物語の帰結
あれからしばらく無言になったり、ぽつりぽつりと話しながら、随分と時間が経った。
「そろそろ着くよ」
先輩の言う通り、窓から海が見えてきた。
海に溶ける夕日は、溢れ出る血液のように見えなくもなかった。
そして、相変わらず窓の外では人が死のうとしているとは思えないほど、呑気な日常が流れていた。当然、人が死ぬなんて彼らも思っていないのだろうが。
「……どうせ死ぬなら聞いてもいいですか?」
「覚悟が決まったみたいだね。いいよ、好きなことを聞きなよ」
「なら……」
死ぬ気なんてさらさらないがそれでも知りたかったこと。
「まあ、私の家庭環境なんて聞いても──」
「手品、好きなんですか?」
「ん?」
予想外の質問で驚いたのか、言葉が空振りするようにしばらく小さく口を開けたまま帰零先輩は黙っていた。
「好きじゃないよ全然」
「じゃあ、どうして?」
「……食いぶちになるかと思ったんじゃない?」
「それだけですか?」
「何が言いたいのかわからないな。君の期待するようなことは何もないよ」
“俺の期待すること”がわかっているなら、俺の言いたいこともわかっているはずなのに。
「それでおしまい?」
「いや最後に一つだけ」
「いいよ」
それから少し間をとって
「もう生きたくないんですか?」
この問いが正しいのかわからない。天宮と会う前の俺に同じ質問をしたらなんて返ってくるのだろう、なんてぼんやり考える。
「……生きたいと思ったことなんて一度もないよ」
この人にはもう何も届かないのだろうか。
一度死ぬと決めた人間を、そこまで追い込まれた人間を、助けることは出来ないのだろうか。
救いを求めない人間を救うことはできないのだろうか。
そしてエンジンが止まる。
「ついたよ」
動けない俺は車から半ば強引に帰零先輩に助手席から引き摺り下ろされる。
あたりに人の気配は一切なかった。
車から降りると、視界一面に海が広がっていた。
ふと天宮と一緒に来た時のことを思い出す。あの時は砂浜だったが、今はコンクリートでできた海岸だ。
近くにそんなにたくさん海があるとは思えないから、きっとあの時見た海と同じだろうと思う。対岸かもしれない、と思った。
そして、俺は囚人のように帰零先輩に引っ張られる形で少しずつ岸へ近づいていく。
もうすぐ日が沈む。すでに海の向こうには夜の気配が現れている。
そして、岸の淵にまで来ると意外と海まで距離があることがわかった。深さもわからない海が静かに佇んでいる。
高さによる恐怖はあった。しかし、なぜか死への恐怖はなかった。
「あの……最後にいいですか」
「最後の質問はさっきしたと思うけど」
「すみません。でも、これだけ聞きたくて」
「……いいよ」
帰零先輩の短い黒髪が海の濃い青を反射して、それが風に不機嫌に揺れる。そこに青黒いピアスがちらりと光る。
「どうして、海なんですか?」
単純な疑問。しかし、海でなければこんな手間はかからなかったはずだし、何か理由がありそうな気はする。
「母がここで一度、私と共に死のうとした」
「っ……」
「私が小学生の時。夜、起きたら、この場所で、後ろにはヘッドライトのついたままの車があって、私は母に抱えられていて、母がここから落ちようとして、私は必死に暴れたのを覚えている……今でも忘れない。あの日、私をそこからじっと覗き込んでいた暗い真っ黒な海を」
どこか辿々しく、記憶を辿るように語る帰零先輩──の手は震えていた。
だから──その手を握った。
「っ……?」
口を半開きにして帰零先輩が俺の顔を見ている。
「ははっ、なんのつもり?」
その目はしかし全く笑っていない。乾いた笑いだった。
言うべき言葉が何も出てこない。いろんな経験をしてきたが、それでもやはり千春を助けた時から何も変わらず、俺は漫画の主人公のようにヒロインを救う台詞を持っていなかった。
だから──空を見た。
人が死のうとしているのに、いつもと何も変わらず、無関心に佇むあの空を。
「あっ」
そうか。
「どうしたんだい?」
先輩の睨むような視線も、今は不思議と気にならなかった。
それよりも気づいたことがあったから。
「むかつきますね、あの空」
「……随分と詩的だね」
「この世界で苦しんでいる人がこんなにいるのに、何も知らないみたいな空だ。落としたくなる。帰零先輩の言っていたことがわかった気がしますよ。いや、俺もずっとそうだったのかもしれない」
「じゃあ、一緒に死んでくれるかい?」
思う。
人生にある大きなどうしようもない壁みたいなもの。現実って名前らしいが、その前でどうしようもなく悲しむ人、葛藤する人、怖気付く人、絶望して死のうとする人。
そして、意味がないと知っていても怒り、ぶつかる人。
そんな人間を俺以外にもう一人、俺は知っている。
そいつはぶつかっていくというよりは、ずっと叫んでいた気がする。無意味にも。
でも、やっぱりちょっとだけかっこいいなと思う。
「わかりました。いいですよ、一緒に死にましょう」
「っ……そうかい。君がそう言ってくれるなら、私も憂いがない」
「代わりに約束してくれますか」
「いいよ、死人に果たせる約束ならね」
「もしここで死ねなかったら、今度は俺と一緒に生きてください」
帰零先輩が険しい表情で押し黙る。
「まさか生きて戻るつもり? むりむり。この鎖には本当にタネも仕掛けもないんだから。君もその重みを感じているだろう? おそらく落下した時点で気を失ってそのまま溺死さ」
「約束してくれるんですか?」
「人の話をまるで聞いていない。まあ、いいさ。約束しよう」
そして一方踏み出す。
あと一歩で俺は死ぬ。
「それじゃあ、私も」
そう言って帰零先輩が握っていた俺の右手と自身の左手に手錠をかける。
「まあ、この物語はこれでおしまいだ。失礼のないよう、しっかりと口上を述べないとね」
それから少し息を吸い
これから始まりますは獅子宮帰零の脱出ショー
タネも仕掛けもございません。
もちろん奇跡もありません。
これから起きるは当然の帰結。
この汚らしい世界から精神を
肉体の檻から魂を
脱出させて見せましょう。
ではみなさん、さようなら。
すべてを零に返しましょう。
青すぎる空の下、二人は海へ飛び込んだ。