おかしなインテリたち
月曜日 放課後
昨日の塾の体験授業、それどころか午前中の学校の授業さえ全く頭に入らなかった。天宮と別れてからの記憶が曖昧だ。
「はあ、今日の部活どうしようか」
今日も塾の自習室に行かないと行けないが、少し顔を出すくらいの時間はある。みんなにも説明すべきだが、天宮がいたら気まずいな。それにもうみんなにも伝わっている可能性もある。あれだけ一緒にいるって言ったのにこんなことになって、特に千春には合わせる顔がない。今日は教室で何も話さなかったが、もしかしてもう知っていて怒っているのだろうか。
「どうしよう……あっ」
バサッ
廊下の曲がり角、人とぶつかる。大量の本を運んでいたらしく廊下に本が散らかる。
「すみません! 前見てなくて!」
「いや、構わないよ。ただ本を拾ってもらえるとあ助かるんだけど……」
目の前には金髪の青年が尻餅をついている。恵先輩ほどではないが中性的で顔立ちが整っている。背は160cmくらいで俺よりも幾分と低い。白い肌と高い鼻が特徴的だ。一目見て非常に高い知性と品性を感じる人物で非常に印象がいい。
「わかりました。ええっと図書室まででいいですか?」
「わざわざ運んでくれるんだね。確かに僕一人では大変だったのでお言葉に甘えてもいいかな?」
「はい、もちろんです」
二人で並んで本を運ぶ。
「ああ、挨拶がまだだったね。僕は2年の環凪環」
「どうも、俺は一ノ瀬律です。」
「ああ、君があの」
「やっぱり有名になっているんですかね俺」
「そうだね、いい噂と悪い噂の両方を聞くよ。僕は人の噂は信用していないから気にしないけれど、まあ君のことが噂になっているのは事実だ。ただ、会ってみて、悪い噂のいくつかは嘘だと言うことはわかった」
「それは……どうも?」
それから無言で図書室へ歩く。こうしているとま部や塾のことが頭をよぎる。
「何かあったのかい?」
「!」
心を見透かされたようだった。
「そんなに顔に出てますか?」
「顔にも出ている。それにASMR部である君が放課後にその部室とは程遠い場所で前も見ずに考え込んで歩いているということも大きい。そういえば、同じASMR部の天宮君も難しい顔をしていた、いやあれは難しい顔というのかな」
天宮が難しい顔をしていた、か。怒っているんだろうな。
「そういえば天宮のこと知っているんですか?」
「彼女は少し前まではよく図書室に来ていたからね。優等生ということで元々有名でもある。ついでに最近は君と一緒におかしなことをしているとも」
「それはなんだか悪いですね」
天宮が俺の悪い噂に巻き込まれているのは少し心が痛い。そう思っていると図書室に着いた。しかし環先輩も俺も両手が塞がっていて扉が開けない。
「おーい! 黒井君! 開けてくれないか」
「はい、少しお待ちください」
環先輩が呼ぶと中から女性の声がした。そして少し待つと黒縁の眼鏡をかけた女性が出てきた。長い黒髪と170以上ある高い身長、色白の肌で環先輩と同じように気品がある。
「ありがとう黒井君。コーヒーを淹れてくれないかな3人分。一ノ瀬君も少しゆっくりしていくといい」
「いや俺はー」
この後、部室に行くかどうかはともかく塾には行かないといけない。少なくともここでゆっくりしている暇はない。
「いや君はここでゆっくりしていくべきだ。図書室に来たことは?」
「何度か自習で来たことはありますが、そんなにはないですね」
「なら来たほうがいい」
「でも俺、このあと行かないといけない場所が」
「そうかい。まあ無理強いはしなけど僕が思うに、君は一度誰かと話す必要があると思うよ。意外と他人のほうが話しやすいこともあるだろう」
「すみません、一ノ瀬さん。環先輩は少し強引なところというか、なまじ頭が回るので自分がいいと思ったことを押し付ける節があるんです。用事があるならお構いなく」
黒井さんが頭を下げている。
「いえ、そんな。頭を上げてください。そもそもは俺がぶつかったのが原因ですし」
黒井さんが頭を上げる。そしてしばらく俺の目を見る。
「ただ、私も環先輩の意見には賛成です。今のあなたは少し人と話して考えを整理するべきだと思います。それに環先輩は強引ではありますがいつも間違わないので」
「……じゃあ少しだけ」
俺は環先輩の後ろに続いて図書室に入ろうとすると黒井さんが何かに気づいたように慌てて呼び止める。
「環先輩! 忘れていたのですが今日はあの方が来ていて、一ノ瀬さんを通すのはやめたほうが……」
「それってまさか」
「おお来たか! 環君!」
図書室の奥からハキハキとした女性の声がする。環先輩がため息をつきながら抱えている本に頭を臥している。
奥からカツカツと小気味のいい足音が聞こえてくる。
「黒井君、とりあえず本を置きたい。彼女の相手を頼んだ」
「……わかりましたがすぐに戻ってきてくださいね」
「わかってる」
そして環先輩に続いて図書室の奥の書庫へと入り、言われた場所に本を置いた。
「……ゆっくりしていってと言ったけど、もしかしたら難しいかもしれない」
「それってどういうー」
本を言われた場所に置いていると向こうのほうが騒がしい。
「ちょっと、こちらでお待ちください! 環先輩はすぐに戻りますから!」
「いいやこちらから向かわせてもらうよ黒井ちゃん。なにやら気になる人影もあったし!」
こちらに勢いよく向かう足音がする。さっきの人だろうか。
「姫川! 事情がない限り関係者以外の書庫への立ち入りは禁止だ! そこで待て!」
環先輩が大きな声で制止すると足音が止んだ。
「急に大声を出してごめんね。行こうか」
本を置き終わり環先輩と一緒に書庫を後にすると図書室のカウンターにコーヒーが3つ置いてあった。そして目の前のテーブルには黒井さんと先ほどの声の女性がいた。長いツインテールに切れ目、すらっとした綺麗な女性だ。
「どうも、私は2年の姫川知音。SEX教団部の部長だ」
「……」
やっぱり帰ろう。図書室の外へ向けて歩き出す。
「待ってくれ、どうして帰るんだ!? 私が何か気に触ることでもしたのかい?」
「姫川、君はもっと客観的な視点を持つべきだ」
後ろで環先輩が呆れかえっている。
「一ノ瀬君、彼女はこんなんだが信頼できる。今日あったばかりの僕に言われても信じられないかもしれないけれど」
「……いえ、環先輩が言うなら」
せっかくコーヒーを淹れてもらったのに飲まないのも悪いし、環先輩がなんとなく信用できるのはわかる。ここですぐに帰ることもないだろう。そう思って俺がテーブルに座ると黒井さんがコーヒーを運んできてくれた。
「私の分のコーヒーがないが」
「すみません、今淹れますね」
「いや必要ないよ黒井君。話を進めたいから座ってくれ」
環先輩はすでにカウンターに座っており、その隣に黒井さんが座る。姫川先輩は俺の隣に座った。そして環先輩に睨まれながら俺のコーヒーを一口飲み、話を始める。
「今日は先日取り寄せをお願いした論文を受け取りに来た。届いているだろう?」
「ああ、もちろん。文芸部部長兼図書委員長として君の読書や知的な探究を止める気はないが、少し偏りが過ぎるんじゃないのかい?」
「真の研究とはどうしても偏ってしまうものなのさ」
そう言いながら環先輩に渡された紙の束を受け取って姫川先輩がそれをペラペラとめくる。
「研究って、姫川先輩は何を」
「知音でいいよ。こっちのほうが好きなんだ」
「そうですか。じゃあ知音先輩は何を調べているんですか?」
知音先輩は得意げに笑った後に、鞄から分厚い冊子を取り出す。そこには『SEXに関する報告書』と書かれている。
「私たちSEX教団部は日々、SEXの研究をしている」
こんなことをしている人間が少なくとも5人以上いて、部として活動しこの分厚い冊子を作っていることに普通に恐怖を覚える。風紀委員会が何をやっているんだ。
「姫川、君の話はいい。今日は一ノ瀬君の話を聞くつもりで呼んだんだ。君も先輩として知恵を貸してあげてくれ」
「君がそう言うなら仕方ない。いいよ、話してみなさい一ノ瀬ちゃん」
知音先輩が俺の目を見て優しく微笑む。こう見るとこの人も年上相応の貫禄のようなものがある。俺は俺が今抱えている問題と昨日あった天宮とのことを話した。
環先輩と知音先輩が両腕を組んで考え込んでいる。
「なるほど、これはとても難しい問題だ。家庭の問題に首を突っ込むようで悪いことをした」
「いえ、いいんです。きっとこうやってもっと早く誰かに話せていたら違った結果になっていたとも思いますし。少なくとも今日みたいに天宮にちゃんと話していればあんな顔をさせずに済んだ」
「それは違うんじゃない? 一ノ瀬ちゃん。私たち赤の他人と、天宮ちゃんって子に話すのではわけが違う。君は彼女のことを信用していなかったから話さなかったんじゃないと思うんだ」
「僕も姫川と同じ意見だ。近い人間だから話せないこともたくさんある。今回、君が話をしなかったのは彼女のことを思ってかもしれない」
「俺が天宮のことを? いいや違いますよ。俺が楽をしようとしただけです」
環先輩はコーヒーを一口啜ってから答える。
「自分でも意外と自分の気持ちはわからないものだ。たしかに君の言うように楽をしようとした部分はあるかもしれない。ただ、そこには周りに心配をかけたくないという思いもあったはずだ。100%他人のために行動するのが難しいように、100%自分のために行動するというも意外と難しいもので、悪意がない場合は特にそうだ」
「でも、俺は結果的に天宮を傷つけてしまって」
「それなんだけどさ、一ノ瀬ちゃん。私は天宮ちゃんはそこまで怒っていないと思うんだよ」
「それはどういう?」
知音先輩が俺の体を足先から頭までジロジロと見る。
「君、コンプレックスはあるかい? 特に性器に関して」
「は?」
おかしな質問に困惑すると同時に環先を見る。しかし、特に助け舟を出してくれそうな空気はない。
「いや、こんなことを聞いたのは私の研究と関係があるんだ。君はなぜ愛の果てにSEXがあると考える?」
「えっと、それは」
そんなことはもちろん考えたことがないのですぐに答えられない。
「私はね、SEXにおいて重要なのは相手の全てを受け止めるという点だと思うんだ。多くの人が身体、特に胸や性器になんらかのコンプレックを抱いていることが多い。SEXにおいてはそれらを隠すことなく見せ合い、あるいは繋げあったりする」
「その話が一体、なんの関係が?」
「つまりね、君のその一人ですぐに抱え込んでしまうような性格、欠点なんか、天宮ちゃんはとっくにわかっていて受け止めてくれると思うんだ。君たちの関係を聞くとどうやら深い部分で繋がっている、私が言うところの精神的SEXを達成しているようだしね」
「じゃあ、天宮は昨日、なんであんな態度を?」
「それは君が考えたまえよ。まあ、要するに君はもっと天宮ちゃんのことを信じてあげるべきだと言うことだね」
天宮を信じる……か。先輩たちの言うことは少し難しくてまだ飲み込めない。ただ人に話してこうやって助言をもらったことで少し気持ちが軽くなる。
「僕も遺憾ながら姫川と同意見だ。そういえば時間は大丈夫なのかい?」
「あっ!」
時計を見るともう塾の自習室に行かないといけない時間だ。俺は先輩たちと黒井さんにお礼を言って図書室を後にした。