第八章 警務総務課オフィス
「ん? 誰もいないのか?」
同時刻、すなわち午後六時十分頃、警務総務課に所属する虎永宗光巡査部長が正面ロビー奥のオフィスに顔を出すと、警務総務課のデスクには誰もいない状態だった。虎永は年齢三十四歳。名前こそ何となしにいかついが、一癖も二癖もある署の警官たちの中では比較的まともな人間で、署の中では中堅的な存在でもあった。
「何だ、せっかく来たのに、どうしたらいいんだ?」
そうぶつくさ言いながら、虎永は雨に濡れた傘を傘立てに放り込むと、そのままオフィスの中へと入っていく。本来なら虎永は今日非番であり、実際についさっきまでは村内の自宅で休暇を過ごしていたのだが、さすがにこれだけの大雨で人員が足りなくなったのか真砂課長から緊急の呼び出しがかかり、こうしてこんな時間にもかかわらず急遽出勤する羽目になった次第である。
この虎永巡査部長は、様々な経緯でこの警察署に左遷同然の形で異動して来た他の警察官たちと違い、ほぼ唯一、左遷ではなく純粋な人事異動でこの警察署に赴任している稀有な警察官だった。左遷処分ではないにもかかわらずこの警察署に赴任する事自体かなり珍しい話であるが、その理由は非常に単純であり、虎永自身がこの巴川村の出身であるためである。
実の所、左遷先の警察署とはいえ、そんなに頻繁に左遷されるような処分を受けた警察官が出てくるわけもなく、さらにいざ異動してもその後の離職率がかなり高いため、巴川署は日常的に人員不足となっていた。もちろん、それも含めての処分という意味合いも強いのだが、それでも左遷要員だけで署の業務を回すのにはどうしても限界があり、処分の枠を超えて本当に業務が破綻してしまう事は警視庁側も望んでいない。そこで、この村の出身で村の事情にもよく通じている虎永に増員の白羽の矢が立つこととなり、虎永も快諾したため、臨時増員という形で虎永がこの警察署に赴任してくる事となったのだった。
異動を打診された時、よほど後ろめたかったのか上司からはこちらが恐縮してしまうほど何度も頭を下げられ、本庁からわざわざ来た人事担当者からは「今回の異動が今後の人事査定に何ら影響を与えるものではない事を確約する」と念押しするように言われたものである。その際、何か希望はないかと言われたので「両親の世話があるので、警察寮ではなく実家に居住する事を特例で認めてもらえないか」と駄目元で尋ねるとあっさりと許可が出てしまい、現在、虎永は村内にある実家からこの警察署に通う生活を送っている。そのような意味で、虎永は他の警察官とは少し境遇が異なり、それだけに署内では異質な警察官であった。
虎永自身、村の住人としてこの警察署が警察にとってどのような場所なのかは幼少期から暗黙の了解として知っていたが、まさか自身がそこに配属される事になるとは思ってもいなかった。ただ、村の出身者として村内の状況によく通じており、かねてからの知り合いでもある村人とのコミュニケーションも円滑に進められるというアドバンテージはやはり大きく、署内では他の署員から一目置かれる存在であると同時に、境遇の違いからか一定の距離を置かれているのも事実であり、何とも複雑な立ち位置にいる事を自覚していた。
「だが、だからと言って放置されるというのは違うだろう。本当にみんなどこに行ったんだ?」
そんな事を一人で何となしに呟いていると、そこへ突然玄関のドアが開き、傘を畳みながら大きな鞄をぶら下げた一人の男が署内に入って来た。
「いやぁ、参った、参った。凄い雨だな」
丸眼鏡をかけた白衣姿のその男はブツブツそんな事を言っていたが、受付カウンターの向こうのオフィスにいる虎永の姿を見つけるとホッとしたように片手を上げて気さくに呼びかけた。
「あぁ、タイガー。ちょうどよかった。呼び出す手間が省けた」
「……信治、頼むから、ここでその呼び方はよしてくれ」
虎永はその男……村の幼馴染で今は医師をしている月園信治に複雑そうに返事を返した。普段は都内の病院に勤務しているが、週に数回の割合で村に一軒だけある診療所で僻地医療名目の診療を担当しており、この警察署の指定医にも任命されていた。
ちなみに先程のあだ名は子供の頃から信治が虎永を呼ぶ際に使っているもので、『虎永』だから『タイガー』という単純明快なネーミングセンスによる代物だった。とはいえ、さすがにこの歳になって『タイガー』というのは恥ずかしすぎるし、ここ最近は漫画やゲームでも『タイガー』というあだ名のキャラが多く出てきている事もあって、そう呼ばれる事に難色を示しつつあった。信治の方もそれはちゃんと理解しているようで、笑いながらすぐに自身の発言を撤回した。
「悪い、悪い。じゃあ虎永。色々言いたい事はあるが、とりあえず、どうして私服なんだ?」
「……今日は非番だったんだよ。だけどこの大雨で課長に呼び出されて、今ちょうど着いたところだ」
「あぁ、なるほど。こっちは今日、色々大変でね。正直、こうして虎永と会ってやっと少し落ちつけた」
その言葉で、虎永は何かを思い出した風に言った。
「そういや、確か今日だったか。月園家の遺言発表」
「あぁ。なかなか見ものだった」
「見もの?」
「僕からすれば見もの以外の何物でもない。武治兄さんや牧雄君辺りはかなりエキサイトしていたようだが」
信治の口から出たのは、確か彼の親族の名前のはずだった。
「その様子だと、問題のある遺言だったようだな」
「本当にな。小説なんかだとこういう旧家の遺言発表は荒れるのが定番だが、まさか本気でそんな遺言を作って来るとは思わなかった。婆さんも何を考えているのか」
とてもそうは見えないが、信治はこの村の中央に屋敷を構える旧家・月園家の三男である。つい数週間前、その月園家の当主を長年務めていた信治の祖母・月園葵が九十歳で大往生を遂げ、月園家の次期当主を決める遺言状の発表が近々行われると聞いていた。
「そうそう、遺言発表と言えば、その後しばらくして、どこぞの新聞記者がうちの屋敷に不法侵入して警察にしょっ引かれていたよ。多分、今頃留置所の中にいるはずだが」
「へぇ、そんな事があったのか」
非番でずっと家にいた虎永は、当然ながらその辺の話は全く知らない。
「って事は、久々に留置所に人が入ったのか。ええっと、確か今日の留置所の担当は……」
そう言いながらデスクに貼られた担当表を確認する。
「あぁ、八戸か。お気の毒だな」
「八戸って……あの体格のいい警官か」
「そうだ。確か大学の頃にアメフトをやっていたんだったかな。もっとも、こんな場所ではその体格も無駄かもしれないが」
「辛辣だな」
「事実だからな」
そんな毒にも薬にもならない話がしばらく続く。と、その時だった。不意にその場が騒がしくなると、署の廊下の奥から刑事生活安全課の面々……石井課長、柿村巡査部長、源巡査の三人が姿を見せ、さらにその後ろから虎永を呼び出した張本人である真砂警務総務課長と、その真砂の部下である広山巡査も続いて歩いてくるのが見えた。彼らの顔は一様に緊張しており、何かあったのは一目瞭然である。
「課長、何かあったんですか?」
「ん? あぁ、虎永か。急に呼び出して悪いな」
声をかけられた真砂はハッとした様子で虎永に気付き、まずは急な休日出勤を要請した事をわびた。
「いえ、こんな状況ですからそれはいいんですがね。それより、みんなそろって一体何が?」
「あぁ、実はな……この近くで埼玉県警が指名手配犯を確保したらしく、この大雨で県警の所轄署への移送が困難である事から、緊急で最寄りのうちに連行される事になった。もう間もなく到着するはずだが」
「指名手配犯、ですか? 一体誰が捕まったんですか?」
その問いかけに、真砂は一瞬躊躇した後、声を潜めて答えた。
「鬼首塔乃だ」
「鬼首塔乃って……あの鬼首塔乃ですか?」
虎永は何とも間抜けな質問をしながら、反射的にオフィスの隅に貼られた指名手配のポスターに目をやる。十人前後の写真が掲載されているその手配書の一角に、一人の女の写真が『鬼首塔乃』の名前と共に載っているのがここからでもよく見えた。
「あぁ、その指名手配犯の鬼首塔乃だ」
「それはまた……厄介な相手ですね」
虎永の意味ありげな言葉に、真砂も同意するように頷く。
「同感だ。特に……刑事生活安全課の二人と地域交通課の奥津にとっては因縁の相手だからな。できれば関わらせたくはないが……奥津はともかく、刑事課の二人については管轄的にそうはいかんだろう」
「ですね」
二人がそんな事を語ったのも無理はない話だった。何しろ、柿村謙也、源響子、奥津輝元の三人がこの警察署に異動する原因となったのは、まさに今ここへ連行されてくる事になった殺人鬼・鬼首塔乃が起こした事件がきっかけだったからである……。
……鬼首塔乃という特異な犯罪者について語るためには、今から二年前に起こったある殺人事件の情報を知る必要があるだろう。彼女は道を歩けばほとんどの男性が振り返るであろう美貌を持つ女性でありながら、当局にその正体を暴かれながらも逃亡し続けていた日本の犯罪史にその名を刻む殺人鬼として知られる人物であった。
彼女が殺人鬼になるまでの経歴については、指名手配をされていた現在においてもごく簡易的な事しかわかっていない。生まれた時から父親のいない典型的な母子家庭に育ち、彼女を育てた母親も数年前に病気で他界しているため、今となっては天涯孤独の身となっている。それでも何とか大学を卒業して就職し、本来なら今どきの若い女性らしく平凡な人生を送っているはずだった。
だが二年前、彼女は世間を揺るがした連続殺人事件の容疑者として、突如としてその人生の歯車を大きく狂わせることになったのである。
その連続殺人事件の最初の犯行が発生したのは、二〇〇六年の十一月二十四日金曜日の夜の事だった。現場は世田谷区内の閑静な住宅街の一角にある公園内で、そこを巡回していた近隣の交番の警察官が、公園中央に設置されていた花時計の近くで血まみれになってうつぶせに倒れているスーツ姿の男を発見したのである。発見した警官の通報ですぐに救急車が呼ばれたが、駆けつけた救急隊によって男はその場で死亡が確認され、遺体に殺害の痕跡があった事から警察は本件を殺人事件であると断定。現場を管轄する世田谷署に捜査本部が設置される事になったのだった。
被害者の死因は刺殺であり、背後から鋭い凶器で心臓を一突きされた事によるものだった。肝心の凶器は現場から持ち去られていたが、その傷口の形状が非常に特徴的な物であり、実際に解剖を行った法医学者はアイスピックのようなものではないかと推測するに至っている。また、遺体の身元については、所持品の財布の中にあった運転免許証や名刺などから島岸健という三十五歳の保険会社社員である事がすぐに判明した。島岸の自宅は遺体が発見された公園のすぐ傍にあり、捜査本部は現場の状況から、被害者が会社からの帰宅の途中でこの公園を通りかかった際に殺害された公算が強いと判断。当初は定石通り、被害者の関係者を中心とした捜査が行われる事となった。
だが、第一の事件が起こってからわずか三日後、同じ世田谷区内で同一犯によると思しき新たな犯行が発生した事により、事件は大きくその姿を変える事になってしまった。十一月二十七日月曜日の深夜、世田谷区内にある東秀高校という都立高校の駐車場で、この高校に勤務する堺尚一という数学教師が刺殺体となって発見されたのである。事件当日、堺は顧問をしている男子テニス部の指導が終わった後は職員室で残業をしており、午後八時頃に退勤して学校の敷地から少し歩いたところにある教職員用の第二駐車場に駐車してあった自身の車へ向かった所を何者かに殺害されたと考えられた。そして、遺体の心臓部分に残されていた刺し傷の形状が三日前に殺された島岸健の遺体に残されたあの特徴的なアイスピック状の刺創と酷似しており、その後の鑑定の結果、同一凶器によるものであると正式に認定された事から、事件は島岸健の事件と同一犯による連続殺人であると断定される事になったのである。
これにより、第二の事件を管轄する世田谷北署は世田谷署に対して即座に合同捜査本部の設立を要請し、世田谷署側もこれを受け入れて、より大規模な捜査が展開される事となった。が、悪夢はここからが本番だった。警察の捜査体制が整わない中、この殺人鬼は警察をあざ笑うかのように、立て続けに世田谷区内で何件もの殺人を引き起こす事になったのである。
第三の事件が起こったのは、堺尚一殺害のわずか二日後に当たる十一月二十九日水曜日の事だった。世田谷区内の繁華街の路地裏で一人の若い女性が血まみれになって倒れているのを通りかかった若いアベックが発見。彼らの通報で駆けつけた警察と救急により女性の死亡が確認され、その特徴的な刺し傷の形状から一連の事件の第三の犯行であると断定される事となった。被害者は現場近くに本社を置くバス運行会社に勤務する坪内初音というバスガイドで、事件当日は乗務していた京都観光ツアーから帰京し、いくつかの事務作業を終えた後で遺体発見の二時間ほど前に退社して帰宅していた途中の惨劇だった。
第四の事件はさらにその三日後、月が替わった直後の十二月二日土曜日に若い男性が世田谷区内の住宅街の路上で刺殺されているのが犬の散歩をしていた近所の住人に発見された事で発覚した。被害者はJR品川駅勤務の団野春人という駅員で、事件当日は宿直明けの休暇で恋人とのデートに出かけており、その恋人を自宅へ送り届けた帰りに最寄り駅に向かう途中で犯人の襲撃に遭ったと推測された。身元確認及び事情聴取のために現場に呼び出されたその恋人の嘆きは相当なもので、その場に泣き崩れて立ち上がる事ができず、その日の事情聴取は断念せざるを得ないほどだったという。
さらにそこから五日後の十二月七日木曜日、世田谷区内の玉川駅前で開業する宇佐見外科医院という病院の院長・宇佐見修治郎が、病院近くの道路高架下の資材置き場になっている空き地で刺殺されているのが、警邏中の玉川署地域課の巡査によって発見された。被害者の宇佐見院長は毎朝起床後に病院周辺をジョギングする習慣があり、この日もいつも通りに走りに出かけたのだが開院時間になっても帰って来なかった事から副院長でもある被害者の妻が病院周辺を捜索。しかし、見つからなかった事から偶然病院近くを自転車で通りかかった警邏中の交番巡査に事情を説明して捜索の手助けを依頼し、この交番巡査が問題の高架下の空き地で殺害されている被害者を発見。その後、巡査の連絡で駆け付けた初動捜査班の現場検証で本件が一連の連続殺人の新たな犯行であると発覚したという流れである。
そして第五の事件からわずか二日後の十二月九日土曜日、世田谷区内にある国吉神社という小さな神社の境内で、この神社の巫女をしていた道原裕奈という女性が巫女服姿で殺害されているのが参拝客によって発見。駆けつけた警察により心臓部に例の特徴的な刺し傷が確認され、第六の事件であると断定される事となった。被害者の道原裕奈の本業は宗教学専攻の大学生で、神社は同居している祖父が神主をしていたが、事件当時はこの祖父が病気で入院していたため、一人で神社を切り盛りしていた。このため、事件当時も神社の境内には彼女一人しかおらず、境内に防犯カメラなども仕掛けられていなかった事から目撃者も皆無という状況だった。
一連の事件における最終的な被害者数はこの六人。被害者の年齢も性別も犯行現場もバラバラで、唯一共通点と言えるのは全員が世田谷区内のどこかで殺害されているというこの一点だけ。それも本当に「殺害場所が世田谷区内」であるだけで、区外から通勤して殺害されている被害者もいるため全員の住所が世田谷区内というわけでもなく、三番目の被害者である坪内初音に至っては都内どころか隣の神奈川県川崎市在住という有様だった。
このため、短期間にこれだけの人数を殺害されておきながら警察の捜査は暗礁に乗り上げ、世間はこの一連の連続殺人事件を『世田谷の刺殺魔』と名付けて大々的に報じるようになっていた。捜査本部もそれぞれの事件を管轄する六つの警察署の捜査員が集まった大所帯になりつつあったが、残された証拠や手掛かりが乏しい事もあり、捜査員たちの間にも焦りが生まれつつあるのも事実だった。
そんな中、『鬼首塔乃』の名前がこの事件に初めて登場したのは、最後の被害者である国吉神社の巫女・道原裕奈の周辺捜査の際の事だった。きっかけは、殺害された道原裕奈が自室としていた神社の社務所内を調べた際に、彼女の机の辺りから一枚の名刺が見つかった事。その名刺に名前が書かれていた人物こそが、当時、生命保険会社『アスタリア生命』調査部に所属していた鬼首塔乃だったのである。
彼女の所属する調査部は生命保険の被保険者が死亡した際にその死因に不審な点がないかどうかを調査する業務を担当しており、その仕事の性質上、警察や医療機関との折衝も多い部署である。特に塔乃は部署の中では事件性が疑われる事案や不審死事案など特殊な案件を専門に扱っており、その調査の正確性は同僚の中でも群を抜いていた事から、若くして調査部の次期幹部候補として将来を嘱望されている人物だった。
聞き取り調査の結果、彼女の名刺が道原裕奈の部屋にあったのは、業務上の理由によるものだという事がわかった。事件の一ヶ月ほど前、この神社の氏子総代を務める近所の住人が酒に酔って川に落ちて亡くなるという事故があったのだが、彼にかけられていた生命保険の額がいささか不自然なものだった事から調査部の鬼首が動く事となり、氏子総代である被害者と日頃から親しく付き合っていた国吉神社に話を聞きに来たのだという。問題の名刺はその際に渡されたもので、結局、問題の氏子総代の死については彼女は最終的に警察の判断と同じく事故死と判定を下しており、すでに生命保険も支払われているという。
だが、この捜査結果が出た後も捜査本部が彼女に着目し続けたのには他にも理由があった。何より大きかったのが、彼女の勤め先であるアスタリア生命が、第一の被害者である島岸健の勤務先と同じであるという点である。厳密に言えば、同じ本社勤務であるとはいえ島岸は営業部、塔乃は調査部と部署が違い、記録上は二人が組んで仕事をした事もなく、またアスタリア生命自体が支店を含めると従業員数一万人を超える大企業である事もあって、単なる偶然である可能性も捨てきれない部分はあった。とはいえ、容疑者が被害者の一人と同じ職場の人間であるという情報は警察からすれば充分に怪しむべき事であり、さらなる調査が進められる事になった。そしてその結果、さらに気がかりな情報が次々と浮上する事となったのである。
まず、第二の被害者の堺尚一だが、生前にアスタリア生命の生命保険に加入しており、妻がその受取人になっていた事が判明した。ただし、掛け金や月々の支払額に不審な点はなく、加入の際の窓口となったのも別の営業部の社員で、塔乃や島岸健ではない。唯一関係があるとすれば、この一件は死因が殺人であるため「事件性が疑われる事案」と判断されており、調査部でこの手の事案を専門的にしている塔乃がこの一件の調査を担当していたという事実があるくらいである。
また、第五の事件の被害者である宇佐見修治郎が経営している宇佐見外科医院が、過去に何度かアスタリア生命調査部の調査に協力していたという事もわかった。もっとも、この時の担当者は塔乃ではない別の調査部の社員であり、同じ調査部の社員である塔乃は医院の存在自体は知っていたが、実際に訪れたり直接連絡を取ったりした事はないという事だった。
これらの情報は、それまで手懸りを全くつかめていなかった捜査本部にとっては最後の希望とも言える手懸りだった。しかし、そうは言っても一つ一つの事象は「偶然」と言われてしまえばそれまでのあまりにも細い繋がりであり、何より、三件目の坪内初音と四件目の団野春人に関しては鬼首塔乃との関係性が全く確認できず、アスタリア生命の保険に加入しているわけでもないという事が最大の問題だった。このため、捜査本部もこの段階では直接的に彼女を調べる事は不可能と判断し、やむなく複数の捜査員で彼女の動向を見張り、事件に関係ありそうな行動がないかを監視するという何とも消極的な手法を採用せざるを得なかったのである。
だが、結果から言えばこの消極策が裏目に出る事になってしまった。見張りを始めて数日後、監視をしていた捜査員の隙をついて、彼女は自宅からの逃亡に成功してしまったのである。本当に何の前触れもない逃亡劇であり、明らかに警察側の動きを察知したとしか考えられない塔乃の動きに情報漏洩も疑われたが、全ては後の祭りである。無論、検問なども実施されたが、逃亡発覚から時間が経ち過ぎている事もあって確保には至らず、そのまま彼女は行方をくらましてしまう事となった。
とにかく、逃亡した以上は何か後ろめたい事があるはずで、警察はすぐに彼女の自宅に対する家宅捜索を実施。その結果、自宅のベランダに置かれていた乾燥機の中から一連の事件の凶器と考えられていたアイスピックが発見される事となった。このアイスピックには血が付着しており、鑑定の結果、これまでの被害者六人全員の血液が検出された事、そして六人の傷口の形状とこのアイスピックの形状が完全に一致した事から、警察はこのアイスピックを一連の事件の凶器と断定。動機は未だ不明ではあったが凶器という決定的な証拠が見つかった事と、六件の事件全てで彼女の確実なアリバイが確認されなかった事から、警察は彼女を連続殺人の犯人と断定し、全国指名手配へと踏み切る事となったのである。
鬼首塔乃の指名手配後、公式名称を『世田谷区内連続無差別殺害事件』と名付けられたこの一連の事件は『鬼首事件』と呼ばれるようになり、警察の不手際と共にしばらく世間で大きな話題となる事となった。だが、これだけ大々的に騒がれたにもかかわらず、鬼首塔乃の行方はわからないままだった。その後、新たな犯行こそ起こらなくなったものの、六人も殺害した凶悪連続殺人鬼が逃亡し続けているという状況は看過できるものではなく、警察はかなりの批判を受ける事となる。
その結果、警察は世論からの圧力を受ける形で、彼女が逃走した際に見張りを担当していた捜査員を中心に多くの処分者を出さざるを得ないところまで追い込まれてしまった。そして事実上の「蜥蜴の尻尾切り」となったその処分者の中にいたのが、当時世田谷署刑事課に所属していた柿村謙也巡査部長、世田谷北署刑事課に所属していた源響子巡査、そして最後の道原裕奈殺害事件を管轄する祖師谷署刑事課に所属していた奥津輝元巡査部長の三人だったのである……
巴川署の正面に埼玉県警の覆面パトカーが停車する。石井たち刑事生活安全課員と真砂ら警務総務課員が見守る中、パトカーから降りた二人の私服刑事が、雨に濡れながら後部座席から手錠をかけられた女性を署内に連行してくるのが虎永には見えた。
女性を間に挟み、二人の刑事が出迎えた石井たちに敬礼しながら挨拶をする。
「埼玉県警刑事部捜査一課主任警部補の金倉英輔です。こっちは同じく捜査一課所属の麻布涼平巡査部長」
「麻布です!」
「指名手配犯・鬼首塔乃を連行してきました。ご協力をお願いします」
これに対し、石井と真砂が代表して挨拶を返す。
「警視庁巴川署刑事生活安全課課長の石井です。すでに本庁から連絡は受けています。この雨の中、指名手配犯の逮捕及び連行、ご苦労様です」
「同じく巴川署警務総務課長兼副署長の真砂です。すでに留置の準備はできています。ひとまず被疑者を留置し、その上で今後の事について相談しましょう」
「恐れ入ります」
金倉はそう言って一度頭を下げたが、不意に何かに気付いたのか、石井に向けてこんな言葉を発した。
「あの……失礼ですが石井課長、つかぬ事をお聞きしますが、昔、丸ノ内署におられませんでしたか?」
「いましたが、それが何か?」
「やっぱりそうですか! 私の事を覚えておられませんか? 五年ほど前、東京と埼玉にまたがって起こった連続窃盗事件の捜査の際にコンビを組んで捜査をした……」
金倉の言葉に、石井は目を細めた。
「あぁ、思い出しました。あの時の金倉巡査部長ですか」
「あの時は、お世話になりました! 捜査の際にお聞かせいただいた様々な金言は、今も捜査で役立たせて頂いています。まさか、こんな所でお会いできるとは……」
どうやら、二人は昔の捜査で知り合った仲らしい。
「人の縁とは不思議なものですね。まぁ、積もる話は後ほど。今は仕事を済ませましょう」
「もちろんです。さぁ、行くぞ!」
そう言って、金倉は塔乃を署の中に引っ立てていく。そして署内にその姿を見せた指名手配犯・鬼首塔乃は、まだ二十代後半と思しき、若くて綺麗な長髪の女性だった。だが、こんな状況にもかかわらず彼女は堂々とした姿勢を崩さず、それどころかどこか不敵な笑みを浮かべて目の前にいる警察官たちを一人一人観察しているようである。うなだれて連行されてくる事が多い普通の犯罪者たちとは違うそんな態度が、彼女が一筋縄ではない犯罪者であるという事を証明しているようだった。
「虎永、すまないがここを任せていいか? さすがに誰もオフィスにいないというのはまずい」
「わかりました」
真砂の命令に、虎永は素直に応じる。
「悪いな。頼んだぞ」
そう言い残すと、真砂たちは塔乃を引き連れて廊下の奥へと消えていく。後には先程と同じく、虎永と信治だけが残された。
「何というか、凄い場面に遭遇したみたいだな」
信治はどこか面白そうにそんな感想を漏らす。が、虎永からすれば笑い事ではない。
「そうも言ってられない。今見たら、柿村君と源君の顔が……何というか、やばかった」
「やばい?」
「あぁ、相手を睨み殺しかねないような顔をしていた。もちろん、表向きは押し殺していたが」
無理もない。相手は自分たちが個々に左遷されるきっかけを作った犯罪者なのである。そんな人間が何の前触れもなく目の前に現れたら、そんな顔になるのも致し方のない話だろう。ただ、致し方がないとはいえ、それが何かまずい事に繋がるのは勘弁してほしかった。
「このまま朝になるまで、何事もなければいいんだがな……」
時刻は、もうすぐ午後六時半になろうとしていた。
一体誰が、この時予想しただろうか。
このわずか三十分後、この警察署を舞台に、日本の犯罪史にその名を残す「事件」が始まる事になろうとは。