訣別
元宗教部部室
天宮たちが部屋を去ってからしばらく経つ。日が沈みあたりは暗い。もう下校時間になっているため学校に生徒の気配はしない。先生や警備員の人に見つからないように部屋の電気はつけない。代わりに部屋にあった蝋燭に火を灯している。
「なんだか悪いことしてるみたいだな……」
まあ実際に悪いことなのだろうが今は罪悪感よりも子供心が勝っている。夜の学校ってどうしてこんなにワクワクするのだろうか。
蝋燭の火がゆれるのをぼうっと見る。
風紀委員会との勝負のこと、恵先輩のこと、同好会のこと、明日からの学校生活、それらを取り止めもなく頭の中で考えた。
そうして夕べの疲れからか長椅子の上でうとうとし始めていた時だった。
ギィ
後ろでドアの開く音がする。
「んっ、ああ天宮か。随分遅かったな」
「……」
返事がない。妙に思って後ろを振り返ろうとすると手で顔を抑えられる。
「どうした?あまみー
いや天宮の手じゃない。小さく白い手をしているが天宮よりも一回り大きく少し骨張っている。
「ねえ、なんであんなこと言ったの?」
恵先輩だ。先輩の息が耳に当たるのを感じる。その声はいつものようにからかう感じではなく非常に落ち着いている。俺は振り返らない。
「嫌いだからです。風紀委員会が」
「本当はいい子達なんだよ?ただ最近は色々とうまくいってないだけで」
「俺はその本当を知らないので」
二人とも黙る。
蝋燭の先が濡れるように溶けている。
「私、律くんの雌奴隷になってもいいよ?」
ひっそりと囁く声が少しだけ震えているのを感じる。先輩は今どんな表情をしているのだろうか。こんなに近くにいるのにその顔を見ることはできない。
「それは勝負に負けてくれるということですか?」
「うん、そうだよ」
恵先輩の髪がほおにあたる。
「ありがたい話ですがお断りさせていただきます」
「どうして? 君が勝てばこの体を好きにしていいんだよ」
そう言って先輩は俺の前に回り込んで来る。後ろから蝋燭の光を受ける先輩の顔は俯いていてよく見えない。
「ほら、触っていいんだよ?」
先輩が俺の手を取って自身の胸元に近づける。
俺は取られた腕に力を入れてその動きを止めた。
「……どうして触ってくれないの?」
怒るような、訴えるような声で先輩が聞く。先輩の声はもはやその震えを隠していない。顔を見なくても泣いているのがわかる。ここで初めて先輩が顔を上げて俺と目があう。
「僕が男だから?」
顔が赤く見えるのは蝋燭の火の光を受けたからではないだろう。目には涙をいっぱいに溜めている。溢れ出したそれを引き止めようとするように眉を釣り上げ歯を食いしばっている。
先輩のこの表情を俺は知っている。多くのことが解決した今になっても決して忘れられない景色。
あの日、降り始めた雨で顔を濡らした千春の顔。どうしようもない状況で悲しみに暮れながら助けを求めるあの表情。
だが、俺はそこから恵先輩を救い出す言葉も持っていないし先輩の気持ちを本当に理解することもできない。あの時と何も変わらない。あるいは他人というのはそういう生き物なのかもしれない。
「俺は風紀委員会の奴らが嫌いです。それは俺の嫌いな人たちと同じ目をしているからです。自分が考える幸せを他人に押し付けるあの思考が俺は許せない。だから勝負を挑んだんです。言ってしまえば八つ当たりのようなものです」
俺の手を握る先輩の力が強くなる。
「じゃあ、私のことは救けてくれないんだね」
「……」
先輩の爪が俺の手にめり込む。
「君のことは初めて会う前から知っていたんだ。千春ちゃんと君は部活に入っていなくて目をつけられていたからね。そこで千春ちゃんの状況も知った」
「風紀委員会なのに部活に入れなかったんですね」
「ちょうどその時に風紀委員会の子達が暴走し始めたんだ。生徒会と全面戦争だなんていう子もいてさ、笑っちゃうよね。それを抑えるために必死だったから部活動に入っていない子達への指導なんて余裕はなかったんだ」
先輩の声は段々と落ち着きを取り戻していっている。
「それに少し同情もあったんだ。環境のせいで自分を殺さないといけない彼女に自分を重ねていた」
「じゃあ千春のことを嫌いって言ったのはどうして……」
「羨ましかった。彼女だけ君に救けられた。あのどうしようもない苦しみから抜けて楽しそうに笑っていた。僕はまだそこにいるのに」
「別に俺は千春を救けた覚えはありません。千春が自分の力で自分の心で前に進んだだけです。俺ができたことなんて何も……」
「そんなこと知らないよ!彼女だけずるいじゃないか、まるでお姫様みたいに……僕はそうじゃないから……!」
「……」
俺にはかけるべき言葉がわからない。そして、今ここで恵先輩に伝えたい言葉も持っていない。
「……わかったよ。そうだね、僕は僕自身で私を救ける。勝負に勝って風紀委員の平穏も君のことも全部手に入れる。その結果、誰が不幸になっても構わない」
先輩が俺の手を離す。そして、黙って部屋を出ていった。