第三章 遺言発表
……それから一週間後の二〇〇八年九月二十七日土曜日午前九時頃、瑞穂は愛美子と一緒に榊原の運転するレンタカーに乗って、奥秩父の山中を南北に通る県道を走っていた。窓から見える秩父山中の山並みは晴天時なら綺麗なのだろうが、生憎、今の空はどんよりとした雨雲に覆われており、そこから降りしきる雨によって、山そのものもどことなく灰色っぽく陰鬱な空気に覆われているように見える。
そして車のラジオから流れる気象情報は、この先の天候があまり思わしくないどころか、さらに悪化しかねない事を淡々と告げていた。
『……日本の南方を進む台風の影響で関東上空に大型の前線が長時間停滞しているため、群馬県南部から埼玉県西部の地域には、今日から明日にかけて局地的な一際激しい雨が降る危険があります。気象庁はここ数日の雨の影響でこれらの地域に土砂災害の危険が高まっているとして、特に河川近くの住人に対し厳重な警戒を呼びかけるとともに早めの避難を呼び掛けており……』
そのニュースを聞きながら、運転する榊原は少し眉をひそめる仕草を見せた。
「最悪だな。よりにもよってこんな日に……」
「確か、村の中を大きな川が流れているんだよね?」
後部座席の瑞穂が隣に座る愛美子に尋ねる。ちなみに遺言発表という正式な場であるため、二人ともちゃんと学校の制服姿である。
「うん。一応、堤防があるからよっぽどの大雨が降らない限り大丈夫だと思うけど……」
「決壊しない事を祈るしかないな」
やがてしばらくすると、少し先の道路脇に小さな青い看板が立っているのが見えた。目を凝らしてみると、そこには無機質な文字でこう書かれている。
『東京都巴川村』
「ここから先が巴川村の領域なの。あと十分くらいで村の中心に着くと思う」
愛美子が説明すると同時に、車は一瞬で看板の横を通り過ぎる。周囲に他の車はなく、瑞穂たちの乗る車だけが山中の一本道を走り続けていた。
「本当にこんな埼玉県の山奥に東京都の土地があるんだね。何か、ちょっと変な気分」
瑞穂が感心した風に呟く。と、運転席の榊原が注釈を加えてきた。
「自治体の一部だけが飛地というならともかく、市町村が丸ごと飛地になっているというのは確かに珍しい。ここ以外だと、三重県内にある『和歌山県北山村』が有名だな」
「あるのはあるんですね」
それからまたしばらく走ると、やがて正面右手側に民家や建物が集まっている集落の光景が見えてきた。降りしきる雨の中、その集落もどこか暗い雰囲気が漂っているように見え、人通りもほとんど確認できない。
「これだな」
「本当にこんな所に集落が……」
瑞穂は思わずそんな言葉を漏らしていた。
「あっ、そこの道から入ってください。それで村の中心に行けます」
「わかった」
榊原は愛美子の指示に従って、県道の脇にある横道に車を入れる。しばらく走るとまず道の左手脇に古びた様子の一階建て木造建築の廃墟が見え、さらにもう少し進むと左右に点在するように民家が見え始める。瑞穂はそこで、自分たちが無事に村の中に入れたことがわかった。
「ここが一応、村のメインストリートになっています。少し進んだ先に役場があるので、まずはそこに行ってください」
愛美子の指示でそのまま狭いメインストリートをゆっくり進んで行くと、やがて車は村のほぼ中心にある四階建てのコンクリート造りのビル……巴川村役場の前に到着した。そこにはスーツ姿の鎌崎村長ともう一人別の男性の姿があり、榊原の車に気付くと鎌崎がすぐに近づいて来た。榊原が窓を開けて応対する。
「榊原さん、この度はどうも」
「いえ、こちらも仕事ですので」
「ひとまず車は役場の駐車場に停めてください。この建物の裏手にあります」
「わかりました。瑞穂ちゃん、水原君、君たちは先にここで降りなさい」
「はーい」
榊原に言われて瑞穂と愛美子は役場の前で車を降り、榊原は鎌崎に言われたように役場裏手の駐車場へと車を走らせていく。残された二人に、鎌崎が声をかけてきた。
「愛美子、ここまで大丈夫だったかね?」
「うん、大丈夫。それより、蘭ちゃんはもう来てるの?」
「あぁ、昨日、武治君が迎えに行った。今は屋敷にいるはずだが」
と、そこで鎌崎の後ろに控えていたスーツ姿の男が前に出た。
「愛美子君、久しぶりだね」
「あ、おじさま! お久しぶりです」
愛美子はそう言って男に頭を下げ、すぐに瑞穂に耳打ちする。
「この人、蘭ちゃんのお父さんでこの村の助役さんの武治おじさん」
「ここの助役の月園武治です。君は、愛美子君のお友達かな?」
「あっ、はい! 副会長……じゃなかった、水原さんの友達で、深町瑞穂と言います!」
そう言って改めて瑞穂も頭を下げる。初対面の瑞穂に対してはさすがに丁寧な対応をしていたが、瑞穂にはその目の奥がどこか冷たく感じられた。
「ご丁寧にどうも。できれば、娘とも仲良くしてあげてください。アイドルなんかしているせいで、あの子には友達も少ないのでね」
言葉は丁寧だが感情はこもっておらず、暗に蘭がアイドルである事を否定するような発言である。瑞穂は第一印象で、この助役の事があまり好きになれないでいた。
と、そこへようやく左手に傘を差し、右手に黒のアタッシュケースを持った榊原が役場裏手から姿を見せた。このアタッシュケースは榊原が外出する時に常に持っているものであるが、いつも通りのくたびれたスーツ姿も相まって、ますます探偵というよりうだつの上がらないサラリーマンにしか見えなくなっている。が、榊原は全く気にする様子もなく、そのまま役場の入口に到着した。
「遅れて申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。榊原さん、こちらがうちの助役の月園武治です」
「月園武治です。村長の話だと、娘の護衛を依頼されたとか」
「えぇ、蘭さんの友達の水原さんが心配されたようでしてね。詳しくは知りませんが、プライベートの時まで身の安全を心配しなければならないとは、やはりアイドルとは大変ですね」
とぼけているわけではない。あくまで「アイドルである彼女の護衛を頼まれた」とする事で、遺言発表に伴う一族の内紛に備えているという目的を隠そうとしているのだ。そして、武治もそれを知ってか知らずか、表向きは榊原の話に乗る事にしたようだった。
「まったくです。アイドルなどというわけのわからない事はやめて、普通の生活に戻ってほしいものですが」
「親の心子知らずとはよく言いますからね。実際、探偵としてそういう家庭の話はよく見てきましたよ」
「そうですか。あぁ、ちょっと失礼」
と、役場の中から職員が呼んでいるのが見えたのか、武治は一度役場の中へ戻っていった。それを見送りながら、榊原がこう呟くのを瑞穂はしっかり聞き取っていた。
「もっとも、逆に『子の心親知らず』のケースも山ほど見てきたわけだがね。言っても詮無き事だが」
軽く首を振ると、榊原は改めて鎌崎に向き直る。
「ところで、遺言の発表はいつ?」
「正午きっかりという事になっています。今十時ですから、あと二時間くらいですね」
鎌崎が腕時計を確認しながら答える。瑞穂もつられて自分の腕時計を確認するが、確かに時刻は午前十時を少し過ぎた所だった。
「屋敷には三十分くらい前に行けばいいので、それまでは役場でお待ちください。この雨ではその辺を散策してもらうというわけにもいきませんし」
「そうですね……」
と、その時だった。
「おや、こんな所で何をしているのですか?」
不意にどこかから声がかかり、振り返ると道の向こうから手提げ式の大きな鞄を持った丸眼鏡に白衣姿の男が傘を差しながらこちらに向かってくるのが見えた。その男の姿を見て、職員への対応を終えて戻って来た武治の眉間にしわが寄る。
「信治、お前、こんな所で何をしているんだ?」
その言葉で、瑞穂はこの白衣姿の男が、先日の話にも出てきた月園家の三男である医師・月園信治だとわかった。対して、信治と呼ばれた白衣姿の男は、そんな武治の態度に目くじらを立てる事もなく、マイペースな様子で言葉を返した。
「心外ですね。僕だって用もなくこんな雨の中をうろついたりはしませんよ。もちろん、仕事です」
「仕事?」
「えぇ。駐在さんから連絡がありましてね。というより、兄さんに連絡がいっていないのですか? 蘭ちゃんが怪我をしたんですよ」
「何だって?」
ここで初めて、今まで表情一つ変えなかった武治の顔色が少し変わった。彼の言う「蘭ちゃん」というのは、間違いなく武治の娘でアイドルユニット『ムーン&スター』の片割れである月野光こと月園蘭の事だろう。その彼女が怪我をしたというのだから、武治の顔色が変わるのも当然だった。
「おい、どういう事だ! 娘が怪我をしたというのは……」
思わず男に詰め寄りかけた武治に対し、信治は安心させるように気楽な調子で付け加えた。
「あぁ、心配いりませんよ。たった今、駐在所に行って診てきましたけど、大した怪我ではありませんでした。右腕に軽い切り傷を負っただけで、その傷跡も少ししたら直るはずです」
「そ、そうか……」
信治の言葉に武治は大きく息を吐く。と、そこで急に榊原が前に出て男に話しかけた。
「失礼、少しよろしいでしょうか?」
「ん? どなたですか?」
「都内で探偵事務所を経営している榊原恵一と言います。今日は村長から依頼を受けてこの村に来たのですが」
「あぁ、はいはい。話には聞いていますよ。頼まれたからとはいえ、わざわざこんな天気の日にこんな辺鄙な田舎まで来るとは、随分ご苦労な事ですね」
「いえ、これも仕事ですので」
「ふむ、なるほど、確かに仕事なら仕方がない。いやはや、世の中とは世知辛いものです」
先程鎌崎にしたのと同じ答えを返す榊原に対し、信治は肩をすくめながら面白そうに返し、さらに言葉を続けた。
「失敬、こちらも自己紹介がまだでしたね。改めまして、私は月園信治と言います。あなたがこれから行く月園家の三男で、一応そこにいる武治の弟という事になりますか。仕事は御覧の通り、しがない医者をしています」
信治はそう言いながら一礼する。
「蘭さんが怪我をしたという事ですか?」
「えぇ。この近くを歩いている時に、空き家の二階の屋根瓦が風にあおられて落ちてきたらしくてね。傘を差していたせいで気付くのに遅れて、幸い直撃はしませんでしたが、破片で腕を怪我したようです」
「瓦、ですか」
「幸い、近くをパトロール中だった駐在さんが腕を押さえている彼女を見つけて、すぐに駐在所に保護しましてね。その駐在さんからの電話を受けて、こうして僕が来る事になったというわけです」
と、その時だった。
「叔父さん!」
凛と響くそんな声が信治の後ろの方から響き、一人の少女が姿を見せた。年齢は瑞穂と同い年くらいだろうか。学校の制服と思しきブレザーを着ており、髪型は腰まで届こうかというストレートの黒いロングヘア。背が高くてスタイルもかなりよく、それ以上に体の内側から放たれている華やかな雰囲気というかオーラが、彼女が普段から瑞穂や愛美子とは違う環境で活動している事を嫌でも感じさせるものであった。
そして、そんな彼女の顔を、瑞穂はよく知っていた。
「瑞穂ちゃん、あの子が問題の?」
瑞穂の隣にいた榊原が小声で尋ね、瑞穂はすぐに頷きを返した。
「はい。アイドルユニット『ムーン&スター』の月野光ちゃん……つまり月園蘭さんです」
と、そこへさらに蘭の後ろの方からもう一人誰かが駆け寄って来た。警察官の制服を着て穏やかそうな顔をした白髪の初老の男であり、今までの情報から考えて、彼女が治療を受けたという駐在所の駐在警官のようだった。
「巴川村役場前駐在所の大久保忠康巡査部長です。この村には駐在が二つありますが、彼は村の東側のエリアを担当しています」
鎌崎が榊原に耳打ちする。その間にも、武治が蘭に言葉をぶつけていた。
「蘭! 屋敷にいろと言っていたのに、こんな所で何をしているんだ!」
「愛美子が来たって聞いたから、迎えに来たの! 子供じゃないんだから、いちいち怒らないでよ!」
「親に向かって何だその言い草は!」
「まぁまぁ」
と、ここで見かねた大久保巡査部長が仲裁に入る。
「娘さんの言う事もわかりますし、怪我と言っても大した事はなかったわけですから、よかったじゃありませんか」
「しかし……」
「それに、親ならば何はともあれ、まずは娘さんの無事を確認するのが先ではありませんかな? 大岡裁きでも似たような話があったように思うのですが、はて、あれは何の話だったか……」
「うっ……」
武治が言葉に詰まる。確かに、大久保の言う事は道理だった。武治はしばらく黙り込んでいたが、やがて蘭に向かって吐き捨てるように言う。
「……遺言発表までには屋敷に戻っていなさい」
そして、そのまま役場の中に戻ってしまった。大久保は複雑そうにそれを見送り、信治は面白そうにその様子を見ていたが、やがて肩をすくめながらこう言った。
「では、僕は先に屋敷に向かう事にします。いちいち診療所に戻るのも面倒臭いですし、他の面々に挨拶しておく事にしますよ」
そう言いながらその場を去っていく。ここでようやく、榊原たちは依頼の主役である月園蘭に接触する事ができた。
「失礼、月園蘭さん、ですね」
榊原が声をかけると、蘭はつらそうな顔を隠しつつ、艶やかな髪をかき上げながら振り返る。
「そうですけど、あなたは?」
「私立探偵の榊原です。鎌崎村長と水原愛美子さんの依頼を受けて、あなたの護衛を引き受けさせて頂きました」
「あぁ、はい。愛美ちゃんから話は聞いています。今日はよろしくお願いします」
そう言って蘭も深々と一礼する。年齢的には瑞穂より一つ下の学年のはずなのだが、その立ち振る舞いは大人びていて、とても同年代の少女には思えなかった。ただ、愛美子の事を「愛美ちゃん」と呼んでいて、その事実が、蘭と愛美子が本当に仲のいい存在であるという事を暗に示していた。
「蘭ちゃん……」
「愛美ちゃん、心配しなくていいって言ったのに」
「ごめん。でも、私……」
「……わかってる。ごめんね、こんな事に巻き込んじゃって」
そう言ってから、蘭の視線が榊原の隣に立つ瑞穂で止まった。
「ところで、そっちの子は?」
「あ、えっと……」
愛美子が言いよどんだので、瑞穂は自分から前に出てあえて明るく挨拶する。
「初めまして! 水原さんの学校での友達で、ミステリー研究会の部長をしている深町瑞穂です。月園さんともお友達になれたら嬉しいです!」
「それは……どうも……」
初めて困惑したような態度を見せた蘭に、愛美子がようやく瑞穂の事を紹介する。
「蘭ちゃん、榊原さんへの依頼は深町さんに仲立ちしてもらったの。深町さんは榊原さんの助手なのよ」
「助手? 探偵の助手、ですか?」
「はい! 私、先生の助手をしています!」
「へぇ、本当にそういう人っているんですね。私、初めて知りました」
「自称だがね」
最後に榊原がポツリとそう付け加えるが、幸いと言うか誰も聞いていないようだった。
「とにかく、依頼を受けた以上は最善を尽くすつもりではあるが、私のできる事にも限度はある。だから、依頼遂行に当たって君にも協力してもらう事があるかもしれないが、その点は理解してほしい」
「もちろんです。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
蘭が改めて丁寧に一礼する。そんな蘭の様子を、榊原があくまで探偵としての視点から冷静に観察しているようなのが瑞穂にとってはとても頼もしく感じられたのだった。
村一番の旧家・月園家の屋敷は、村の北西部にある広い敷地内に存在する。敷地は高い塀に囲まれていて正面玄関と裏口以外の場所からは簡単に出入りできないようになっており、いかにも古き良き日本の旧家の屋敷といった趣である。屋敷の建物以外にも大きな庭が広がっており、錦鯉の泳ぐ池や築山など、かなり本格的な作りになっているのが印象的だった。
同日正午、そんな月園家の屋敷の大座敷は、重苦しい空気に包まれていた。先日、月園葵の葬儀が行われたばかりのこの畳敷きの和式の大座敷には、月園家の血縁者や月園財閥の重役たちが勢ぞろいしている。それは、それこそ古き良き推理小説で登場する旧家の遺言発表の場面そのものであり、そして現実に、この後この場ではその「弁護士による月園葵の遺言発表」が行われようとしていたのである。
この大座敷は八畳間を三つ縦に並べた二十四畳の長方形となっており、この長方形の左と下の辺に当たる部分が縁側となっていて、そこから庭へ降りる事ができるようになっている。一方、そんな大座敷の上の辺の部分に床の間と仏壇があり、そこがこの部屋の一番上座(すなわち正面)という扱いになっていた。そして今、その一番上座の場所に、葵亡き今、ひとまずの当主代理という扱いになっている葵の夫……つまり巴川村の前村長である御年八十八歳の月園満治翁が和服姿でどっしりと腰かけていた。肉体こそすっかり痩せ衰え、今となっては杖なしには歩く事さえできない体であるが、それでも長年葵と共に月園家や巴川村を率いてきたその威厳は健在であり、背筋をしゃんと伸ばしながら座敷内に居並ぶ面々をじっと見据えていた。
そんな大座敷正面向かって左側……つまり縁側に面した側には月園財閥の重役や月園家の縁戚たちが一列にずらりと並んで座っている。この一座の中で一番上座の満治に近い場所に座っているのは巴川村の現村長にして満治の実弟である鎌崎辰蔵その人であり、逆にその列の一番末席……座敷の入口の縁側近くに榊原と瑞穂、それに蘭の付き添いとしての同席が認められた愛美子の三人が座っていて、座敷内の様子を観察している状況である。特に愛美子はこういう重苦しい空気に慣れていないのか、何とも居心地が悪そうな様子でしきりに周囲を見回しているのが印象的だった。
そしてその反対側……つまり大座敷の正面向かって右側の襖の前には、今回の集まりの実質的な主役とも言える葵の五人の孫たちとその関係者たちが座っていた。上座の満治に近い方から順番に、長男の月園勝治、次男の月園武治、三男の月園信治、長女・涼の婿である月園牧雄の男四人が並び、その次に長女の月園涼、次女の月園奏と続き、末席に武治の娘である月園蘭の姿があった。
長男の勝治は青白い顔に無精髭を生やした痩身の……というよりも何か病気かと思うほど痩せ細った男だった。陰気な目の下にはくっきりとしたクマができており、その目もどこか虚ろで、髪も手入れをしていないのかかなり乱れているのがわかる。服装も一応スーツは着ているが榊原以上にくたびれており、ネクタイは締めておらず、スーツの下のワイシャツは第一ボタンが開けられて、全体的にかなり着崩した姿をしている。瑞穂から見てもこの場にふさわしい服装とはとても思えないが、本人は全く気にしていないようで、他人の視線など知った事かといわんばかりに座布団の上で胡坐をかき、何やらぼんやりと天井の方を見上げているのが印象的だった。
そんな勝治に対し、隣に座る次男の武治は巴川村助役としての立場もあってかきっちりとしたスーツ姿であり、まだ何も始まっていないにもかかわらず用意された座布団の上できっちりと正座をして腕組みをし、微動だにしないまままるで瞑想するかのように目を閉じていた。そのあまりに対称的な長男と次男の姿に、目の前にいる財閥関係者や縁戚たちも何やらひそひそと話しているのがうかがえる。
その一方、特徴的な丸眼鏡をかけた三男の月園信治はどこか面白そうな表情でこの場にいる面々を観察しているようで、この重苦しい空気の中でもどこか異質な存在だった。服装も他の面々と違ってスーツの上に白衣を着込んでおり、ご丁寧に診察鞄まで持ち込んで大事そうに脇に置いている始末である。実際の所、医者としてそれなりの稼ぎがあり、家督自体に興味のないどころかほぼ間違いなく当主に選ばれないであろう事が最初からほぼわかっている信治からしてみれば、こんな集まりは茶番以外の何物でもなく、それだけに他の面々の骨肉の争いを一歩引いたところから楽しんでいるようにも見えた。そういう意味では、この男こそが一族の中で一番の曲者なのかもしれないと瑞穂は勝手に考えていた。
信治のすぐ隣には、長女・涼の婿である月園牧雄が胡坐をかいて腰かけている。かなり恰幅の良い男で、それこそ会社の役員が着るようなブランド物の高級そうなスーツに身を包み、いかにも役人らしいきっちりとした格好をしている武治とは別ベクトルでただ者ではないオーラを発していた。喫煙者らしく、右手にはそれこそシャーロック・ホームズがくわえているようなパイプを持っており、時々口にくわえてはうまそうに煙を吐くという行為を繰り返しているのが見える。
そして、そんな牧雄のすぐ横に座る妻の月園涼はどこかきつそうな顔をした女性で、特徴的な黒い着物を着込んで済ました様子で正座をしていた。事前に聞いた話ではお腹に子供がいるという事だったが、まだ日が浅いのか、見た限りそこまでお腹が膨らんでいるようには見えない。
これとは対称的に、涼のすぐ横に座る次女の月園奏は、これも事前に鎌崎から聞いた通り、地味というか影が薄いというか、瑞穂から見ても印象に残りにくい女性だった。きつい度数の黒ぶち眼鏡をかけた黒いロングヘアの陰気そうな女性で、常に俯き気味に目の前に置かれた何も入っていない茶碗を見つめており、服装も和服の姉とは違って喪服っぽい洋装姿である。
最後に一番末席に座っているのが、通っている学校のブレザー姿の月園蘭だった。普段はきらびやかな芸能業界で輝いている彼女であるが、この場においては普段ファンたちに見せているのとは全く別の真剣な表情を見せているのが印象的である。それでも、普通なら気後れしてもおかしくないこの空気の中、彼女は凛とした態度を崩す事なく胸を張って座布団で正座をしながらその時を待っており、どちらかといえば彼女の付き添いとして同行してきたはずの愛美子の方が、この異様すぎる空間に飲まれている風に感じ取れた。
改めて月園家の人間がこうやって一堂に並んでいるところを見ると、誰もかれもが一筋縄ではいかない人間であるのだろうという事は瑞穂にも容易に想像がついた。事実、これだけじっくりと観察しているにもかかわらず、月園家の面々の間に会話は一切ない。仮にも親族なのだから何か一言二言でも言葉を交わしてもいいはずなのに、夫婦であるはずの牧雄と涼も含めて誰もがこの場に自分一人しかいないかのように振る舞っており、何とも異様な空気が漂っていた。
そしてそんな瑞穂の隣で、榊原も彼らの事を見つめながら、何かをジッと考えている様子だった。
「何と言うか、本当に犬神家の世界ですね」
「事前に聞いていたように、一癖も二癖もありそうな人間の集まりのようだ。これは確かに、何かが起こりそうと心配するのも無理はないかもしれない」
「ですよねぇ……」
と、その時、榊原や瑞穂たちのすぐ傍に座っている参列者が小声で話している会話が聞こえてきた。他にする事もなかったため、自然と瑞穂の耳にその会話が入ってくる。
「まさか勝治さんがちゃんと帰って来るとは思わなかったな」
「あぁ、確かに。勝治さんといい奏さんといい、一体どこで何をしているのやら」
「こう言っては何だが、いくら御長男とは言え勝治さんのような人間が月園財閥のトップになるかもしれないと思うと気が重くなる。願わくば、武治さんか牧雄さんになってもらいたいものだが」
「葵会長がどんな遺言を残しているか、想像できるか?」
「見当もつかんね。あの人の考える事は最後の最後まで我々には理解が及ばなかった。まぁ、だからこそ月園財閥をここまで大きくできたという側面はあるんだろうが……」
「こんな事なら和治さんさえ生きていてくだされば……」
「それは言っても詮無き事だ。とにかく、我々としては遺言の内容を受けた上で、今後どうすべきかを考えるべきだ。下手を打って共倒れになる事だけは避けなければならない」
「それはそうだが、いや、しかし……」
その後は声の大きさがさらに小さくなり、瑞穂の場所からは聞こえなくなってしまった。と、そこで隣に座る榊原の表情がより真剣なものへ変化するのがわかった。
「そろそろだな」
榊原がそう呟くと同時に、どこからか正午を告げる時計の音が響いてきた。それと同時に大座敷内のざわめきが収まり、それが合図だったかのように、大座敷の入口に一人のスーツ姿の老人が姿を見せた。年齢は鎌崎と同年代程度……七十代前後だろうか。その男は大座敷に入る前に一礼し、その場の全員に小さいながらもどこかよく通る声で自身の名を告げる。
「月園家顧問弁護士の島永東朔郎と申します。本日は何卒、よろしくお願いします」
そう言ってから頭を上げると、そのままゆっくりと座敷の中に入って来る。座敷内の全員が見つめる中、島永は臆することなくどこか飄々とした様子でその中心を進み、やがて満治の正面に一つだけ置かれた座布団の位置まで来ると、再び満治に一礼してその座布団に正座した。
「それでは、早速ですが遺言状の公開に移らせて頂きます」
島永はそう言うと、持ち込んだシルバーのアタッシュケースを自身の前に置き、懐から鍵を取り出すと、それを一度畳の上に置いた。そしてその上で満治に言葉をかける。
「満治さん、お願いします」
その言葉に満治は鷹揚に頷くと、こちらも懐から一本の鍵を取り出す。それをすかさず横にいた鎌崎が受け取り、そのまま島永に手渡した。それを受け取った上で、島永が周囲の人間を一度見回しながら告げる。
「御覧のように、遺言状はこの鍵付きのケースに封印された状態であります。ケースを開けるには二本の鍵が必要で、葵さんが遺言を書かれてから今この時まで一本を私が、もう一本を満治さんが所持していました。皆様、その場でご確認の程、よろしくお願いします」
島永の言葉に、その場の誰もがジッと二本の鍵を見やり、やがてそれぞれが黙って頷き合う。それを確認すると島永は鍵孔に二本の鍵を差し込み、そのまま同時に鍵をひねった。直後、カチリという音が部屋の中に響き、島永がケースをゆっくりと開ける。すると、ケースの中に敷き詰められたクッション材の中央に、封筒に封印された遺言状があるのが確認できた。
「では、開封作業に入ります」
島永はそう言うと、どこからかペーパーナイフを取り出して封筒を開封し、中から一枚の畳まれた紙を取り出す。それこそが、生前の葵が残したという問題の遺言状であった。その場の緊張具合が一気に高まっていく。
「それでは、読み上げさせて頂きます。なお、聞き間違い等を防ぐため、遺言状を全て読み上げるまでは皆様にお静かに聞いて頂きたく、また何か異論等がありましても読み上げの中断は致しませんので、何卒よろしくお願い申し上げます」
そう前置きすると、島永は折りたたまれた遺言状を開き、この張り詰めた空気の中、覚悟を決めたようにゆっくりとその内容を努めて事務的な口調で読み上げ始めた。
「一つ。月園家の財産については、月園家次期当主が正式に確定した時点で、次期当主が財産の半分を相続するものとし、残り半分の財産のうちのさらに半分……すなわち全財産の四分の一を夫の満治に、残る全財産の四分の一を当主以外の血縁者で法律に従って分割するものとする」
「一つ。巴川村にある月園家所有の不動産及び家屋については、月園家次期当主が単独で相続するものとする」
「一つ。月園財閥会長の座は、月園家次期当主が継承するものとする。また、月園葵個人が所有する月園財閥の株式等も、同様に月園家次期当主に継承されるものとする」
……どうやらこれは当主相続によって得られる権利の確認事項のようである。色々言ってはいるが、簡単にまとめると、当主を継承すると『月園家そのものの家督及び財産』『月園財閥の会長職及び運営権』という二つの大きな権利を得る事ができるという事である。
瑞穂が必死でその内容を頭の中で整理している間にも、遺言状の朗読は続いた。しばらくは最初と同じく、遺言発表に当たっての確認事項や諸注意が大半のようであったが、そこから数分後、今まで淡々と息継ぎもなく遺言を読み上げ続けていた島永が一度言葉を切り、そして一度チラリと右側の月園家の面々を見やった上で、一際大きな声を張り上げた。
「一つ。月園家次期当主については……」
その言葉に、その場の誰もが緊張で身構えた。そしてそんな張り詰めた空気の中、島永はこの遺言の核心となる言葉を告げた。
「……月園家次期当主については、月園武治の娘……すなわち私・月園葵のひ孫にあたる月園蘭がただ一人継承するものとし、月園蘭が三十歳になるまでは、月園蘭の父・月園武治がその補佐役に就任するものとする」
その瞬間、大座敷が一気にざわめきに包まれ、皆の視線が末席で背筋を伸ばして座っている蘭の方へ向いた。だが、そんな雰囲気の中で島永はさらにこう言葉を続ける。
「ただし、当主継承の条件として、月園蘭はこの遺言状公開から半年以内に芸能界を引退し、高校卒業と同時に月園財閥会長の座に正式に着任する事を承諾する事とする。もしこの条件を月園蘭が拒否した場合、あるいはこの遺言状公表から一週間以内に月園蘭から当主就任を是とする明確な言動がなかった場合、月園蘭への当主継承権は消滅するものとする。また、月園蘭本人が死亡した場合、あるいは月園武治とその妻・月園琴江が離婚した上で月園琴江が月園蘭の親権者となった場合も同様に継承権は消滅するものとする」
「一つ。もし月園蘭の当主相続権が消滅した場合、その時点で長男・月園勝治に当主の継承権が発生し、暫定的な当主とする。ただしこの場合、月園勝治は継承権発生から一年以内に配偶者を得る事を条件とし、これが満たされぬ場合は継承権が消滅するものとする。また、月園勝治が当主継承を拒否した場合、条件成立後であっても死亡した場合、あるいは月園勝治と配偶者の間に離婚が成立した場合、結婚から五年以内に子供が生誕しなかった場合も同様の処置とする」
今度は皆の視線が上座に座る勝治の方に向くが、勝治自身は島永の言葉を聞いているのかいないのか、ただ虚ろな視線を虚空に向けているだけである。そして、ここまで来てもさらに島永の言葉は続いた。
「一つ。もし月園蘭、月園勝治両名の当主継承権が消滅した場合、月園涼・月園牧雄の間に生まれる予定の子息……以下、便宜的に『甲』と仮称する……に当主の継承権が発生し、『甲』が成人するまで月園涼及び月園牧雄がその補佐役に就任するものとする。ただし、『甲』が死亡した場合、『甲』が成人するまでに月園涼・月園牧雄の両名が死亡した場合、『甲』の当主継承権は消滅するものとする」
「一つ。もし月園蘭、月園勝治、『甲』全員の当主継承権が消滅した場合、月園信治及び月園奏のいずれかを協議の上で当主とする。ただしこの場合、新当主は月園財閥会長の座と月園財閥の株式をすべて放棄した上で月園財閥の運営から完全に手を引き、運営権のない同財閥の名誉役員に就任するものとする。後任の会長は月園家と血縁関係のない財閥役員内から選出されるものとする」
……その後も淡々と遺言状の読み上げは続いていく。これ以上は冗長かつ長くなってしまうため割愛するが、ほとんどは些末的な補足事項ばかりで、この遺言状で一番重要な部分はすでに前半で読み上げられたようである。そして、読み上げ開始から三十分後、悪夢としか言いようがない遺言状の読み上げは、唐突に終わりを迎える事となった。
「一つ。万が一、この遺言状の記載事項だけでは対処できない事象が発生した場合、相続は法律上の規定に従うものとする。……遺言は、以上であります」
その宣告がなされた瞬間、静まり返っていた大座敷に今までせき止められていた参列者の喧噪が一気に響き渡り、瑞穂は何か爆発でも起こったかのように感じて反射的に耳をふさいでいた。
「ふざけるな! こんな遺言が認められてたまるか!」
「そうだ! 何がどうなっているんだ!」
真っ先に島永弁護士に食って掛かったのは武治と牧雄の二人だった。それも無理もない話であろう。遺言によればニート同然の生活を送っている勝治に当主になれる可能性がある一方で、これまで月園家のために尽くしてきた彼らには自身が当主になれる可能性が全く存在せず、よくても期間限定の当主の補佐役扱いであり、その補佐役でさえなれるかどうか非常に怪しい状況なのである。文句の一つや二つ出るのも当然であろう。
だが、突っかかって来る二人に対し、島永はのらりくらりとした態度で応対する。
「そうは言われましても、これは間違いなく月園葵さんの正式な遺言状で、私はただそれを読み上げただけです。なので、私に文句を言われてもどうしようもありません」
「しかし……」
「遺言が法的に有効である以上、私は遺言の内容に従って遺産相続処理を進めるまでです。それとも、あなた方はこの遺言が偽物だとでも言うおつもりですかな?」
穏やかながらも有無を言わさぬ口調の島永に、武治と牧雄は言葉を詰まらせる。今まで多くの法廷で戦い抜いてきた百戦錬磨の老弁護士からしてみれば、この程度の脅しなど痛くもかゆくもないのだろう。
一方、そんな二人を相変わらず面白そうな表情で見つめながら呑気に湯飲みの茶を飲んでいるのは、三男の信治だった。その態度が気に入らなかったのか、武治は信治の方を振り返って叫んだ。
「信治、お前も何か言ったらどうなんだ!」
「何かと言われましてもね。正式な遺言なら従うしかないんじゃないですか? 僕は別に異論ありませんよ。家督とやらに興味もありませんし、遺留分の遺産さえ受け取れればそれで充分ですので」
「他人事みたいに言うんじゃない!」
「正直、他人事ですよ。僕からすれば、変なトラブルに巻き込まれる方が面倒なだけです」
信治はすました表情であくまで慇懃無礼にそんな反論をする。そのすぐ横で、長男の勝治は髪の毛をかきむしりながら何かブツブツ呟いている。何を言っているのかはこの喧騒のせいで瑞穂には聞き取れなかったが、武治がうっとうしそうな目で彼を睨みつけているのは良く見えた。
一方、牧雄の妻である涼は言葉こそ発していないが、怒りの感情が大きいのか正座したまま顔を真っ赤にして拳を握りしめているのがわかる。その一方、隣の奏は涼と対照的に反応がよくわからず、相変わらず暗い表情のまま何も言わずに俯いているのが印象的だった。
そして、最後に残った蘭はしっかり背筋を伸ばしたまま正面を向いて遺言の内容を噛み締めており、一族の中で一番若いにもかかわらず、その姿にはどこか気高さと気品さえ感じられた。この態度を見れば、なるほど、葵が五人の孫ではなくひ孫である彼女を当主継承の第一候補にしたのにも納得できてしまうと瑞穂は思った。
だがそれと同時に、そんな彼女がアイドルを辞めるとはとても思えないのも事実だった。今までの言動を見るに、彼女は父親でこの村の助役という権力者でもある武治の言いなりになるだけの存在ではなく、明らかに自分の意志と確固たる価値観を持っている人間である。それだけに、父親からどれだけ圧力をかけられても彼女が自分の意志を曲げる事はまずありえないだろうと瑞穂は思った。
その一方、父親である武治からしてみれば、彼女が当主就任を拒否してアイドルを続行するという事だけは何としても避けなければならない状況である。この遺言の中で、彼が月園家の中で影響力を持つための唯一のシナリオは、蘭がアイドルを辞めて当主となった上で自身がその補佐役になるというパターンしか存在しない。それだけに、彼が今後自身の娘に対してどのような態度に出るか、まったく予想もできないのも事実だった。
また逆に、それ以外の候補者……例えば勝治や涼・牧雄夫妻からしてみれば、彼女がアイドルを続行して当主就任を拒否しなければチャンスもなく全てが終わってしまう。現状では彼女はアイドルを続行する可能性が高いとはいえ、父親の説得でそれが覆る可能性を完全に覆す事はできない。そうなると、彼らとしても蘭に対して何らかの接触を試みる可能性は十二分にあり得る話だった。
「どうやら、水原君や鎌崎村長の予想通り、蘭君にとってかなり厄介な事になったようだね。残念ながら、と言うべきか」
榊原の呟きに、瑞穂も何だか嫌な予感がしてたまらなくなったのだった。
遺言の発表が終わってしばらくすると、騒いでいた人々も大座敷から次々人が出ていった。蘭も一度自室に引き上げるという事で心配した愛美子がそれについて行き、結局最後まで大座敷に残ったのは榊原と瑞穂、そして島永弁護士の三人だった。そして、島永は榊原たちのいる方へ近づくと、穏やかな表情を榊原に向けて話しかけてきた。
「やぁ、どうも。この度はご苦労様です」
島永の言葉に榊原は無言で頭を下げ、瑞穂も慌てて榊原に倣う。それを見て、島永は微笑みを浮かべながら予想外の言葉を続けた。
「そんな他人行儀にならずとも、お互い、知らぬ仲ではないでしょうに」
「……島永さんは相変わらずのようで」
榊原のその返事に、瑞穂は驚いて尋ねた。
「先生、この弁護士さんを知ってるんですか?」
「刑事時代に何度か法廷でやり合った。毎回のように意地の悪い反対尋問ばかりしてきて、苦手な相手だった覚えはある」
「いやいや、君が証人に出てくると大体その裁判は負けでしたからなぁ。私の方こそ君の事は苦手でしたよ」
「御冗談を。元東京地検特捜部の検事で、ロッキード事件やリクルート事件の捜査にもかかわったあなたが何を言いますか」
榊原が少し呆れたように言った言葉に瑞穂が反応した。
「元検事さん、なんですか?」
「えぇ。いわゆるヤメ検という奴です。定年退職後にこうして弁護士に転身しましたがね」
「そんなあなたが、今回は民事の遺言管理ですか。てっきり、刑事事件専門だと思っていたのですが」
「何分、刑事事件だけでは収入が少ないものでしてなぁ。私も生活がありますので、仕方がないのですよ」
そう言って笑いながら、もっとも、と島永はさらに言葉を続ける。
「実の所、他に目的がないわけでもないのですがね」
「目的?」
「まぁ、それこそ君には関係のない個人的な未練というものです。忘れてください」
そう言ってから、島永は居住まいを正して榊原に問いかけてきた。
「それで、実際に聞いて、どう思われましたかな? 今回の遺言状」
「正直、想像以上にややこしい事になりそうな遺言でしたね」
「でしょうな。私も葵さんに『本当にこの内容でいいのか?』と何度も確認したのですが、彼女の意向を変える事はできませんでした。難しいものです」
それからしばらく、榊原と島永は立ち話をしていたが、傍から見ているとそれはまるで腹の探り合いと言った風な会話で、あまり有意義な情報はないようだった。実際、話している本人たちもそれは感じていたようで、しばらくして話がひと段落すると、島永がその場を立ち去る仕草を見せた。
「さて、では私はこの辺で失礼しますよ」
「お帰りですか?」
「いやいや、一応、遺言の管理役ですからな。ある程度落ち着くまではこの村に滞在させて頂く事になっています。ただ……」
ここでなぜか島永は苦い顔をした。
「残念ながら、この村には宿泊施設がないものでしてなぁ。仕方がないので、ここから車で北へ一時間ほどの場所にある秩父の市街地のホテルに宿泊する事になっています」
「それはまた、大変ですね」
「まぁ、確かにそうですが、実はこの後、ホテルに行く前にそちらでも別件の仕事がありましてな。そちらも長引きそうなので、私としては都合が良いのですよ。とにかく、しばらくはそこから毎日ここに通う事になりそうです」
そう言ってから、島永はこう付け加える。
「とはいえ、むしろできるなら、何もかもがスムーズに決まって、すぐにでも東京に帰りたいものですよ。私も歳ですからな」
「それは同感です」
榊原が苦笑気味に返事をする。
「それでは、失礼。役場の駐車場に車を停めているものでしてね。ここから少し歩かなければなりません」
「お気をつけて。この後、天気がますます崩れるらしいですからね」
「えぇ、そのようですな。その前におとなしく退散するとしましょう」
榊原の言葉に送られて、島永は会釈しながら部屋を出て行った。今度こそ部屋の中には榊原と瑞穂だけが残される。
「何というか、随分マイペースというか、飄々とした人でしたね」
「だが、実の所はあぁ見えてなかなかの切れ者だ。あの腹の内で何を考えているかわからない態度に、私たちがどれだけ手を焼かされてきた事か……」
「っていうか、そう聞くとどこか先生みたいな人ですね」
瑞穂のその言葉に、榊原は思わず瑞穂の方を見やる。瑞穂は構わず言葉を続けた。
「だって何があってもマイペースだし、見方によっては飄々としているようにも見えるし、それでいて実は切れ者だし、実際に頭の中で何を考えているかわからない事があるし……これって、先生そのものですよね?」
面白そうに言う瑞穂に、榊原は珍しく憮然とした顔をした。
「冗談にしては面白くないね」
「心配しなくても、冗談じゃありません。私が思った事をありのままに言っただけです」
「……君も言うようになったね」
「先生には随分鍛えられましたから」
と、二人でそんなたわいもない事を言い合っていた……その時だった。突然、大座敷の外……庭の方が騒がしくなり、榊原と瑞穂は顔を見合わせた。
「何でしょうか?」
「わからないが、何かあったのは間違いなさそうだ」
そう言いながら縁側に出て庭の方を見ると、奥の築山の辺りで、誰かが数人の男に取り押さえられているのが見えた。取り押さえられているのは着込んで顎髭を生やしたジャケット姿の男であり、取り押さえているのは武治と財閥の関係者たち。そして、そんな彼らの前に立っているのはどこかこわばった表情をした蘭であり、蘭の後ろに顔を蒼ざめさせた愛美子も立っていた。
「何があったんですか?」
「ん? あぁ、探偵さんですか」
同じく縁側に出て様子を見ていた信治に榊原が声をかけると、信治は気さくな様子で応じた。
「あの男は?」
「庭に忍び込んで、木の間から写真を撮っていたようです。不法侵入という奴ですね。蘭ちゃんがレンズの反射で誰かいる事に気付いて、慌てて逃げようとしたのを兄さんたちが取り押さえました」
「何者ですか?」
「さぁ。ただ、蘭ちゃんを撮っていたとなると、大まかに予想はつきますね」
と、そこへ取り押さえている武治の声が聞こえた。
「蘭、こいつの事を知っているのか?」
「……えぇ。最近、ずっと私の事を付け回しているどこかの新聞社の記者だと思う。わざわざこんな所まで来るなんて、すごい執念ね」
蘭の言葉に、男はニヤリと笑う。
「いやぁ、あの月野光ちゃんが月園財閥の関係者だってタレこみがありましてね。事実なら大スクープだし、ちょうどこうして月園家の遺言発表があるから、もしタレこみが事実なら光ちゃんが来るかなぁと思って……」
「貴様! 一体どこの記者だ!」
「痛たたたっ! そんなことしなくても、ポケットに名刺が入っていますって! 出していいですから痛くしないで!」
男の叫びに、武治の合図で財閥関係者の一人がポケットを確認する。確かにそこには名刺入れがあり、中に入っていた名刺を武治が直接確認する。
「……桶嶋俊治郎。日帝新聞芸能部?」
「そうそう」
「ふんっ、記者だか何だか知らないが、不法侵入は不法侵入だ! このまま警察に引き渡させてもらうぞ!」
と、ちょうどそこへ玄関の方から制服警官が一人駈け込んで来た。駐在らしいが、先程の役場前駐在所の大久保巡査部長とは別人のようであり、榊原と同じく四十代前半くらいの若干肥満気味の警官だった。
「あ、助役。不法侵入があったと通報があって駆け付けたのですが」
「あぁ、ご苦労さん。この男がそうだ」
武治が桶嶋を駐在に引き渡す。と、そこで信治が榊原に耳打ちした。
「四年ほど前から西巴川駐在所の駐在をしている野別実明巡査部長です。この村には役場前駐在所と西巴川駐在所の二つの駐在所がありましてね。この屋敷がある辺りは西巴川駐在所の担当なんですよ」
「詳しいですね」
「僕のいる診療所、巴川署の指定医も担当していましてね。その縁で署員の方とも親しいんですよ。実はこの後も、もうすぐ行われる署の健康診断の打ち合わせのために巴川署に行かなくてはならならないんです。いやぁ、医者も楽じゃありませんよ」
そんな事を言っているうちに、駆け付けた野別が桶嶋の手に手錠をかけ、そのまま連行していく。
「来い! このまま署でみっちり油を搾ってもらうからな!」
「勘弁してくださいよぉ。俺だって仕事なんですから仕方なく……」
「口答えするな!」
野別はそのまま武治に一礼すると、桶嶋と共に屋敷を去って行った。しばらくその場のざわめきは収まらなかったが、やがて一人二人とその場を離れていき、庭は再び元の静けさを取り戻しつつあった。それを見届けると、最後まで残っていた蘭もようやく肩の力を抜いて縁側まで戻って来る。
「大丈夫かね?」
「……大丈夫、と言えば嘘になりますね。アイドルになる時に覚悟はしていましたけど、正直かなりきついです」
と、そこで蘭は自分の後ろにいた愛美子に顔を向けた。
「ねぇ、愛美ちゃん。お願い事、していいかな?」
「う、うん。何、蘭ちゃん?」
「今日、愛美ちゃんのおじいさんの家に泊めてもらってもいい? 何か、色々あって疲れちゃって」
愛美子は驚いた表情を浮かべる。
「いいけど……大丈夫なの?」
「大丈夫よ。ちょっと、ここから離れていたいし、愛美ちゃんの友達だっていうそっちの深町さんとももっと話をしてみたいし。それに……」
「それに?」
「……ここにいても、お父さんがうるさいから」
その言葉に、愛美子は一瞬つらそうな顔をしたが、すぐに頷きを返した。
「わかった。おじいちゃんに頼んでみる」
「お願い。じゃあ、準備してくるね」
蘭はそう言って奥に引っ込んでいった。
「……どれだけ外面を取り繕っても、彼女はまだ十六歳の女の子だ。それを忘れてはいけない」
「……ですね」
瑞穂が榊原の言葉に同意する。と、ここで信治が場の雰囲気を読まない風に言葉を発した。
「さて、僕は診療所に戻りますか。この後、巴川署に打ち合わせに行かなければなりませんし、色々準備しないと。探偵さんたちも、早くここから出た方がいいですよ。ひょっとしたらここは、欲望に取りつかれた『人間』という魑魅魍魎が跋扈する伏魔殿なのかもしれませんからね」
冗談っぽく言う信治に対し、榊原は痛烈な一言で切り返した。
「あなたも、ですか? その言葉の節々に、何かが隠されているように私には感じられるのですがね」
榊原の指摘に、信治は小さく笑った。
「僕は、よほど心を許した人間でない限りこの喋り方です。そんな人間はこの世に数人しかいませんね」
「なるほど」
「では、失礼」
信治はそのまま去っていく。腕時計を確認すると時刻は午後二時少し前。ふと空を見上げると、さっきに比べて雲の色はますます暗くなり、雨脚もますます強くなっている。その光景が、これから先に起こるかもしれない何かを暗示しているように、瑞穂には思えたのだった……