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ダブルクローズドサークル~巴川村の殺人  作者: 奥田光治
第二部 嵐の前~月園家
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第二章 榊原恵一

 翌日、二〇〇八年九月二十日土曜日。品川区北部にあるJR品川駅の西口、そこにセーラー服姿の深町瑞穂の姿があった。瑞穂は西口を出た所で軽く伸びをすると、そのまま駅西側に広がるビル街の方へと歩き始め、そこから五分ほど歩いたところで、ビル街の間にある路地裏へ続く細道へと入って行った。そこは人通りも少なく、古びたビルがいくつか並ぶ品川の裏町ともいうべきエリアであるが、瑞穂は臆することなく奥へと進んで行き、さらに五分ほど進んだところにあるビルの前でその足を止めた。

 そのビルは、かなり古びた三階建てのビルだった。一階には「丸野医院」と書かれた個人経営と思しき診療所が入っており、三階部分は住居となっているようだが、瑞穂の目的は二階のフロアである。瑞穂は手慣れた様子でビルの横にある階段の方へ向かい、そこから二階へと昇っていく。二階の廊下に出るとそこには三つのドアが並んでおり、そのうち中央のドアの横にある看板にはシンプルな文字でこう書かれていた。


『榊原探偵事務所』


 瑞穂はそのドアをノックするが、返事はない。が、瑞穂はそのまま遠慮なくドアを開け、事務所の中へと入った。

「先生~、元気ですか?」

 事務所の中はシンプルな構図である。入口のドアのすぐ横に受付代わりの小さな事務机があり、部屋の中央に向かい合った二脚のソファとそれに挟まれた来客用テーブルという簡単な応接セット。部屋の左右には書籍や事件ファイルが詰まった本棚が敷き詰められており、そして部屋の一番奥……この部屋唯一の窓の前に事務机が置かれていて、その事務机備え付けの事務椅子にこの事務所の主……私立探偵の榊原恵一が座って何か本を読んでいた。

「あぁ、瑞穂ちゃんか。今日は随分早いね」

「仲介した張本人が遅れるわけにはいきませんから。それより、何してるんですか?」

「いや、何。ちょうど頼まれていた仕事が終わって報告書を書き終わったところでね。少し時間が空いたんで、こうして息抜きに読書をしているわけだがね」

 そう言いながら榊原は読んでいた本の表紙を見せる。瑞穂が近づいてその表紙を見ると、そこにはおどろおどろしい文字で『エアロビクス殺人事件』と書かれていた。作者はエドワーズ&ペンズラーとなっていて、作者名の横に「犯人当てゲーム・ミステリ」という文句が書かれているのが印象的である。

「それ、どこで手に入れたんですか?」

「何年か前に仕事で大阪の方へ行った時に、ちょうど四天王寺で古本市をしていてね。興味本位で覗いてみたらこれが売られていて、おもしろそうだったから購入したわけだがね」

「おもしろいですか?」

「さぁね。まだ読み始めたばかりだから何とも言えないが、興味があるなら読んだ後で君に貸しても構わんよ」

「……考えておきます。それよりこの前の仕事って、確か一階の丸野先生に頼まれた人探しの依頼でしたっけ」

 瑞穂はこのビルの一階にある「丸野医院」の院長の顔を思い浮かべながら言った。かなり前からあそこで開業していて、この辺一帯の顔役というか自治会長というかとにかくそういう立場の人であり、その縁でこの事務所にも時々軽い仕事を持ち込んでくる事があるようだった。

「あぁ、そうだ。依頼者は丸野先生の患者の一人で、数ヶ月前に金を貸した友人が音信不通になったから探してほしいという依頼だった」

「で、見つかったんですか?」

「見つかったと言えば見つかったが、色々面倒な事になってね。調べた結果、その男は気象庁の役人だった事がわかって、その上で今どこにいるのかを調べたんだが、まぁ何というか、『連絡できなくても当然だな』とちょっと同情したくなるような場所にいる事が判明した」

「どこですか?」

「南鳥島だよ」

 さらりと言われたが、瑞穂は当惑した表情を浮かべる。

「それって確か、日本の一番東の島じゃありませんでしたっけ?」

「よく知ってるね。島の周囲一〇〇〇キロメートル以内にまったく陸地のない正真正銘の絶海の孤島で、一般人の立ち入りは完全禁止。島にいるのは自衛隊員と気象庁の職員だけで、あまりに遠すぎて携帯電話もネットも通じず、郵便も宅配も届かないという場所だ」

「そこにいたんですか?」

「あぁ。業務上の急な命令でいきなりそこに飛ばされたらしい。連絡がつかなくて当然だ。依頼人に報告したら、さすがにちょっとバツの悪そうな顔をしていたよ。とりあえず、任務が終わって帰ってくるのを待つつもりだそうだ」

「というか、よくそんな所にいるのを調べ切れましたね。逆にそっちの方が凄いというか、さすが先生というか……」

「仕事だからね。できる限りの事はする」

 そう言いながら、榊原はようやく瑞穂の方に顔を向けた。

 榊原の年齢は四十二歳。痩身の体躯に使い古されくたびれたスーツを着こみ、首に同じく年季が入ったネクタイを締めているという、一見すると非常に冴えないというか凡庸とも言うべき容姿をしており、その姿はどこぞの疲れ果てた窓際サラリーマンと勘違いされてもおかしくないものである。実際、榊原と初めて会った人間は、この外見や一見疲れたように見える雰囲気に騙されたり、あまつさえ舐めたり見下したりする事が多い。瑞穂自身、この男に初めて会った時には、この外見にすっかり騙されたものである。

 だが、彼の事をよく知る人間が見れば、その疲れてどこか死んだように見える目の奥から、逆に相手の全てを見透かす鋭い視線が静かに放たれている事がわかるだろう。そしてこんな外見に反し、この寂れた探偵事務所を経営する男の前歴が凄まじいものである事を、瑞穂はよく知っていた。

 警視庁刑事部捜査一課十三係警部補……それがこの一見冴えない風貌の中年男のかつての肩書きである。しかもただの元刑事というわけではない。榊原が所属していた「捜査一課十三係」は、増加する凶悪犯罪に対抗するために平成初期に当時の警察庁刑事局長主導で優秀な刑事ばかりを集めて設立された特殊な特殊捜査班であり、榊原はその「捜査一課歴代最強の捜査班」とまで呼ばれた伝説の捜査班の事実上のブレーン役として数多くの犯罪者たちをその論理及び推理力だけで陥落させ続けた「推理の天才」だったのである。ただし、その捜査班は今から十年前の一九九八年に起こったある事件の捜査に失敗した影響で解散処分となっており、この捜査班のブレーン役だった榊原は捜査失敗の全責任をかぶる形で警視庁を辞職。その後、こうして品川の裏町で私立探偵事務所を開く事になったのだが、現在でもその桁外れの推理力は健在であり、今なおかつての功績を知る警察関係者の中には、非公式のアドバイザーという形で榊原に捜査協力を求める者も多いという。

 実際、彼が警察を辞した後に解決した事件の中には、それこそ日本の犯罪史にその名を残す大事件も多く、それらの事件は榊原の推理なしでは解決は不可能だったと言われる事も多いという。試しにいくつか列挙してみると、奥多摩の廃村に避難したバス転落事故の被害者たちが皆殺しにされた『イキノコリ事件』、東京・千葉・埼玉の三都県にまたがって黒い長髪の女性ばかり六人が殺害され警察庁広域重要指定一二五号事件にも指定されている『シリアルストーカー事件』、火災で炎上中のホテル内で救助に来た消防士が何者かに殺害された『業火の殺人者事件』、埼玉県の廃墟ホテルに肝試しに来た女子高生が殺害された『紫苑観光旅館殺人事件』……等々、挙げればきりがないほどだ。

 もちろん、これらの事件は表向き全て警察が解決したという事になっていて、普通に調べても榊原の名前はどこにも出てこない。そして、そんな榊原が解決した事件の中に、瑞穂自身の人生を大きく変える事となったある大事件がある。それは昨年……すなわち二〇〇七年の六月に発生した『立山高校同時多発殺人事件』と呼ばれている大量殺人事件であり、その事件の舞台となったのは他でもない、瑞穂が現在部長を務めている立山高校ミステリー研究会であった。

 すでに述べたように、現在瑞穂が部長を務めている立山高校ミステリー研究会には三年生がおらず、二年生も瑞穂一人だけ。あとは全員今年入った一年生ばかりという歪な事になっている。この歪な部員構成は偶然起こったものではなく、昨年六月に起こったこの事件で何人かの部員が殺害されてしまったという事が大きい。しかもこの事件は、瑞穂の先輩に当たる四人のミス研部員が部室棟の違う場所で同時刻にほぼ同時に殺害されるという前代未聞の不可能犯罪であり、当時一年生だった瑞穂自身も部員としてこの事件に巻き込まれる事となってしまったのである。そして、この事件に介入して見事この不可能犯罪の謎を解き明かし、事件を解決に導いたのが、他でもないこの榊原恵一という探偵だった。

 事件解決後、生き残ったミス研の部員たちは瑞穂を除き全員部を去って行き、事件の舞台となった部室棟も解体の上で建て直し。その上で、学校側もこの忌まわしき部活を廃部にしようとした。しかし、瑞穂はそうした全てをなかった事にしようとする学校側の動きに猛反発して「次年度に新入部員が入ってくる事」を条件にミス研を存続させる事に成功し、さらに事件を解決した榊原に半ば押しかけ同然に探偵としての弟子入りを志願したのである。弟子入りを志願したのは、目の前で繰り広げられる論理を駆使した榊原の圧倒的な推理に心酔した事も大きいが、それ以上に事件を経て学校では教わらない人の裏面を含めた社会の様々な事もっと知りたいと考えるようになり、榊原ならそれを正しく教えてくれると思ったからという点も大きかった。

 当然のことながら「女子高生が探偵に弟子入り」という話に最初はあまりいい顔をしていなかった榊原であるが、瑞穂の粘り強い弟子アピールにもはや諦め気味らしく、最近では本気で弟子として扱っている節もあった。そんなわけで、瑞穂は榊原の事を「先生」と呼んでおり、榊原の方も瑞穂から「瑞穂ちゃん」呼びを強要されるなど、傍から見れば何とも奇妙な探偵師弟コンビが誕生したという次第である。

 それから一年、瑞穂は榊原と一緒にいくつかの事件に実際に関わる事となり、そこで改めて榊原恵一という探偵の本質を再確認する事となっていた。榊原という男自身は、見かけは派手ではなく凡庸そのもので、大衆向けの推理小説にありがちなある意味わかりやすい『奇人・変人めいていてインパクトのある探偵役』とは対極に位置するとも言える人物である。ただ、その代わりに探偵の根幹たる「推理力」や「論理構築力」だけを徹底的に突き詰め、その一点特化した推理力一本で数々の大事件を解決に導いてきた「推理力完全特化型」の探偵……それがこの榊原恵一という男の本質である。

 その他の全ての要素を排除し、徹底して探偵の王道たる「推理」に全てを賭けるその探偵としての姿勢から、彼に関わった警察や事件関係者、さらに彼に敗れた犯罪者たちは彼の事をこう呼ぶという。


 探偵の王道を行く探偵……すなわち、『真の探偵』と。


「それで、昨日の電話だと、君の友達が私に何か依頼をしたいという事だが」

 榊原は読んでいた本を机の上に置くと、瑞穂に対して静かにそう問いかけた。

「あ、はい。具体的な内容はここで話すって言っていましたけど、去年のミス研の事件を解決した腕を見込んでどうしても頼みたい事があるって」

「ふむ……となると、それなりに重い内容の依頼にはなりそうか」

 ちなみに、世間一般に去年のミス研の事件を榊原が解決した事は伏せられていて、いつも通り、あくまで警察が執念の捜査で犯人を逮捕した事になっている。が、さすがに当事者である立山高校の関係者は本当のことを知っていて、愛美子もそんな事情を知っている人間の一人だった。だから、愛美子が榊原に何かを相談したいという事は、それは探偵としての榊原に何かを依頼したいという事であり、『真の探偵』の異名を持つ榊原を動かさなければならないほどの厄介事である事は間違いなさそうだった。

「まぁ、とにかく話を聞いてみなければ何とも言えんね。私にもできる事とできない事がある」

「先生にもできない事があるんですか」

「私は別に万能ではないよ。やれる事しかできないし、だからこそできる事を少しでも増やすために日々努力をしているわけだがね」

 と、そんなことを言い合っていると、不意に事務所のドアがノックされる音が響いた。どうやら、待ち人がやって来たらしい。

「来たみたいだね。どうぞ!」

 榊原が声をかけるとドアが開き、瑞穂と同じ制服を着た水原愛美子がまず顔を見せた。

「深町さん……」

「副会長……じゃなかった、水原さん! ここまで迷わなかった?」

「うん、それは大丈夫だった。今日はごめんね」

「いいって。困った時はお互い様だしね」

 瑞穂の言葉に愛美子は頭を下げる。そして、そんな愛美子の後ろからもう一人、きっちりとしたスーツに袖を通した七十代と思しき白髪の老人が続き、愛美子共々榊原に頭を下げた。

「本日はどうも。わざわざ時間を作って頂いて」

「いえ、お気になさらず。ええっと……」

「あぁ、失礼。私、この子の祖父で、こういう者です」

 そう言って、老人は一枚の名刺を差し出す。そこにはこう書かれていた。


『巴川村村長 鎌崎辰蔵』


 榊原は眉をひそめて改めて老人を見やる。

「村長さん、ですか」

「その通りです。探偵さんの事は、孫からよく聞かされていましてな。今日はその探偵としての腕を見込んでご相談したい事があるのです」

「……ひとまず、立ち話もあれですので、そちらにどうぞ」

 榊原の案内で、愛美子と鎌崎は部屋の真ん中にある来客用のソファに腰かけ、榊原もテーブルを挟んだ反対側のソファに腰を下ろした。すかさず瑞穂が給湯室からお茶を持って来てテーブルの上に置き、自身は榊原の座っているソファの後ろに控える。そこが瑞穂の毎回の定位置だった。

「さて、早速ですが、お話をお聞きしましょう。わざわざ瑞穂ちゃんを通じてまで私に依頼したい事というのは何でしょうか?」

 その言葉に、一瞬、愛美子と鎌崎が視線をかわし合ったが、最終的には代表して鎌崎が事情を話す事にしたらしい。

「……そうですね、何から話すべきか」

 鎌崎はなお何か逡巡していたが、改めて軽く咳払いをすると、その『厄介事』の内容を説明し始めた。

「唐突で申し訳ありませんが、榊原さんは『月園財閥』という企業グループをご存知ですか?」

 本人が言うような突然の問いかけに、榊原は眉をひそめつつ答える。

「えぇ、もちろん。というより、知らない人の方が少ないでしょう。何しろ、関東圏一帯に多くの傘下企業を抱える日本有数の巨大系列企業グループですから」

 榊原の答えに、後ろの瑞穂も頷く。高校生の瑞穂でさえ、その日本有数の大財閥の名前は聞き覚えのあるものだった。

「その通りです。そしてこの月園財閥の創設者一族が、私が村長を務める巴川村に屋敷を構える月園家という一族です。要するに、村一番の名家という事なのですが、今回の依頼は、その月園家に関する事でして……」

 そこで一度言葉を切ると、鎌崎は少し何かを考えた上で、具体的な月園家の歴史について話し始めた。 

「月園家の初代当主……つまり月園財閥の創設者とされているのは、明治時代に出現した月園玄龍斎という人物です。元々は村の有力農民に過ぎなかった玄龍斎は、日清・日露の戦いの際に軍事物資の製造で巨万の富を築き、月園家を国内有数の大財閥へと成長させました。そして玄龍斎の死後、若くして月園家の家督を継いだのが玄龍斎の一人娘であり、現在では稀代の女当主としてその名を知られる月園葵その人でした」

 唐突な歴史講釈に対し、しかし榊原は黙って相手の話を聞いている。そんな態度に安堵したのか、鎌崎はさらに話を進めていった。

「彼女はまだ女性差別や家長制度の名残が残る時代にもかかわらず月園家当主の座を父から受け継ぎ、周囲からの陰口にも一切ひるむことなく、月園家の最盛期を作り上げる事に成功した女傑として知られています。そんな彼女は若い頃、巴川村で月園家に次ぐ有力地主であった鎌崎家に接近し、月園家に婿入りしてもらうという条件で鎌崎家の次男・鎌崎満治と結婚。戦後になると満治は巴川村の村長に就任し、他に対立候補がいなかった事もあってつい最近まで長期政権を樹立していました」

「鎌崎……という事は?」

 榊原がその名字に反応し、鎌崎は頷きを返す。

「お察しの通り、鎌崎満治こと月園満治は私の兄に当たります。満治が次男で、私は末の七男という事になりますか」

「ふむ。しかし、少し妙な話ですね。封建制の強い昔の旧家にもかかわらず、次男が婿入りで家を出て、それより下である七男のあなたが家を継いだというのはかなり歪だと思うのですが」

 榊原のもっともな疑問に、鎌崎は軽く息を吐きながら答える。

「本来、鎌崎家の跡継ぎには満治の兄である長男……つまり私の長兄が継ぐはずで、跡を継ぐ長男以外は基本的に他家へ嫁ぐ方針になっていました。そうした当時の鎌崎家の方針と、当時急成長を遂げていた月園家と親戚関係になる事は悪くないという判断からこの婿入り婚が実現したわけなんですがね。ただ、結論から言ってしまうとその直後に起こった戦争で鎌崎家の人間は次々出征する事となり、最終的に生きて終戦を迎える事ができたのは月園家に婿入りしていた満治と、鎌崎家の末っ子だった七男の私だけで、後を継ぐはずだった長兄も戦死してしまったんです。その結果、家から出ないまま唯一戦争を生き延びた私が成り行きで鎌崎家を継ぐ事になって、満治が村長をしている間、私は助役として彼を支える事になりました」

「そして、満治氏が村長を退任した後は、あなたが地盤を引き継いで村長に?」

 榊原の少し意地の悪い質問に、鎌崎は複雑そうな表情を浮かべながらもちゃんと答える。

「まぁ、そう取られても仕方がない事は事実です。ですが、こういう話は全く前例がないわけではないんです。有名な所だと、かの幕末の大老・井伊直弼は実は彦根藩の十四男で、齢三十を過ぎるまでは他家への婿入りもできないまま城下町でわびしい生活を送っていたとか。ですが、当主だった長男が死去し、他の兄弟がほぼ全員他家へ婿入りしてしまっていたが故に唯一家に残っていた彼が当主の座を継ぐ事となり、その後彼は歴史にその名を残す事になったというわけです。規模は違いますが、話としてはうちもこれと同じです」

「なるほど。いや、失敬。話を戻しましょう」

 鎌崎は咳払いすると、話を本題へと引き戻した。

「ただ、そんな彼女も私生活では不遇でしてね。夫の満治との間に生まれた子供はたった一人だけ。その一人息子である月園和治君は忖度抜きに言っても非常に優秀な男で、高校時代の同級生でもある妻の撫子さんとの間に五人の子供を授かり、月園財閥の幹部候補として頭角を現していました。ですが、運命の皮肉と言うべきか、今から二十年ほど前に和治夫妻はある事件に巻き込まれて亡くなってしまい、彼らの死後は葵さんが残った五人の孫を引き取って事実上の自分の子供として育てる事になったんです」

「事件というと?」

 榊原が元刑事の探偵らしくその言葉に反応する。

「殺人事件です。起こったのは昭和から平成に代わる少し前くらいだったと思いますが……警察関係者の間では『旭沼事件』と呼ばれていると聞いた事があります」

「先生、知っていますか?」

 瑞穂の問いかけに対し、榊原は渋い表情を浮かべながら答える。

「事件名と簡単な概要だけならね。その頃はまだ、私も警察官になる前だ」

「あ、そっか……」

「ただ、今も未解決の事件だという話は聞いた事がある。もしそうなら、すでに時効は成立しているはずだが……」

「確か、殺人罪の時効って十五年でしたよね」

 瑞穂は確認のつもりでそんな事を言ったが、榊原は律義に訂正を入れた。

「いや、正確に言えば、二〇〇五年の法改正で殺人罪などの時効は二十五年に延長されている。ただ、この法改正には遡及不可罰の原則の例外は適用されなかったから、時効二十五年の規定が適用されるのは法改正の施行日である二〇〇五年一月一日以降の事件に限られ、それ以前に起こった事件の時効は未だに十五年のままのはず。だから、約二十年前に起こったというこの事件は、経緯はどうあれもう時効が成立してしまっているはずだ」

「ソキューフカバツの原則、ですか?」

 聞きなれない言葉を聞かされて、ますます瑞穂は首をかしげる。榊原はなおも何か説明しようとしたようだが、これ以上は話が逸れすぎると判断したのか、短く言うにとどめた。

「難しい事はさておき、今はひとまず『旭沼事件』の時効が成立している事だけわかっていればいい」

「あ、はい。わかりました」

 瑞穂も空気を読んだのか素直に頷く。改めて、榊原は話を本筋へ戻した。

「私が記憶している限りだと、確か発端は企業の汚職事件でしたね」

「はい。当時、和治君は月園財閥の系列企業の一つである『旭沼製薬』という製薬会社の役員に出向していたんですが、その旭沼製薬が自社の開発した新薬品の認可をめぐって、当時の厚生省の官僚や厚生省上がりの議員に賄賂を贈っていた疑惑が浮上していたんです。役員であると同時に母体である月園財閥の次期後継者と目されていた和治君はこの疑惑の中心にいたと考えられていて、和治君本人に捜査の手が伸びるのも時間の問題とされていました」

「えっと……」

 いまいち話がよくわからなかったのか瑞穂が首をひねると、榊原が補足説明を加えた。

「旭沼製薬が本当に汚職をしていたのだとすれば、月園財閥の次期後継者である和治氏が知らない所で勝手に汚職行為をするとは考えにくい。月園財閥その物に対する裏切り行為につながるわけだからね。それでも汚職をしていたのだとすれば、それは当の和治氏自身が汚職事件に関与していた場合だけだ」

「あ、なるほど」

 瑞穂は納得したかのように頷いた。

「とにかく、当時の和治君の周囲はそんな状況だったわけですが、そんな中で問題の殺人事件は発生しました。一九八八年の夏、和治君たちが静養のために滞在していた奥多摩の別荘で、ベッドの上で滅多刺しにされた撫子さんと、風呂場で首を切って絶命していた和治君の遺体が発見されました。第一発見者は当時大学生で、大学の休みを利用して見舞い目的で別荘を訪れた和治夫妻の御長男でした」

「それは……なかなか、ひどい死に様だったようですね」

 話を聞いただけでも、かなり悲惨な事件だったのは間違いなさそうだった。

「状況的に『精神的に追い詰められた和治君が妻を殺してから自身の首を切った』ともとれる事件でしたが、この和治夫婦の謎の死に対し、当初捜査を担当した警察は無理心中を装った殺人の疑いが濃厚と判断しました。ですが、懸命の捜査にもかかわらず犯人を特定する決定的な証拠をつかむ事ができず、最終的にこの事件は無理心中とも他殺ともわからぬ曖昧な形で終わる事になってしまっています。さらに言うと、結局、事件の中心と目されていた和治君が亡くなった事で汚職の実態解明の方もうやむやになりましてね。結論を言ってしまうと、この一件では旭沼製薬の社員数名と厚生省の官僚の何人かがトカゲの尻尾切のような形で逮捕されただけで、上層部の大物や議員らに対する嫌疑は証拠不十分で不起訴という形で終わったと聞いています。もっとも、最愛の息子を失った財閥トップの葵さんの怒りはそれで収まらず、旭沼製薬は事件から数年後に月園財閥系列の別の製薬会社と合併……と言うより吸収される形で消滅し、罪を逃れた当時の旭沼製薬の幹部たちもそのほとんどが散々な末路をたどったようですがね。財閥その物に対する信用を揺るがし、唯一の息子を巻き込んだ上に最終的に死に追いやった連中に情けをかけるほど、葵さんも甘くはなかったという事です」

「それは……そうでしょうね」

 榊原としてはそう言う他ないようだった。

「とにかく、私生活ではそんな困難がありながらも、立志伝中の女傑として長年にわたって日本の経済界を率い続けた葵さんでしたが、今から二週間ほど前に、ついに病気で大往生を遂げましてね。享年は九十歳でしたが、屋敷で行われた彼女の盛大な葬儀には各界の著名人が参加していて、この時ばかりは普段静かな村が少しばかり賑わったものです。ただ、それと同時に人々の関心事となったのが、月園家次期当主の座……すなわち、この月園家の持つ莫大な資産と月園財閥の有する強大な権力を継承するのが一体誰なのかという点でした。悪い言い方をすれば、典型的な田舎の旧家の家督争いという奴です」

「遺言はまだ発表されていないのですか?」

「葵さんの言葉で、死後二十日が経過するまでは発表しない事となっています」

「二十日……つまり約三週間ですか」

「その通りです。現時点ではひとまず葵さんの夫である満治が臨時の当主代理として対応していますが、兄はすでに八十八歳と高齢で、さすがにここから正式な次期当主になるつもりがないという事は本人もすでに公言しています。なので、本来跡を継ぐべき葵さんと満治の息子である和治君がすでに亡くなっている以上、次期当主の座は、今は亡き和治君と撫子さんの間に生まれた五人の子供……つまり葵さんの孫のうちの誰かという事になりそうなのです」

 そこで一呼吸おいて、鎌崎は今回の中心となる五人の孫について話し始める。

「この孫というのは、年齢順に長男の月園勝治君、次男の月園武治君、三男の月園信治君、長女の月園涼さん、次女の月園奏さんの五名が該当します」

「長男の勝治氏と言うのが、旭沼事件の際の第一発見者ですね。それぞれの具体的な年齢は?」

「そうですね、長男の勝治君が四十歳で、以下、武治君が三十八歳、信治君が三十四歳、涼さんが三十歳、末の奏さんが二十七歳だったはずです。あと、次男の武治君と長女の涼さんは既婚者で、武治君には月園蘭さんという高校生一年生の娘が一人います」

「ふむ……」

 榊原は出された情報を頭の中で整理しているようだったが、やがてこんな質問を発した。

「少し気になったんですが、当主争いとは言いますが、普通ならこういう旧家の後継者問題はどうしても長男が有利になるはずです。ならば遺産の分配はともかく、次期当主については長男の勝治氏が就任して終わりになるはずではないのですか?」

 確かにそれはもっともな疑問である。だが、問題がなければ鎌崎がわざわざ榊原にこうして依頼をする事もないはずで、案の定、鎌崎は何とも困ったような口調でこう続けた。

「確かに普通はそうですし、私としてもそうなってくれた方が話が簡単になってとてもありがたいんですが、こと月園家の場合はいささかややこしい事になっていましてね。というのも、本来後継者候補の筆頭にならなければならない長男の月園勝治君がいささか問題のある人物で、彼の当主就任に反対する声が少なからず存在するからです」

 どうやら、ここからが話の本筋のようであった。

「その問題というのは?」

「勝治君は大学卒業後、社会経験を積むために都内にある月園財閥とは関係のない会社に就職しました。ところが不運にもその会社がその……典型的ないわゆるブラック企業でして、勝治君は過酷なノルマや長時間労働を強いられた末に、気付いた時には重度の鬱病になって会社を辞めざるを得ない状況にまで追い詰められてしまったんです」

 鎌崎の言葉に、榊原が少し苦い顔をしたのを瑞穂は見て取っていた。昨今、今まで放置され続けていたブラック企業が本格的に社会問題化し、ニュースや書籍で少しずつ取り上げられるようになってきているのは瑞穂も知っている。というより、以前受けた現代社会の授業で先生が口を酸っぱくしてそんな話をしていた事を瑞穂は思い出していた。

「もちろん、そこまで深刻な事になる前に彼自身もその会社を辞めようとしたようです。ところが、実家の月園家……特に育ての親である葵さんがあろう事かそれに反対したらしくてですね」

「反対? なぜですか?」

「長年、月園財閥のトップとして修羅場をくぐり続けてきた彼女にとって『この程度の事』で音を上げるなど言語道断な話であり、目の前の困難から逃げるような事をするのは月園家の人間としてふさわしくないという理屈だったようです。とにかく、そんなわけで勝治君は進む事も引く事も出来ないまま約十年もの間そんな生活を送り続ける事になってしまいましてね。ついには肉体的にも精神的にも限界を迎えて倒れてしまって、結局、それが原因でほぼ強制的に仕事を辞める事になるという最悪な結末を迎える事になってしまいました。退職後、勝治君は都内にある自宅アパートに引きこもりながら、大学時代の友人である編集者からの依頼で短い小説やエッセイを書いてはその原稿料で糊口をしのぐという生活を続けていますが、事実上社会から脱落した形になった彼に対して月園家は非常に冷たく、彼に月園家の当主を継ぐ資格などないと考えている人間も多いようです」

「鎌崎さんはどう思っているんですか?」

 榊原の素朴な疑問に、彼は少し答えにくそうに言った。

「縁戚とはいえ、私はそこまで月園家の内情に深くかかわっているわけではありませんのでね。正直、勝治君があんな状況になるまで、私は彼の状況について何も知りませんでした。さっきまでの話も、勝治君が倒れてから月園家の人間に聞いた話をしているに過ぎなくて、もしかしたら他に倒れた原因があるのかもしれません」

「そうですか……」

「とはいえ、どれだけ落ちぶれていても、彼が名門・月園家の長男であるという事実は変わりません。いや……それどころかそんな勝治君だからこそ、彼が当主になれば裏から操る事ができるかもしれないなどとよこしまな事を考える人間もいて、本人の意思に反して彼の背後はかなりドロドロしているようです」

「なるほど」

 続いて、鎌崎は次男の武治についての詳細を語り始める。

「その一方、次男の武治君は葵さんの期待に応える形で巴川村の村会議員となり、今は若くして巴川村の助役……つまり私の補佐役にまで上り詰めています。このため役場を中心とする巴川村の関係者の大半は彼を次期当主として支持していましてね。私も村長という立場上、公には助役である彼を支持する形になっていますし、兄弟の中では一番付き合いがある人間といえるでしょう」

「あなたから見て、武治氏はどんな人間ですか?」

 榊原のそんな問いかけに、鎌崎は素直に答える。

「そうですな。実務家としては真面目で優秀ですよ。ただ、野心はある。今でこそ私の下についていますが、このまま助役程度で満足するような男ではないでしょう。そして、自身の野心を実現するためなら何でもする……そんな男ですかね」

「典型的な政治家タイプですか」

「おまけに彼には娘の蘭さんもいる。将来の月園家のさらなる後継者という観点から見てみても当主争いで一歩リードしている状況なのは否定できません」

「今までの話を聞く限り、月園家は家督争いに男女の区別はないわけですね?」

「えぇ。恐らくかつて娘の葵さんを当主に指名した初代の玄龍斎の意向もあるのでしょうが、男子でも女子でも家督を継ぐ権利自体は存在していて、女性が月園家の当主になる事は認められています。なので、娘とはいえ次期当主候補がちゃんといる武治さんが有利なのは確かなようですね」

 そう言いながらも、鎌崎の表情はなぜかさえなかった。

「ただ、一つ問題があるとすれば武治君と彼の妻の琴江さんが別居状態で、現時点では離婚こそしていないものの将来的にどうなるかがわからないという点。そして、肝心の娘の蘭さんがその母親と仲が良く、なおかつ現在東京都心部の高校に通っている関係上、仮に武治君が将来的に離婚した場合に蘭さんが母親の方についていく可能性があるという点です。そうなれば、『次期当主候補がいる』という武治君の優位点は全く意味がなくなる事になります」

「なかなか難しいものですね」

 榊原はそんなコメントを返すが、話はまだ終わっていなかった。

「さらに言うと、その蘭さん自身の立場も、状況をより複雑なものにしています」

「と言いますと?」

「榊原さん、つかぬ事をお聞きしますが、『ムーン&スター』という女性アイドルユニットをご存知ですか?」

 鎌崎の口から突然出てきたそんな似つかわしくない質問に対し、榊原は緩く首を振る。

「いえ、お恥ずかしい話ですが、芸能関係の知識にはあまり詳しくないものでして」

 だが、瑞穂の方はそのグループ名に心当たりがあった。

「確か、最近人気が出てきたグループですよね。メンバーは月野光ちゃんと星乃灯ちゃんの二人。私も一枚だけですけどCDを持っています」

「なら話は早い。実はですな……ここだけの話にして頂きたいのですが、今彼女が言ったメンバーの二人のうち『月野光』と名乗っている方が、他ならぬ月園蘭さんなのです」

「えっ、そうなんですか!」

 瑞穂は心底驚いた声を上げ、榊原は目を細めた。

「武治氏の娘さんがアイドル活動をしているという事ですか」

「そうなります」

「あの、それを今この場で言っていいんですか? 守秘義務とかに反するんじゃ……」

 瑞穂が心配そうに言うが、鎌崎は首を振った。

「もちろん、ここに来る前に本人と事務所から許可は取ってあります。今回の依頼において、彼女の正体について触れないわけにはいかないと思いましたので。ですので、この件については他言無用でお願いします」

 そう言いながら鎌崎は頭を下げた。

「それならいいのですが、それが今回の件に何か問題を?」

「えぇ。早い話が、彼女の父親である武治君は、蘭さんがアイドル活動をしている事を快く思っていないのです。彼としては、将来的に彼女には自身の跡を継いでもらいたいと考えているのに、アイドル活動にうつつを抜かしていたらそれができないという考えのようですな。先程も言ったように、武治君からすれば将来の後継者候補である娘がいるという事が当主継承の大きなアドバンテージになっているのに、その娘自身がアイドルをしていて当主の座に興味がないとなればせっかくのアドバンテージが消えてしまうわけで、当主を継げるかどうかというこの状況下で穏やかな気持ちになれないのも致し方ないでしょう。当然、アイドル活動を続けたいと思っている蘭さんとは意見が合わず、親子関係がぎくしゃくしているとも言います」

「ふむ、そういう事ですか」

 続いては三男の信治についてである。

「三男の信治君は、この中でも一番後継者争いから縁遠い所にいる人物です。普段は都内の総合病院で医者をしていて、週に数回程度の頻度で、村の中にある診療所に顔を出すという生活を送っています」

「診療所、ですか」

「えぇ、小さいですが村の中で唯一の医療機関です。常駐医はいなくて、都内の病院に勤務している僻地医療担当のお医者さん数名が交代で診察に来てくださっています。信治さんもそのうちの一人というわけです。葵さん自身は常駐医になってほしかったようですが、都内の病院にいた方が勉強になるし出世も早いと言われて、それ以上は何も言わなかったと聞いています」

「まぁ、本音はともかく、道理ではありますからね」

 榊原としてはそう言う他ないようだった。

「彼は気楽な独身生活を謳歌し続けていて、それなりに稼ぎがある事もあってか畑違いの月園財閥の権力を得る事にそこまで執着していません。なので、どちらかと言うと一歩引いたところから兄妹たちの骨肉の争いを見つめていて、最低でも遺留分の分け前さえあればそれで充分というスタンスを貫いているようです」

「……ある意味、一番の曲者かもしれませんね」

 榊原の遠慮ない意見に、鎌崎も苦笑した。

「確かに、私から見ても一筋縄ではいかない人だとは思います。とはいえ、悪い人間でないのは確かですし、医師としての腕は間違いなく優秀ですよ」

 残るは娘二人であるが、鎌崎の話ではこの二人も単純な人間ではなさそうだった。

「長女の月園涼さんは大学卒業後に月園財閥の関連会社に就職して、同じ会社の社員で将来の幹部候補でもある鴨川牧雄という男と結婚しています。結婚後は牧雄が月園家に婿入りして月園牧雄と名前を変えていて、二人とも野心がある者同士、夫婦仲は極めて良好だと聞いています。巴川村の有力者としての月園家の後継者という観点から見ると助役である武治君の方が有利ではありますが、月園家の財政基盤である月園財閥の後継者という点では、実際に将来の幹部候補として働いているこの二人が有利なのは間違いありません。さらに付け加えておくと、現在涼さんのお腹には念願の第一子が宿っており、もしこの子供が無事に生まれれば、将来の後継者的な側面でも武治君に対抗できる存在となるのは確実でしょう」

「野心家の娘と婿養子ですか。同じく野心家の武治氏とはそりが合わなさそうな感じですね」

「実際、探偵さんの言う通りでしてね。あの二人が会う度に周囲の人間の胃が痛むものですよ」

 その一方、次女の奏については今までと比べて鎌崎も何となく歯切れが悪かった。

「最後に次女の月園奏さんですが……私がこんな事を言うのも何ですが、五人の中でもよくわからない人です。寡黙で人見知りな性格で、大学を卒業した後もどこで何をしているのか……」

「縁戚筋であるあなたにもわからないんですか?」

「えぇ。というより、武治君から話を聞く限りだと兄や姉たちですら知らないようです。村に顔を出すのも年に一度か二度程度で、ここ最近はそれすらなくなっていたとか。私ももう何年も会っていません。さすがに今度の遺言発表の席には顔を出すようですが……」

「そうですか……」

 榊原は顎に手をやって少し何かを考え込んでから、慎重に今までの情報をまとめにかかった。

「今までの話を整理すると、現状、月園家の次期当主をめぐる争いは、器量はどうあれ血筋的な正当性というアドバンテージを持っている長男の月園勝治氏と、月園家が拠点を構える巴川村の村民という一種の政治的な地盤からの信頼を得ている次男の月園武治氏、逆に月園家の財政基盤となっている月園財閥関係者の支持を得ている長女の月園涼・牧雄夫婦の三陣営が三つ巴の争いを呈していて、それを三男の月園信治氏と次女の月園奏さんが一歩引いた場所から静観しているという構図になっているわけですね」

「はい。概ねそういう事になります」

「そして、葵さんの死から二十日目を迎える来週頃に顧問弁護士によって葵さんの遺言状が公開される。その遺言状の内容次第では、月園家で何らかのトラブルが発生する可能性がある、という事ですか」

「まさにその通りです」

「何か、本当に犬神家の世界みたいですよね」

 瑞穂の遠慮ない言葉に、鎌崎はため息をつきながら答えた。

「都会の方からすればくだらない話なのかもしれませんが、実際に中にいる人間からすれば真剣な話でしてね。残念ながら、と言った方がいいのかもしれませんが」

 と、そこで榊原は居住まいを正し、少し真剣な声色で尋ねた。

「ひとまずそちらの状況は理解できました。その上でお聞きしますが、肝心の私への依頼というのはどのようなものなのですか?」

 榊原の核心を突く静かな問いかけに、鎌崎は一呼吸置くと、覚悟を決めたかのように話し始めた。

「先程、榊原さんが言われたように、このまま何事もなければ一週間後に葵さんの遺言状の公開が行われます。しかし、月園家の莫大な財産と月園財閥の絶対的な権力の相続が絡むだけに、遺言の公開がどのような事態を生むのか予測ができない状況です。その状況下で孫の愛美子が心配しているのが、先程話に出てきた月園蘭さんに何らかの危害が発生しないかという事なのです」

「蘭さん、ですか」

 思わぬ名前に榊原は目元をピクリと動かす。

「邪推をされるのもあれですので、簡潔に申し上げましょう。愛美子と蘭さんは血筋的には遠い親戚という事になりますが、それと同時に幼い頃からの友人同士なのです」

「えっ?」

 瑞穂は思わず愛美子の方を見やる。

「そうなの、副会長?」

「う、うん。秘密にしてたけど、実はそうなの。今でも時々こっそり都内で会ったりしていて、相談に乗ったり、逆に相談に乗ってあげたり……」

「へー、『学園のアイドル』が本当のアイドルと友達だったなんて……」

 瑞穂としてはそう言う他なかった。

「だから、私、蘭ちゃんが心配で。本人は大丈夫って言ってるけど、今回だけは本当に嫌な予感がするんです。だから、私に何かできる事がないかと思って、そんな時に去年の事件を解決した探偵さんの事を思い出したんです。私、もういてもたってもいられなくなって、それで深町さんに……」

「なるほど。瑞穂ちゃんに相談が持ち込まれた理由はわかった」

 頷く榊原に、鎌崎も必死に言葉を続ける。

「個人的には、私も彼女の事は心配です。月園家の関係者の中で唯一の未成年者ですし、頼りにすべき父親の武治君とも、遺言の内容次第では不穏な状況になるかもしれない。ですが村長という立場上、私が彼女だけに一方的に肩入れする事は難しい。もちろん、状況次第では協力したいと考えていますが、それでも万が一に備えておく必要があるのです」

「それで、私に依頼を」

「はい。榊原さんには遺言状公開の場に同席して頂いた上で、その後東京に戻るまで、蘭さんを守って頂きたいのです。もちろん、私の方から同席できるように計らいますし、何も起こらなかったとしても報酬はお支払いします」

「ふむ……」

 鎌崎の頼みに対し、榊原は少し考え込むと、再び真剣な表情で問い返した。

「一応お聞きしますが、私が遺言公表の場に同席する云々は置いておくとして、そうでなくとも一族内部でかなりきな臭い事になっているのですよね?」

「恥ずかしながらその通りです」

「ならばまず、私よりも先に警察なりに相談するのが筋なのでは?」

 だが、当然とも言える榊原のその問いに対し、鎌崎は自嘲するように返した。

「警察、ですか。残念ですが、警察は役に立ちませんよ」

「なぜですか?」

「……榊原さんは、元警視庁の刑事だとか?」

「えぇ」

「ならば、ご存知ではないですかな? 警察にとってうちの村がどのような扱いなのかを」

「……」

 榊原は何も答えなかった。一方、瑞穂にはそのやり取りの意味がわからない。

「先生、もしかして、巴川村の事を何か知っているんですか?」

 瑞穂の疑問に対し、榊原は少し間を置いてからゆっくりと肯定の頷きを返した。

「……あぁ。月園家云々はともかく、そういう場所があるという知識だけは知っていた。というのも、あの村は警視庁の中ではある意味有名な場所だったからね」

「有名、ですか? もしかしてその……何か昔、事件があったとか?」

 首をかしげる瑞穂に、榊原は少し言いにくそうにしながらその理由を答える。

「そうじゃない。何と言うかくだらない話だが……あそこは何かをしでかした警視庁の警察官の左遷先の一つとして有名なんだ」

「さ、左遷先ですか?」

 思わぬ話に瑞穂は驚いた声を上げる。

「あぁ。あの村には小さいながらも一応警察署があってね。その名もずばり『巴川警察署』というが、巴川村は埼玉県内にあるとはいえあくまで東京都の飛地だから管轄は警視庁になっている。とはいえ、場所が場所だから父島にある小笠原署と並んで誰も行きたがらない場所でね。で、気付けば何かをしでかした警察官ばかりが配属されるようになり、警視庁有数の左遷先として知られるようになったというわけだ」

「……警察にも色々あるんですね」

 そう言ってから、瑞穂はハッとしたように鎌崎の方を見て頭を下げた。

「あ……ごめんなさい。その、左遷先とか言っちゃって……」

「いえ、構いませんよ。我々もあの警察署がそういう扱いなのは暗黙の了解として知っていますから。というか、配属されている警官たちの態度を見れば嫌でもわかります」

「それを聞くと、元警察官としては複雑な気分になりますね」

 榊原が難しい顔でそんなコメントをする。

「とにかく、そんな警察署に相談したところでほとんど何の解決にもならないでしょう。まぁ、さすがに事件が起こればしっかり捜査をしてくれるはずですが、まだ起こってもいない事について相談したところでいい返事が返ってくるとは……」

「期待ができない、と」

「残念ですがね。もちろん、中にはちゃんとしたお巡りさんもいますが、組織としてはとても当てにできないのも事実です。やる気の面でもそうですし、仮に何か対処してくれたとしても、人数的に対応は厳しいでしょうな。何しろ署員はたった十五人程度しかいませんので、せいぜい警官を一人か二人だけ見張りに寄越す程度が精一杯でしょう。正直、何の役にも立ちません」

 村長本人からそう言われてしまっては、色々と面目丸つぶれである。

「孫から昨年立山高校で起こった事件の詳細や、それを解決したのがあなたである事は聞いています。私も村長としての伝手を使って色々調べ、あなたなら任せても問題ない人間であると判断しました」

「……」

「話は以上です。お願いできないでしょうか? 何卒、何卒……」

 鎌崎が頭を下げ、愛美子もそれに続く。二人に頭を下げられる形となり、瑞穂が居心地悪くなってきた時、ずっとそんな二人を見つめていた榊原がゆっくりと言葉を区切るように結論を述べた。

「……いいでしょう。この依頼、お引き受けいたします」

「あ、ありがとうございます!」

「ひとまず、一週間後の遺言発表の場に行けばいいのですね?」

「その通りです。話は私から月園家に通しておきます」

「わかりました。ところで、瑞穂ちゃんは……」

 榊原が瑞穂の方をチラリと見て言うが、瑞穂は当然と言わんばかりに大きく頷いた。

「もちろん、一緒に行きます! 副会長も行くんだよね?」

「う、うん。やっぱり、蘭ちゃんの傍にいたいし」

「じゃあ、私がついて行った方が副会長も安心できるし、同年代の女の子がいた方が先生の依頼もやりやすくなると思います」

 そこまで言われて、榊原は少し諦め気味に言った。

「わかったよ。君が一度言った事を曲げないのは、この一年間一緒にいて学んだ事だ」

「ありがとうございます!」

「……ただ、覚悟はしておきなさい。この一件、想像以上に厄介な事になるかもしれない。根拠はないが……どうもそう思えてならない」

 榊原はそう言って、早速何か考えを巡らせ始めたのだった……。



 これが、探偵・榊原恵一がこの事件に関わる事になった瞬間であった。そして、後から思うとこれこそがこの事件のターニングポイントとなった瞬間でもあったのだが、この時点でそれを知る人間は誰もいなかったのだった……

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