土下座
田中さんが去った後、外は夜なのだろう、病室は暗い。
そんな中、一人で──
「ん?」
ベッドの右手から水滴の音がする。
驚いて音のした方を見ると
「うわあっ!!」
──そこには土下座の格好の女性がいた。
土下座をしているため顔は見えない。女性と判別したのはその長い黒髪からだ。
身じろぎひとつしていない完璧な土下座。
暗い部屋だとそれは大きな黒い塊にしか見えず、はじめに見た時は肝を冷やしたがこれは
「十叶先輩……なにやってるんですか」
十叶先輩だった。
「あの、これは」
「すまなかった」
いつもの凛々しい声の中に、少しだけ潤んで掠れた調子が混じっている。
「いやすまなかったって」
「本当にすまない」
いうと同時に十叶先輩が大きく鼻を啜る。最初に聞いた水滴の音は彼女の涙のようだった。
「いや十叶先輩が謝ることなんて」
「ある。今回の一件はすべて私のせいだ」
「それは違うでしょ……」
今回の件を誰かのせいとか言うのは難しい気がする。今回の件だけでなく、世の中の多くの問題がそうなのかもしれないが。
まあ、少なくともこの人だけのせいではないし、ましてや帰零先輩のせいでもないはずだ。強いて言うならが浮かばなくはないが、俺はその人のことをよく知らない。
「律は優しいから許すかもしれないが、私は……私が」
「……」
彼女はきっと自分の家の問題に俺を巻き込んだと思っているのだろう。
「十叶先輩。今回の件、別に帰零先輩は十叶先輩への嫌がらせのために俺を殺そうとしたんじゃないと思いますよ」
「……」
「彼女は……誰かに助けて欲しかっただけな気がします」
「その誰かが、君である必要はなかったはずだ」
「それはそうですけど」
気まずい沈黙が流れる。
「でも俺は今回のこと、かえって良かった思います」
「……どうして」
「知らないままにはしたくなかったから」
ガリ──床を描く音がする。
自分の考えを言ったつもりだったが、すぐに失敗だと気づいた。
「私は知っていた。それでまた知らないふりをしたんだ。律の時と同じように」
「それなら俺だって旅行の時点で話は知ってましたから。あそこまで深刻だとは思っていませんでしたけど」
「そうじゃない。律は部外者だ。彼女のことは私が、あるいは父がなんとかすべきことだったんだ」
「それは……寂しいですよ。それにきっと、十叶先輩のやろうとしていることは難しいと思います」
いまだに顔を上げない十叶先輩。
「難しい……」
「はい。きっと俺たちが手を伸ばすだけじゃダメなんです。彼らもまた手を伸ばさないと、誰かに助けを求める意思がないと。そうじゃないと、きっと伸ばした手も握ってもらえないから」
「今回、帰零がその手を伸ばしたと……?」
「歪なやり方でしたけど、俺はそう思いました。彼女のことを救えたのはあのタイミングだけだったんじゃないかって」
本当にそうだろうか。
あの話を聞いてからすぐに俺は帰零先輩の元へ行って、話を聞くべきだったのではないだろうか。
そうすれば防げた傷がたくさんあったのではないか。
考えずにはいられない。それと同時に、そうしてもきっとあしらわれて終わっただろうという確信もある。
それでもあの海の時みたいに無理矢理……
「そうか……律はそう思うか。ありがとう、私を気遣ってくれているのだな」
これはきっと十叶先輩だけじゃなくて自分への言い訳もあるから、そう言われると胸が痛かった。
「そろそろ顔を上げてください。いつからそうしてるんですか?」
「律が運ばれてきた2日前だ」
「二日前!? 食事は!?」
「律が目覚めるまでは取らないと決めていた」
「ばっ!! 先輩の方が倒れますから、顔を上げてください!」
まだ折れた足が上手く動かず、ベッドの上から上半身の動きだけで促す。
「……」
そして先輩がゆっくりと顔を上げる。
「先輩……その顔──」
「……」
これはなんというか、その
「ひどい」
「ひどい!?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっているその顔は元の凛々しい整った顔立ちの面影すらない。「だぁっっで、律が全然おぎないから」
そして子供のように破顔して泣き始める。
「あ〜、夜なんで泣かないで」
「だっで、だっで、」
それから会長は「うわ〜〜〜〜ん」と声を上げて泣き始め、俺はここが個室であることに心から感謝した。
そして1時間後。
「……自分勝手すぎる」
そして一通り泣き止んだ会長はそのまま俺のベッドに入ってきて寝てしまった。人が動けないのをいいことに問答無用で入ったかと思えば、寝付くまでしきりに「臭くないか?」と聞いてきた。
隣の寝息を聞きながら、これからのことを考えた。
二日後、退院した俺は、結論からいうと、帰零先輩と同棲することになった。




