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「なぜ、あなたがわたくしの婚約者であるカーティス様と一緒にいたのかしら?」
「それは、先生に頼まれて本を…」
「嘘言わないで! あなたは、わたくしの婚約者に色目を使おうとしたのよ!」
「違うわ!」
「…疑わしいわ」
「本当に色目なんて」
「そうなの? わたくしの勘違いなのね? 」
「えぇ」
「そう、信じてあげるわ。もう、二度と紛らわしい行動はとらないでちょうだい。……ね? お姉様?」
「クシュン」
寝返りをうったとき、埃っぽい毛布のせいでくしゃみが出た。
被っていた毛布をどかして、寝台から体を起こす。
いつの間にか、目が覚めて「ここはどこだろう?」と戸惑うことはなくなっていた。
ここに慣れてしまったのね…。
泣いたせいで喉は乾いていたし、目のまわりはヒリヒリする。
「おい、大丈夫か?」
それは、隣の牢にいる男の声だった。
「…なんで…」
何故その声が、寝台の下、アシュリーの足元から聞こえてくるのだろう。
声の方へと視線を向けると、そこには手の平に乗りそうな小さな灰色毛玉があった。
「あなたは…」
灰色毛玉はよく見ると、大きな黒い目に小さな耳、犬のような長い口に、細長く毛の生えていない長い尾があった。
「一応言っとくが、叫ぶなよ? 看守に知られたら、一発で仕留められるからな」
「あなた、隣の牢の…?」
「そうだよ」
「なんで、ここにいるの! それにその姿は何!?」
「幻影魔術って、知ってるか?」
「…待って。魔術が使えるの?」
この牢に入れられた時、魔力を封じる道具を腕と首に付けられた。何の装飾もない、ただ魔術式が刻まれただけの武骨な鉄枷。
「封じられてるよ。俺は魔力がある方らしくて、何重にもな」
「なら、どうして?」
「これは、ほとんど魔力を使わないから、必要なのは集中力だ」
「そんなわけないでしょ」
アシュリーは毛玉を摘まみあげようとしたが、出来なかった。手が通り抜けてしまうのだ。
しかし、向こうからなら触れるらしい。アシュリーの手の平に毛玉が飛び乗ったので、そのまま持ち上げて視線を合わせる。
「…乗っておいて何だけど、あんた、触るのは嫌じゃないのか?」
「下を向くのは疲れるの。それに、動物は嫌いではないわ」
「へー。お嬢サマはネズミは嫌ってるかと思ってた」
「ネズミ? この生き物はネズミと言うの?」
そう答えると、灰色毛玉は口を大きく開けてぽかんとした表情をする。
「ははっ、ネズミを知らないのか! なる程な」
「何よ。悪い?」
「いや、さっきの蛇みたいに叫ばれるかと思ってたから、安心した」
「危険な生き物なの?」
「いや、別に。かわいいだろ?」
小首を傾げたが、中身を知っているので、大してかわいいとは思えない。
「でも、本当に魔力の気配がしないわ…」
「そうだろ。この魔術を生み出した奴曰く、小さく無力な生き物だからこそ出来る技らしい」
魔力を封じられていても、極微量の魔力までは『魔力封じの枷』でも封じ込めないらしい。とは言え、何の役にも立たない量ならば、問題ないとされてきた。
「言っとくけど、こうやって話すことが限界だからな。牢の鍵を持ってくるとか、厨房に行ってパンを盗んでくるとかは出来ない」
「じゃあ、何しに来たのよ」
「…本当に蛇に噛まれてないな?」
真剣な声だった。
「…そのために?」
「あんた突然わんわん泣き出しただろ。だから、噛まれでもしたのかと思ったんだ」
毛玉はアシュリーの手や腕をキョロキョロと見ているようだった。
「…本当に噛まれてないわ」
触ることすらしなかったのだ。
「そうか。なら、いい」
こういう時、何て返せばいいのだろう。
蛇が出たとき、この男はすぐにアシュリーの心配をしてくれた。報酬のことなど一言も言わず、蛇の対処方を教えてくれたのだ。
今も、こうしてアシュリーのところへ来てくれる。
看守に見つかったら、罰せられるのは分かっているだろうに。
「あんたの顔、初めてみたが…」
お礼の言葉を探していると毛玉がアシュリーの顔を見つめてきた。
人間なら不躾だと怒りたくもなるが、毛玉だとなぜか許してしまう。
アシュリーは穏やかな気持ちになって、次の言葉を待った。
「なかなか、かわいいじゃないか。看守に罵詈雑言浴びせていた奴と同一人物か?」
「……」
牢に入れられ、長いこと髪もとかせず、顔も洗えないのに大泣きした顔だ。おまけに寝起き。
アシュリーは公爵令嬢として鍛え上げた美しい微笑みを浮かべると、毛玉の乗った手の平を返した。
「何だ、急に?」
毛玉は床に落ちる寸前にふわりと光って、消えてしまった。
どうやら、術を解除したらしい。
「別に。もうそろそろ夕食の時間でしょう。そろそろ看守がくる頃だわ」
窓も時計もないが、蝋燭の残り具合でだんだんと分かるようになってきた。
「そうだな」
そうアシュリーに合わせるが、おそらく今晩もこの男の食事は用意されない。
わたくしが気付いていないと思っているのかしら。
看守の足音が聞こえてきた。
看守が運んだ夕食を前にアシュリーは悩んだ。
…別にわたくしが食べていいのよね…。
予想通り、隣りに夕食は運ばれなかった。しかし、男からは先ほどの件での報酬を要求されていない。
悩みに悩んで、アシュリーはパンに手を伸ばした。
「あのっ…」
「ん?」
呼び掛けて返事があっただけで、ほっとする自分もどうかと思う。
一度、呼吸を整えた。
「これ、あなたに差し上げるわ」
パンの乗った皿を鉄格子の隙間から出して、隣の牢の方へ押し出す。
「どうした。腹でも痛いのか?」
「違うわよ!」
「じゃあ、何だ。虫でも入っていたのか?」
「そのデリカシーのなさはどうにかならない!?」
ここは、わたくしの優しさに感謝するところでしょう!
そう叫びかけて、こほんと一つ咳払いをした。淑女ならば、これくらい笑顔で受け流さなくては。
「先ほどのお礼よ」
「…何のだ?」
「蛇の対処法を教えてくれたでしょう」
それに毛玉になって見に来てくれた。
誰も助けに来てくれないなか、不覚にもアシュリーは嬉しかったのだ。
「…へー。随分気前がいいな。たった一日二回の食事だぞ?」
「ここではあまり動いてないから、平気よ。それに、そうだわ。これは、前払いと言うことにしましょう。今度、蛇がやって来たときはあの毛玉になって、来てちょうだい」
「毛玉…。幻影だから、たいして役には立たないぞ?」
「えぇ、いいわ」
今度怖いことがあっても助けに来てくれる。
アシュリーが欲しいのは、その約束だった。
「分かった。それじゃ、遠慮なく」
男が手を伸ばしたようで、アシュリーのパンが乗った皿は隣の牢に吸い込まれていった。
…本当は少し惜しいけれど。
今、アシュリーが持っている物はこれしかない。
他に感謝を伝える方法はなかった。