水面と蛍とあなたの熱と
地元の小さなお店を周り、所々で特産品を買い、お昼には名物の鰻を食べて非常に満足した俺たちは落陽を背に再びお婆さんの家へと戻っていた。
「楽しかったな」
「やね。途中でお金が足りんくなっとったけど」
「いや、あれは事故というか、もっと財布に入ってると思ってたんだよ」
浮かれすぎていたせいか、途中のお店でお金が足りずに千春に建て替えてもらったのだ。千春にああいうところはあまり見せたくなかったんだが。
「しかし、天宮も十叶先輩もなにしてるんだか」
「そうやね」
そう言って千春はすでに星が見え始めた紺色の空を見つめている。
「安子さんのところに行こうか」
「だな」
俺たちは静かに、この静かな町を二人で歩いた。
「お待ちしておりました」
和装の安子さんが静かに頭を下げる。その動作からわずかに菊の花の涼しい香りがする。
「本当にこの二日間、何から何まですみません」
「いいえ。構いません」
そう言って俺と千春に舟に乗るように促した。
千春は乗り慣れているのかすっと舟の上に歩いていったが、水の上に浮かぶ舟はいかにも危なげに見えて、自分の重みでひっくり返るのではないかと不安になる。
「怖いと? ほらっ手握って」
からかうように笑う千春が俺の方へ手を伸ばす。
「ありがとう」
千春の手をとって舟に乗ると、その揺れに反応して辺りをふわりと蛍が飛んだ。
──もう夜だ。
柳川の町は暗く、虫の音が寝息のように聞こえる。
「それでは行きましょうか」
広く長い舟の上で千春と隣り合わせに座る。この時期にはまだ必要ないけれど、舟に備えられた電源のないこたつに足を入れて。
安子さんがそっと櫂を漕いで、夜の水を舟が押して進み始めた。
「本当に綺麗だな」
「やね」
町は街灯を必要としない。ただ蛍光と水面を濡らす月明かりだけで十分だった。
夜の水上は少しだけ肌寒いけど、いつの間にか触れ合っていた千春の肩から伝わる体温がそれを補っていた。
それから何も話すことはなく静かに舟は進む。
千春は白い月明かりの中で、頬にだけ薄い紅色がさしている。そして、どこを見るともなく向こうの水面の方へ目を向けている。
ふと、互いの手が触れた。
千春の細い指がビクッとして、それからしかし、指はもう一度、俺の指と重なった。
「千春……一つだけいいか?」
「うん」
こくりと小さな顎を少しだけ動かす。
「もしかしてお婆さんの家にいれば、こっちに残ることもできたんじゃないか?」
ここ数日、この町で、あの家で過ごして思ったこと。
「……ううん。うちのお父さんとお婆ちゃん、すごく仲悪くて。それだけはダメだって」
「自分の都合で引っ越すことになったのに、随分と勝手なんだな」
「うん。私も思っとったよ」
千春の手に熱がこもる。
「でもみんなに会えたから。今は大丈夫」
千春が照れて笑う。
「ありがとう、律。あの日、私の手を取ってくれて」
「いやたいしたことじゃない」
「たいしたことだよ」
ぎゅっと痛いほどに手が握られている。
気づくと、虫たちまで何かを待つようにじっと声をひそめている。
「律、ありがと」
それから
──律のこと好き
それからまた千春は俯いた。
じぃーと手の熱が伝わっていた。




