この世の汚れた何もかも全部死んでしまえばいいと、彼女はそう思う
「人殺しって、まさか俺にそれを手伝って欲しいってわけじゃないですよね」
「ははっ、まだ冗談が言えるんだね。まさか、本気で言っているわけではないだろう?」
「……やっぱり俺を殺そうって話ですか?」
「そうだよ」
そして再び車内はアスファルトとタイヤの擦れる音だけになった。
「少し寂しいね。何かいい音楽が流れているといいんだけど」
そう言って先輩が車のラジオを流す、と
Hold me, love me Hold me, love me
「ビートルズの”Eight Days A Week”ですね」
「そうだね。あまりいい選曲ではないようだ」
帰零先輩の表情が少しだけ険しくなって、再びラジオに手をかけようとする。
「先輩、なんで俺を殺すんですか?」
先輩の手がぴたりと止まり、そして再びハンドルに手が戻る。音楽は止まない。
「君が獅子宮十叶の初恋の相手であり、そして現在でも意中の相手であるからだ」
「復讐ですか?」
「復讐? 妙なことを言うね。私は別に彼女に何もされてはいないよ。まあ、私と彼女の場合、何もされていないということがいいことかどうかはわからないけれど」
「……じゃあ、何でこんなこと」
「むかつくから」
──この世の何もかも。
「やっぱり家のことですか? 家、と言うよりも十叶先輩の、そして帰零先輩の父親のこと」
「君、ちょっとうるさいなあ」
先輩は苦笑いを浮かべるが、決してその目は笑っていない。イラついているようにも見える。
「それはうるさくもなりますよ。殺される理由もわからないんじゃ死にきれません。それは殺す側としても不都合でしょう」
「随分と余裕があるみたいだね。誰かが助けに来てくれるとそう思ってるのかい?」
「……」
「それは諦めた方がいい。そもそもあんな地下空間と車を用意している私があの化け物たちの対策を怠っていると思うのかい?」
「まさか、先輩たちも殺したんですか!? もしかしてあの食べ物になにか」
「人聞きが悪いなあ、そんなことはしないよ。できないと言う方が正確かな。毒は綾乃ちゃんにバレる。マリアちゃんにはもしかしたら毒なんて効かないかもね」
「じゃあ、何で」
「あの部屋には細工があるから。まあ、そのうち出られるさ。その頃には君は死んでいると思うけど」
「……そうですか」
「仮に部屋を出れても、移動手段のない彼女たちが今更、追いつけるわけはないけどね」
鎖を解こうと体を捩るがびくりともしない。俺にできることはない。
「それで、何で俺が殺されるのかわからないんですが」
「う〜ん?」
「言い方はアレですけど、殺すなら十叶先輩なんじゃ」
「あっはっは。何も分かってないね、君は」
ただ黙って帰零先輩の方を見る。
「殺して何になる? 死ぬ時の苦しみなんてほんの一瞬だ。もしかしたら醜悪なその人生を反省する暇さえないかもしれない。それじゃ意味がない」
「じゃあ、やっぱり十叶先輩への復讐、いや何もされてないから嫌がらせ、何ですか?」
「そうだね。私怨……いやこれはもう義憤と言ってもいいだろう」
「わかりません」
「わからない? 嘘はよくないな。君は分かっているだろ」
「いや、だから何を」
──何の苦労も知らずにのうのうと生きている連中が憎い──
「思ったことはないかい? あるだろう。君の家庭環境であればそのぐらいあるだろう」
「……」
「君が天宮清乃と出会う前に友人を作らなかったのは勉強が大変だったから、それだけじゃない。ろくに勉強もせずに遊んでいる、それが許されている連中が憎い。そんな気持ちがあったんじゃないかい?」
思い返す。
最近ではほとんど実感できなくなった過去のこと。灰色の思い出。
あの時の俺が今の俺を見たらなんて言うだろう。怒るだろうか。
「君を殺すのはね、つまり見せつけるためなんだよ。この世の醜悪さを」
「醜悪さ?」
「そうだ。真面目に生きている人間が、善良な人間が、何も考えない恵まれた人間どものエゴと無関心、怠惰によって苦しむこの世界を彼女に突きつける」
「そんなことして何になるんだ」
「何にもならないかもね。でもそれでいい。恵まれ、ろくに苦しみを知らない人間が絶望してくれればそれでいい。それで私は救われる」
信号が青になって車が動き出す。
「ねえ、そう考えると君は私のヒーローだね。どっちか言うとキリストの救世主って感じだけど」
「そんな大した人間じゃないですよ、俺は」
「何を言うんだい。これまでたくさんの人を救ってきたじゃないか」
「救った……そんなことはないですよ。俺はただムカつくものに逆らってただけです」
「そう、じゃあ私と同じだ」
“同じ”なのだろうか。わからない。
「まあ、今回だけは頼むよ。私のヒーロー君。それとも私のような薄汚い人間は対象外かな」
「薄汚ないって……」
「汚いよ。知らない男たちに何度も抱かれてきた。生きるにはお金が必要だ」
「そんなことが、人の価値を、あなたの価値を貶めるとは思わない」
振り絞った声はそれでも少し震えていた。この人の生活は俺が想像する以上に。
「獅子宮十叶を生徒会から下すように手を引いたのは私だ。私の仲間は多くてね、いろんな部活に入っている。あんなイベントは茶番さ」
だんだんと話す気力が削がれていくのがわかる。
「知りたくなかったかい?」
「そうだと言ったら、怒りますか?」
他人の無関心に怒りを覚える彼女には聞き捨てならないだろう。
「……いや別に怒らないよ。私も知られたくなかったことだ」
「どうして」
「君にはいい先輩のままいたかった、なんてことは都合がいいかな」
先輩はずっと前の方を見ている。
「都合がいいなんてことはないですよ。ずっとこれからいい先輩でいればいいんです」
「それは無理だね。だってそれは私の本当の姿ではないのだから」
「俺だっていい人間じゃないです。この世のみんな、頑張っていい人間のふりをしてるもんじゃないんですか」
「……」
しばらく先輩は考える。そして
「じゃあ、私の恋人になってよ。嘘でもいいから。ずっと一生、私の恋人に。そうしたら殺さないであげる」
そう言った。