無垢は罪の原泉なりや
「一ノ瀬様は女性の扱いというものがまったくわかっておいでにないんですね」
火おこしの最中、安子さんにからかわれる。
どこか儚い笑顔とそれが似合う少しだけ時代錯誤な和服姿に思わず見惚れる。
「まあ……たしかにわからないですけど。でも、そんなものはわからない方がかえっていいと生意気にも俺は思いますよ」
そんなことを言いながら、ふと自分が安心感のようなものを覚えていることに気づく。
考えてみれば、俺は大人の女性とゆっくり話す機会をあまり持たなかった。
なんとなく、この人が母親だったらどんなだろうと思った。
「そうですね。女性を手玉に取るような男の人というのはあまりいい印象はしないですね。ただ、無垢すぎるというのも罪ですよ」
そう言う安子さんの目はどこか遠い。
パチパチと炭が音を立て始める。
「……何か経験が?」
「経験……どうでしょう。しかしたとえあったとしても、それに気づかないのが無垢の罪ではありませんか」
「……そういうものでしょうか」
俺は安子さんが、そう言う無垢な男性に振り回された経験を聞いたつもりだったが、どうやら彼女は自身の無垢について話しているようだった。
初対面の女性に深掘りする話題でもないし、どこかはぐらかされた気もするから適当に相槌を打つ。
「ところで一ノ瀬様はあの3人のうち、誰が好きなのですか?」
「えっ」
「それともすでにどなたかと交際を? それともあの3人以外に……」
口元に手を当てて、ぶつぶつと考え込む安子さん。今まで大人びた雰囲気と違って、どこか恋愛好きの女児に見える。
そして、そんな子供のような無邪気な笑みを浮かべ
「どうなんですか? 一ノ瀬様」
ずずいと距離を詰めてくる。
柳川に来た時にした美しいホテイアオイと似た甘い香りがした。
「いや、別に俺はそういう浮いた話は」
「嘘はいけませんよ。あんなに素敵な女性に囲まれて何も感じないほど、鈍感ではないでしょう」
「……」
綺麗な瞳でじっと見つめられ、なんとなく目を逸らす。
出来の悪いテストを誤魔化す子供のようだな、と我ながら思った。俺の家の場合はこんな呑気な光景にはならないが。
「一ノ瀬様……」
しかし、俺の家でなくても、呑気ではいられないようで──というのも詰め寄った安子さんの目がひどく険しいものになっていた。
「一ノ瀬様、出過ぎた真似かと思いますが一つだけ忠言を」
「ええっと、はい」
「はっきりしないのは一番いけません」
逃げると思ったのか、それとも無意識か、俺の服の裾をギュッと掴む。
「……」
「無垢もいけませんが、やっぱりはっきりしないのが一番いけません」
「一緒のことじゃないんですか」
「……近いものですがやっぱり違います。はっきりしないのはエゴです。それがたとえ相手を傷つけないためでもやっぱりエゴです。その半端が人を死に追いやってからでは遅いのです」
「死って……そんな、大袈裟な」
「本人にとっては大事ですよ」
そして優しく俺の裾から手を離す。
「ごめんなさい。言い方が強すぎましたね。でも覚えていて欲しい」
安子さんが火のつきかけた炭にパタパタと扇子で風邪を送る。
今は永遠に続きません。それはきっとまやかし
どうか誤魔化さないで、どうか騙されないで
その言葉はどこか安子さんの口からではなく、この空間そのものから発せられているようでもあった。
「さあて、食べますよ! 肉」
それからしばらくして着替え終わった天宮と十叶先輩がやってきた。
「焼かないと肉は食えないぞ」
「なんでまだ焼いてないんですか!?」
「火を起こしてたんだよ。お前、炭に火つけるの舐めてるだろ。けっこう大変なんだぞ」
本当は安子さんと話し込んでいたから作業が遅れたのもあるが。
「まあ、いいですよ。私、肉はレアの方が好きですし」
「いや、生だから」
近くにあった肉をさい箸で掴み、食べるふりをする天宮に律儀にツッコミを入れる。これで作業が遅れたのはチャラだ。
「ごめん、みんな。もう始めとる?」
千春が小走りで庭に出てくる。千春もすでにジャージに着替えていた。
「千春、そのジャージ似合ってるぞ」
「は? どういう意味?」
視界の隅で天宮と安子さんがやれやれと肩をすくめているのが見える。
「千春、お婆さんは? 呼んでくるって言ってなかったか」
「ああ、なんか最近になって菜食主義に目覚めたらしくて。バーベキューには参加しないって」
「そうか」
としか言いようがない。コメントしづらすぎるだろ。
「律、見ろ! このピーマン、すごく立派だ……待っていろ、すぐに食べさえてあげるからな」
そう言って十叶先輩が包丁でピーマンを捌き始めた。なんとなく不器用なイメージがあったが意外と器用にこなしている。
でも、別にピーマンは食べたくないな。菜食主義のお婆さんに持って行ってはどうだろう。
「皆様、食事を始めるのもいいですが先に乾杯はいかがでしょうか」
「そうへふね」
天宮が自分だけ焼いて食べていた牛タンを慌てて噛みちぎり皿に戻す。
そして安子さんがそれぞれジュースの入った紙コップを配った。
「じゃあ、千春さん、お願いします」
「えっ 私?」
千春が戸惑いを見せつつも、乾杯の音頭を考える。そして
「ええっと、じゃあ先日の生徒会との一件の勝利を祝って」
十叶先輩がとんでもない表情になっている。やめてやれよ。
「っていうのは半分、冗談で。ええっと柳川にようこそ! 乾杯!」
「「「乾杯!」」」
そして楽しいバーベキューが始まった。




