俺の屍を超えていけ
6月28日金曜日 放課後
俺は天宮と共に自宅へ向かって歩いていた。7月に入ってもいないのに、街はすでに蒸し暑い。俺の家は学校から徒歩10分、自転車は使わない。運動不足解消のためもあるが、両親のいる家に帰り着くのを少しでも遅らせるためだ。
「律さん。私さらにおほ声が上手くなったんです。やってみてもいいですか?」
俺は周りを確認する。人はいない。家に着くまでもまだ距離はある。
「やってもいいが、ボリュームは考えろよ」
こいつが優等生としてそこそこ名前が知られていたおかげで、今回の家庭教師の件が両親と妹に通ったのだ。痴態を誰かに見られるわけにはいかない。
「おほおお♡、きてぇ〜、この変態JKのぉ○○○○にぶっとい〇〇〇〇ぶちこんで♡」
まじでこいつ最悪だな。人にこれを直接聞かせられるなんて頭がどうかしているとしか考えられない。
そもそも、挿入する前におほ声を出しているのは不自然だろ。
こんなやつと、普段の成績を争っていたと考えると虚しくなってきた。
唯一の救いは忠告を聞いて、ボリュームを下げてくれていることだ。日常会話レベルにしてくれている。光景的にはなかなかシュールだが。
「妹さん、苦手科目や得意科目ってありますか?」
「うわっ、急に戻るなよ」
いつの間にか、おほ声報告をやめていた天宮が突然聞いてくる。ふむ、苦手科目と得意科目か。
「たしか、国語が苦手って言ってたな。理系科目はそこそこ出来るらしい」
「なるほど・・」
天宮が口元に指を当てて、ぶつぶつと呟いている。天宮の制服にはほんのりと汗が滲んでいる。妙にエロい。悔しいがこうしていると普通に魅力的な少女なのだ。
「お前、妹の前で変なこと言ったらその時点で同好会の話は無しだからな」
「わかっていますよ。妹さんはまだ中学生ですからね」
妹が高校生だったら言うつもりだったのか。本当に妹と会わせていいのだろうか。家庭教師と言いながら、かえって教育に悪い気がする。
「同好会といえば、三人目の話はどうなった? 今のところはまだ同好会として成立していないだろう」
そう。俺が入るとしても天宮と二人。同好会は成立しない。俺の家で妹の家庭教師をしつつ活動するなら、無理に同好会を作る必要もないと思うが。話していた感じだと、同好会を作ることに少なからず執着がありそうだった。
「一人だけ心当たりがあるのですが難航中です。気難しい方で」
「へえ、勧誘なんてしてたんだな。」
「そうなんです。挨拶をしたら逃げられてしまって」
なるほど、挨拶というのは例のアレのことだろう。どうやら“気難しい方”ではなく、まともな方であるらしい。俺としては喜ばしい限りだ。まともな人間を増やして天宮要素を薄めたい。
そんな話をしているうちに家に着いた。
「ここが一ノ瀬さんのお家ですか」
二階建ての一軒家。今、両親はいない。妹はすでに帰っている。部屋で勉強でもして待っていることだろう。
「いいか、天宮。下品なのは絶対ダメだからな」
「わかっていますよ。律さんは私のことをなんだと思っているんですか」
痴女。
と言いかけてやめた。ここで争うのは時間の無駄だ。思ったことを何でも言わないというのが大人の対応なのだ。
「ただいま〜」
「おかえり、兄ちゃん。それと天宮さん、初めまして」
妹が出迎えてくれた。服装は学校のセーラー服で、セミロングの髪の毛は後ろにポニーテールでまとめられている。いつも通りの格好ではあるが、前髪を気にしたりする様子を見るに少し緊張しているのだろう。
「律花さん、こちらこそよろしくお願いしますね」
「どうぞ入ってください天宮さん! 前の階段を上がって右の部屋です」
勧められるままに天宮が入っていく。その後ろで律花が俺の裾を引っ張る。
「すごく綺麗な人じゃん兄ちゃん、付き合ってんの?」
「まさか、冗談じゃない」
ふーんと意味ありげな返事をしながら律花が天宮さんの後ろに続く。
「天宮さんの声、どこかで聞いたことあるような気がするんだよね」
「律花、こっちに来なさい」
律花を引き寄せて、両肩を握る。
「な、なんだよ兄ちゃんっ」
そう、こいつは一昨日ヘッドホンから天宮のおほ声を聞いている。あれが天宮のものだとバレるのは非常にまずい。どんな誤解があったかわかったものではない。
「律花。天宮さんの声は綺麗だからきっと声優さんとかと混ざってるんだ。そうだろ?」
「そ、そうかな。私、アニメとかあんまり見ないけど」
律花が目を合わせてくれない。様子もおかしい。これはまずいな、思い出しそうになっているのかもしれない。
仕方ない。必殺技を使うしかないな。
「律花、兄ちゃんが悪かった」
そう言いながら、律花を強く抱きしめる。
昔から何かあれば、これで解決してきたのだ。
ぐずった時や喧嘩した時はこれでなんとかなる。
「ゔぁゔぃゔぁでんだ! ゔぃいじゃん!」
律花が俺の胸元で何か叫びながら暴れている。
そういえば、こうして律花に抱きつくのはいつ以来だろうか。なんとなく久しい気もする。
「律さん、何してるんですか?」
天宮が階段から降りてきていた。階段を上がっても俺たちがついてこないから様子を見にきたのだろう。
「天宮、お前のためなんだ」
俺と天宮ならこれだけ言えば伝わるはずだ。律花にあのASMRがバレるのは何かと不都合だろう。こんな変態を家庭教師にはできないと言われるかもしれないし。
「気持ち悪いです。律さん」
天宮の目が冷たい。
どうやら俺と天宮に阿吽の呼吸は無かったらしい。
「兄ちゃんのばか!」
「行きましょう。律花さん」
二人はそそくさと律花の部屋に向かっていった。
空気的に俺はいかないほうがよさそうだ。俺への信頼を犠牲に、天宮の秘密を保持し、二人の距離が縮まった。トントンと言ったところだろう。
「……いや、釣り合ってないよな」
ここ数日で急速に低下する妹からの好感度を思いながら、俺はトボトボと自室に向かった。