で鑑識にしてもらう必要がありますが、今は中を早急に確認する必要がありますね」

 石井が重苦しい口調で言う。と、そこへ騒ぎを聞きつけたのか他の署員たちも次々と駆け付けてきた。

「さっきの悲鳴は何だ!」

 真っ先にやって来たのは、ここに鬼首塔乃を連行して来た金倉警部補と麻布巡査部長の埼玉県警コンビだった。その後からパトカーを車庫に戻しに行っていた刑事生活安全課の源響子巡査が続き、さらにその後ろには副署長兼警務総務課長の真砂警部の姿もある。そして、彼らも現場である留置監視室の中を見て、何が起こったのかを理解したようだった。

「は、八戸君!」

 思わず中に入ろうとする真砂の前に、石井がゆっくりと立ちふさがった。

「駄目です。入れる事はできません」

「どいてくれ。彼は私の部下だ」

「お断りします」

「何だと?」

「ここは殺人現場です。現場を保存するのは犯罪捜査の鉄則というものでしょう。あなたも元刑事というのならば、その事は充分理解できるのではないですか?」

 石井は静かに、しかし威厳のある声で副署長である真砂を睨みつけた。その静かな剣幕に、さすがの真砂もたじろぐ仕草を見せる。

「本気かね?」

「経緯はどうあれ、事が殺人である以上、捜査の管轄は我々刑事生活安全課にあるはずです。ここは我々が仕切らせて頂きますよ」

「しかし……」

 と、ここで石井は態度をやわらげた。

「ご心配せずとも、人手が足りませんので捜査には他の課の方々にも協力して頂きます。ただ、殺人捜査の主導はあくまでうちの部署にあり、現場では我々の指示に従って頂きたいという事は理解してほしいというだけの話です」

「……いいだろう。確かに、今の行動は警察官として軽率だった」

 真砂はそう言って引き下がる。それを確認すると、石井は早速響子に指示を出した。

「源君、念のため、そっちの留置所の扉を確認してください」

 指示を受けた響子が、顔を蒼ざめさせながらも廊下側の留置所の扉を確認する。が、扉には鍵がしっかりかかっていて、響子は黙って石井に向かって首を振るだけだった。

「そうですか。では、そちらのドアから入るしかありませんね」

 石井はそう言って、留置監視室の一番奥……八戸が倒れている場所の近くにあるドアを見やった。

「月園先生、申し訳ありませんが、八戸君が鍵束を持っているか確認してもらえますか?」

 石井に言われて、未だに遺体の傍に控えていた信治は頷きながら八戸の体を調べる。が、しばらくして力なく首を振った。

「簡単に見ただけですが、鍵束らしきものはなさそうです」

「となると、犯人が留置所の鍵束を持ち去った可能性が非常に高いようですね。真砂副署長、留置所の鍵のスペアはありますか?」

 石井が留置所管理の長である真砂に尋ねると、真砂はすぐにこう答えた。

「あぁ、もちろん。場所は言えないが副署長室に保管してある」

「では、すぐに持って来てください。万が一、そちらのドアの鍵がかかっていてそのスペアの鍵もないというような場合、最悪、ドアそのものを壊す必要があります。それと、署長への報告と、通信室から本庁への連絡もお願いできますか?」

「……わかった」

 真砂はそう言って、一人副署長室へ駆けていく。そうした中、石井は冷静な表情で指示を出していく。

「ひとまず、留置所内の確認に行くのは私と柿村君、それと……虎永君、お願いできますか? 刑事生活安全課員ではない君に頼むのは申し訳ないが、今この場には他に人手がいないものでしてね」

「は……ハッ!」

 虎永は慌てて返事をする。部署が違うとはいえ、この状況下で課長職の警部補の指示に従わないなどあり得なかった。

「あと、念のため金倉警部補にも御同行頂きたい。鬼首塔乃の様子も確認しなければなりませんので」

「もちろんです」

 金倉も即座に頷く。

「他はここで待機。源君は現場の監視をお願いします」

「わかりました」

 響子が返事をすると同時に、石井は先程指名をした虎永を含む三人に視線を送った。

「では、行きましょう。まずはドアの鍵の有無を確認し、鍵がかかっているようであれば真砂警部が戻って来るのを待つ事にします」

 その言葉と共に、石井たち四人は八戸の遺体の近くにあるドアへ向かった。全員手袋と足袋をはめており、先頭の石井がゆっくりとドアノブに手をやる。虎永たちは息を飲んでその様子を見つめていた。

「……どうやら、ドアを壊すという最悪の事態は回避できたようですね」

「という事は……」

 虎永が思わず発した言葉に、石井は小さく頷く。

「鍵は開いています。覚悟はいいですか?」

 その言葉に虎永たちが頷くと同時に石井はゆっくりとドアを開け、そのまま四人は留置所内に突入した。留置所内は静まり返っており、物音一つしない。

「本来の出入口に一番近い一号房に芸能記者の桶嶋俊治郎、逆に出入口から一番遠い八号房に鬼首塔乃が収監されています。金倉警部補は柿村君と一緒に八号房の鬼首を確認してください。私と虎永君で一号房の方を調べます」

 石井の指示に金倉と柿村は無言で頷き、そのまま八号房の方へ向かっていく。それを見送ると、石井の合図で虎永も入口近くにある一号房の方へ向かった。が、一号房の前に到着した瞬間、恐れていた事態が起こってしまったという事を嫌でも自覚する事になってしまったのである。

「これは……」

 石井が一号房の中を見ながら呻き声を上げる。鉄格子の向こうにある一号房の中央……


 そこで、この房に入っていた芸能記者・桶嶋俊治郎が、手足を大の字に広げたまま、薄暗い房の天井を見上げるようにして仰向けになって倒れていた。その胸に一本の刃物を突き刺され、胸から床へ向かって血を流した状態で……


「何てこった……」

 虎永は思わずそんな言葉を呟いていた。が、すぐに石井が冷静な指示を出す。

「虎永君、房の鍵を確認してください。今すぐに!」

「は、ハッ!」

 石井に言われて、虎永はすぐに一号房の扉の鍵を確認する。が、鍵はかかったままであり、中に入る事はできそうもなかった。

「まさか、密室殺人……」

 虎永の呟きに、しかし石井は鋭い視線でそれを否定する。

「いえ、見た限り、あの刃物なら鉄格子の隙間から差し込む事は充分可能です。犯人がやって来たのを見た被害者が不用意に鉄格子の傍に自ら近づき、そこで鉄格子越しに刺されて仰向けに倒れた可能性があります」

「あ、そうか……」

 言われてみれば確かにその通りである。

「それに、先程確認したように八戸君が管理していた留置所の鍵が犯人によって奪われています。ならば出入りが自由なのですから、こんなものは密室でも何でもないはずです」

「なるほど……」

 さすがに長年刑事の職にいるだけの事はあって、石井の推測は的確だった。

「とにかく、これは最悪の事態です。何しろ見張りの警察官だけではなく、留置していた被疑者も殺害されてしまったわけですからね。警察の歴史に残る大汚点と言わざるを得ないわけですが……」

 と、まさにその時、反対側にある鬼首塔乃の房を確認しに行った柿村が慌てた様子でこちらに姿を見せた。

「か、課長!」

 柿村はそう言いながら一号房の近くまで近づき、そして房の中で事切れている桶嶋の姿を見て思わずその場で足を止める。そんな柿村に対し、石井は冷静な様子で言葉をかけた。

「こちらは見ての通りです。それで、鬼首塔乃の方はどうでしたか?」

「あ、えっと……それがですね……と、とにかく来てもらえますか!」

 その言葉に、石井はチラリと桶嶋の遺体に目をやると、黙って頷きながら鬼首塔乃の収監されている八号房の方へ向かった。柿村と虎永も慌てて後に続き、そのまま来た道を戻って反対側へ回ると、そこには金倉が難しい顔で立っていた。

「金倉警部補、状況はどうなっているのですか?」

「あぁ、石井警部補。何と言うかその……見てもらうのが一番かと」

 そう言って金倉は目の前の八号房の中を示す。金倉に促され、虎永も中を見やる。すると……


「一体、これは何の騒ぎなのかしら? 取り調べにしては少し大げさすぎる気もするんだけど」


 房の一番奥の壁にもたれかかって座っている女性……殺人犯・鬼首塔乃は、すぐ外でこれだけの惨状が起こっているにもかかわらず、何事もなかったかのような涼しげな顔でこちらを見やり、あまつさえそんな言葉を発したのだった……。


「生きているのか」

 虎永の口から思わず出たそんな言葉に、さすがに塔乃も眉をひそめて言い返してきた。

「随分な言い草ね。まるで私に死んでほしかったみたいじゃない。警察はいつから被疑者の死を望む組織になったのかしら?」

「いや、その……」

 さすがに今のは失言だった。だが、虎永が何かを言う前に、石井が前に出て静かに尋ねた。

「何も知らないのですか?」

「こんな檻の中に閉じ込められていたら、わかるものもわからないわよ」

 虎永はこの鬼首塔乃という女が話す場面を始めて見たが、その印象は、さすがに二年以上にもわたって逃亡をし続けてきただけあって、どこか肝が据わった一筋縄ではいかない人物といったものだった。

「君をこの房に入れてから、今こうして私たちが来るまでの間に、誰か留置所の中に入って来ませんでしたか?」

「だから、知らないわ。そもそも、この檻の前にいる人間しか見えないし」

 それは確かにそうだった。状況的に、檻の中にいる彼女に見えるのは、それこそ檻の前の通路の部分だけなのである。

「つまり、少なくともこの房の前に来た人間はいなかったという事ですか?」

「そうよ。ねぇ、さっきから何の質問なの?」

 さすがに塔乃も石井達の態度が普通ではないと思ったようだが、石井は構わず質問を続ける。

「では、誰かが留置所内に入って来たとか、ドアが開く気配などはしませんでしたか? あるいは、不自然な物音がしたとか」

「……」

 塔乃は少し真剣に考え込むような仕草を見せたが、ふと何かを思い出したかのように言葉を口に出した。

「そう言えば、少し前にドアが開く音が聞こえた気がするわ」

「具体的にいつですか?」

「知らないわ。ここには時計なんかないし、わかるわけがないでしょ」

 塔乃はせせら笑うように言う。だが、現状ではほぼ唯一の貴重な証言であるだけに、石井も必死だった。

「そのドアを開けた人間が誰なのかは?」

「だからわからないし、興味もなかったわ。どうせここの警官の誰かだと思ったし」

「その後、何か他の音は?」

「……ボソボソと何か話す声は聞こえたけど、遠かったしよくわからないわ。多分、裏の方だと思うけど」

「そうですか……」

 と、ここで不意に金倉が目で合図を送り、それを受けた石井達が八号房から少し離れた場所まで下がると、金倉が小声で尋ねた。

「石井さん、どうしますか? こいつ、このままここに閉じ込めておきますか?」

 石井は真剣な表情で少し考え込んだが、

「そうしたいところですが、犯人が留置所の鍵を持ち去った可能性が高い以上、そうも言っていられないでしょう。留置所に再び侵入されて彼女を殺されたり、あるいは房の鍵を開けられて彼女を逃がされる危険性があります。外界から孤立し、外からの救援が期待できないこの状況でそれは絶対に避けなければいけません」

「では?」

「……どこか別の場所に移すしかないでしょう。真砂警部が戻り次第、彼とも相談して彼女をここから出すしかありませんね」

 その話を聞いていた虎永は、改めてその事実を突きつけられてゾッとした。そう……この警察署は今『普通ではない』のである。唯一の経路である巴川橋が流され、外界から切り離された陸の孤島。そして、そこで起こる殺人事件。それはまるで、推理小説でよくありがちな……

「クローズドサークル……」

 思わず虎永の口からそんな言葉が漏れ、それを聞いた石井が訝しげな表情を浮かべる。

「何ですか?」

「あ、いえ、何も……」

 今それを言ったところで状況は好転しない。それに、この警察署が通常のクローズドサークルと大きく違うのは、閉じ込められている人間の大半が現職の警察官であり、正式な捜査権を持っているという事である。つまり、犯人がいたとしても捕まるのは時間の問題……

「いや……」

 その事実に気付いた瞬間、虎永は思わず小さく呟いていた。

 違う、そうじゃない。脱出不可能なクローズドサークル物の推理小説において、犯人が閉じ込められた人間の中にいるというのは、ある種の常識であり必然ではないか。という事は、今回の事件の犯人も……

「……」

 虎永はもう何も言う事ができなかった。登場人物の大半が正式な捜査権を持ち、そして合法的に拳銃の所持さえ認められているクローズドサークル……そんなフィクションの世界ですらお目にかかった事がないほど特殊な状況設定の事件が今後どのような進展を見せる事になるのか、虎永には全く予想できなかったからである……。


 ……それから約一時間が経過した午後八時半頃、巴川署内にいるほぼ全員が、二階の大会議室に集まっていた。正面のホワイトボードの前に署長の正親町と三人の課長が並び、その他の人間は雑多に並んだ長机に座ってその時を待っている。そして定刻になった瞬間、刑事生活安全課の石井が立ち上がって大声で宣告した。

「全員そろっていますね。では、これから本警察署留置所内で発生した殺人事案に関する捜査会議を行います!」

 その宣言を、虎永は前から二列目の長机で聞く事となった。

 あの後、副署長室からスペアの鍵を持ってきた真砂によって鬼首塔乃は留置所から連れ出され、上層部が協議した結果、二階の応接室を臨時の収容場所にする事が決まった。八戸巡査の遺体から奪われた鍵束には取調室や面会室の鍵も含まれていたためこれら地下階の部屋は即座に候補外となり、さらに窓から逃走する危険性があるため一階の部屋もすべて見送られた結果、不本意ではあったが比較的脱出が難しい二階の応接室が最善という結論に至ったようである。

 もちろん、収容する前に応接室の窓には倉庫から引っ張り出してきた木の板を打ち付けて脱出できないようにし、彼女の両手両足に手錠をした上で別の手錠と室内にある長椅子の手すりを繋ぎ、さらに常に警務総務課員の誰かが室内で彼女を監視するという徹底具合である。本来ならば人権的に色々まずい部分もあるが、何しろ状況が状況なので緊急処置としてそのような対応がなされていた。ちなみに、この捜査会議中は広山紗江巡査が彼女の監視役となっているため、紗江の姿はこの捜査会議の場にはない。後で別の人間が捜査会議の情報を彼女に伝える事になっていた。

 それと同時に、現場となった留置所では、駆けつけた鑑識の種本警部補による鑑識作業が行われる事となった。もちろん、たった一人でできる事は限られているためあくまで簡易的なものではあるが、それでも必要最低限の作業はできたというのが種本の弁である。さらに被害者二人の遺体については同じ地下階にあって有事の際は遺体安置所として使用されている多目的室へと運ばれ、そこで医師である信治により簡易的な検視が行われていた。そして、事件発覚から約一時間が経過した今、一通りの情報が出そろったとして、こうして大会議室での捜査会議が行われる事になったのである。

「えー、ではまず、事件概要の説明をうちの柿村から」

「はっ!」

 その言葉と同時に柿村がその場で立ち上がり、少し緊張した様子で事件の概要を説明しにかかった。

「本日午後七時十五分頃、本警察署地下の留置監視室にて、留置監視業務に就いていた警務総務課の八戸進巡査が血まみれになって倒れているのを発見。すぐに留置所内を確認した結果、第一号房に留置されていた芸能記者・桶嶋俊治郎も血まみれで倒れているのを確認し、偶然居合わせた月園信治医師により、その場で両名の死亡が確認されました」

 その言葉と同時に、虎永のすぐ横で居心地悪そうに座って会議に参加していた信治に全員の視線が向く。

「すでにご承知の通り、午後七時頃に起こった巴川橋の流出により、本警察署は遺憾ながら外部から完全に孤立した状況にあります。従いまして専門機関による検視が不可能であったため、検視についても引き続き月園医師にお願いしました」

「では、月園医師。御足労ですが、検視の結果について報告をお願いします」

 石井のその言葉に、信治は首を振りながらその場で立ち上がると、軽く咳払いをしてから検視結果について報告した。

「えー、より詳しい検視結果は専門医による解剖が必要なので、この場ではあくまで簡易的な報告にとどめる事をまずはご理解ください。その上で、死因については両名とも刃物で刺された事による出血性ショック死。死亡推定時刻は発見時刻である午後七時十五分から一時間以内……午後六時十五分から発見時刻である午後七時十五分の間のどこかと思われます」

「随分幅がありますね」

 花町が思わずそんな風に口を挟んだが、信治は涼しい表情でそれに応じる。

「最初に言った通り、ここでできるのはあくまで解剖なしの簡易的な検視だけですからね。ちゃんと解剖すればもっと時間を絞れるかもしれませんが、現状ではこれが精一杯です」

「そうですか……いや、失礼」

 花町はおとなしく引っ込む。それを確認してから、信治はさらに発言を続けた。

「続けます。刺し傷については両名とも正面から刺されており、防御創などは確認されませんでした」

「完全に無警戒の状況で殺害されている?」

「そう考えてよいかと。八戸巡査も桶嶋俊治郎氏も、心臓を一突きされてほぼ即死です。両名とも凶器は刺さったままだったため、心臓を刺されたとはいえそこまでの出血はなかったようですが」

「その凶器についての詳細は?」

 反射的に聞いたという風であったが、そんな真砂の質問に信治は肩をすくめた。

「残念ですが、それは僕の専門外ですよ。僕に答えられるのはあくまで医学的な事だけです」

「あぁ、失礼。申し訳ない、いつもの癖でつい」

「いえ、僕は別に構いませんがね」

 そう言ってから、信治はさらにこう付け加えた。

「なお、この検視には念のために法医学知識のある鑑識の種本警部補にも同席してもらい、検視結果に不備がなかったかどうかを確認してもらう事でその信憑性を確かなものとしています」

「種本警部補、間違いありませんか?」

 石井に聞かれて種本が深く頷く。

「うむ、それは保証する。わしの見た限り、彼の検視に疑わしい点はなかった」

「との事です。僕からの報告は以上となります」

 そう結んで、信治はその場に着席してフウと息を吐いた。

「では、続いて現場鑑識」

 石井の言葉に立ち上がったのは種本だった。

「現場からは複数の指紋や足跡を検出しているが、あそこはうちの署員なら普段から誰が入っていてもおかしくないから、持ち主を特定した所で大した証拠にはならないだろう。もちろん、あそこに入る事ができない部外者の痕跡が発見されたとなれば話は別だが」

 種本はチラリと信治や金倉ら埼玉県警コンビの方に視線をやったが、すぐに話を元に戻した。

「凶器の刃物については二本。八戸君の胸に刺さっていたものと桶嶋俊治郎の胸に刺さっていたものだな。指紋などは検出されなかった」

「その刃物の出所についてはわかりますか?」

 石井の質問に、種本は頷く。

「ちゃんと調べてみる必要はあるが、どうもこれは資料室に保管されている過去の事件の証拠品である可能性が極めて高い」

 思わぬ話に、その場が少しざわめいた。資料室は事件のあった留置所と面会室の間にある部屋で、その名の通り各種資料や過去に巴川署が担当した事件の証拠品などが保管されていた。

「それは確かですか?」

「ナイフの形状に見覚えがある。確か二ヶ月前に巴川上流近くの山林で発見された登山用リュックの中に入っていた物だったはずだ」

「二ヶ月前と言うと……登山者が行方不明になったっていうあれですか?」

 何かを思い出したかのように響子が言葉を挟み、種本が頷きを返す。

「そうだ。旦那が登山に行ったっきり帰ってこないという通報が家族からうちの署にあって、調べた結果、本人のものと思しき登山用リュックだけが見つかったという案件だ。遭難した可能性が高いとはされているが本人は今も見つかっておらず、中途半端に失踪状態になっている関係上、見つかったリュックとその中身もうちに保管されたままになっている。その中に、凶器とよく似た登山用ナイフが何本か入っていたはずだ」

「それが本当だとするなら、犯人は資料室から凶器を持ち出した事になりますね」

 石井が考え込む。その事実が示すものはあまりよろしくないものだった。

「真砂副署長、資料室の戸締りはどうなっているのですか?」

 署長の正親町が神経質そうに施設管理を管轄する警務総務課長の真砂に尋ねる。

「もちろん普段は施錠してあって、鍵は警務総務課で保管しています。ただ……」

「ただ?」

「正直、留置所や取調室などと違ってそっちは掛け金式の簡易な鍵です。ドア自体もかなりガタがきていましたので、ドアの隙間に定規でも突っ込むか、あるいは多少乱暴に扱っただけでも簡単に鍵が開いてしまう状態だったはずだったと記憶しています」

「か、仮にも警察署なのに、どうしてそんな状態なのですか!」

 正親町が引きつった顔で言うが、真砂は渋い顔で答える。

「残念ですが、この建物は相当年季が入っているにもかかわらず、改修予算がほとんど認められない状況でしてね。わずかな補助金はそれこそ留置所のように本当に必要な場所に使わざるを得ませんので、必然的に資料室のような重要度の低い場所の改修は後回しになってしまうというわけです」

「そんな馬鹿な……」

 正親町は絶句しているが、虎永をはじめとする他の署員からすれば「何を今さら」と言いたくなる話である。この警察署が警視庁の左遷先であるという事実を認めたくないのは勝手だが、それこそ仮にも署長である正親町が署の実態を知らないのも問題ではないかと、虎永は苦々しい気持ちで彼らの話を聞いていた。

「同じ事は防犯カメラにも言えましてね。さすがに留置所の監視カメラこそしっかり設置してありますが……逆に言えば、留置所以外の場所の監視カメラや防犯カメラは最低限の数しか設置されていないのです」

「最低限って……具体的にはどこに仕掛けられているのですか?」

「言いにくい話ですが、一階のオフィス奥から正面玄関の方を見渡せる場所に二つ。あとは……面会室と、二つある取調室に一つずつですね。警察関係者以外の出入りがほぼない二階に至っては、カメラはどこにも設置されていない状況です」

「たったそれだけ……」

 正親町はもはや絶句している。ついでに言うと、署内でもこの有様なので、署の保有するパトカーなど警察車両へのドライブレコーダーの設置すらできていないという中々にひどい状況なのだが、これ以上この場で正親町に心理的ダメージを与えても意味がないので、虎永は何も言わずに話の続きに集中する事にする。

「要するに業務上絶対に設置が不可欠な場所と出入口さえしっかり監視できていれば充分という理屈です。何しろこの警察署には、表立った出入口は玄関と南北二つの階段の前にある非常口しかないのですからね。その非常口も署内側にしか鍵がついていませんので、誰かが手引きしない限り、外から侵入する事は絶対に不可能となっています」

 そんな真砂の説明に捕捉するように花町が言葉を挟んだ。

「なお、念のために先程二つの非常口は確認しましたが、鍵は閉まったままの状態でした。よって、外から誰かが非常口を通って侵入した可能性はないと考えていいと思います」

「とにかく、そういうわけで地下階でも資料室や廊下にはカメラが設置されていませんので、事件当時にそれらの場所に誰がいたかを確認する事は不可能という事です。可能性があるとすれば、留置所内に仕掛けられていた監視カメラの映像ですが……」

 その映像を記録する装置は現場から持ち去られていた。つまり、現時点で事件当時に留置所内で何が起こったのかを客観的に確認する術もないという事になる。ただ一人……現場となった留置所の中にいながら傷一つ追わずに生き延びた殺人指名手配犯・鬼首塔乃の証言を除いて、ではあるが。

「彼女の証言についての詳細は後ほど。ただ、防犯カメラが全くの無駄というわけではありません。少なくとも事件発生時刻におけるこの警察署内の人の出入りは、オフィスに設置された二台の防犯カメラで完璧に把握できますから」

 そうなると、問題は死亡推定時刻における署内にいた人間の動きという事になる。

「ここで一度、事件までの簡単なタイムテーブルを確認しておこうと思います。まず金倉警部補、あなた方がこの近くの県道で鬼首塔乃を逮捕したのは、概ね午後六時頃の事でしたね?」

 石井の静かな問いかけに、金倉は頷きを返す。

「その通りです。逮捕時に時刻を確認しましたので間違いありません」

「しかし、この豪雨のため埼玉県警の管轄する所轄署まで連行する余裕がなかったため、やむなく県警と警視庁側の協議により、最寄りのこの警察署に鬼首塔乃を護送する事になったというわけですね」

「間違いありません」

 ここで真砂が口を挟んだ。

「その連絡がうちに入ったのは午後六時十分頃の話だった。通信室で戸沼巡査が本庁からの無線を受けたのを私が直接見ている」

「金倉警部補たちがこの警察署に到着したのは何時頃の事だったでしょうか?」

 石井の確認に、金倉は少し考えると答えた。

「六時二十分頃だったと思う。到着した時に癖で腕時計を見たからこれも間違いないはずです」

 そして、これについては虎永にも証言ができる事だった。虎永は手を上げて発言を求めると、その辺りの事を証言する。

「その時刻は信用できると思います。金倉警部補たちが到着した時、一階のオフィスには私と信……失礼、月園先生がいて話し込んでいたのですが、その時にオフィスに設置された時計が六時二十分だったと記憶しています」

 そしてその直後、連絡を受けて留置所の準備をしていた刑事生活安全課の石井警部補、柿村巡査部長、源巡査の三人と、警務総務課の真砂警部、広山巡査の計五人が出迎えに現れ、そのまま護送されてきた鬼首塔乃を地下階の留置所へ連行する事になったのである。

「連行後の状況については私たちが証言できます。逮捕時に濡れていたため源君と広山君の立ち合いで鬼首に第二小会議室で身体検査を兼ねた着替えをしてもらい、その後地下に降りて留置所に連行。防犯上の理由から八号房に入っていた桶嶋俊治郎を反対側の一号房へ移し、空いた八号房に鬼首塔乃を入れた上で後の管理業務を八戸巡査に委託し、一度その場は解散となりました」

「桶嶋記者の入っていた房を移動したのですか?」

 虎永が思わず尋ねる。それは初めて聞く情報だった。

「えぇ。何しろ相手は二年間逃走を続けた指名手配犯ですからね。出口に近い場所ではいざという時危ないという事になり、どの出入口からも一番遠い八号房に入れる事にしたのです。そのため、当初八号房に入っていた桶嶋記者には鬼首と反対側の一号房に入ってもらいました」

「事件前にその入れ替えの事実を知っていたのは?」

「当然、その場にいた人間だけです。具体的には殺された八戸巡査を筆頭に、鬼首を連行した私、柿村君、源君、真砂副署長、広山君の五人という事になります。あぁ、あと鬼首当人もですね」

 石井はスラスラ答える。

「では、留置所から退出した時刻は?」

「手続き自体はスムーズに進んで、概ね午後六時半頃だったと記憶していますね」

 花町の問いかけに石井はあっさりと答え、その場にいた他の面々も追従するように頷き合う。

「先程、月園先生に示された死亡推定時刻が午後六時十五分から遺体が発見された午後七時十五分までの一時間。で、今の話から午後六時半まで留置所内に異常がなかった事は確実なのだから、犯行はその後に起こったと考えるのが筋だな」

 花町は口に手を当てながら自身の考えを示す。その考えを否定する人間はこの場にはおらず、全員の見解が一致したのを確認すると、石井は話を先に進めた。

「予定では、一時間後の午後七時半から鬼首塔乃に対する取り調べが行われるはずでした。取り調べの担当は逮捕した金倉警部補と麻布巡査部長の二人で、うちの柿村君が記録係で入る事になっていました」

 石井の言葉に金倉たちや柿村も同意するように頷く。

「六時半に留置所を後にした後の各々の行動はどうなっているのですか?」

 花町の鋭い問いかけに対し、答えたのは柿村だった。

「留置所に鬼首塔乃を収監した後、埼玉県警の二人を一階の第一小会議室に案内して、そこを当面の控室として使ってもらう事にしました。で、そこから少しの間、お二人から状況の説明と今後の方針について打ち合わせをしたんです」

「参加したのは全員ですか?」

「いえ、ここから先の業務は刑事生活安全課の管轄でしたので、真砂副署長と広山巡査はすぐに部屋を出て行きました。源巡査も用事があるからと続けて出て行って、結局、石井課長と自分の二人で説明を聞いたというわけです」

「その打ち合わせにかかった時間は?」

 花町は曖昧な部分を許さない。

「多分、十分くらいだったかと。終わったのが午後六時四十分くらいだったと思います」

「終わった後は?」

「部屋を出てすぐの所で課長と別れて、自分はそのまま取調室の準備をするために地下階に降りました。まぁ、準備と言っても大した事はなくて、それが終わったのが午後七時十分頃。で、七時半から取り調べが始まる事を確認するためにもう一度留置所へ向かったら……その、あの有様だったわけで」

「つまり柿村巡査、君は死亡推定時刻内に地下階にいたというわけだね?」

 花町は目を細めながら尋ねる。柿村は一瞬顔をこわばらせたが、すぐに表情を引き締めてしっかりとした口調で応じた。

「そうなります。ただ、準備中に取調室の外に出たりはしていませんし、取調室の壁は防音式になっていますから、不覚ですが、部屋の外の出来事は気付きませんでした」

「……なるほど。では、別れた後、石井課長はどこに?」

 花町の追及の矛先が今度は石井の方へ向く。が、あらかじめその問いがくる事を予想していたのか、石井はすぐに答えた。

「備品保管庫にいました。久々に取り調べをする事になったので、関連備品を用意しておこうと思ったのです。その作業中に館内放送で巴川村での事件発生を知り、車庫で源君と合流してパトカーで出動しようとしたところ、橋の流出に遭遇しました」

「ふむ。では源巡査、君は金倉警部補たちを第一小会議室に案内した後すぐに別れているが、具体的にはどこで何をしていたのかね」

 花町の追及に、今度は源が立ち上がって答える。

「書類仕事のためにオフィスの自分のデスクに戻りました。ただ……」

「ただ?」

「……戻ってから少ししてロッカーに忘れ物をした事に気が付いて、一度女子更衣室に行ったんです。ついでに身だしなみを整えたりもして、結局、そこに十五分くらいいました」

「具体的な時間は?」

「えっと、更衣室に向かったのが午後六時四十分くらいで、戻ったのが午後六時五十五分頃だったと思います。それでオフィスに戻った時に、村の方で殺人事件があったっていう一報が通信室から入って、そのまま車庫に向かいました」

 と、ここで虎永は手を上げて発言を求めた。

「今の発言については私が一部保証できると思います。私と月園医師は、鬼首塔乃が連行されてから事件が発覚するまでの間、一度も離れる事なくずっとオフィスか玄関にいました。それはオフィスに設置された防犯カメラの映像を確認してもらえれば証明できると思います。その上で、確かに六時半頃に源巡査はオフィスに戻って来て、途中で十五分ほど中座していたはずです」

 と、ここで石井が話を引き取った。

「えー、今、源君が言ったように、村で殺人事件があったという通報があったのは午後六時五十五分で間違いありません。そして、通報を受けて村へ向けて出動する準備をしていた午後七時頃、警察署正面の巴川橋が濁流に押し流され、この警察署は外界から孤立する事になったという流れとなります」

「待った。話は変わるが、その村で起こったという殺人事件についてはどうなっているのかね? 現状、我々はその事件の捜査ができない状況にあるわけだが」

 花町の問いに対し、答えたのは通信を担当していた戸沼だった。

「その点について本庁との通信、及び村側にいる駐在や署員との無線連絡でわかっている範囲の事を報告します。村側の事件で亡くなっていたのは月園家長男・月園勝治。発見の少し前から行方がわからなくなっており、月園家側からの要請で捜索していた所、旧巴川小学校の校庭で遺体が発見されたという話です」

 それを聞いて、虎永の横に座っていた信治が複雑そうな顔をする。まさかこんな所で兄の死を間接的に聞く事になるとは思っていなかったのだろう。

「殺人というのは間違いないのかね?」

「発見者の話では、遺体は首を絞められていたという事です。索状痕の周辺に吉川線も確認できたらしく、まず、殺人と断定しても問題はないでしょう」

「問題は、現時点において、我々はそちらの事件の捜査を行えるような状況にないという事だ。よって、捜査は外部の捜査員に任せる他ないが、それはうまくいっているのか?」

 その問いに対し、戸沼は難しい表情で首を振った。

「残念ながら、この大雨による土砂崩れで村へ通じる道が寸断されてしまっているらしく、本庁はおろか埼玉県警の捜査員も村に到達できない状況だという事です。よって緊急の対応として駐在二名と村側にいた地域交通課の寺桐巡査部長と城田巡査が村役場に臨時の捜査本部を設置し、偶然村に滞在していた元刑事に協力を要請した上で仮の捜査を行っているという事です」

「そうか、寺さんと城田が村側にいたんだったな」

 真砂がポツリとそう呟くが、花町が注目したのはそこではなかった。

「待て。『村に滞在していた元刑事の協力』と言ったが、それはどういう事だ?」

「そのままの意味です。偶然村に警視庁の元刑事が滞在していたらしく、本庁の判断で、緊急でその人にも捜査協力を要請しているそうです。警察が駆け付けられない現状では、捜査経験がある人間がいるだけでもありがたいというのが本音なのでしょう」

「元刑事……あー、あの探偵さんか」

 信治がポツリとそんな事を呟く。それを聞き逃さなかったのが真砂だった。

「お心当たりが?」

「えぇ、まぁ。昼に行われた月園家の遺言状発表の席に確かにそんな探偵さんが同席していましたよ。鎌崎村長からの依頼でわざわざ東京から来たとかで……」

「名前は?」

「確か……榊原とか何とか」

 その言葉を聞いた瞬間、課長三人の表情が細かく動いたのを虎永は見て取っていた。どうやら三人とも、その名に心当たりがあるようである。

「戸沼君、もしかしてだが……その元刑事の名前、榊原恵一、というのではないかね?」

「え、えぇ。その通りですが」

「彼が村にいると?」

「はい」

 と、そこでずっと発言していなかった正親町署長が神経質そうに尋ねた。

「ま、真砂副署長! その、榊原という男は何者なのですか?」

「……こう言っては何ですが、『伝説の刑事』ですよ。直接会った事はありませんが、名前だけは私も何度も聞いた事があります」

 真砂の言葉に、石井と花町も同意するように頷く。

「伝説の、刑事?」

「元警視庁刑事部捜査一課十三係所属で最終階級は警部補。事実上、十三係のブレーンとして数多くの事件を解決に導いてきた『推理の怪物』です。捜査一課十三係がどのような捜査班だったのかについては正親町署長も御存じなのでは?」

「え、えぇ。確か、当時の警察庁刑事局長の肝いりで特に優秀な刑事ばかり集めて設立された伝説の捜査班だとか何とか……」

「十三係そのものは一九九八年に解散しましたが、所属していた捜査員の捜査能力そのものは本物です。特にブレーン役だった榊原元警部補の推理力は桁違いで、十三係解散時に警察を退職した後も、民間の私立探偵の立場からいくつかの大事件の解決に関わってきたと聞いています。とにかく、本当に榊原元警部補が村側の捜査に関わっているのであれば、助っ人としてこれ以上の存在はありません。それに、本庁がそれを認めているというのなら、我々はそれに従うしかないのも事実です。違いますかな、署長」

「そ、それは……そうかもしれませんが……」

 正親町は不服そうではありつつも、渋々と言った風に頷いた。実際、それ以外に手がない事はさすがの正親町も理解はしているのだろう。

「ひとまず救助が来るまで、我々はこちらの事件の捜査に全力を注ぐ。向こうの事は向こうに任せるしかない」

 真砂の言葉に、捜査員たちは頷きを返す。と、そこでさらに戸沼が遠慮がちに言葉を発した。

「あ、それともう一つ。その向こうの捜査本部から月園先生に伝言を預かっています」

「僕に?」

 不思議そうな信治に、戸沼は申し訳なさそうにその伝言を告げる。

「はい。その……今日、屋敷を出てから午後七時までの間の行動を教えてほしい、と」

 その言葉に、信治は何とも言えない顔をして言葉を返す。

「それは、兄が殺された時刻のアリバイの確認、という事ですか?」

「……そうだと思います。申し訳ないのですが」

「いえ、仕方がありません。考えてみれば遺言発表のすぐ後に僕の兄が殺されたわけですから、関係者である僕のアリバイを知りたがるのは捜査側としては当然でしょうね」

 さと、と言って、信治は今日の行動を思い出しにかかる。

「とはいえ、アリバイと言われてもねぇ……。午後二時頃に屋敷を出てからはずっと診療所にいて、さっきも言ったように六時十分頃に健康診断の相談をするためにこの警察署を訪れたとしか言えませんね。警察署に来て以降ならずっと虎永巡査部長と一緒にいたのでアリバイはありますが」

「診療所を出たのは何時くらいですか?」

「確か、午後六時ちょうどくらいだったと思います。診療所にいた事は、一緒に診療所にいた通いの看護師さんが証明してくれるとは思いますが」

「それでは、屋敷を出て以降、どこかで勝治氏を見た記憶はありますか?」

「……ない、ですね。兄と会ったのは屋敷が最後のはずです」

「ありがとうございます。ひとまず、それだけ聞いておいてほしいとの事でした。また何か聞きたい事があれば連絡するとも言っていましたが」

「結構。どうせ逃げも隠れもできないんです。わかる範囲なら何でも答えますよ」

 信治が肩をすくめながらそう言うと、戸沼は小さく一礼して腰を下ろした。

「では、話をこちらの事件に戻しますが、今までの話に出た以外の人間のアリバイについてはどうなっているのでしょうか?」

 アリバイの確認ができていないのは、奥津、戸沼、種本、絵麻子、花町、真砂、正親町の七人である。まず、正親町が上ずった声でアリバイを主張した。

「わ、私は、ずっと花町課長と署長室にいましたよ! この大雨で打ち合わせをしなければならない事がいくつもありましたので」

「花町課長、間違いありませんか?」

 石井の問いかけに花町は頷く。

「間違いない。うちの課の人間を二人役場に派遣していたから、今後の事について署長と対応協議をしていた」

「ずっと、ですか?」

「……いや、午後七時に橋が流された時、私だけ玄関に駆け付けた。そこにいた人間ならそれを知っているはずだが?」

 確かに、虎永も駆け付けてきた花町の姿を見ていた。

「そこで十分ほど対応をした後、報告のために署長室に戻った。そこで署長と協議しているところに真砂副署長が来て、留置所で殺人があった旨の報告を受けた」

「つまり、あなた方は柿村君の悲鳴を聞いていない?」

「あぁ。さすがに二階の室内まで悲鳴は届いていなかったようだ」

 だからこそ、彼らは事件直後に現場に駆け付けなかったのだろう。

「真砂副署長は?」

「鬼首を留置所に預けた後は、副署長室でずっと一人仕事をしていた。証人は残念ながらいないな」

「アリバイはなし、という事ですね」

「そうなる。ただ、橋が流れた事には気付いていて、すぐに通信室の戸沼君に指示を出しに行った。それで関係各所への連絡が終わって部屋を出て、一度下の様子を見に行こうと南階段を下りている時に悲鳴が聞こえた。降りるとそこで埼玉県警の二人と鉢合わせをして、そこで少し言葉を交わしていると車庫から源君もやって来た。で、そのまま四人で現場に駆け付けたという流れだ」

 次いで戸沼が証言したが、彼の場合は通信対応に忙しくてずっと通信室にいたという簡単なもので、アリバイは「通信室で関係各所と通信していた」事と「七時過ぎに真砂がやって来て指示を出した」事、そして「事件後も捜査会議が始まるまでは関係各所との通信業務に忙殺されていた」事ぐらいしか確認できなかった。そして、それは鑑識の種本も同じだった。

「ずっと鑑識室にいた。こう見えても仕事が多いものでな。六時頃に奥津君が来て以降、誰も部屋には来なかった」

「橋が流れた事には気付きましたか?」

「気付かなかった。あの部屋は防音がしっかりしていて、外の音は聞こえにくいからな」

 一方、絵麻子は休憩室で休憩していたと主張した。

「朝から少し体調が悪くて、五時半くらいからずっと休憩室にいました。六時過ぎくらいまでは広山巡査と一緒でした。広山巡査が真砂副署長に呼ばれていなくなった後、本格的に具合が悪くなってきて……そのまま隣の仮眠室に移動して、少し横になっていたんです。だからここに呼ばれるまで、橋が流れた事も事件が起こった事も知りませんでした」

 そんな絵麻子のアリバイにもかかわって来る紗江のアリバイについては、会議を欠席する事がわかっていたので、事前に上司の真砂が聞いていた。それによると、絵麻子の言うように六時過ぎくらいまでは休憩室におり、そこで真砂に呼ばれて鬼首塔乃の連行業務に従事。六時半に業務が終わると再び休憩室に戻ったがそこに絵麻子の姿はなく、結局悲鳴が起きるまでそこにいたという。柿村の悲鳴が聞こえた後、ワンテンポ遅れて休憩室を飛び出したがどこで悲鳴がしたのかわからず、オフィスに誰もいなかったため、この状態はまずいと判断してオフィスにとどまったというのが彼女の弁だった。

 最後に残った奥津は、ずっと車庫でパトカーや警察車両の整備をしていたと主張した。この警察署の車庫は署の建物の南側にあり、南階段の一階部分のすぐ横にある渡り廊下で署と繋がっているという構図である。

「地域交通課の自分の仕事です。午後七時前に石井課長と源巡査が来てパトカーで出動していくのを見ましたが、橋が流されたとかですぐに戻ってきました。戻ってきたパトカーには源巡査だけが乗っていたと記憶しています」

 ここでも奥津はあくまで淡白だった。当然、別棟である車庫にいた事もあり、彼も事件の発生には気付かなかったという事である。

「結局、完璧なアリバイを持っている人間は、オフィスにいてずっと防犯カメラの視覚内にいた虎永巡査部長と月園医師の二人だけという事か」

 花町が渋い顔で言う。厳密に言えば埼玉県警の二人はずっと第一会議室にいた事になっているが、この二人にしても時折トイレに行くなどしていたため、完全なアリバイとまでは言えなかったのである。

「ひとまず、共有できる情報はこのくらいか」

「そうですね。他に何かありますか?」

 石井の問いかけに対し、戸沼が遠慮がちに尋ねた。

「あの、根本的な事を聞きますが……犯人の動機は何なのでしょうか?」

 それは確かに、この事件における最大の問題だった。

「こう言っては何ですが、殺人をするならわざわざ警察署の留置所内を選ぶ必要もありません。にもかかわらず、こんな状況で殺人を起こす動機とはどのようなものなのでしょうか」

「動機か……そもそも、犯人の標的は誰なんだ?」

「普通に考えれば、留置所内で殺されていた桶嶋俊治郎でしょう。現場の状況的に、八戸巡査は犯人が留置所に侵入するために殺されたと考えるのが自然です」

 石井が思案気に自身の考えを告げる。

「確かに、八戸が標的ならわざわざ留置所内の収監者まで殺さないか。となると、単純に考えれば桶嶋に殺意を抱いていた人間が犯人という事になるが……」

 花町が考え込みながら言う。が、果たしてこの中に関係のない八戸を殺害してまで桶嶋を殺害するほどの強い殺意を持っている人間がいるのだろうか。

「標的が桶嶋ではなかったというのはどうでしょうか?」

 不意に虎永がそんな意見を述べた。

「どういう事だね?」

「鬼首塔乃の話を聞く限り、犯人は鬼首の房の前に姿を見せさえしていないそうです。つまり、犯人は自身の標的が一号房に入っていた事を留置所に入る前から知っていて、八戸巡査を殺害した後まっすぐに一号房を目指した事になります。しかし、先程の石井課長の話では、桶嶋は当初八号房に入っていて、鬼首の収監時に一号房に移動していたはずです」

「あ……」

 戸沼が何かに気付いたように声を上げた。

「もし、犯人がこの房の入れ替えを知らなかったとしたら、八号房に桶嶋がいると勘違いをし、必然的にもう一つの収監者がいる房の方に標的がいると判断してそちらに襲い掛かったと考えられないでしょうか。ところが実際には一号房には桶嶋がいて、姿を見られてしまったために殺害せざるを得なかった」

「つまり、犯人の標的は鬼首塔乃だったと言いたいのかね?」

 真砂の言葉に虎永は頷いた。

「そして、鬼首塔乃に明確な動機を持つ人間であるならば、この警察署に複数名存在します。言うまでもなく、鬼首が二年前に起こした事件が原因でこの警察署に飛ばされる事になった元捜査員です」

 その言葉に、該当者である柿村と響子が血相を変えて立ち上がった。が、これには石井が異を唱える。

「いえ、柿村君と源君は問題の入れ替えを行った当事者ですから、標的を間違えるとは思えません」

「となると、可能性があるのはもう一人……」

 全員の視線が、先程から静かに話を聞いていた奥津に集中した。彼は鬼首の事件の捜査員であり、しかも房の入れ替えの事実を知らない人間である。

「奥津君、何か意見はあるかね?」

 花町の言葉に、しかし奥津は静かに反論した。

「……確かに面白い推理ですが、残念ながら大きな穴があると愚考します」

「穴、かね」

「はい。例え事前に入れ替えの事実を知らなかったとしても、犯人は留置監視室の監視カメラを見ているはずです。それを見れば、それぞれの房に誰が入っているのかは簡単に確認ができるのでは? 桶嶋と鬼首では性別からして違いますので、見間違えることはないと思いますが」

 あ、と全員がその意見に絶句する。確かに、言われてみればそうである。

「監視カメラを見ていなかったとすればどうかね?」

「犯人は現場の監視カメラのデータを持ち去っています。ならば、その作業をする際に嫌でも見たはずです」

「では例えば、犯人がカメラを見た際に二人が布団なりにくるまっていて判別できなかったとか」

「実際、鬼首塔乃はどう言っているのですか? 該当時間に布団にくるまっていたと?」

 虎永は唇を噛む。そんな事は彼女は一言も言っていなかったし、房の中にも布団が敷かれていた痕跡はなかった。また、そんな事で彼女が嘘をつく理由もない。

「うーむ、いい線だとは思ったが、無理があったか……」

「しかし、そうなると振り出し……つまり桶嶋標的説に戻ってしまいますが?」

 石井の言葉に、誰も何も言えなくなる。と、ここで奥津がさらにこう言い添えた。

「それについてですが、一つ思い出した事があります。正直、自分の首を絞める情報なのであまり言いたくはないのですが」

「何かね?」

「あの桶嶋という記者ですが、今思うと、私は以前に見た事があります」

 唐突な発言に、誰もが戸惑った。

「どういう事だね?」

「……二年前の鬼首の事件ですが、我々が処分を受けたのは、捜査におけるミスをある新聞記者にすっぱ抜かれて特ダネにされてしまったからです。その記者の名前は『真中正義』と言いましたが、恐らくこれはペンネームのようなものでしょう。そして、その『真中正義』と名乗っていた記者の顔が、どうも私には今回殺された桶嶋と似ているように思えるのです」

 その発言に、柿村と響子の顔色が再び蒼くなった。

「まさか……あの記者が……」

「今は芸能部の記者だそうですが、社会部から芸能部に異動したと考えれば辻褄は合います。つまり、事件をすっぱ抜いて捜査員の処分の引き金を引いた記者という観点から見れば、我々には引き続きこの事件に対する動機がある事になります」

 そう言ってから、奥津はさらにこう付け加えた。

「もっとも、似ているかもしれないという話はあくまで私の主観に過ぎませんし、仮に本人だったとしても、そんな記者なら他で恨みを買っていた可能性は充分あり得ます。よって、我々の知らない動機を持っている人間がこの中にいるかもしれない。何せここにいる人間は皆、大なり小なり何らかの不祥事で飛ばされてきた人間ばかりですからね」

 奥津はそう言って腰を下ろした。最後の言葉に、誰も何も言えないでいる。いずれにせよ、石井が言ったように事態が振り出しに戻った事だけは確かなようだった。

「あの……」

 と、ここで再び戸沼が恐る恐る手を上げて発言を求めた。

「こんな時に言うのは何ですが、どうしても確認しておかなくてはならない事があります」

「何だね?」

「その……今後、拳銃の扱いについてはどうするおつもりでしょうか?」

 その言葉に、誰もがハッとする。確かに、それは今後の状況を左右する重大な事柄だった。現在、駐在及び外に出ている寺桐たち以外の署員の拳銃は全て備品保管庫に鍵付きで収納されており、勝手に持ち出せないようになっている。ただ、埼玉県警の二人は当然拳銃を所持しており、所持を認めるとなると署員全員に拳銃を解放しなければならないのは自明であった。だが、虎永からすれば、クローズドサークルの中で関係者全員が拳銃を持っているという状況がどれだけ危険なものになるのかは明らかであり、おいそれと拳銃の所持に賛成する事はできない。そしてそれは、他の署員たちも同じ考えのようだった

 部屋の中が重苦しい沈黙に包まれる。そんな中、しばらくして発言したのは副署長の真砂だった。

「……この中に犯人がいると仮定した場合、拳銃を持たせるというのは最悪の決断になる」

「ですな。変な話だが、アメリカでは防衛のための銃器所持が、結果的に銃犯罪を誘発する結果につながっている。防衛のための拳銃所持で新たな殺人を誘発してしまっては、元も子もないだろう。それに、万が一今後誰かが殺されて、その際に拳銃を奪われてしまったらもう誰にも犯行を止められなくなる。最悪、警察署内で銃撃戦などという悪夢が起こりかねない」

 花町も真砂の意見に賛成し、正親町も青白い顔になった。それを見て、真砂が決断を下す。

「……拳銃は封印しよう。申し訳ないが、埼玉県警の二人も、拳銃を預からせて頂きたい」

 金倉と麻布は一瞬反論しかけたが、真砂らの言う状況が発生する方がさすがにまずいと思ったのか、やがて苦渋の表情で頷きを返した。

「全ての拳銃を備品保管庫に収納し、その鍵は金槌で叩いて破壊する。ここが解放されるまで絶対に拳銃は使用できなくなるが、署内で銃撃戦になるよりはましだ」

 その後、さらにいくつか捜査に関する意見は出たが、あまり建設的なものはなく、やがて真砂はため息とともにこう宣告した。

「これ以上は推理するための情報が足りない。一度ここで会議を終了する。以降、しばらくは各自業務を遂行すると同時に、本事件についての捜査活動を行う事。以上」

 時刻は午後九時過ぎ。その言葉と共に、このあまりにも異常な「殺人現場で行われる正式な捜査会議」は、いったん幕を下ろしたのである……。

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巴川署の方々も、冷静に状況分析と推理をしていて安心。 左遷者の溜まり場という評価ですが、決して無能だったからではなく、事情や状況が悪かったんだろうな、と思わせる描写でした
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