一ノ瀬律と残酷な世界
天宮を送る帰り道
寝てしまった天宮が落ちないように綾乃先輩が紐で固定してくれた。そこまでするなら先輩が送ってくれればいいのにとも思ったが、なんか温かい空気になっていたので言わないことにした。
すっかり辺りは暗くなって街灯を頼りに道を歩く。二人でくっついているとまだ少し暑い。
「んっ……律さん?」
「おっ起きたか?」
身じろぎする天宮の髪が首にかかって少しくすぐったい。
「この状況は? それにみんなも」
「お前、酔ったみたいになってそのまま俺の背中で寝たんだよ。会はさっきお開きになった」
「それは勿体無いことをしちゃいましたね」
天宮が寂しそうに少し笑う。
「別にこれから何度でもやればいいし、明日からまた部活もあるんだから落ち込むこともないさ」
「ですね。そんなこと言うなんて律さん少し変わったんじゃないですか? 前までだったら毎日部活なんて嫌がりそうなのに」
確かに勉強時間も大きく削られてしまうだろうし、ASMRを聴く時間も減ってしまうかもしれない。ただ、別にいいと今は思える。
「……ありがとうな天宮」
「急に何ですか?」
天宮が優しく問い返す。
「時々思うんだ、お前と出会わなかったらって。たとえば椿先輩なんかは3年生だろ? あと半年もすれば卒業だ。あんな面白くて優しい先輩がいるってことも知らずに卒業の日を迎えてると思うと危なかったというか勿体なかったと思うんだ」
俺たちが入学してからたった1年で3年生はいなくなる。今回みたいなことがなければきっと出会うことはなかっただろう。
「恵先輩や綾乃先輩たちもだ。高校で一緒にいられるのって二年間だろ? 受験期のこととかも考えるともっと短い。今じゃ入学してから一人でいた二ヶ月もすごく勿体なかったと思うよ。もっと早くお前と出会えていたらって思う」
「何ですか急に。愛の告白みたいなこと言い出して。こっちまで恥ずかしいです」
「俺も恥ずかしいから我慢してくれ。ただ言っておく必要があると思っただけだ。今までちゃんと言わなかったからいい機会だと思ってな」
ずっと波乱の日々だったからちゃんとお礼を言えなかった。大変なことも多いが今の俺の世界はずっと豊かになった。全てがあの日のこいつのおほ声から始まったと思うとおかしな話だ。
「俺はあの時この世界で一番辛いのは自分だって思ってた。ある意味、そう思えていたから頑張れていたのかもしれない。だけど、千春や恵先輩みたいに俺が想像もできない理由で苦しんでいる人がいることも知った。言い方が悪いかもしれないけどそう言う人たちの心の声を聞いて安心した自分もいるんだ」
「それはどういう……」
「世の中のどうしようもないことと戦っているのは俺だけじゃないって、みんながそれぞれに戦ってるって思った。そして人は他結局は他人同士だからその多くは一人で戦わないといけないんだ。でもこの世界はそういう一人で戦っている人がいつも隣にいて時々ほんの少しだけ助け合えたりもする。俺はこの世界のそう言うあり方が少しだけ好きだ。だから、自分のことを一人だと感じている人がいるならたとえ助けることができなくても隣で一緒に戦っていたいと思うんだ。それが大事な人ならで何と戦っているのかだけでもちゃんと知りたい」
「律さん……」
「お前の話を聞かせて欲しい」
ずっと聞いていなかった、聞こうとしなかった天宮の話。聞いても自分が何もできないかもしれない事実が怖い。そういう自身の無力感から目を逸らしていたかったから、あるいは天宮にはどこかでなんの暗い部分も悩みもないであって欲しいい勝手な願望があったから何も聞かなかった。だけど、天宮にも悩みはあるはずだ。ASMR同好会、今はASMR部という居場所に固執するわけや時々見せる寂しそうな表情がずっと気になっていた。
「聞いても何も面白くないですよ?」
「別に笑いたくて聞いてるんじゃないからいい」
「ですね」
天宮は少しの間、考えるように黙ってから口を開いた。
「幼い頃に母が死んだんです。病気で」
「……」
知らなかった。そしてそんな大事なことも今まで知らなかった自分に嫌気がさす。
そこから父親が憔悴したこと、そんな父に心配をかけないために優等生を演じてきたことを天宮は話した。同好会を作ろうとしたのも学校から部活に入る催促があり、父親が心配したためらしい。
「部活強制加入の制度のおかげで今があるってことか。九重さんが言っていたことも確かに否定できないな」
「最低ですよね。こんな私情で律さんを巻き込んでいっつも怪我をいっぱいさせて」
「別にそれは気にしなくていい。俺が勝手に無茶苦茶やってるだけだからな。ところで部活に入る必要があるのはわかったがなんでASMR同好会なんだ? その理由なら既存の部活に入ったほうが早そうだが」
「それは両親の趣味です」
「は?」
「エッチ中に下品な声をわざと出したり、卑猥なことを言って録音したりしていたみたいで、家の奥から母のおほ声が詰まったUSBが大量に」
思春期男子が聞いたらED直行ものの特級呪物がこいつの家の奥に眠っていたということか。天宮もかわいそうに、男でなくても家族のそんなそんなものかなりきついぞ。録画じゃなかったのがせめてもの救いだ。
「お前の父親、ヤバいんじゃないか?」
「いえ、これは母の趣味みたいです。録音の端に楽しそうに父に指示する母の声が入っていましたから」
天宮は懐かしむように笑う。どんな形であれもうこの世にいない母親の大切な記録なのだろう。どんな形であれ。
「それで私、それをずっと聞いていたんです」
「聞いていたってお前、母親の喘ぎ声をリピートしたのか!?」
「はい。何というかいけないのはわかっていたんですがお股が疼いて」
言いながら天宮が俺の背中で下半身をもじもじさせる。天宮は母親似らしい。なるほど、こうしてこの特級呪霊が誕生したのか。
「それからはもうASMR漬けの日々です。まあやりたくもない部活に入るのも正直言って癪でしたからどうせなら自分の好きなものをと。意外と軽い理由で失望しました?」
冗談めかしていっているがその声には微かに不安が混じっている。
「別に失望もしないし、軽いとも思わない。きっとお前にも必要だったんだろ、優等生じゃなくてもいい場所が。それに内容はあれだが天宮の母さんが残したものが今のみんなを繋いでくれたってことだろ? 俺は素敵だと思う」
「素敵って律さん、ふふっふふふ。残したものって自分の喘ぎ声の録音ですよ。そんな綺麗な話じゃないですって」
天宮が背中で大きく笑う。うるさいな、せっかくいい話風にまとめたのに。
「はははっ、でもいいですねそれ。今度、部のみんなで聞きましょうか」
「絶対にやめとけよお前。御園先輩に怒られるぞ」
「御園先輩は正確にはASMR部じゃないから、いいもーん」
「おい、あんまり暴れるなっ」
それからも心底楽しそうに跳ねる天宮が落ちないようにバランスをとりながら歩いた。
もう天宮の家に着く直前。
「そうだ! 律さん。今度映画を一緒に観に行きませんか?」
一緒に映画を見に行く? これはあれか、まさかデートじゃないか。俺は平静さを装いつつ尋ねる。
「映画って、お前なんの映画だ」
「律さん、きっと気にいると思いますよ。実は私の周りには興味ある子がいなくて」
「俺も映画とかあんまり詳しくないぞ」
「それでも律さんと一緒に観たいんです!」
なんだその言い方は。まさかこれは本当にデートなのか。
「『ゴ○ラVS射精の快楽』楽しみですよね!」
デートじゃなかった。
「そんな映画知らんし、俺が気に入りそうってそれ悪口だからな」
「ええっ、絶対に好きだと思いますよ。予告見てないんですか? 出演者も豪華でアカデミー賞確実って言われてるのに」
「嘘つけ! そんなものがアカデミー賞とったら一生映画見ないって約束してやるよ。というか何だそれ、どんな話だよ」
「日本に攻めてきたゴ○ラに政府がふたなり化光線を撃つんです。光線の効果で射精するたびに縮んでしまうゴ○ラが射精の快楽と戦うって話です」
「……主題歌は誰だ?」
「梅津菅師です」
「それって今めちゃくちゃ人気の人じゃないか。そうか、なら仕方ない。まあ世の中の動向を知るのも大事だからな。行ってやるよ」
「本当ですか! やったー!」
全く仕方ない。本当はそんな映画なんか本当にちっとも興味ないし、ゴ○ラの精子の扱いはどうなるんだろうとか政府がどうやってゴ○ラを興奮させるんだろうとか全く気になっていないが天宮が言うなら行ってやるとするか。
「本当は律さんも気になっているんでしょう?」
「うるさい! 席は中央座席でいいか? 当日に行って見れないと困るから予約するぞ?」
「ふふっ、じゃあペアシートでお願いします」
「いやだよ恥ずかしい。普通のをとるからな」
「やれやれまったくこれだから童貞はダメですね」
「お前な」
そんなくだらない言い合いをしているうちに天宮の家に着く。天宮がヒモを解いて俺の背中から降りた。
「というかこれ背負う必要あったか?」
「軽かったからいいでしょう?」
「はいはい」
適当な返事をする。
「じゃあまた明日」
「はい! また明日!」
笑顔で手を振る天宮を横目に俺は帰路についた。
一ノ瀬家自宅前
「……はあ」
家の中の音から人数と位置を把握する。リビングの椅子に大人が二人座っている。父さんと母さんだ。玄関には律花が立っている。いやな予感しかしない。
俺は肩で家のインターホンを鳴らした。
「兄ちゃんっ」
律花がドアを開け、声をひそめて呼びかける。眉間に皺が寄っていた。
「兄ちゃん、その」
「いいよ、大丈夫だ」
父さんと母さんが揃ってリビングのテーブルにいるときは大抵よくないことが起きる。律花の表情から察するに受験のことか何かか。
リビングに入った。
「おかえり」
「ただいま」
母さんも父さんも仕事のスーツのままだ。母さんはいつものように髪を後ろで束ね赤い眼鏡をしている。
「随分帰りが遅かったみたいだけど」
「ああ、学校で勉強してたんだ」
「……そう。まあいいわ。話があるから座りなさい」
黙って席に着く。緊張ですでに胃が痛い。何かやらかしたか?
「これを見てちょうだい」
そう言われて机の上を見ると複数の塾のチラシが置いてある。
「これは?」
「あなたも塾に行きなさい」
「は? うちはそう言うのはしないって話じゃ」
「ええ、そうだったんだけど最近ではやっぱり塾に行かないといい大学に行くことは難しいみたい」
「でも別に成績も悪くないし行く必要は」
「それに最近は帰りも遅いし。本当に勉強しているの? おかしな怪我ばかりしてきて不良とつるんでいるんじゃないの」
「いやそんなことは」
両親には部活のことはもちろん内緒だ。この人たちが勉強以外のことを認めてくれるはずがないし、ASMR部なんて知ったら何を言われるかわかったもんじゃない。
「ここの塾は自習室も完備されているしいいと思うわ。先生も常駐しているそうだから図書館で勉強するよりもいいでしょう」
「いや、勝手に話を進めないでー
「なに? 何か不都合でもあるの?」
「いやそういうわけじゃ」
「花凛ちゃん、律にも考える時間をあげないと」
隣で父さんが仲裁に入る。だけどこの人もきっと
「律、塾は自分で考えて選びなさい。お金は気にしなくていいから今月中に決めるように」
この人も母さんの味方だ。今月中、今が9月の初めだからまだ少し猶予がある。
「これ自習室があるところを選んだからその中から選んで。学校が終わったらすぐにそこに行きなさい。サボらないように先生にちゃんと連絡してもらうから」
「俺が何かしたか? なんでこんな急に」
「何かしたって、放課後に意味のわからない怪我ばっかりしてくるからでしょう。腕が使えない状況で勉強も遅れているんだからパパと話し合って塾に行かせることにしたの」
「そんな勝手な」
「何か言った? とにかくこれで話は終わり、部屋に戻って勉強しなさい。あと、良さそうだったら律花も入れるからなるべく早く決めてね。」
「パパ、ママ……!」
「どうしたの? 律花」
後ろで様子を伺っていた律花が声を上げる。
「兄ちゃんを塾に入れるのはやめてあげて」
「どうして?」
「だって兄ちゃん、せっかくー
「律花、いいから」
「でも!」
首を横に振る。それを言っても仕方ない。ここは大人しく従うしかない。わかってくれたのか律花が引く。部活のことはおいおい考えよう。
そうして今回の家族会議はお開きになったのだった。




