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小さい女神に何を願うか2

                  2


 自分がどこかの古い木造アパートの一室にいるとわかった。その部屋の真ん中の布団の中で女の子が寝ている。部屋は暗い。襖一枚隔てた隣の部屋からは明りが漏れていて、さらには激しい言い合い、いや怒鳴り合いが聞こえてくる。女の子は布団から四つん這いになって出てきた。アカだ。しっかりと面影がある。何歳くらいだ? 小学1、2年生くらいだろうか?

 ここで気がついたが、いまの僕はどうやらアカが視界で捕らえることができる範囲以上の場所までには行くことができないようだ。そして女神の言った通り、見る、聞く以外の感覚はない。暑さ寒さもわからない。だから怒鳴り合いが聞こえる隣の部屋は見えないし、いまの季節もわからない。アカの布団から見て夏ではないようだ。

 アカは隣の部屋の襖をそっと細く開けた。僕にも隣の部屋の様子が見えた。2人の大人がテーブルを挟んで怒鳴ったり、テーブルを叩いたりしている。1人は女、1人は男だった。女の方は30代半ばくらいでアカの母親だとすぐにわかった。アカによく似ている。男の方は誰だろうか? こちらは20代半ばくらいに見える。その時アカの母親がアカが見ていることに気がついた。「見ているんじゃねえ! 寝てろクソガキ!」恐ろしい顔でアカに向かってそんな乱暴な言葉を発した。あれで実の母親なのか?

 アカはびくりとして襖を閉め、布団を頭からかぶって丸くなった。その気持ちはよくわかる。僕も両親が喧嘩している時は布団を頭からかぶって耳を両手で塞いでいた。

 そんな喧嘩の場面ばかりを何度も見聞きした。しかしある時、アカの母が帰ってくるなり「お父さんとは離婚した」とだけアカに告げた。それに対してアカは特に何の反応も示さなかった。

 その後、アカがアパートのすぐ近くの幼稚園に通っているとわかった。まだ園児だったのか。実年齢より大きく見える。そしてしばらくアカの日常風景ばかりが流れる。特に何事もないようだと最初は思ったが、そこであることに気がついた。アカが家にいる時はほとんどひとりでいるということだ。ご飯はパンやインスタント、レトルトやレンジで暖めて食べるような冷凍食品ばかりだ。母親が食事を作って、さらにアカと一緒に食事をしているということは皆無だった。また、部屋の片付けをしたり、台所の流しにたまった食器類を洗っているのもアカだった。幼稚園にもひとりで行き来していた。いくらすぐ近くに幼稚園があるとはいえ、親がまったく付き添わないとは……

 アカは夜遅くに帰って来る母親に時々気がついたが、いつも酔っ払っていて隣の部屋ですぐに寝た。アカが朝起きて登園する時もまだしっかり寝ていた。

 これはいわゆるネグレクトというやつだ。それは夫婦喧嘩や離婚などに比べれば落ち着いたものだが、アカにとってはきっと『寂しい』という人生に大きな影響を与えている状況なのだと思う。

 幼稚園で親が参加する行事でも「仕事でどうしても行けません」とアカの母が電話で嘘を言っているのをアカはしっかりと見ていた。卒園式や入学式にも母は付き添わなかった。この時も幼稚園や小学校には同じ言い訳をしていた。そしてこの頃になると母親は男を家に連れ込むようになっていた。朝、アカが起きた時にそっと隣の部屋を覗くと母が同じ布団で男と一緒に寝ているという光景を何度も見た。男は常に同じ人ではなく、定期的に変わっていた。しかしそのうち男が来ることはなくなった。

 と、その時場面が変わった。アカが大きくなっている。何年か過ぎたようだ。アカは中学1、2年生くらいに見える。

 ある日アカの母親がある男と一緒にアパートにやってきた。人を外見で判断してはいけないとは言うが、この人は外見で判断してもいい。明らかに”その筋”の人間だ。年齢は50代半ばくらいだろうか? 重量級のプロレスラーのような大男でスキンヘッド、薄茶色のサングラスをしていてそこから見える目つきは鋭い。首や手首には高そうな貴金属がぶら下がっていて、Tシャツから出ている腕や首筋には和彫りの刺青がびっしりと入っている。決定的なのは左手の小指がないということだ。男が木造アパートに入ると部屋が揺れたように思えた。アカは部屋で正座してその人を出迎えた。「今日からこの人がお父さんになるからね」とアカの母は言った。アカは正座のままで呆然と大男を見ている。「返事はどうした!」とアカの母が怒鳴った。アカはびくっとして「よろしくお願いします」と頭を下げた。「この人はヤクザで、殺人で刑務所にも入ったことがあるのよ。逆らうんじゃないよ」それが本当なのか、単にアカを従順にさせる為の嘘の脅しなのかはわからないが、どちらにせよアカを脅すには十分だっただろう。男は挨拶するアカに興味なさそうに立ったまま部屋中を睨み付けるように見回していた。そして、「狭くて古くて汚ねえな。よくこんなところに住んでるな」と首の後ろ辺りを掻きながらアカの母に言った。「うるさいよ」とアカの母は肘で男を突いた。男はようやくアカに目をやると立ったままアカに顔を近づけ「さっきお母さんが言った通り、19歳の時に()()()で人を殺して10年刑務所にいたんだよ」とニタリと下品な笑みを浮かべた。「もっといいところに住ませてやるぜ」ニヤニヤ、だ。アカが怯えているのがわかる。「あかり! 返事は!」とまたアカの母は怒鳴る。アカは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。「話には聞いていたが10歳にしては大きいな」男はアカを眺めながら言った。10歳なのか。確かに10歳には見えない。「もう生理もしっかりあるよ」アカの母は薄ら笑いを浮かべながらそんなデリカシーのないことを言った。アカは顔を伏せる。この頃のアカは顔にいまの面影はあっても性格はとても大人しく、いまとは別人のようだ。

 その男の言ったことは本当だった。アカが引っ越したのは高級マンションで、以前住んでいたアパートの全室より広いエントランスを見てアカは唖然としていた。マンションの部屋の中に恐る恐る入って、全室を確認した。4LDKの立派な住処だった。アカにはその中の一室を与えられたようだが、そこでもネグレクトと夫婦喧嘩は健在だった。アカは広い家の中でほとんど1人で行動していた。学校でも1人だった。夜中になるとリビングの方から頻繁に怒鳴り合いの夫婦喧嘩の声が聞こえてくる。そしてそれと同じくらい頻繁に義父は女たちを連れ込んでリビングで大騒ぎしていた。さらにいずれもその筋に見える人たちを頻繁に連れて来て騒いでいた。母親は母親で若い男たちを連れ込んで騒ぐ。アカはそんな義父と母親の様子をチラリとではあるが、たびたび見ていた。その顔は何を考えているのかわからない、まったく表情というものがない顔だった。

 場面が変わった。アカがまた大きく成長している。いまとほとんど変わらない。でも髪の毛の色はまだ黒かった。僕が初めてアカを見たとき、つまり高校に入学した時にはアカはもう髪を赤く染めていた。ということはまだ高校生じゃない。

 そしてその日、いつもはアカの部屋に入ってこない義父が無言で部屋に入ってきた。目が据わっている。「なんですか?」アカは義父のそのただならぬ気配を感じ取ったのか、怯えるように訊く。義父は無言でアカの手を掴んで部屋から出すと、やはり無言で廊下を歩いていく。「あの……なんでしょうか?」とアカは訊くがやはり無言だ。そして義父と母の寝室である広い部屋のドアを開けると、アカを担ぎ上げた。「え?」と驚くアカを無視してダブルベッドの上に放り投げるように寝かした。アカの母親もいてビデオカメラを構えてその様子を撮影している。義父はシャツもパンツも脱ぎ、全裸になった。全身に刺青がある。アカは悲鳴を上げた。そんなことはお構いなしに義父はベッドに上がってくる。

「やめて!」

 アカは上半身だけを起こして両手でベッドの上を後ずさったが、義父にしっかりと身体を掴まれる。

「お母さん! 助けて!」

 母の方を向いて叫ぶが母は無言でビデオを撮影している。義父がアカの体の上に跨がる。

「いや! 止めて! お願いします! 止めてください! いやあ!」

 アカは必死に叫んで手で義父を抑えようとするが、大男にとってそれはまったく抵抗になっていなかった。アカのシャツを義父が掴んだところでまた画面が変わった。義父は満足したようにベッドから降りて部屋にある趣味の悪い虎皮のソファに全裸のままどっかりと座り、ガラスのテーブルの上にあるウィスキーをラッパ飲みした。アカの母はそこで撮影を止めてテーブルの上にカメラを置くと義父の隣に座ってタバコに火をつけた。アカは……乱れた服でなんとか自分の体を隠し、放心状態でベッドの上で横たわっている。完全にレイプされた後だ。『性的に満足させる』ような場面はカットされたようだ。カットされて良かったと思った。「あんたがロリコンだったとはね」タバコを吹かしながらアカの母親は笑った。義父は「ロリコン? 馬鹿ヤロ。あれが中2の身体(からだ)に見えるか? 実際、よく女子大生に間違われるだろ。胸なんかお前よりデカいぞ」と怖い顔を向ける。母親は、「それより、これ、本当に高値で売れるんでしょうね?」と、ビデオカメラを指差しながら訊く。「ああ、こういうのが大好きなマニアがいるからな。演技じゃなくて正真正銘のレイプだからな。さっきの『お母さん! 助けて!』なんか良いぞ。マニアは喜ぶ。それより重々言っておくがこれは組を通さず俺が直売するからな。くれぐれも他言するなよ」義父はそう言ってまたウィスキーをラッパ飲みした。母は「わかってるわよ。私はとにかく金になればいいんだから」と不機嫌そうに言う。義父はゆっくりと立ち上がるとテーブルの上にあった錠剤らしきものを持って放心状態のアカの目の前に置いた。「アフターピルだ。妊娠したくなかったら飲め」アカの母親も「あかり、ちゃんと飲めよ!」と怒鳴った。義父は「まあ妊娠しても知り合いの産婦人科医に堕ろしてもらうけどな」と笑った。

 僕は首を激しく振った。こんなことがアカに起こっていたのか? 百歩譲って義父はまだしも、母親は実の親だろ? なんで平気な顔してこんなことができるんだ?

 しかし、その日だけでは終わらなかった。また義父がアカの部屋に入ってきた。アカはその時点で察して「止めて!」と激しく抵抗したが腕を引っ張られて廊下を引きずられるように連れて行かれる。アカの母はその時の様子から既に撮影をしていた。その後は前回と同じだ。そんな場面が何回も続いた……

 場面が変わり、今度は激しい夫婦喧嘩の声が聞こえてくる。夫婦喧嘩自体は珍しくないのだがその日はいつもよりはるかに激しかった。そして「なんだてめえ!」という義父の怒鳴り声と「二度と女と遊べない体にしてやる!」というアカの母の怒鳴り声が聞こえた、と思ったらアカの母の強烈な悲鳴が聞こえてきた。そしてリビングから玄関の方に向けてドカドカと歩いていく音がして玄関のドアが開閉する音がした。アカが恐る恐る部屋から顔を出した。リビングの入り口から玄関に向かって赤い液体がところどころに落ちていた。

「血!」

 アカは叫んだ。そのままリビングの方に走って行くとリビングの真ん中に血まみれの母の姿があった。

「お母さん!」

 アカは慌てて近寄った。母は腹部を押さえてうめき声を上げているが腹部だけでなく全身に傷があり、血が流れている。いわゆる”メッタ刺し”状態だ。母親は苦しそうにうめきながらもアカに向かって何かを言っている。

「え? なに?」

 アカは母の口元に耳を近づけた。すると絶え絶えの息で「あいつの股間を思いきり刺してやったからあいつは遠くには逃げられない。追いかけて殺して来い……」と言っていた。

 もちろんアカにそんなことができるわけがない。アカは慌てて電話の受話器を取って、119を押すと、

「お母さんが! 血まみれになってる! 早く来て!」

 と泣きながら叫んだ。落ち着くように言われたのか、アカはなんとか住所と状況を伝えた。アカの母は救急車の中でいわゆる酸素吸入器なのか、とにかく物々しく感じるマスクを着けられた。だがそんな状態でも付き添いのアカに向かって「あいつを殺せ」と苦しそうにうめいていた。救急隊の人からしゃべらないでと注意される。驚いた。こんな状態でも恨み節を吐けるのか。

 病院の待合室で母が死んだことを知らされるとアカは泣き崩れた。なぜだ? あんなにロクでもない母親だったのに号泣するほど悲しいのか? アカの感情を理解できなかった。

 義父の方はすぐに捕まった。重傷を負っていたので、警察は病院で事情を訊いたらしい。そして警察は当時家にいたアカにも事情を訊いた。その際まず警察の方から義父の供述を話した。殺し合いにまでなった喧嘩の原因は実にどっちもどっちな理由だった。義父は毎日複数の愛人と遊び、その愛人達に金をばら撒いていた。母親はというとこちらも義父とほとんど同じで若い男の愛人が複数いて金を貢いでいた。そのことでまず義父が「俺の金を勝手に使うな!」と怒り、激しい喧嘩になったのだという。そして母親が「二度と女と遊べない体にしてやる!」と包丁を持ち出して義父の股間を刺した。義父は激痛に耐えながらその包丁をすぐに奪い返し、母親をメッタ刺しにした。義父の方はペニスと片方の睾丸をざっくりと切り落とされていたという。切り落とされたモノは元に戻すことは不可能な状態だということだ。気を失いそうになる程の激痛になんとか耐えて病院に行った。義父はそんな経緯を話して「最初に切りつけてきたのは向こうだ。だから正当防衛だ」と入院している病院で警察に対して主張しているという。しかし殺人で服役の過去があり、それ以外にもいろいろな犯罪歴があるような、しかも暴力団の人間の言うことを簡単には信用できない。「いま家を現場検証をしているけど、事件の時に家にいた君は何か知らないかな?」と警察はアカに訊いた。あの男が殺人で服役の過去があるというのは本当だったのか。アカは何も知らないと必死に頭を振った。おそらく関わり合いになりたくないと思ったのだろう。警察もそれに感づいているようで丁寧にではあるが、執拗にアカに事情を訊こうとした。でもアカの反応は同じで警察も諦めたようだ。

 しかし、その後、

「現場検証? もしまだあれが家にあって、警察に見つかって観られたりしたら……絶対にいや!」

 と叫んでいた。”あれ”がなんのことなのか僕にはしばらくわからなかったが、あの動画のことだと気がついた。

「でも……」

 アカはそこで何か困惑したような顔になった。

「見つかった方があいつが重い罪になる? だったらあいつにされたことを警察に言った方がいいの?」

 そんなことをうつろな目で呟いている。

 例の動画はなかったようでアカが警察から新たに何か訊かれるという場面はもうなかった。そして、アカの方も結局警察には何も言わなかったようだ。

 場面が変わる。その後、アカを引き取ったのはアカの母方の祖母のようだった。祖母の家は良く言うと古民家、悪く言うと木造のボロ屋だった。周囲は田畑で家々は離れている。

 この時「ここは……」と僕は思った。おそらく高校の近くだ。似たような景色を見たことがある。アカの家は学校の近くだったのか。

 そしてアカの祖母だが……これまた問題のある人間だった。70代半ばくらいと思われるのだが、アカに最初に言い放ったその言葉はアカに大きな影響を与えるような暴言だった。「まったくなんであんたの面倒を私が見ないといけないの? 全部あの馬鹿娘のせいよ。ガキの頃もっと殴ったり蹴ったりしておけばよかった。あの程度じゃまだまだ甘かったわ」この母にしてこの子あり、とは言うが、この祖母にしてあの母ありだ。場面が変わってもその都度祖母はアカを罵倒し、ネチネチと嫌味を言っている。アカを殴る蹴るなどの暴力行為も多かった。祖母に体力的な余裕があればもっと酷い暴力になっていたのではないかと思う。アカは祖母からは直接的な虐待を受けていたのか……

 場面が変わった。アカの親戚らしい人たちがどこかの座敷のある小料理屋に集まって酒を飲んでいた。どうやらアカの母親の一周忌のようだ。親戚の数はあまり多くない。一周忌と言うより宴会のような状況だった。親戚があんな死に方をしたというのに……

 その場に祖母はいなかった。その代わりなのか、アカが席の隅っこの方でこぢんまりと座っている。「しかし、我が子の一周忌に親が来ないとはな」そんなデリカシーのないことをアカの祖母とほぼ同じくらいの歳に見える男が大声で言って笑っている。それを聞いたやはり同じくらいの歳の男も大声で笑った。アカはただうつむいているだけだった。アカの周囲にはまともな人はいないのだろうか?

 しかしその時、「シズコのやつ、いまで言うところの児童虐待をされていたんだよなあ。で、自分の娘にも虐待していた」「ああ。でも当時は児童虐待なんて考えがなかったからなあ」というやりとりにアカが反応した。

 アカはしばらく迷っているようにオドオドしていたが、意を決したようにその男に

「あの……」

 と話しかけた。「なんだ?」と赤ら顔の男は言った。

「シズコって私のお婆ちゃんですよね? お婆ちゃん、虐待されていたんですか?」

 小さな声でだがアカは真正面から男の顔を見てしっかりとそう訊いた。

 男は「ああ、そりゃあ酷かったぞ」と言い、もう一人の男も「ありゃあ、いまなら大問題になるな。よく殺されなかったもんだ」とうなずいた。

「虐待ってどんな?」

 アカはおずおずと訊く。

「まあ、殴られたり蹴られたり、木に縛り付けられたり、飯を食わせてもらえなかったり。でもそれくらいなら俺たちでも経験はある。ただ、そういうことをされるのは何か悪さをしでかした時だけだ。なのに、シズコは何も悪いことをしてないのに頻繁にそういうことをされていたみたいだな」男は酔っているからか饒舌に話す。「他にもそれ以上の酷い事を頻繁にやられていたみたいだ」「ガキの頃、俺がいたずらで『おいこらシズガキ!』って言ったら『ひい!』って叫んでその場にしゃがみこんで震えていた。親にそう言われて虐待されていたんだ。いわゆるトラウマというやつか?」と笑うが何がそんなにおかしいんだ?

「それからな、”お灸をすえる”って言葉を聞いたことがないか? 俺たちがガキの頃は悪い事をしたら文字通り背中にお灸をすえられていたんだ」「あれ熱いんだよな」「ああ。ガキの頃、背中がお灸の痕だらけってやつも多くてな、皆でお灸の痕の数を数えたりしていたよな」「ああ。でもな、シズコの背中にはお灸の痕じゃなくて……」 

 それを聞いてアカは眉間に皺を寄せていた。しかし、祖母を哀れんでいるという感じには見えなかった。

 場面が変わった。アカがテレビを観ている。そのテレビはアカのあの義父が一審の裁判員裁判で無期懲役になったと伝えていた。

「無期懲役?」

 アカは顔をしかめた。そして自室に入ると無期懲役についてパソコンで検索して調べ始めた。僕もアカと一緒にパソコン画面を見た。アカはいくつかのサイトを見たが、無期懲役についてどのサイトでも共通して書かれていることをまとめてみるとだいたい以下のようなことになる。

『現在の日本の無期懲役は事実上は仮釈放のない絶対的終身刑化している。法律上では無期懲役は犯行当時に20歳以上の犯罪者は10年、20歳未満の犯罪者では7年で仮出所できるとあるが、実際は20歳以上・未満に関わらず、模範囚であっても刑務所に収容されてから30年以上が経過しなければ仮釈放審理が行われることはなく、仮釈放の許可率も非常に低い。この審理で仮釈放の許可が得られなかった場合、次の仮釈放審理を行うことができるのは10年近くが経過してからである。その為、無期懲役受刑者は刑務所内で死亡することが多い。また、仮出所できたとしても一生涯保護観察下に置かれて自由を制限されることになる』

 そんな情報を得てもアカは納得できていないようだった。アカの義父だった男の弁護側は即刻控訴すると先ほどのテレビでは伝えていた。検察側も控訴する方向だという。

 さらにアカは『裁判員判決の控訴審での”破棄率”は1割超程度である』という情報も得た。9割近くは一審の裁判員判決が確定しているということか。義父の無期懲役判決もそのまま確定する可能性が高いということだ。

 何かブツブツというアカの声が聞こえる。

「なんで? 裁判員の人たちはどうしてあいつを死刑にしてくれなかったの? 検察は死刑を求刑してたし、過去に殺人で服役したこともあるヤクザなのに。何をどうやったらあいつの死刑を回避しようと思えるの? あいつは正当防衛を主張した……裁判員の人たちはあいつの言うこと認めたの?」

 アカの不満はどうやら裁判員に向けられているようだ。

「私があいつにやられていたことを私がちゃんと話していれば死刑になってた?」

 自分を責めているのか?

 そしてアカはさらに刑罰についての検索を続けた。それは日本だけではなく、海外にまで広がった。

『欧州では終身刑と名乗る刑はあるものの、これは日本の無期懲役と同じものである。終身刑と無期懲役は呼び方が異なるだけであり、その呼び名から異なる刑罰であると誤解されていることが多い。欧州人権裁判所は2013年に「仮釈放のない終身刑は非人道的な刑である」として仮釈放のない絶対的終身刑は欧州人権条約違反と認定。欧州評議会加盟国で絶対的終身刑が最後まで残っていた英国も絶対的終身刑を廃止することになった。現在、先進国では絶対的終身刑のある国は少なく、あったとしても恩赦か減刑の可能性がある。特に北欧の刑期は短く、また刑務所内も自由で環境もホテル並み。2011年にノルウェーで爆破・銃乱射事件を起こし、77人を殺害した犯人の刑期は禁錮最低10年、最長21年でこれはノルウェーの最高刑である。この犯人は刑務所内で3部屋も与えられ、テレビやゲーム機もあるという環境であるにも関わらず「待遇改善」を裁判で訴え、その訴えの一部は認められた。比較的治安の悪い国であっても意外に最高刑が軽い国もあり、エクアドルの最高刑は16年、ブラジルなど非常に治安が悪い国でも禁固30年が最高刑である。日本の刑務所は他の先進国の刑務所と比較して厳しすぎるとの批判が人権団体から絶えない。また、先進国で死刑制度があって、実際に執行されているのは日本と中国とアメリカの一部の州だけであり、これも人権団体から長年批判にさらされている」

 そんな類の情報が次々とパソコン画面からアカの目に飛び込んで行く。

「なんなのこれ……」

 アカがやはり呆然と呟く。

「何? 仮釈放のない終身刑や死刑が非人道的な刑って? どうして死刑や仮釈放のない終身刑のある国が少ないの? なんでそんな連中に恩赦や減刑が与えられるの? 世界にはホテルみたいな刑務所があるの? どうして70人以上殺した凶悪犯のわがままを聞くの? どうしてそんなに治安が悪い国でこの程度で出所できるの? なんなの人権団体って? 凶悪犯の人権のことしか考えていないの? 被害者とかその遺族の気持ちとか考えていないの? アホなのこいつら?」

 そんな抑揚のない呟きが続く。そして突然、机に突っ伏して後頭部を抱えると髪を両手で激しくかき回し始めた。が、その手が止まり、体の全体の動きも止まり、しばらくそのまま微動だにしなかったが、やがてゆっくりと顔を起こした。

「そっか。そういうことか」

 突然、アカの独り言が大きく、そして淡白になった。

「世の中助けてくれる人なんていないんだ」

 据わった目で、棒読み口調できっぱりとそう言った。

「悪くなった人間の勝ちなんだ。悪者の方が幸せになれるんだ。正しく生きることなんて意味がないんだ」

 そう言うアカの目元口元は不気味に笑んでいた。さらにアカは世の中の様々な犯罪について調べ始めた。薄暗い部屋でパソコンの光を顔に浴びてニタニタと笑んでいるアカは本当に不気味だった。彼女が調べているサイトの内容がどんなものなのか、僕はもうそんなことはどうでもよくなってアカの不気味な顔だけをじっと眺めていた。しかし、過去の犯罪の知識はこの時に学んだんだな。

 また場面が変わった。アカは美容院で髪を赤く染めた。その後ホームセンターのアウトドアグッズ売り場でスチール製のBBQ用の串と、やはりBBQ用のターボライターを購入した。家に帰ると鍋つかみふたつを二重に重ねて右手に着けて串を持ち、左手にターボライターを持った。しばらくして祖母が帰ってきた。アカは背中に串とライターを隠す。祖母はアカを見て、「なんだその髪は」と顔を曇らせた。「そんなみっともない……」と言いながらアカに近づき、アカの顔を叩こうと手を振り上げた。が、その時アカが

「おい、こらシズガキ!」

 と叫ぶような大声で怒鳴り、どん、と床を蹴飛ばすように強く踏んだ。祖母の顔がこわばった。「なによ……」と言う声も明らかに動揺している。

「うるせえよ! おい、こらシズガキ!」

 そう言ってアカはニタリと笑うと背中に隠していた串とライターを見せた。祖母は「ひい!」とその場に尻餅をついた。さらにアカが串をライターで炙り始めると大きな悲鳴を上げ、ガタガタと震え始めた。そのまま震えながら床に這いつくばって逃げようとするが、

「おっと」

 と言ってアカは祖母の腰の上にまたがった。「止めて! あんた、こんなことしてどうなるかわかってるの?」という叫び声に

「わかってるわよ。でも私がどうなろうとあんたをいたぶるほうが楽しいわ」

 と笑いを含みながら言う。

「もし私が捕まったりしても、戻って来たらもっとあんたをいたぶってやるからね!」

 そう言って祖母の上着をずり上げ、背中を丸出しにした。

「あんたの子供の頃は、お灸をすえられることが多かったんだって? お灸の痕が沢山ある子も多かったとか。でも、あんたの背中にあった痕はお灸の痕じゃなくて……」

 とたっぷり熱した串を背中に押し付けた。「ぎゃあ!」という祖母の悲鳴が響く。

「”焼き鉄串”の痕だったんだってね! いや、それだけじゃなくて」

 とアカは串を背中に突き刺した。祖母が声にならない悲鳴を上げる。

「串で突き刺された痕も沢山あったんだってね!」

 アカはまた串を炙り始めた。

「おい、こらシズガキ!」

 アカがそう叫ぶと、突然祖母が「お願いしますお父様! お許しを! シズコはもう口答えなんかしません!」と両手を合わせて涙を流しながら大きく震え始めた。アカはまたニタリと笑んだ。

「うるせえ!」

 アカはそう怒鳴ってまた熱した串を背中に当てた。「ひい!」祖母が背中を反らして悲鳴を上げる。さらに串で刺すと「どうか許して下さい! ご慈悲を!」とわめく。

「いいトラウマだな」

 アカは小声でそう言って笑い、しばらく同じことを繰り返した。が、

「あ、お前失禁しやがったな。(きた)ねえな!」

 そう言ってアカは腰を上げてその場から離れた。確かに祖母の下半身から液体が広がっている。アカは祖母の顔の前にしゃがみ込むと、これ見よがしに串を見せ付けた。祖母はそれを見て震えながら手を合わせ、「お願いします。お願いします」と必死に唱えてる。

「これからは私の言う事を聞け。じゃないとまた同じことの繰り返しだ。誰かに言ったりしたら、どうなるかわかってるわね! おい、こらシズガキ!」

 祖母は「わかった。わかったよ……お願いだからそれだけはやめてくれ……」と泣きながら手を合わせて懇願した。アカは”いかにもおかしい”という顔をして笑う。

「やっぱりそうだ! 被害者になるより加害者になった方が得よね!」

 主従が逆転したその時、場面が変わった。高校の中でうちのクラスだ。僕の姿も見える。キョーリューの2人から「この学校の主導権を握ってみないか?」と提案され、その計画の詳細を聞いた。

 アカは

「そんなに簡単に上手くいく?」

 と懐疑的だったが、キョーリューの2人に「ものは試しだ」と言われて、

「まあ、それならやるだけやってみようか」

 と、僕ら以外のクラスメイト全てに協力を呼びかけた。後のことは僕も知っている。場面が変わる。山木先生をいじめ、挑発する。そしてまた場面が変わり、

「こんなに思い通りになるとは思わなかったわ!」

 とアカはビールかけをした。

 そしてまた場面が変わり、どこで知り合ったのかはわからないがタチの悪い仲間に頼んでカバ子をやろうとした。が、僕のせいでその計画が潰れ、カバ子を恐れて学校をサボった。ついこの間の出来事だ。彼女にとっては特別に嫌な出来事だったんだな。


 そこで僕は目が覚めた。はあはあと肩で息をしていた。全身汗まみれになっている。時間を確認するとまだ23時31分だった。ずいぶん長い時間に感じたが、こちらでは本当に一瞬のことだったんだ。

「どうだった? アカっていろいろあったんだねえ」

 女神はいつものようにのんきな様子でそう言っている。

 僕は落ち着くために風呂に入った。

 なんだ、あれは? あんな残酷で悲惨な過去がアカにはあったのか。そしてあの”虐待の連鎖”はなんだ? アカの祖母は親から虐待されていて、アカの祖母はアカの母親を虐待して、アカの母親はアカを虐待した。そして、アカは祖母を虐待していた。なんなんだこれは? いや、虐待は連鎖するとか聞いたことがある。どうしてそうなる? 自分が虐待されたのならその辛さ、苦しさを知っているはず。なのになぜわが子に虐待をするんだ? 考えがまとまらないまま僕は風呂を出た。何も考えられず、しばらくの間、部屋でアニメも観ずにベッドに横たわっていた。

 時間は0時を過ぎた。もう新しい願い事ができる。リューイチの過去を見るつもりだったが、虐待されていたというのが本当ならアカと同等かそれ以上の残酷な過去かもしれない。そんなものを見るのか?

 いや、アニメばかりではなく、厳しい現実を見るべきか? もちろん、アニメや漫画にもシビアな現実を描いた作品は沢山あるが、それらはほとんどはフィクションだ。それに僕はリアルにシビアな現実を描いた漫画は読まないし、そういう漫画はあまりアニメ化されない。仮にアニメ化されたとしても僕は観ないだろう。ほとんどのアニメを観る僕でも観ないものもある。人間ならどうしても選り好みというものがあるのは仕方のないことだろう。しかし……

 相変わらずのんきにふわふわ浮いている女神を見ながら僕はしばらく悩んだ。が、

「ええい!」

 と首を振った。

「女神、今日の願いだ。俺のクラスの行田竜一の人生に大きな影響を与えた特別な出来事をダイジェストでお前が見て、それを俺に見せてくれ」

 こうなったらもう勢いで見てやる。

「その願いを叶えましょう」

 

 場所はちょうど僕が住んでいるような公営アパートのようだった。部屋の真ん中に正座している男の子がいる。リューイチだ。5、6歳くらいだろうか? うなだれて正座した膝の上に両手を乗せている。その目の前には30歳くらいの男がいた。あぐらをかいて酒を飲んでいる。リューイチの父親だと一目でわかった。そっくりだ。身体(からだ)も大きい。

 その父親が突然、平手でリューイチの頭を叩いた。リューイチは無言でうなだれたままだ。父親はテレビを見ながら酒を飲み、時々リューイチの頭を叩いた。リューイチが何かをやらかしたという雰囲気ではない。まるで酒の肴という感じでリューイチの頭を叩いている。どうやらいきなり虐待の場面のようだ……

 虐待は次第にエスカレートしていき、同時に狡猾になっていった。隣近所に聞こえるような叫び声を出せないようにリューイチの口にがっちりとダクトテープを貼り付け、殴ったり蹴ったりするのはほとんどが背中や腹部、二の腕のTシャツの袖口あたりくらいまでだ。傷が服で隠れて見た目では虐待の痕が見えないようにしているわけだ。

 場面が変わった。幼稚園の制服を着ている。どうやらこの日が初めての登園らしい。ということはいま3歳ということか。あの虐待は3歳未満から行われていたのか。アカと同じでリューイチも実年齢よりもかなり大きく見える。そしてこの時リューイチの母親が「念の為にもう一度言っておきます。プールなどは入れないです。うちの子、生まれつき耳に持病があって耳の中に水が入ると大変なことになるんです。家でもお風呂に入るときは十分に気をつけているくらいですから……」と、もっともらしく言っていたがこれは嘘だとすぐにわかった。リューイチが3歳児とは思えないような、憎悪に満ちた恐ろしい顔で母親を睨んでいたからだ。プール以外にも上半身裸になるようなイベントがあるときは幼稚園を休ませた。虐待の痕跡を見せないためだろう。母親がリューイチを虐待しているというところは見てない。父親がリューイチを虐待している時には母親はその場にいないか、リューイチに背を向けていた。しかし、リューイチを助けず、こんな嘘を言っているということは間接的にだが虐待に関与しているということだ。

 虐待はさらにエスカレートした。何も悪いことをしていないリューイチを殴る蹴るはもう当たり前、服を脱がせ、寝かせて馬乗りになるとカミソリで胸や腹部、背中などに傷をつける。その際、「どこまでならバレないかな?」などと笑いながら二の腕の、シャツからギリギリ腕が出るかという辺りや、首元などに傷を付けた。さらには……僕は思わず目を瞑った。リューイチの体に火のついたターボライターを押し付けたのだ。

「ぐう!」

 とリューイチが悲鳴を上げるが、口にダクトテープを貼られている為、大きな声にはならない。他にも両手を後ろ手に縛られて逆さまにされて何度も繰り返し頭から風呂に入れられる。雪がチラつく夜に全裸にされて両手足を縛られて、やはり口にダクトテープを貼られた状態でベランダに何時間も放置される。オレンジ色のスプレーを吹きかけられて悶絶している時は何をされているのか最初はわからなかったがしばらくして催涙スプレーをかけられているのだとわかった。そんな虐待が頻繁に行われていた。それらの虐待でリューイチが気を失うこともあった。そんな時はヤカンに入れた水を顔にかけられて、ゲホゲホとむせ返りながらリューイチは意識を回復した。

 暴言も酷かった。「誰が生まれて来いって言った? 俺の精子なら卵子くらいひらりと避けてみろ!」とパンパンとリューイチの頭を叩いて言う。リューイチは正座して

「すみません。すみまんせん」

 と幼い声でしきりに謝っていたが、この頃のリューイチにはおそらく父親の暴言の意味はわからなかっただろう。しかしこうやってダイジェストに出てくるということは意味はわからずともショッキングな記憶として残っているということだ。

 小学生になっても当たり前のように虐待は続いた。プールの授業は幼稚園の時と同じ言い訳でやらなかった。体育の授業でも周囲に気を使いながら素早く着替えた。時には「なんだこれ?」と同級生に傷痕や火傷の痕を指摘されたが、その都度

「うるせー!」

 とリューイチは怒鳴った。父親の「誰にも言うんじゃないぞ。バレるんじゃないぞ。お前を殺しでもしない限り、刑務所に入ってもすぐ出てこられる。出てきて戻って来たら、お前、どうなるかわかるな?」という脅しが効いているのだろう。本当にすぐに出てこられて、リューイチの元に戻って来られるのかはわからないが、幼いリューイチには十分な脅しになったのだろう、リューイチは

「はい、わかっています」

 と深くうなずいていた。そんなリューイチに友達はいなかった。

 場面が変わった。リューイチはずいぶん大きくなっていて中学生くらいに見えるが、アカと同じように見た目より幼いのが彼の特徴だ。まだ小学生だろう。そんな彼が何やら台所の隅にしゃがみこんでいた。台所は玄関から入って廊下のすぐ左側にある。廊下から見て陰となるところにリューイチは潜むかのようにしゃがんでいた。そしてその手には包丁が握られている。「あっ!」と思った。『小学4年生の10歳の少年が実父を殺人未遂』。()()だ。このことだ。リューイチの様子を見てもただならぬ緊張感を感じる。ふうふうと息を吐き、両手で包丁を強く握っている。そして両親はいまいない。いたらこんなことをやろうなどとは思わないはずだ。玄関のドアが開く音がして両親が帰ってきた。先に母親が入るということはない。何度か見たのだがいつも母親がドアを開けて父親が一番先に入る。間違ってリューイチが先に中に入ろうとした時、髪の毛を掴まれて腹を何回も殴られていた。

 父親の体が現れたその時、リューイチは体から父親に激突した。「ぐあ!」という父親の大声が響く。包丁は父親の左足の太もも横に突き刺さった。リューイチは包丁をドアノブでも回すかのようにぐるりと回して太ももをえぐった。父親がさらに悲鳴を上げて包丁が太ももに刺さったままその場に崩れ落ちる。それを見た母親もかん高い悲鳴を上げ、開いているドアに背中からもたれ掛かり、そのまま外に尻もちをついて倒れた。リューイチは足に刺さっている包丁を抜き取り、右手で大きく包丁を振りかぶる。倒れている父親を刺そうとしたのだろう。しかし、振りかぶったその時、右手から包丁がすっぽ抜けて台所の奥へ飛んでいった。リューイチが手を見ると血まみれだった。血で滑ったのだ。父親の太ももからは大量の血が流れ出ている。「てめえ! このガキ!」父親は左足を押さえながら声をあげる。リューイチは父親が押さえている箇所を蹴飛ばした。父親が悲鳴を上げる。リューイチは父親を踏んで玄関へと向かい、へたれ込んでいる母親の脇を抜けてはだしのまま外へ走り出た。

 セミが大量に鳴いていて太陽がギラついている。真夏だ。リューイチはひたすらに走る。どこに向かっているのか? おそらく本人もわかってないのだろう。ずい分走ってから人気のない古い公園に辿りつくとベンチに座った。ぜえぜえと肩で息をしている。リューイチはそのままベンチに横になった。目はぼんやりと開いていたがそのうち静かに瞼が閉じるとしばらくして寝息を立て始めた。

 日が傾き始めた頃、2人の警察官が寝ているリューイチに近寄り1人がリューイチの肩を叩いた。リューイチが目を覚ます。「瀬多(せた)竜一くんか?」と警察官は訊いた。リューイチはぼんやりとした目でうなずく。1人の警察官が無線機に「男児を保護」と抑揚のない声で言った。場面が変わり、どうやら警察署の中のようだ。2人の男性警察官がぼんやりとしているリューイチに付き、1人の警察官が「どうしてお父さんにあんなことをしたのかな?」と険しい顔で穏やかに訊いてきた。リューイチは無言で無表情のままでTシャツをめくって胸と腹を見せた。2人の警察官は大きく息を呑んだ。「虐待か……」1人の警察官はどこかに慌てた様子で走って行った。もう1人の警察官は顔をしかめ、口を固く結んで鼻から深い息を吐いた。

 場面が変わる。「児童総合相談センター」と掲げられた建物の中にリューイチが無表情な顔で入っていく。いわゆる児相か。

 さらに場面が変わった。どこだろうか? ベッドの上でリューイチは横になっている。トイレ、食事、風呂以外で動くことはほとんどなかった。どうやら児童養護施設のようだ。自立支援施設ではなく養護施設に入ったのか。施設の人がリューイチに頻繁に話しかけるのだが、リューイチはほとんど無言だった。養護施設ではいろいろなイベントや活動、役割などがあるみたいなのだが、リューイチはそれらにまったく参加していない。学校だけは行ったが行くだけで特に勉強をしているということもなく、ぼんやりと席に座っているだけだった。しかし、問題を起こすこともまったくなかった。こうした場面が出てくるのはネグレクトの時のアカと同じ心境だからかもしれない。何度かカウンセラーのような人がリューイチに接したがリューイチが口を開くことはほとんどなかった。

 場面が変わった。リューイチは大きく成長していた。見た目には中学3年生くらいに見えるが……

 施設の責任者の人と客間のようなところで話している。「竜一君のお母さんが君を引き取りたいと言ってきた」リューイチの顔が一瞬にして険しくなった。「お母さんは直接的には虐待していなかった。だから裁判判決では執行猶予がつけられた。このことは知っているね? その執行猶予が明けてさらに1年が経過した。私たちが色々と調べたが、あのお母さんが竜一君を虐待するということはないと判断した。と言っても本当に虐待をしていないか定期的に調べるし、竜一君も何かあればすぐ連絡してくれればいいし、警察なんかに行ってもいい。そのような条件で竜一君を引き渡すことを良しとした。もちろん、竜一君がいいならだ。君が嫌なら断ってもいい。もう中学生になったんだ。それくらいの判断はできるよね?」リューイチの顔つきは変わらない。

 場面が変わる。同じ場所だが、そこに女性が入ってきた。リューイチの母親だ。リューイチを見るなり「ごめんね!」と叫んで泣きながら抱きついてきた。「お母さん、あなたが虐待されていたのに何もしてやれなくてごめんね! もう絶対あなたを傷つけたりしないから償いをさせて!」そう強くリューイチを抱きしめたまま泣き叫んだ。この母親は確かに虐待をしてなかったな。少なくとも積極的にはしてなかった。でも、間接的には関わっていた。その為、感動的な親子の再会、ということにはならなかった。抱きしめられているリューイチの顔は泣きつく母を許しているそれではない。その逆で母親が嘘を言っていたあの園児の時と同じような憎悪に満ち溢れている顔だった。しかし場面が変わるとリューイチは母親と一緒に暮らしていた。

 さらに場面が変わる。学校の教室だった。窓から桜が見える。「また同じクラスになれたね」「来年も一緒のクラスになれたらいいのに」そんな会話が聞こえる。中学2年生か。リューイチは1人でぼんやりと席に座っていた。体はさらに大きくなっていて、本来なら目立つはずなのに存在感がなかった。

 先生が教室に入ってくると転校生を紹介したのだが、はっとした。キョーイチだった。リューイチと同じくらい大きい。リューイチはちらりとキョーイチを見たが、特に興味なさそうに目線を逸らした。

 また場面が変わった。体育館裏のようだ。リューイチはしゃがみ込んでタバコを吹かしていた。まだ加熱式タバコではなく直接吸っている。日はまだ高い。放課後ではない。授業をサボって来ているのか、昼休みなのか。

 そこにキョーイチがやってきた。

「よう」

 と、小さな笑顔でリューイチに挨拶したが、リューイチは横目で睨んでいるだけだ。

「やっぱりタバコ吸うんだな」

 キョーイチが小さな笑顔のまま言う。

「俺と違うタバコの臭いがお前からしたからな。俺、鼻はいいんだ」

 そう言いながらリューイチに近づく。

「隣で吸っていいか?」

 ポケットからタバコを取り出してキョーイチは言う。

「勝手にしろ」

 リューイチは吐き捨てるようにそう言った。キョーイチはリューイチの隣にしゃがみ込んでタバコを口にくわえた。そしてターボライターを取り出した。それを見たリューイチの顔が激しくこわばる。

「なんだよ?」

 その顔に気が付き、キョーイチが訊く。

「なんでもねえよ!」

 リューイチは大声で顔を逸らす。

「ターボライターはいいぞ。火力が強くて、風に邪魔されなくて、いざというときは強力な武器になる。違法物でもないしな」

「そんなことはわかっている!」

 リューイチは怒鳴った。

「なんだよ。どうした?」

 キョーイチは特に動じることもなく不思議そうな顔で訊く。

 リューイチはしばらく黙っていたが、ぽつぽつと自分が虐待されていたことを語り始めた。僕が見た限りではいままで誰かに虐待の話をしたことはなかったはずだ。なぜキョーイチには話すのだろうか? 一度話し始めたら止まらなくなったのか、詳細に語り始めた。

 キョーイチは特に驚くこともなく聞いている。ただ、父親を包丁で刺したというくだりでは目を丸くしていた。リューイチがすべて話し終わったあと、

「同類がいたのか……」

 とキョーイチはつぶやいた。

「あ?」

 とリューイチが眉間に皺を寄せる。

 キョーイチは制服の上着を脱いでシャツをめくりあげた。リューイチは唖然とした。僕も驚いた。キョーイチの胸や腹に、リューイチと同じような傷痕や火傷の痕があったのだ。

「俺も親父から虐待されていたんだ。お前と同じような虐待のされ方で驚いたぞ。違うのは俺の親父は義父だったということだけど」

 僕はここでようやく気が付いた。2人のあの首元や袖口から見える”喧嘩傷”は虐待の痕だったのだ。喧嘩によるものもあるかもしれないが、喧嘩だけの傷なら顔や半袖から出ている腕などに傷痕がないのは不自然じゃないか。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。

「しかしそんなガキの頃に親を殺そうとするなんてスゲエじゃねえか」

 そう言うキョーイチの顔は本気で感心している。

「緊張していたせいで手元が狂って足を刺してしまった。腹を刺すつもりだったのに」

 そう言うリューイチの目は遠くを見ている。

「俺の親父は自分で死んでくれたから助かった。2年前に自殺してくれたんだ。よく知らないがヤバい連中と関係があったみたいで、かなり追い詰められていたらしい。その腹いせに俺やおふくろを虐待していたのかもな」

「母親もか?」

「ああ、いわゆるDVだよ」

 リューイチは「ちっ」と舌打ちをした。

「俺の母親(ババア)はDVはほとんどされてなかったけどな。俺を助けようとはしてくれなかった。どうして誰かに助けを求めようとしないんだろうな」

 憎々しくリューイチは言う。

「”バタードウーマン症候群”というのがある。DVする男に依存してしまうんだ。挙句の果てには『この人が暴力を振るうのは自分のせいだ』とか思ったりもするとか。要するに、洗脳状態なんだよ。お前のおふくろがお前を引き取ろうと思ったのはその洗脳が解けたからだろうな」

 キョーイチがそう説明するが、リューイチは納得のできないような顔で正面を見ている。

 しばらく沈黙となったが、

「なあ? 俺と喧嘩売りにいかないか?」

 とキョーイチが藪から棒なことを言った。

「喧嘩?」

 リューイチが小ばかにしたような笑みを浮かべてキョーイチを見る。

「ああ。俺はよく喧嘩しているけど、ひとりじゃキツい時がある。だから2人がいい。夜の街を歩いていれば喧嘩を買ってくれそうな連中は必ずいる。勝つとスカッとするぞ。もやもやした気持ちが吹き飛ぶ」

 リューイチは無言でキョーイチを見ている。

「俺もお前も体がデカい。それだけで十分武器になるが、筋トレで体を鍛えてパワーをつけろ。握力もしっかり鍛えろ。喧嘩に必要な力なのに意外に見過ごされがちだ。首ブリッジで首もしっかり鍛えるんだ。体がデカくてパワーがあればそれだけでたいていのやつらには勝てる。喧嘩のやり方や、逆にやられそうになった時の逃げ方も俺が教えてやるよ」

 リューイチは無言だが考えているように見える。

「そしてターボライターを持て。さっき言ったようにこいつは有効な武器になる。ナイフだとかバットだとかだとやりすぎることにもなる。そうなったら逆にこちらがいろいろな意味で痛い目に合う。でもターボライターは強力だがやりすぎになることはまずない。いまはトラウマかもしれないが、役立つとわかれば逆に愛おしくなるぜ」

 リューイチはぼんやりと聞いていた。

 散った桜の花びらが風で舞っていた。

 その日からリューイチは筋トレを始めた。驚いたのはその回数だ。いきなり腕立て、背筋、スクワットを100回。腹筋は150回だ。「腹筋は徹底的に鍛えろ。これは基本だ」というキョーイチの教えを忠実に守っている。首ブリッジもしっかりやっているし、ハンドグリップを購入して暇があれば握っている。その結果あっという間に筋肉が盛り上がっていった。筋トレ回数もあっという間に増えて腕立て、背筋、スクワットを500回。腹筋は700回。これを毎日2セット。僕もいま毎日筋トレをやっているがこんな短期間でこんなに回数が増やせるとはとても思えない。そして2人でスパーリングのようなことも頻繁にやっていた。2人とも熱が入って本当の喧嘩に発展することも多かったが、逆にそれが2人を鍛えることになっているのではと思う。

「そろそろいいだろ。実戦デビューだ」

 そうキョーイチが言ったのはセミの鳴く8月の終わり頃だった。2人で夜の街をうろつく。しばらく歩いていたが、

「あいつらがいいかな」

 とコンビニの前で座ってたむろしていたタチの悪そうな3人を見てキョーイチが言った。

「おいそこのブサイクたち。邪魔だ。どけ」

 実に軽い口調でキョーイチはそう言った。これにはリューイチも呆気に取られている。3人は「なんだとてめえ!」と立ち上がってキョーリューに向かって行ったが、3人ともあっけないほど簡単にやられた。全員地面に転がってうめいている。

「こんなにあっけないとは……」

 リューイチも気が抜けたようだ。

「こいつらが弱いってのもあるけど、体がデカくてパワーがあればこんなもんだよ。それより誰かに通報される前に逃げるぞ」

 その日からは筋トレ、スパーリング、そして喧嘩の毎日だった。喧嘩はほとんど勝った。やられそうになることもあったがその時は逃げた。逃げ足も速かった。そのうちリューイチもターボライターを持ち歩くようになった。そして筋トレもスパーリングも喧嘩もリューイチにとっては特別なことではなくなったのか、僕が見ているものに出てこなくなった。

 場面が変わったが、やはり多くのセミが鳴いている。2人ともとんでもなく大きくなっていた。いまとほとんど変わらない。身体(からだ)中の筋肉が盛り上がっていて2人並んで歩いていると人が避けていく。2人とも茶髪になっていたがまだ金髪ピアス姿ではないしスキンヘッドでもない。高校に入学した時はリューイチは金髪のピアスで、キョーイチはスキンヘッドの眉なしで、僕は「絶対に関わらないようにしよう」と思ったのを覚えているのでまだ高校生じゃない。どうやら1年程が経過したようだ。

 2人は私服でやる気なさそうにだらだらと歩いている。「暑いな」とキョーイチが顔をしかめたときだった。突然、リューイチの動きが止まってある方向を凝視して鬼の形相になった。

「どうした?」

 キョーイチが訊く。

「あの野郎……」

 とリューイチが睨みつけているのはキョーリューのいる歩道の片側一車線道路を挟んだ反対側の歩道を杖をつきながら歩いている男だ。

「あれがどうした?」

 キョーイチが訊くと、

「俺のオヤジだ。いや、クソ野郎だ」

「え? マジか? 人違いじゃないのか?」

 キョーイチは驚く。

「俺が刺した左足を引きずっているし、顔も少し《《しおれた》》が間違いない。もう出所していたのか」

 そう言って、リューイチは跡を追い始めた。キョーイチは

「おいおい……」

 と言いながらもリューイチの後ろに続く。しかし跡をつけられている男はまったく気がつかない。僕がカバ子さんとアカの後をつけた時も気づかれなかったし重雄が僕とキョーリューの跡をつけたときも気がつかなかった。人は尾行されていても気がつかないものなのだろうか?

 男は裏側に線路が通っている木造のボロアパートに入っていった。2階建てで6部屋あるが、男が入ったのは1階の道路側の部屋だ。リューイチがそっとその部屋に近づき、白いプレートの表札にカタカナで「セタ」と書かれているのを見て

「もう間違いない」

 と、小さく呟いた次の瞬間、リューイチの顔が恐ろしい怒気に満ちた顔に変わり、拳を固めて大きく振りかぶった。ドアを叩こうとしている。キョーイチはそれに目を見開き、咄嗟にその拳を左手で掴むと「待て」と小声で言ってそれとほとんど同時にリューイチの口を右手で塞いだ。さらに右手を下に素早くずらしてリューイチの喉を掴む。リューイチが苦しそうな顔でもがいて抵抗するが喉を掴まれているせいで力が入っていない。キョーイチはなんとかリューイチをアパートから離れた人気のない公園に連れて行って強引にベンチに座らせた。そこでやっと喉から手を離す。

「何しやがる!」

「落ち着け!」

 2人ともそう怒鳴り声を上げる。

「いまのお前の勢いだと、あいつを殺しかねない。そうだろ?」

「ああその通りだ! 殺すんだよ! ぶっ殺してやる! もうガキのころの俺とは違うんだ!」

「落ち着け! とにかく俺の話を聞け!」

 しかし、しばらく2人で揉み合いになった。なんとかキョーイチがリューイチを抑えた。

「いいから聞け! お前もう15歳だろ? 14歳以上は刑事罰の対象になるんだぞ!」

「だからなんだ!」

「だから落ち着けと言っているんだ!」 

 キョーイチはそう怒鳴るとなんとかリューイチを説得し始めた。

「殺人みたいな重大犯罪だったら、大人と同じ刑事裁判を受ける可能性がある。それで有罪なら少年刑務所行きだ。もっとも、16歳になるまでは少年院で過ごして16歳になったら少年刑務所に移るということもあるみたいだが、どちらにせよ長い間自由を失うことには変わりない。殺人のような重罪は模範囚でも刑期の9割は勤めなきゃならないらしいからな。ちなみに16歳になって故意に人殺しをしたら原則逆送といって……まあ要するに基本的には刑事裁判になって刑務所行きになる。覚えておけ」

 リューイチはまだ『だからなんだ』という顔をしている。

「いいか、お前には犯罪歴がある。しかも殺人未遂という重罪の犯罪歴だ。そんなお前が殺人なんてやったら刑事裁判になる可能性は高い。そうなれば裁判員裁判になるだろうが、虐待されていたという酌量の余地があったとしても、そんな犯罪歴がある殺人犯のお前を裁判員が実刑にしないとは思えない」

 リューイチは少し落ち着いたようだがまだ鼻息は荒い。キョーイチの説得は続く。

「そしてだ、そういう凶悪な事件はネット上にいつまでも残る。犯人の名前や顔もな。実際、まだネットもなかった時代に起きた凶悪事件でもその犯人の名前や顔なんかちょっと検索すればいくらでも出てくる。当時未成年だった少年犯罪者でもバンバン情報が出てくるぜ。偽情報もあるが、事実の情報もしっかりとある。昔の事件でもそんななんだからいまならなお更だ。さらに言うと、改名してもその名前もバレて晒されるし、昔の写真だけじゃなくていま現在の写真まで晒される。どうやってそんな情報を入手しているのかはわからないが、ネット民ってのはそれほど執拗なんだよ。そうなったらもうまともに暮らせなくなるかもしれないぞ? お前はあんなやつの為にそうなりたくはないだろう?」

 そこでキョーイチは、はっとしたようにスマホをいじり始めた。

 しばらくして

「よかったな。親父を殺人未遂したという事件でお前の名前や顔はない。運が良かったと思え。その当時の記事はあるけどな」

 とほっとしたようにキョーイチはスマホを見せた。リューイチは不満そうな顔で、

「じゃあどうしろって言うんだ。この怒りをよ!」

 と怒鳴って地面を蹴飛ばす。

「復讐したいんだろ? それには手を貸してやるよ」

 意外な言葉だ。リューイチも「え?」という顔でキョーイチを見る。

「しかし、やるならまず近隣にバレないようにやらないとだめだ」

 リューイチは腕組みをして話を聞く。

「こっちには都合の良い条件が揃っている。まず、あのアパートの正面側は大きな駐車場だった。裏側は線路だ。あの男の部屋はけっこう大きな道路側だ。つまり近隣には物音が聞こえない条件が揃っているんだよ。ただあのボロアパートの壁は薄い。騒ぎを同じアパートの隣人に聞かれたら警察に通報されかねない。そうなったら現行犯でもう逃れようがないし、何より、復讐ができずに終わってしまう。だから他の住人がいないということを確かめてからやるんだ。他にもいろいろあるぞ。用意しておいた方がいいものがある。あのボロアパート、ドアスコープはなかったがドアチェーンはあるかもしれない。俺たちの力ならそれくらいぶっ壊して入れるだろうが、それでも時間はかかるかもしれない。中に入るのに時間をかけてはいけない。そして、だ。俺達がやったという証拠はなるべく残さないようにするべきだ。もちろん捕まらない為にだ。正直、どこまでごまかせるか疑問だがそれでもできるだけのことはした方がいいだろう。指紋は残さないように軍手をする。靴も大量生産されていてなおかつ動きやすいものを買ってそれを履いて終わったら捨てる。靴だけじゃないな。服も繊維が残るだろうから靴と同じように日本中どこにでも売っているようなシャツとズボンを買うぞ。それと防犯カメラのない道を選んであのアパートまで行こう。いまどき防犯カメラのない道を通っていくのはちょっと難儀だが、裏道なんかを選んで通って行けばおそらく大丈夫だ。あのアパートの周辺には防犯カメラはなかったみたいだ。アパート前の駐車場にもなかったはずだ。駐車場には防犯カメラが設置されていることが多いが管理者が杜撰なのかとにかくなかったと思う。別に駐車場に防犯カメラを設置する義務なんてないからな。近隣の人がプライバシーのことを考えてカメラ設置に反対するということもあるし」

 リューイチはもう落ち着いてキョーイチの説明に聞き入っている。確かに淡々と説明するキョーイチからは落ち着けるだけの頼もしさが感じられる。

「よくドアスコープや防犯カメラのことまで見ていたな」

 リューイチはまだ不満気な顔を少し残しながらも感心したように言った。

「冷静だったんだよ。お前よりはな。誰かが言っていたぞ、『復讐は冷静にやるほど効果がある』てな。冷静にやるんだ。そして殺すな。それにな、ヘタに殺すより”死んだ方がマシだ”って状態にしてやる方がいいと思わないか?」

 リューイチはとりあえず溜飲を下げたかのように鼻から深く息を吐いた。

 場面が何度か変わったがその都度2人は計画を練っていた。キョーイチはアパートの部屋の中に入ってから覆面することを提案した。

「フケや唾や汗や皮脂や爪や毛根のない髪の毛からでもやろうと思えばDNA検査ができるらしいからな。それらをできるだけ現場に残さないようにしたい。とりあえず爪は綺麗に切る。体毛を残さないようにスキンヘッドにする。全身の毛も剃るぞ。それでも復讐の為にバタバタ暴れていれば身体の組織はどうしても残る。でも覆面していればそれらを現場に残す可能性を少しでも小さくできる」

 と。しかしこれにはリューイチが激しく反対した。

「あいつに俺が復讐に来たということを真っ先に思い知らせてやりたい。覆面していたら、これだけゴツくなった身体を見ただけじゃあすぐにはわからない。あいつに俺が誰か訊けばさすがにわかるだろうがそんな生ぬるいやり方はできない」

 キョーイチの言うことにはそれなりの論理があったがリューイチのその発言はただの感情論だった。

「それに汗や皮脂は顔や頭以外からも出るだろ。だったら覆面の意味もない」

 リューイチは今度は少しは論理的なことを言った。

「いや、それはそうだが、俺が言っているのは可能性を少しでも小さく――」

「うるせえよ!」

 リューイチは怒鳴った。

「なんだったらこんな面倒な計画なんか止めていますぐあいつのところに行って殺してもいいんだぞ。お前の協力なんか必要ない。ひとりでやる」

 また感情論だ。しかも今度は脅していた。キョーイチはやれやれという感じでうつむきながら首を小さく横に振ったが「わかったよ……」と受け入れた。

 キョーイチは友人思いなやつだなとこのとき僕は半ば感心して半ば呆れた。そこまでしてこんな身勝手な人間の行動を止めてやりたいのだろうか? でも考えてみればキョーイチにとってリューイチは唯一の腹を割って話せるほどの親友なんだよな。

 さらに場面が変わった。まだセミの鳴き声が激しい。リューイチはスキンヘッドで眉毛も剃っている姿になっていた。大型のバッグを手にしていて刑事が張り込みをしているかのように物陰に潜んで復讐対象者がいるボロアパートを眺めている。少ししてアパートの方からやはりスキンヘッドで眉毛を剃っているキョーイチがやってきた。

「今日、決行だ。アパートにはお前の親父しかいない」と親指を立てる。

「よし! 待ちに待ったぜ!」

「最後にもう一度段取りを確認しておくぞ」

 と言うがリューイチは

「わかっている!」

 とイラついたように怒鳴った。

「わかっているからと言って冷静に行動できるわけじゃないんだぞ」

 諭すように冷静にキョーイチは言う。

「部屋の間取りは1Kで台所側に玄関があって……もしドアチェーンがあったら……」

 2人でひそひそと話し合う。そして「行くぞ」と、キョーイチが言うと「おうよ!」と、リューイチが恐ろしい顔になって、2人でアパートに向かって行く。周囲に誰もいないことをしっかり確認しながらキョーイチが部屋のドアに耳を近づけて、

「やっぱりいるな。テレビの音もする」

 と声を潜めて言った。そこでキョーイチはバッグの中から軍手を2組取り出した。2人とも手に着ける。さらに大きなハサミのようなものを取り出した。ワイヤーカッターだ。

「ドアチェーンをしてなければこいつの出費は無駄になるな」

 リューイチの方はバッグから細く短い木の棒のような物を取り出して手に持って構えた。

 キョーイチがドアを二度ノックした。しばらく待つが誰も出てこない。もう一度、先ほどより強めにノックする。するとゴソゴソと動く音が聞こえた。

「どちら様?」

 という声がする。キョーイチが

「自治会の者です」

 と言うと、ゆっくりとこちらに向かってくる音がした。

「来たぞ」

 キョーイチが声を潜める。

「何か?」

 ドアが細く開いたところでキョーイチがドアチェーンが突っ張るまでドアを開けた、と同時にリューイチがドアの隙間から手にしていた棒で男の腹を力強く突いた。棒の先端が男の腹にめり込み、

「ぐう!」

 と男が呻いてその場にうずくまった。

「ドアチェーン、あったな……」

 キョーイチはワイヤーカッターで素早くドアチェーンを切る。リューイチがすかさずドアを大きく開けて棒を捨てると玄関で顔を歪めてうずくまっている男を担ぎ上げ、台所を突っ切って奥の部屋まで運ぶと万年床と思われる汚い布団の上に押し倒す。布団の周りは透明なゴミ袋とゴミだらけだ。リューイチはマウントを取ると、ポケットからナイフを出し

「大声を出すな」

 と男の喉に刃を突きつける。

 キョーイチは捨てられていた木の棒を拾い、ドアを閉めて鍵をかけた。さらに奥の部屋に来ると線路が見える窓のカーテンを閉める。

「俺が誰かわかるな?」

 怒りのこもった声でリューイチが訊く。

「俺の……息子……」

 かすれた弱々しい声で元父親が答える。

「昔、お前が俺に毎日のように何をしていたか言ってみろ」

「……虐待していた」

「そうだな。どれくらい虐待したかな?」

「覚えていない……」

「だろうな」

 リューイチはそこで一息つくと口の端で不適に笑んだ。

「俺が今日お前に何をしに来たか、それはわかるな?」

 リューイチの口の端の笑みが強くなる。元父親の顔が大きく怯えたものになる。

「悪かった……許してくれ……」

 その言葉にリューイチの口の端の笑みは消え、逆に殺意に満ち溢れたような恐ろしい顔になった。

「都合の良いこと言ってんじゃねえよ……俺は何度も謝ったがお前は許してくれなかったぞ? そもそも俺は何も悪いことをしてないから謝る必要もなかった!」

 そこでバッグから小さなタオルを出して小さく固めると元父親の口をこじ開けて中に詰め込み、さらにダクトテープで口を塞いだ。そして何か手袋のようなものを取り出し、軍手の上から手に着けた。総合格闘技などでよく見るオープンフィンガーグローブだ。

「何度も何度も、本当に何度も俺を死ぬ直前まで虐待してくれたよな。いや、違うな。あれは虐待じゃなくて拷問だな。何度も拷問された。俺が何度『いっそ死にたい』と思ったかわかるか?」

 そう言い終えると同時にリューイチは元父親の顔を大振りの腰の入ったパンチでボコボコに殴り始めた。どれくらいの間殴っていただろうか? キョーイチが

「ストップ」

 と言って後ろからリューイチの両腕をつかんで止めた。リューイチはまだ殴り足りない様子だったが、なんとか動きを止める。

「死んでないだろうな?」

 元父親の顔は原型がなくなっている。顔全体が元の何倍にも腫れ上がって両目の上は青紫に腫れ、鼻は潰れて真っ赤な血が溢れ出ていた。リューイチはダクトテープを引き剥がし、口に詰め込んでいたタオルを引き抜いた。その時、何か白いものがタオルと一緒に口からバラバラと飛び散った。それが折れた歯だと気がつくのに少し時間がかかった。元父親の腫れ上がった目の薄い隙間から黒目が動いているのがわかった。口も動いている。何か言っているようだがほとんど声になってない。

「死んでないぞ。言っただろ、こいつ、丈夫なだけが取り柄なんだよ」

 と言いながらリューイチは元父親の口元に耳を寄せたが、次の瞬間なぜか「ぷっ」と吹き出した。「なんだ?」とキョーイチが訊くと、リューイチは

「『許してくれ』だってよ」

 と笑う。キョーイチも笑う。

 2人で元父親をうつ伏せにひっくり返し、首の上にリューイチが、腰の上にキョーイチが馬乗りになる。口にはまたタオルを詰め込んでダクトテープを貼った。

「懐かしい遊びやろうぜ」

 リューイチがそう言うとポケットからターボライターを取り出した。キョーイチも取り出す。元父親のシャツを破って背中を丸出しの状態にしてズボンも脱がした。そしてターボライターの火を背中、腰、足、首元、顔、頭にまで押し付け、さらにはナイフで切り刻んだ。元父親は「ぐうう!」という篭った呻き声を上げる。2人でしばらくの間そんな報復を続けていたがリューイチが「お前はそのまま続けていろ」と言ってバッグから大きなペンチを取り出した。そして元父親の右手首をつかむと後ろ手にするように自分の手元に持ってきた。ペンチで小指の第二関節まで挟むと「むん!」と、気合を入れて指の関節を逆向きに折った。嫌な音がすると同時にいままでで一番大きな悲鳴が上がる。

「くそ。こいつ、失禁しやがった」

 キョーイチが顔をしかめる。リューイチが

「俺もよく失禁したぜ」

 と笑った。

「そんな思い出で笑えるとは思わなかったな。ありがとよ。さすが元父親だな」

 そんなことを言いながらそのまま右手のすべての指を逆向きに折ると

「じゃ、今度は左手」

 と同じように左手の小指をへし折って、薬指も折った。しかしそこで「待て」とキョーイチが止めた。

「なんだよ」

 リューイチが顔をしかめる。

「呻き声がしなくなった。ショック死とかしてないだろうな? いったん確認だ」

 キョーイチがそう言うとリューイチは面倒臭そうに元父親を仰向けにひっくり返した。確かにピクリとも動いていない。キョーイチが口のテープを剥がしてタオルを取り出し、訝しげな顔でゆっくり確認してから頷いた。

「気を失ってるだけみたいだな」

 リューイチは

「俺もこいつに虐待されて気を失うことはよくあったぞ」

 と鼻で笑って

「そういうときはな……」

 と台所に行ってヤカンを手に取り、洗ってない食器のたまった流しでヤカンに大量の水を入れて戻ってきた。そして

「こうやって顔にゆっくり水をかけてあげるんだよ」

 と元父親の顔に水をかけ始めた。しばらくするとゲホゲホと激しくむせながら元父親が意識を取り戻した。

「よし、じゃあ続きを……」

 と、リューイチがまた元父親の手を取ってペンチで挟もうとするが、キョーイチが

「いや、もう止め時だ」

 とリューイチを止める。

「何言ってんだ? まだ手の指を全部折っていない。それに胸や腹をライターで炙っていないし、ナイフで切ってない」

「そうだがこれ以上やったら死ぬ可能性がある。もう止め時だよ」

「何を言ってんだよ。俺はこいつに毎日こんなことされても死ななかったぞ?」

「そうかもしれないが万が一死んでからじゃ遅い」

 しばらく2人で揉めるがリューイチがなんとか受け入れた。そして元父親の顔に自分の顔を近づけて言う。

「俺がお前にやったことは、お前が俺にやったことに比べれば大したことはない。そうだな?」

「はい……」

「じゃあこの程度ですんでありがたいと思え。そして俺達がやったと誰にも言うな。もちろん警察なんかにもな。もし捕まってもこの程度なら俺は、いや俺達はすぐ出られる。その時はもう許さねえ。一生刑務所の中に入ることも覚悟でお前を嬲り殺しにしてやる! わかったか!」

 元父親は震える声で

「わかりました……」

 と了承した。リューイチは元父親の腹を5回蹴ってから名残惜しそうに部屋から出た。

「スッキリは……しないか」

 アパートから離れてキョーイチが言った。

「ああ……殺さないように自分をセーブするのに本当に苦労したぞ」

 そう言うリューイチの鼻息は荒い。

「そうか、俺がいてよかったな」

 キョーイチはそう言ってから真剣な顔つきになった。

「ただ、さすがにあそこまでやったら警察沙汰にはなるだろうな。あんな状態の人間が病院に行けば、医者が大きな犯罪性があると警察に通報する可能性が高い。そうなったら警察もがっつり捜査するだろう」

 リューイチは無表情で無言だった。

「一応証拠は残さないように努めたつもりだけど、正直なところあまり意味ないだろうな……」

 とキョーイチは軍手をつけたままの手でツルツルの頭を撫でた。

「あれだけ暴れたんだからあの部屋には俺たちがいたというなんらかの証拠は残っているだろう。覆面をしておけばまだマシだったと思うけど……」

 キョーイチはリューイチの顔を見た。リューイチはやはり黙ったままでキョーイチを見ようともしない。

「ま、何をやっていたとしても俺たちがいたという痕跡は残るよ。何より警察沙汰になったらあいつが俺たちのことを喋らないわけがない」

 キョーイチのぼやきにリューイチが深いため息を吐く。キョーイチは続ける。

「でもまあ、殺しはしてない。仮に警察に捕まっても長年自由を奪われることはないだろう。問題はニュースになったら事情をよく知らないアホな連中がネット上で騒ぐかもってことだ。『なんでそんなに罪が軽いんだ』とか言ってな。その時はどうしてこんなことをしたのか俺たちの方からお前の過去をネットで晒してやろう。それでもそういうアホな連中は自分が間違っていたとは絶対認めないだろうけど。それにネットの誤情報はいつまでも消えないからな。しっかり覚悟をしておけ」

「おい、さっきからうるせえぞ」

 リューイチがキョーイチを睨んだ。

「ごちゃごちゃごちゃごちゃ。終わってからびびってんじゃねえよ。お前の言う通り殺してないんだからもし刑事罰になっても俺たちの年齢ならせいぜい数年の罰だろ? だったらびくびくするな。なのにお前は計画の段階からそんなことばかり言いやがって」

 キョーイチは鼻から強く息を吐いた。

「でも、本番は上手くやっただろ? お前のためらいのなさを見て俺も覚悟が出来たんだよ」

 リューイチはへっと鼻で笑った。

「終わった後になってその覚悟が揺らいでびびってるじゃねえか」

 確かにキョーイチは臆しているように見える。そんなキョーイチにリューイチは「腰抜け」と吐き捨てた。どうやらやり足りなかった不完全燃焼のストレスをキョーイチにぶつけているようだ。やはり元父親を殺しでもしなければリューイチの気持ちは収まらないのだろう。リューイチは強く続ける。

「それにな。ネットの誤情報だの世間の批判だのそんなことはもうどうでもいい。もし捕まったらどんなに罪が軽くても、俺のあいつへの怒りはもう抑えられないぞ。出てきたときには何が何でも探し出して今度こそ殺してやる。安心しろ。その時はお前を巻き込まない。1人でやるからよ」

 と、そこでリューイチは皮肉っぽい笑みをキョーイチに向けた。

「そうしたらよ、もう誤情報も何も関係ない。本当に凶悪犯になるんだからな……」

 キョーイチは硬い表情を変えず、ゆっくりとリューイチの顔を眺めた。

 場面が変わった。ここはリューイチの部屋だ。テーブルの上にある灰皿に火のついたタバコが一本だけ置かれて煙を昇らせていた。

 リューイチの部屋にやってきたキョーイチが、「これ見ろ」と焦ったような顔でスマホをリューイチに見せた。リューイチはスマホを観ると、キョーイチとは対照的に顔に薄ら笑いを浮かべた。

 スマホには線路の上で寝ていた男性が電車に轢かれて死んだ、という内容のローカルのネットニュースが映し出されている。いまのところ男性の身元は不明。『トンネルの出口にいて気がつくのに遅れて、ブレーキも間に合わなかった』という運転士の証言もあった。

「これ、あいつで間違いないのか?」

 薄ら笑いで言うリューイチに対して

「場所と時間から考えて間違いない。あのアパートのすぐ近くに線路のトンネルもあった。それに運転士の、『下着姿の男性のように見えた』という証言もある。俺たちにいたぶられた後、そのまま線路に向かったんだ」

 とキョーイチは緊張感に満ちた顔で言う。

「確かに近くにトンネルがあったな。電車に轢かれて死ぬには丁度いい環境にあったなあいつのアパートは。もう生きる気力を無くしてしまったのかな? しかしまともに歩けなくて、あれほど痛めつけていても、線路でお昼寝するだけの余力はあったんだな。やっぱりもっといたぶってやってもよかったじゃないか。それにしても運が良いのか悪いのか、線路に辿り着くまでよく誰にも見つからなかったな」

 リューイチがそう言って笑い、灰皿の上のタバコを手に取ってゆっくりと煙を吹かした。

「そんな悠長なこと言ってる場合か。いまは自殺扱いされているけど、遺体がどんな状態かわからないが仮にバラバラになっていたとしても、拷問の痕が見つかったら自殺に見せかけた殺人だと疑われるぞ。いや、疑われるんじゃなくて殺人だと断定される。そして警察の捜査で俺たちに辿り着いたりすれば、俺たちは暴行罪や傷害罪とかじゃなくて殺人罪で捕まることになるだろう。それがどういうことか――」

「おい、キョーイチ」

 リューイチが凄みのある顔をしてキョーイチの勢いのある喋りを怒りを押し殺すような声で制した。

「俺はいま最高に幸せな気分なんだ。こんなに気分が良いのはおそらく生まれて初めてだ。タバコがこんなに美味いのも初めてだ。それなのに、だ。そんな『たら、れば、だろう』なんて仮定の話で俺のいまのこの最高な気分を台無しにするのなら、お前でも容赦しないぞ」

 キョーイチはその言葉に一瞬怯んだように見えたがすぐにリューイチを睨んだ。

「それに、”証人”という一番の証拠がなくなったじゃないか。びびってたお前の大きな不安がなくなったんだ。もっと喜べよ」

 リューイチの皮肉っぽい言い方に、キョーイチは鼻から荒い息を吐き奥歯を強くかみ締めた。そんなキョーイチとは逆にリューイチの方は本当に幸せそうな顔でタバコを吹かしながら何度も繰り返しスマホのニュースを観ていた。元父親が死んでようやく満足したのだろう。

 そこで場面が変わった。キョーイチはスキンヘッドの眉なしのままだがリューイチは金髪ピアス姿なっていた。僕が高校に入学したときに見た姿になっていたのだ。

 そして、僕が顔を不可解に歪める出来事があった。アイラがリューイチに

「私のことを好きにしていいから、私が誰からもいじめられないようにして」

 と、自分を()()()いたのだ。

 場面が変わり、ここは……? どうやらラブホテルというところだ。テレビやネットなどで何度か見たことがある。そこでリューイチはいやらしい笑みを浮かべながら裸になり、ベッドに寝ているアイラの服に手を伸ばした。と、そこで場面が変わった。『性的に満足させる』シーンがカットされたようだ。つまり事が終わった後ということだろう。

 その後はアカの過去と同じように山木先生をいじめ、学校の主導権を握り、大喜びしている……


 というところで目が覚めた。またほとんど時間は経っていなかった。そして僕はまた汗まみれになっていた。

「リューイチもけっこうな過去があったみたいだね」

 女神の声がする。

「なるほど。これは確かに、アカもリューイチも『酌量の余地あり』だな」

 僕は先ほど目が覚めたときと同じようにはあはあと肩で息をしながらそう言った。

「あーあ。酌量の余地てのがどの程度のものかわかっちゃったか」

 女神は残念そうに言う。

 彼のダイジェストに出てこなかったということは、結局キョーリューの2人は警察に捕まったりはしなかったということか。 

 しかし、最後のアイラとリューイチはどういうことだ? あの2人が付き合っているなんてことはないと思うのだが。確かアイラは『私が誰からもいじめられないようにして』とか言っていたよな……

 僕はまた風呂に入った。今度は湯船の中で何か考える余裕もなかった。とりあえず今日は寝よう、と、僕はベッドに入った。いや、寝るというよりは現実逃避をするという感じだ。

 日曜日、本来ならアニメ三昧なのだが僕は考え事しかしていなかった。と言っても、もはや何を考えているのかさえわからなかった。とにかくなにもかもが混乱していてまとまらない。とりあえず筋トレをした。体を動かしたい気分だった。試しに回数を増やしてやってみようと思い、腕立てと背筋、スクワットは50回、腹筋は100回やってみよう、無理だろうけど、と思ったらなんとかだがそれでもできた。自分でも驚いた。まだ半月ほどしか筋トレをしてないのにちゃんとやっていればやはり身についているのか。だったら頭だって同じじゃないか? もっとしっかりと考えてみよう……が、残念ながらこちらはまだまだのようで、やはり何もまとまらなかった。

 0時を過ぎて月曜日になったところで僕はアイラの過去を見てみようと思った。本来はキョーイチの過去を見ようと思っていたのだが、リューイチの過去を見てだいたい把握できた。それよりアイラのあの行動がどうにも気になって仕方ない。

「女神、今日の願いだ。俺のクラスの、渡辺愛良(あいら)の人生に大きな影響を与えた特別な出来事をダイジェストでお前が見て、それを俺に見せてくれ」

「その願いを叶えましょう」


 アイラだとすぐにわかる幼い女の子がいた。虐待はされていなかった。夫婦喧嘩もなかった。が、両親に()()()()いた。

「幼稚園も小学校も名門私立に入れなかったのは家族で、いや、親戚を含めてお前だけだ」

「中学は頼むわよ本当に」

 リビングでテーブルを挟んで両親らしき2人がアイラに向かってそう厳しい口調で言っている。アイラは泣きそうな顔で頷いた。

 そこで気がついたが、アイラの家は豪邸だ。いったい何坪あるんだ? 金持ちだったのか。

 場面が変わった。先ほどのデジャブかと思うような光景があった。しかし、アイラは大きく成長している。

「中学まで名門に入れないとはどいういことだ!」

 父親が怒鳴り声を上げていた。

「親戚に顔向けできないじゃない! 恥ずかしいと思わないの!」

 母も怒鳴る。なんだ? アイラの家は名家なのか? めちゃくちゃなことを言ってるぞこの両親……アイラはただただうなだれているだけだ。これも虐待かもしれない。

 場面が変わる。制服を着ている。中学生だ。アイラが教室に入る時に『3-2』というプレートがあったので3年生か。アイラが自分の席で何か困っている。机の中を見たり、カバンの中を見たり、必死で何かを探している。そんなアイラの様子を教室の隅でニヤニヤ笑いながら見ている3人の女子がいた。正直お世辞にも可愛いと言えない、いや、はっきり言って3人ともブスだ。僕は3人のその顔つきを見てピンときた。いじめだ。あれは人をいじめている人間の目だ。おそらく、教科書かノートか、アイラの何かを隠したのだ。僕も頻繁にそういう経験がある。

 そしていじめはどんどんエスカレートしていったのだが……なんだこのいじめは? と僕は驚愕した。僕の受けているいじめが生易しく感じる程の強烈で悪質ないじめだ。

 殴られる、蹴られるは当たり前。昼食の弁当をゴミ箱に捨てられる。ノートや教科書を破られる。顔に油性マジックで落書きされる。男子のいる前でアイラの持っていた生理ナプキンをバラ撒かれる。やはり男子のいる前でパンツをずり下ろされ、そのパンツを男子のいる方に投げられる。トイレでは上から水をかけられる。さらにトイレに行かせてもらえない。アイラが個室に入ろうとするのを3人が制してアイラはその場で漏らしてしまった。下痢便だ。さらにそれをスマホで撮影して拡大印刷して教室の黒板に貼り出した。夏になると()を何度も無理やり食べさせられた。2人が押さえつけてアイラの口を強引に開け、1人がセミの死骸、ミミズ、カマキリ、ゴキブリは割り箸でつまんでそれらの虫をアイラの口に入れてアゴを掴んで強引に咀嚼させた。その都度アイラが吐くが3人は笑いながらその様子をスマホで撮影した。

 一番最悪だったのは体育館の体育倉庫内で、3人にやはり押さえつけられて全裸にされて裸をスマホで撮影されたらしい、ということだ。”らしい”というのは押さえつけられて服を無理やり脱がされそうになった後はカットされ、その後、アイラが泣きながらなんとか服を着ている場面になったからだ。そして3人が撮影した動画を観て笑い、「この動画を高値で男子に売りつける」というとんでもないことを言った。

 アイラが絶望的な顔になって土下座をして

「お願いだからやめてください! お願いします! 後生だから!」

 と泣き叫んだ。

 だが3人は本当にその動画を数人の男子に売っていた。しかもアイラの目の前でだ。アイラをいじめていたのはこの3人だけだ。もちろん動画を買った男子も悪いし先生等に報告しない他の生徒も悪い。でもこの3人が動かなければ何も起きないのだ。

 酷いな……僕が受けているいじめは恵まれているとさえ思えた。というより、もはやこれはいじめなんてものでなく立派な悪質な”犯罪”だ。

 しかしどうにも理解できないことがある。アイラはこれほどいじめられていたのにどうして高校ではいじめる側になったんだ? この3人ほど酷くはないがそれでも林さんをいじめている。いじめられていたのならいじめられる者の気持ちがわかるはずだ。いや、待てよ。いじめられている者がいじめる側になるというのはよくあると聞いたことがあるな。なぜだ? 虐待にしてもそうだ。なぜ虐待された者が自分の子供を虐待するんだ? まったく理解できない。

 そしてさらに絶望的な出来事が起きた。アイラが両親にいじめられていることを告げて、助けてほしいと懇願した。しかし両親の口から出て来た言葉は信じられないものだった。

「公立の学校なんか行くからだ。だからそんな下劣な連中がいる」

「自業自得よ。私立に落ちて、公立のクズみたいな学校に行くからよ」

 アイラは唖然としていた。僕も唖然とした。アイラは泣き始めた。それはそうだろう。

「泣いたってダメ。あんたのせいなんだからあんたがなんとかしなさい」

「他の誰かに言うなよ。教師や警察や弁護士なんかにもな。いい恥さらしになる」

 両親は容赦なくそんな暴言を浴びせた。これはやはり(れっき)とした虐待だ。精神的虐待というやつだ。僕の母親の対応も自慢できたものではないが、これに比べたらはるかにマシだ。

 場面が変わる。アイラはうつろな目でどこかの高層アパートの最上階にいた。手すりを掴んではるか下を見ている。自殺を考えているんだ。しかし、その場で膝から崩れ落ちて大声で泣いた。また場面が変わる。家の脱衣所の洗面場だ。瀟洒な洗面場だが、そこに水を流し、片手にカミソリを持っているアイラの姿があった。また自殺を図っている。しかし、しばらくしてまた膝から崩れ落ちて号泣した。

 何度か場面が変わってアイラはなんとか卒業まで耐えた。変な言い方だが大した精神力だと感心した。それほど壮絶ないじめに耐えたのだ。

 だが、卒業前にまた両親との大喧嘩があった。アイラが髪の毛を金髪にしたのだがそれだけで両親は激怒した。でもそれ以上に、もう破壊的に激怒したのはいまの高校だけしか受験しないと打ち明けた時だった。

「何を考えてる! あんなクズの集まりの、掃き溜め場みたいな学校に行く気か!」

「恥ずかしすぎて親戚どころか、ご近所にまで顔向けできないじゃない!」

 ここまでくると呆れるのを通り越してもう何も考えられない……

 でも確かにどうしてアイラはうちの高校を選んだのだろう? 私立の受験には失敗したが、それなりに勉強ができるのだろう。

 その理由はしばらくしてわかった。

 場面が変わって、高校生活になっている。キョーリューの2人がもうクラスを締めている状況だった。アイラはキョーイチに接近した。艶っぽく、色気を振りまくようにキョーイチに近づいたのだ。

「ねえ。私のこと好きにしていいわ。その代わりに私がいじめられないようにして」

 実にわざとらしかったが、男は、特にこれくらいの年頃の男子はこういうのにとことん弱いものだ。場面が変わるとラブホテルだった。キョーイチがパンツとシャツだけ着た状態で、ベッドに座ってタバコを吸っている。アイラはベッドの中だ。どうやら”事”が終わった後のようだ。

「お前、初めてだったのか」

 とキョーイチは驚いている。それに対して

「うん。ダメ?」

 あっけらかんとした様子でアイラは言う。

「いや、そうじゃないけど、初めてがこんなことでいいのかなと」

 キョーイチはタバコを吹かす。ちなみに、この時には加熱式タバコになっていた。

「と言っても、俺も初めてだったけどな」

 とキョーイチは笑う。

「え? そうだったの?」

 今度はアイラが驚いた。キョーイチは苦笑いする。

「いじめられたくないならリューイチにも頼んでみろよ。あいつも《《まだ》》だし、喜んで受け入れるぜ。正直俺1人だけでお前の全てを見守ってやれるかもわからないしな。リューイチもいれば完璧に近くなるだろう」

 アイラはリューイチにも体を売った。昨日見た場面だ。そして、キョーリューの2人は本当にアイラを好きにしていた。頻繁に”事前”と”事後”の場面が出てくる。しかしそのうちその場面も少なくなった。やっていないわけではなくて、もう特別なことではなくなってしまったのだろう。リューイチなんか、アイラを抱いた場面は最初の1回だけだった。リューイチにとっては最初の1回以降は特別な事ではないのだ。それほど日常的にキョーリューはアイラを抱いていたのだろう。

 そしてキョーリューの2人はその代わりにアイラの頼み通り、彼女を少しでもいじめようとする連中には容赦のない制裁を課した。驚いたのはアカがアイラをいじめようとしていたということだ。アイラはいまはアカの取り巻きになっているはずだが、アカは最初、アイラをいじめの対象にしようとしていたのだ。アカを懲らしめようとしたキョーリューだったが、それをなぜかアイラは止めた。そして、

「ねえ、赤石さん。私を仲間にしてよ。それで許してあげる」

 とアイラはいやらしく笑んだ。アカはもちろん受け入れた。アイラの方が立場的には上なのか? 普段はそうは見えない。実際クラスの皆はアカが女子のトップだと認識している。でも考えてみたらトップであるよりも、その腰巾着になった方が楽かもしれない。それにしても、アカはアイラとキョーリューの3人のこの関係を知っているのだろうか?

 場面が変わる。アイラの制服が夏服になっていた。セミの声もよく聞こえる。学校の中だから7月くらか? アイラがいつにない深刻な表情でキョーリューの2人に話している。中3の時にいじめられていたことを克明に詳細に話していた。キョーリューの2人もいつにない真剣な顔で聞いている。そしてアイラは

「その3人に復讐したいの。一生のトラウマになるくらいのことをしてやりたいの。お願い、2人の力を貸して」

 キョーリューは顔を見合わせる。

「ま、復讐したいって気持ちはよくわかる」

 リューイチが言うと、キョーイチも頷いた。

「お前の目的は最初から()()だったんだな」

 とキョーイチは笑んだ。アイラは

「そうよ」

 とはっきりと強く答えた。キョーリューの2人は笑う。

「そいつらに何か恨まれるようなことはしてないのか? お前の逆恨みとかじゃないだろうな?」 

 リューイチが訊く。

「誓って逆恨みなんかじゃないわ。考えてみて。私は自分の身を、それもバージンを捧げてまであなた達に頼んでいるのよ。逆恨みでそこまでできると思う?」

「バージンもらったのは俺だけだけどな」

 キョーイチは笑った。アイラはそれを無視して話を続ける。

「そもそも喋ったこともない連中だったのに、ある日いきなりいじめられ始めたのよ。いまでもなぜなのかわけがわからないわ」

 と言うアイラに

「俺はなんとなくわかった気がするぞ」

 と加熱式タバコの煙を吹かしながらリューイチは言った。

「え?」

 アイラは眉を寄せる。

「そいつらの写真がないか? 卒業アルバムでもなんでもいい。明日持ってきてくれ」

 アイラは首を傾げながらも言われた通り、場面が変わった翌日に卒業アルバムを持ってきた。アイラが示した3人を見て、リューイチは

「やっぱりな」

 と笑い、キョーイチも

「なるほど」

 とやはり笑いながら納得した。

「3人ともひでえブスでデブじゃねえか。お前、可愛いくてスタイルも良いから妬まれていたんだよ。それがいじめの原因だ」

 リューイチがそう言うとアイラは

「え?」

 と、呆気に取られたような顔になった。

「アカが、最初にお前に手を出そうとしただろ? それもお前が可愛いからその妬みだよ。いまはそれが亜由美に移ったけどな」

 アイラはまだポカンとしている。

「お前は自分の可愛さに気がついてないみたいだけどな。それがこのブス共にはかえって嫌味になっていたんだろう」

「そうなの……?」

 呆気にとられているアイラに、

「俺はてっきり自分の可愛さに気がついていると思っていたぞ。だから体を売ってきたんだと思った」

 とキョーイチが言う。

「そりゃあまあ、自分がブスだとは思ってなかったけど――」

 そう言いかけるアイラをリューイチが

「ほらほら、そういうところだよ」

 と止めて笑いながら指摘する。

「その中途半端な自覚がかえってこういうブスたちを苛立たせるんだ。女なら女の妬み嫉みってものをちゃんとわかっておけよ。おまけに金持ちってのがまた妬みを買ったんだろうな」

 そこでキョーイチが

「やるのはいい。でもそこまでリスクの高いことをするからには見返りもほしいぞ。いましている以上の何かがほしい。何かできるのか?」

 と要求してきた。

「いままでゴム付きでやっていたけど、生でやって中出ししていいわ。()()()()だっていま以上にやってあげる」

 アイラは実に素早くしっかりとそう言った。キョーリューは顔を見合わせる。

「マジか?」

「大丈夫なのか? ガキができても俺たちは何もしねえぞ?」

 嬉しさよりも驚きという感じで二人は訊く。

「大丈夫。ちゃんとピル飲むから。それでいいでしょ?」

 二人はまた顔を見合わせて、今度ははっきりと嬉しそうにニヤリと笑んだ。

「いいぜ。というか、最初からそういう段取りだったんだろ? 策略家だな」

 キョーイチは笑った。

「ええ。だって、あなた達みたいな人を探す為にこの高校に入ったんだから」

 アイラがそう言うと、キョーリューは

「なるほど。こりゃあ逆恨みじゃないな」

 と手を叩いて笑った。

 場面が変わる。どこかの駅前だった。そこにキョーリューとアイラがいた。

「あいつ」

 とアイラが駅から出てきたある女の子を指差した。

 また場面が変わる。前回とは違うどこかの駅前だった。

「あいつ」

 とまたアイラは1人の女の子を指差した。

 また場面が変わって今度はどこかの塾の前だった。塾から出てきた女の子に

「あいつ」

 とやはりアイラ指差した。

 わかった。いずれもアイラをいじめていた女の子だ。実物を見て確認しているのだ。

 その実物を見て、

「本物は写真よりもブスだな」

 とキョーイチが笑う。

「いかんなあ。いくら日本の治安が良いとはいえ、こんな時間に女の子を1人で帰すとは。親も塾側もいかんな」

 リューイチは軽く首を振りながら皮肉っぽくつぶやいた。

「ブスだから襲われることはないと思っているんだろう」

 キョーイチはそう言ってまた笑った。

「あのブスたちをもっとブスにしてやるか」

 リューイチが言うと「ああ」とキョーイチがうなずき、「お願い」とアイラが手を合わせた。

 場面が変わる。どこかのファミレスのようだ。キョーリューとアイラの3人は真顔で、そして小声で計画を練っていた。

「3人共塾の日が月水金なのは都合が良い」

「最後の女は家が近いから歩いて帰ってる」

「ああ。最初に拉致するのはそいつかな? 一番早く帰るからな」

「拉致する場所はそれぞれ……」

 とタブレットで地図を出してその場所を指差す。

「拉致するってことは、車を使うの?」

 アイラが訊いた。

「ああ。()()()()が必要だ。それを用意するのが一番難しいかな」

()()()()?」

 アイラは首を傾げる。

「そうだよ。車は盗むけど、普通に盗んだんじゃ足がつく可能性がある。そしたら全てがバレる可能性がある。足がつかないような、さらにはワンボックスみたいな車が必要だ」

 アイラは、よくわからない、という顔をしている。

「夏休みは月水金はしばらく車探しだ。その日のうちに車を盗んでその日のうちに実行する。()()()()でも長い間保有はできない」

「それとな、アイラ。お前は復讐のその場にはいたらだめだ」

 そう言うキョーイチに

「それはわかってるわよ。この3人がやられたら、真っ先に疑われるのは私だから。アリバイの為にちゃんと家にいるわ」

 とアイラは少し残念そうにうなずくが、

「でも、その様子をしっかり動画に撮って見せて。お願いよ」

 と2人に悔しそうな顔を向けて強く言った。

「もちろんそうするつもりだ。ちゃんと仕事をしたっていう証が必要だし。そこはまかせておけ」

 リューイチは太くて筋肉質な右腕でガッツポーズした。

「ただな、こいつらを全員拉致するまではお前がいてほしい」

 キョーイチが言う。

「え? どうして?」

「最後の確認だよ。写真も実物も見たけど、万が一にも別人を拉致したらまずい。だからおまえの確認が必要なんだ」

「なるほど」

 アイラはうなずいた。

「ブス3人が揃った時点でお前はすぐに家に帰ってもらう」

 場面が変わった。3人がギラつく太陽の下を歩いている。

「暑いな」

 リューイチが顔をしかめるがキョーイチが

「生出しの為だ。がんばろう」

 とリューイチの肩をポンと叩いた。アイラも暑さに顔を歪めている。

 キョーイチが言う。

「本当はアイラがこうやって俺たちと一緒に行動しているところを見られない方がいいんだけどな。俺たち2人はあのブス3人に顔を知られるなんてことはしないようにするけど、もうあちこちの防犯カメラなんかには俺たち3人がこうやってうろうろしている姿が映っているだろうしな。それも月水金だけ。これだけでも怪しまれてしまう」

「時間的に仕方がないわよ。その日のうちに車を見つけて、その日のうちに実行しないといけないんでしょ?」

 アイラはTシャツの胸元を掴んでパタパタと扇ぐ。背の高いキョーリューにはおそらくアイラの胸が見えたのだろう、

「ああ! やりてえ!」

「なあ、ゴムありでいいからとりあえずやらせてくれよ」

 とアイラに求めた。

「だからダメだって。ちゃんと依頼を果たすまではお預け。すっきりしたらやる気なくなるでしょ?」

「そんなことはないけどよお……」

「お預けの方がやる気なくなるぞ……」

 2人は悲しそうな顔をする。でもアイラは楽しそうだ。楽しいからこんななんでもないような場面が特別な出来事として出てくるのだろう。何度か場面が変わるが同じように車探しをしている。どうやらなかなか()()()()が見つからないようだ。

 しかしある日、もう薄暗くなっている時に

「おい。()()、良くないか?」

 と、リューイチがある車を指して言った。キョーイチもリューイチが指差した車を見て

「うん、()()だな。()()()()だろう。場所的にもちょうどいいな。防犯カメラとかもないし人気もないし薄暗いし。ようやく見つかったな」

 と周囲を見渡して確認しながら言う。そこは月極駐車場だ。いくつかの車が停められているが、1台の黒いワンボックスカーの前でタチの悪そうな4人の男が地面に座り込んでタバコを吸いながら酒を飲み、大声で騒いでいた。近くの街灯がなんとかその場を照らしている。

「お前はそこにいろ」

 リューイチはアイラに駐車場の外を指差してそう言った。アイラはうなずく。

 そしてバッグから軍手を取り出して3人とも手につけた。元父親を襲撃したときと同じように指紋を残さないようにする為だ。

 さらにキョーリューの2人は覆面プロレスラーのようなマスクを取り出して頭から被った。これは顔を覚えられない為だがリューイチの元父親の時とは違う行動だ。今回は顔を見てもらう必要性がまったくないからだろう。

 騒いでいる4人に覆面姿のキョーリューは近づいて行く。本来なら緊張感が漂うはずなのだが2人は先ほどまでと変わらない軽い足取りで簡単に4人に近づく。4人が2人に気が付き「はあ?」という感じで覆面姿の2人を見上げる。キョーイチが車を指差しながら

「この車、お前らのだよな? 黙ってよこせ。そうすれば痛い目に遭わないから」

 と自己紹介でもするかのように軽く言った。4人は一瞬ぽかんとした顔を見合せたが、次の瞬間笑い出した。

「悪いな。他当たってくれや、覆面レスラーくん」

 ひとりの男が笑いながら言う。

「ああ、これじゃなくても他に良い車がいくらでもあるだろ?」

 別の男も笑いながらそう言って、キョーイチの足元に火のついたタバコを投げつけた。しかしキョーリューの2人はそれに動じる様子はまったくない。

「いや、この車がいいんだよ」

 リューイチは淡々と言う。キョーイチも

「ああ、この車が『良い車』なんだ。()()()()()で手に入れた車じゃないんだろ? にもかかわらず、お前らみたいな連中がこうやって車の側で余裕ぶっこいて宴会して騒いでいる。つまり警察の目を上手くごまかすようにいろいろ工夫している車だろ?」

 とさきほどより強く車を指差した。

「それにこの辺に停まっている車にはドラレコの駐車監視機能とかがないんだろ? そもそもドラレコ自体が付いてないとか。防犯カメラさえ設置されていないような駐車場だもんな。ドラレコが付いている車があるとは思えない」

「そうそう。お前らみたいな(やから)が堂々と大騒ぎできるんだからここはお前らにとっては安全な場所なんだろ? てことは俺たちにとっても好都合な場所なんだ。さらに好都合な車があるんだからこの車を選ばざるを得ない」

 キョーリューがそう言うと4人はまた一瞬だけ呆けたような顔になったが、次の瞬間怒りに満ちた顔に豹変した。

「なんだとコラァ!」

 と4人は同時に立ち上がり、キョーリューに向かって行ったが、もちろんすぐにやられた。4人とも股間や顔を押さえてうずくまっている。リューイチは股間を押さえている男の首を踏みつけながら

「車の鍵持っているの誰?」

 と相変わらず軽く言う。首を踏みつけられた男は顔を押さえてうずくまっているひとりの男を指差した。

「あ、そう」

 キョーイチが指差された男の横っ腹を蹴飛ばして「鍵出せ」と言うと男は無言でポケットから鍵を取り出した。

「どうも」

 車の鍵を開けると後部座席にリューイチが座って運転席にキョーイチが座り、ドアを開けたままキョーイチがエンジンをかけると同時に大音量で音楽が流れ始めた。

「ご近所迷惑だっての」

 とキョーイチは音楽を叩き消した。慣れたように車を運転して駐車場の外に出ると、助手席のドアを開けて「乗れ」と呆気に取られているアイラに言った。

 アイラは車に乗り込むと興奮して騒いだ。

「すごい! すごい! すごい! 2人とも本当に強いんだね! 私、鳥肌立ったよ!」

 そんなアイラとは対称的にキョーリューは「あいつらが弱いんだ」「ああ、思ったより弱かった」と極めて冷静だった。しかしアイラの興奮は止まらず、

「そんなことないよ、凄いよ!」

 と騒ぐ。そんなアイラが2人を見る目は尊敬に変わっていた。

「やっぱりあの学校に入って2人に頼んだのは大正解だったわ。それに、2人に抱かれたのも大正解だった」

 そう言うと2人は笑った。

「嬉しいけど、とりあえず落ち着け」

 後部座席のリューイチはバッグからジャージを取り出して、上下とも着替えながらそう言った。キョーイチの方は覆面を取ると、なんと長髪のカツラを被って後ろ髪を紐で縛り、さらに眼鏡をかけた。

「アイラ、外から顔が見えないように伏せておけ。後ろの窓はスモークしてあるけど前は外から丸見えだ。俺は一応ヅラとダテ眼鏡で変装したがお前と一緒に車に乗っているところを万が一にも知り合いに見られたり、偶然動画なんかで撮られていたりしたらまずい」

 キョーイチがそう言うと

「わかった」

 とアイラは慌てたように伏せた。

「キョーイチ、どうして覆面じゃなくてそんな変装するの? リューイチみたいに覆面のままでいいのに」

 アイラは伏せたままキョーイチに訊いた。

「アホか。あんなマスク被って運転してたら怪し過ぎるだろ。警察はもちろん、一般人からも気味悪がられて目立って仕方ないだろ」

 キョーイチが呆れた声を出す。

「あ、そう言えばそうか」

「ヅラと眼鏡の変装は今だけだ。あのブス共をいたぶる時はまたちゃんとさっきのマスクを被るから心配するな」

 車はしばらく走行し、ある地点で止まった。アイラの顔が緊張感で満ちているのがわかる。さらにしばらくしてから

「来たな。あれで間違いないよな?」

 とキョーイチは人気のない歩道を歩いている女の子をアゴで指した。アイラはそっと窓から顔を出すと、

「間違いないよ」

 とうなずいた。

 ワンボックスは女の子の側面にゆっくり着くとリューイチは素早くドアを開け、女を担ぎ上げて座席を倒して確保しておいたスペースにその怪力で放り投げると素早くドアを閉めた。車が動き出すと同時にリューイチは女の腹部に拳をめりこませた。女がうめいて声を出せなくなっている間にこれまた素早く両目と口にダクトテープをしっかりと貼り、両手足を結束バンドで固く縛った。

「初めてとは思えない手際の良さだな」

 キョーイチは感心したように小声で呟いて車を走らせる。リューイチがもがいている女に近づき、耳元で「動くな」と凄みのある声で言うと女の動きは止まった。

 残りの2人も要領は同じだった。実に手際が良かった。

 そしてアイラはそこで退散となった。誰もいない場所で車を降りて後を見送った。しばらくその場にいたが、なんとも言えない表情で帰途に着いた。

 アイラが家で落ち着かない様子でいると、午前1時半を過ぎた頃にキョーイチから着信が来た。

「全部終わった。動画は会ってから見せる」

「いま見たい。ラインかメールで送って」

 アイラは急かす。

「ダメだ。ネット上にそういう痕跡は少しでも残したくない。だいたい、容量が大きすぎて送れねえよ」

 アイラはもどかしそうに口を結んだが、

「わかった」と受け入れた。

 場面が変わっておそらく翌日、客の少ないファミレスの片隅でアイラはタブレットでその動画を見た。僕も横から覗いて見たが……こりゃあ酷い。どこかの廃工場のような場所で拉致した女3人が目と口をダクトテープでしっかりと塞がれ手足を拘束されたまま下着姿にされて小刻みに震えている。”女の下着姿”を()()()()()()()()()()ということに気がついた。それはこの様子が『性欲を満たすような』代物じゃないからだろう。何をどうやっても無理だ。少なくとも僕は。

 キョーリューは2人とも覆面レスラーのようなマスクを被って、上下にジャージをしっかりと着ていた。そしてまずは原型が無くなるほど3人の顔を殴った。3人とも顔が倍以上に腫れ、鼻は潰れ、歯も折れているようだ。リューイチの元父親の時のことを思い出した。そして全身を殴る蹴る。3人とも篭った呻き声や悲鳴を上げる。それでも殺さない程度に加減はしているのだろう。この2人が本気で身体(からだ)を蹴ったり殴ったりすれば、女の身体(からだ)()つわけがない。そしてここでもターボライターの登場だ。それでまた全身に、特に顔面に何度も火を押し付けた。さらに途中で片目だけダクトテープを剥がすと、巨大な生きたゴキブリを片目の前で見せつけてからまた片目のダクトテープを貼り直し、今度は口のテープを剥がして口の中に無理やり入れると顎を掴んでボロボロに折れた歯で強引に咀嚼させた。3人とも吐き出しそうになったがそれを許さず、咀嚼させたゴキブリが口に入ったままの状態で再びダクトテープで口を塞いだ。そしてペンチで3人の両手の人差し指を逆向きにへし折った。この時の悲鳴が一番大きかった。元父親の時と違って折る指を2本だけにしたのは『やり過ぎて死ぬ』と思ったからだろう。3人とも僕が確認できただけで2度失禁していたくらいだ。最後にキョーイチが3人に向かって「悪い子はおしおきされますよ」と声色を大きく変えて言ったところで動画は終わっていた。3人をいたぶっていたのは常にどちらかひとりだったので、もうひとりはこの動画を撮影していたのだろう。

 アイラはその動画を見てうっすらと泣いていた。

 そして

「ありがとう。これで本当にスッキリしたわ。私のトラウマが解消されそう」

 と2人に頭を下げた。

「この後は、拘束は解いてからこのままの姿で3人ともそれぞれ別々の場所に解放してやった。車は車内をしっかり清掃してから適当なところに捨てておいた」

「とりあえず、ネットを見てもテレビを見ても、いまのところはそれらしい事件を伝えるニュースはない。でもいずれは報道される。殺しじゃないからそこまで大きくでもないだろうがそれなりに騒ぐとは思う。そして警察沙汰になる。言いたくないが警察は優秀だ。いつ俺たちがやったとバレるかわからない。だからしっかり覚悟はしておけよ。お前のところに警察が来ると覚悟しておけ。そして本当にそうなったら常に堂々としておけ。あの家柄にうるさい両親のことだ、必死にお前を、というか家柄と世間体を守ろうとするだろう。だから今回の件だけについては徹底的に親と協力しろ。それと、お前から俺たちの繋がりも悟られないようにしろよ。俺たちの顔はあの3人には見せてないがそれでもお前が疑われて、お前の繋がりを調べられたら俺たちにたどりついてしまう。警察はそれくらいのことは簡単に調べる。だからとにかくお前は堂々としているんだ」

 アイラはしっかりうなずいた。

「これ、USBメモリに移してもいい? それならいいでしょ?」

 キョーリューは顔を見合わせる。

「まあ、それならいいか。でも絶対に見つからないようなところに隠せよ」

「フォルダに入れてしっかりしたパスワードをしておけ。間違ってもネットに上げたりするな。警察が来た時は破壊して捨てろよ。警察がいなくなってからだぞ。くれぐれも慌ててその場で壊して捨てようとするなよ」

 と怖い顔でアイラを睨む。

「そんなことわかってるよ。そんな怖い顔しなくても。でもあいつらは私のことを思い当たっても警察には言わないと思う。言えばあいつらが私にやっていたことだってバレるからね。あいつら進学校に行ってて、将来は医者とか、弁護士とかになろうとしているのよ。冗談みたいでしょ? 私にあんなことしてたやつらが。でもそんな過去が知られたらいろいろな意味でかなりの痛手になるからね。あくまでも私の希望的観測だけど」

 とアイラは皮肉っぽい笑みを浮かべながらUSBに動画を移し始めた。

「それは確かにお前の『希望』だな。希望を頼りにするな」

「お前、ちょこちょこ抜けているところや能天気なところがあるんだよな。本当に大丈夫か?」

 キョーリューにそんなことを言われながらも「大丈夫だって」とアイラはうなずく。

 そんなやりとりが終わるとリューイチが、

「さ、じゃあ生出しお願いします」

 とわざとらしく手をすり合わせた。

「わかってるよ。行こ」

「悪いなキョーイチ」

 リューイチはキョーイチにちょっと皮肉な笑みを見せる。今回はリューイチが()()()()と言っていたな。

「わかってる。早く行け。明日は俺だぞ」

 キョーイチが苦笑いしながら言うとアイラとリューイチは腕を組んで店を出て行った。

 場面が変わると学校が始まっていた。避妊具なしで性交したことなどもはや特別なことではないのか? そしてキョーイチが何か企んでいるような笑みでアイラに話しかけた。

「お前の家は防犯カメラとかがあったり、警備会社と契約したりしているか?」

 アイラは首を振った。

「そんなことしてないけど。どうして?」

「そうか。いかんなあ、金持ちなのにそういう無防備なことしてちゃ。それとも、逆に金持ちたる故の余裕かな?」

 リューイチもそう言ってやはり何か企んでいるような笑みを浮かべる。

「お前の出来の悪い親にも復讐しちゃおう」

「え?」アイラが驚く。

「出来の悪い親への怒りってのはよくわかるんだ。それとも嫌なのか?」

「そんなことないよ。やってほしいよ。でもどうするの? またボコボコにするの?」

 キョーイチは首を振った。

「いや、ついこの間暴れたばかりだからそういうのはマズい。代わりに()()()をやってやる」

 とまたいやらしく笑む。

「お前の両親が大切にしている宝物みたいなものはないか?」

 リューイチが訊く。アイラは少し考えて

「お父さんはクラシックのレコード集で、お母さんはリビングに飾ってある絵画だね。よく知らないけどふたりともずいぶん気に入ってて、どちらもかなり希少価値があるものなんだとか」

 と答えた。

「なるほど、じゃあそれをやっちゃおう」

 キョーイチは手をひとつ叩いてそう言った。リューイチもうなずく。

「アイラ。嫌かもしれないが、お前の確実なアリバイ作りの為だ。休みの日に両親と出かけろ。一番に疑われるのはやはりお前だろうからな。そしてなるべく帰宅が遅くなるよう時間稼ぎにしろ。家の鍵は持っているな? 出かける前日に俺に預けろ。そしてお前ら家族がいない間に俺たちが家に入って……」

 アイラは言われた通り家族で出かける前日にキョーイチに家の鍵を預けた。翌日、両親と出かけるのは本当に嫌そうだったが、指示通り時間稼ぎをして帰宅を遅らせた。そして家に帰ると両親の悲鳴が響き渡った。父親の宝物のレコードは全て粉々に割られ、母親の宝物の絵画は切り刻まれていた。「誰だ! どうしてこんなことを!」と父親は泣き叫びながら髪の毛を掻きむしり、母親は半分気を失ったかのようにその場に倒れこんだ。アイラは両親のそんな様子を見て笑いを堪えるのに必死のようだった。

 アイラが疑われるんじゃないかと思ったが、そこはやはり親だからなのか、それともアイラを深く傷つけたということを自覚していないからか、アイラが疑われることはなかった。

 アイラはキョーリューの2人に

「ありがとう。またしっかりやらせてあげるから」と笑顔で言った。

 場面が変わった。アイラがアカからキョーリュー達の計画を聞いている。「うるさい教師共を黙らせる為に俺たちが主導権を握ろう、だって」アカがそう説明するとアイラは「面白そうね」と受け入れた。後はまた同じだった。山木先生のいじめに加担し、マスコミの取材にしおらしく答え、教室内でビールかけをした。


 そこで目が覚め、僕はやはり汗だくだった。

「アイラもなかなかだね」

 女神はすまし顔で言っている。

 僕は風呂に入った。今回は風呂に入る前に過去を見た。アイラも汗だくになるような過去があったわけだ。

 しかしリューイチの過去のダイジェストにはアイラをいじめていた3人を痛めつけるという場面はまったくなかったよな……元父親にもっと酷いことをしたことのある彼にとってはもはやその程度のことは特別なことではないのだろう。その神経が恐ろしい。そしてキョーイチもおそらく同じ神経を有しているのだ。リューイチの元父親を痛めつけた後の時のようにおどおどしていなかったのがその証左だ。アイラに気をつけろといろいろな忠告はしていたが、臆しているような様子はなかった。そしてアイラの過去に出てこなかったということはリューイチの時と同じようにアイラのところに警察は来なかったということか。そして意外と言えばいいのか、いかにもと言えばいいのか、アイラとキョーリューの3人はいわゆるセックスフレンドという関係だったのか。

 それにしても、アカにしろキョーリューにしろアイラにしろ、彼らの出来事を五感すべてでは感じないということは幸いだった、と湯船の中で思った。あの凄惨な空気感をもし全身で感じていたらと思うとゾッとする。

 風呂から出た後、僕はしばらく腕組みをしていたが、女神に

「なあ。俺の学校の生徒で家庭環境に重大な問題がある、もしくはあった生徒はどれくらいいる? それから……簡単に悪行を行えるような人間になるほど人生に悪影響を与えるような経験をした生徒もどれくらいいる?」

 と訊いた。女神は少し考えてから答えた。

「8割以上いるね」

 8割以上……

 今度は僕が少し考えてから訊いた。

「俺のクラスだけではどうだ?」

「9割いるね」

 地獄行きの割合と同じだ。

 どうして学校をサボったりするやつがいないのか、どうして早く登校して来るのかがいまわかった。みんな家庭に居場所がないのだ。だから学校に早く来て気の会う連中に早く会いたいのだ。

「うちのクラスのやつらは9割は地獄行きだと言ったよな? どれくらいのレベルの地獄か……は言えないんだよな」

 僕はしばらく考えてからこう訊いた。

「うちのクラスで一番の”ワル”は誰だ?」

「いまのところはリューイチだね」

 女神は即答した。

 おそらくキョーリューのどちらかだろうとは予想していた。リューイチだったか。それならリューイチがどれくらいのレベルの地獄であるのかがある程度でもわかればリューイチを基準にして僕のクラスの他の連中がどれくらいの罪を犯しているかもある程度わかる。

 僕はまた考えてから言った。

「リューイチは”凶悪犯”か?」

 これなら答えられるか? 女神は少し考えてから

「酌量等から考えて、いまのところは違うね。でもほとんど毎日何らかの悪行を犯している。それらひとつひとつは大きな減点ってわけでもないけれど、それをこれからも積み重ねていったら……どうなるかわかるよね?」

 と答えた。僕はうなずいた。

 クラスで一番の悪者であるというリューイチはいまのところは凶悪犯ではない。ということは他のクラスメイトも少なくとも重罪は犯していないということだ。

 いろいろなことが釈然としなかった。僕が見たあの”現実”は一体なんだ? しばらくテレビでぼんやりとアニメを観ていたがノートパソコンで昔のことをあくまでも自分で調べられる範囲でだけど調べてみた。するとアカの言っていた通り、昔は殺人事件がいまより何倍も多かったということがわかった。動機もよくわからない不可解な殺人や猟奇的殺人も多いし少年犯罪も多い。警察などの捜査もいまに比べてはるかに杜撰だった。そして「昔は良い時代ではなかった。いまより危険な時代だった」「昔はいまに比べて道徳心や順法意識の低い時代だった」という類の書籍やトピックや情報源(ソース)のしっかりしたブログもけっこうある。むしろ現在(いま)はもっとも安全な時代と言っても過言ではない。少なくとも、現在(いま)がもっとも危険で最悪な時代というわけではない。いつの時代も理不尽で不可解な犯罪が横行していた。そしていつの時代もなぜか昔を美化して羨み、現在(いま)を嘆き、未来を憂えているということもわかった。つまり普遍的な問題なんだ。犯罪だけではなく、戦争や紛争やテロ、差別や迫害、不正や汚職、貧富の格差や貧困、そして虐待やいじめなども。

「なあ、女神」

 僕は女神に強く呼びかけて言った。

「どうして神を信じない人間が多いかわかるか?『揉め事や争いごとを止めてこの世に安寧をもたらすのは人間に与えられた課題』だかなんだか知らないが多くの悲劇や不幸が真面目に生きている人たちに降りかかっているのにお前らが何もしてくれないからだ。神様がいるのならこうした不幸になった真面目な人達、誠実な人達を救ってくれるはずだ。なのに神様が何もしてくれないからだ」

「そうやって僕らのせいにしていればいいさ。でもそんなんじゃあいつまでたっても何も解決しないけどね」

 そんな淡白な回答が返ってくると予想していた。予想通りだった。不満そうな言い方ではあったが。

「でも子供の頃にこんな酷い環境で、こんな残酷な仕打ちを受けていて、まともに生きろという方が無理があるだろ?」

「だから酌量の余地というものを考慮したうえで減点の点数を決めているんだよ。それに彼らのように残酷な環境で育ったとしても真面目に生きている人間も沢山いるんだ。だから特別扱いなんかできない。そして何より、どんな過去や事情があろうがまったく無関係の罪のない人を傷つけることや不幸にすることが許されるわけないだろ? 君はいじめられているけど『あんな残酷な過去があるなら仕方がない』といじめられていることを受け入れるのか?」

 正論だ。確かに無関係な僕や重雄や林さんをいじめて良い理由になんかならない。

 プライドのちっさい女神はムキになって部屋中を飛び回りながら続ける。

「君はもう、酌量の余地というものがわかってしまったからはっきり話すけどね、アカもキョーリューもアイラも”報復行為による減点点数”はとても低かった。酌量の余地が大きくてね。報復した相手が無関係な罪のない人ではなくて報復されても仕方がないような人間だったからね。でもその後は無関係の人を傷付け、不幸にしている。この行為の酌量は小さい。ただ君の言う通りあまりに残酷な過去があるから減点に少しだけ手心を加えている。カバ子や重雄も《《あの時》》にもし報復していても酌量が大きくて減点点数は低かっただろう。これらは不当な判断だと思うかい?」

 僕は唇を固く結んで強い鼻息をゆっくりと吐いた。

「……いや、妥当な判断だな」


 月曜日の朝、いつものトンネルで

「図書カードはないし金も500円しかない」

 とキョーリューに告げた。今日の願いは既に叶えた。図書カードを願うことはできない。

「あっそ。じゃあしっかりいじめられろ」

 とキョーリューに言われてしっかりいじめられた。もっとも、もう友達料は無意味なわけで、いつもと変わらないのだけれど。

 キョーリューの2人はいままでの計略が全て上手く行き過ぎている。警察に捕まることもなく、世間を上手く騙すこともできて、完全に図に乗っているんだ。何もかも自分たちの思い通りになると勘違いしている。そして生徒が学校を支配している。キョーリューだけじゃなくクラス全員、いや、学校の生徒全員が増長しているのだ。このままじゃあいじめがなくなることなど決してない。もちろんいじめ以外の悪行も続くだろう。

 いつものようにいじめられながら思った。お前らはなんだ? 何があったんだ? 僕をストレス解消の道具にしなければならない何かがあるのか? いじめられていたのか? 親に虐待されていたのか? 逆に過保護に育てられたのか? それとも他の何かがあるのか? なぜそんなに楽しそうに悪行ができるんだ? 女神が言った通りだ。お前たちに何があってどんな理由でこんなことをするのかわからないが、僕にはそんなことはまったく関係ないんだぞ。例えばだ、僕は勉強が苦手だから歴史というものをよく知らないけれど、もし仮にあのヒトラーに残酷で不幸な過去があったとする。だったら彼の所業が許されるのか? いや、そんなことはない。まったく無関係の多くの人達を不幸にした。許されるわけがない。最高レベルの地獄行きで当然だ。

 そう考えると僕の胃の裏側あたりがフツフツと沸きあがってきた。お前らが僕にやっていることは絶対に許せない! そう思った瞬間、体が勝手に動いた。僕にコブラツイストをかけていたエイジを振りほどいた。それと同時にエイジが「うお!」とよろめいて、2メートル程後退してから仰向けにぶっ倒れたのだ。

「え?」

 僕は思わずそう声が出た。周りで見ている他の連中も「え?」「あれ?」という声を出した。なんだいまのは? バランスを崩してよろめいた、という感じじゃあなかったぞ?

明らかに僕の力に押されて倒れたという感じだった。「てめえ……」と、エイジは起き上がって僕の胸倉を掴み腹部を殴ってきた。苦しかったがそうでもない気もする。キョーリューの2人に比べれば大したことはないぞ。半袖シャツ姿のエイジをよく見てみると細い。姿格好こそ不良だがその体はか細い。なぜいままでこんなことに気がつかなかったんだ?  

 ひょっとして、いままで『何をやっても自分なんかがこんな連中に敵うわけがない』と、勝手に思い込んでいただけなのか? それとも筋トレの成果なのか? キョーリューに比べれば大したことないからか? とにかくいままでになかったことが起こった。

 家に帰ってから相変わらず浮遊している女神を見ながら考えた。アニメを点け流しながら必死に考えた。アニメの内容は入ってこなかった。筋トレしながら必死に考えた。昨日と同じメニューの筋トレができた。風呂に入りながら必死に考えた。長風呂でのぼせてしまった。

 考えろ。この女神を利用して、出来ることがあるのにそれに気がついていないことがまだあるはずだ。できないと勝手に思い込んでいることがあるはずだ。自分のできることがあるはずだ。もう一度、女神の願い事の制限と女神の言ったことをよく精査してみるんだ。

 すると、ふっとあることに気がついた。

「そう言えばお前――」



「小さい女神に何を願うか3」に続きます。

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