一ノ瀬律の事情
再び放課後の教室。天宮が俺の目の前に笑顔で座っている。
「どうでしたか? 私のASMRは?」
無言でノートを渡す。表紙にはダメ出しノート100と太文字で書いてある。
「これだけは直接言っておくが音量の調整だけは絶対に事前にしておけ。あとは全てノートに書いてある通りだ。わかったな?天宮」
「急に呼び捨てなんて、何だか距離が縮んだようで嬉しいです。私も一ノ瀬….いや律と呼び捨てでもいいでしょうか?いや早すぎますよね、ごめんなさい! つい舞い上がってしまって。こういう同じ趣味を持つ友人というのを持ったことがなくー」
天宮が何かごちゃごちゃ言っている。俺の話はちゃんと聞いていただろうか。まあ、いい。こいつとはこれで終わりだ。
「拝見しますね」
彼女がゆっくりとページをめくり、熱心に内容を見ている。彼女はこの場で泣くかもしれないし、怒り出すかもしれない。自分の作ったものに100個もダメ出しを喰らえば誰でも心が折れるだろう。まあ、俺の妹からの信頼と耳へのダメージを考えればそれぐらいが妥当だろう。
「律さん、これ……」
「素晴らしいです!!」
なんとなくだが、こうなる気もしていたのだ。非常に短い付き合いだが、こいつのメンタルが常人離れしていることは察しがついていた。そうでなければ、クラスの男子に自分のASMRを聴かせたり、おほ声で挨拶かましたりはできないだろう。メンタルが強いのではなく、頭がおかしいだけかもしれないが。
「至らない部分の指摘だけではなく、その改善策まで….。やはり、律さんはASMR同好会のメンバーに必要です!どうか!」
「断る」
俺は強い口調で天宮の目を見てはっきりとそう言った。
天宮がノートを強く握りしめている。手元のノートに視線を落としているが、字を追っている様子はない。
「どうしてか聞いてもいいですか?」
静かに、けれど少し力のこもった声で彼女が尋ねる。
俺は息をゆっくり息を吐く。
「妹がいるんだ。それでさ、妹の成績あんまり良くないんだよ」
きちんと話そう。それで、天宮も諦めてくれるはずだ。
「妹さんの成績と入部に一体なんの関係があるのでしょうか」
「うちの両親、二人とも教師なんだ。それで教育に色々と厳しんだよ。妹の高校も大学も偏差値70以下は認めないって聞かないんだ」
「だから俺が交渉して、学年10位以内に入り続けることと都内の国立大学への合格を条件に妹の入学の自由を認めるって話になったんだ」
「それはつまり、律さんが妹さんの代わりに勉強を頑張るから妹さんに容赦を、ということでしょうか」
俺は黙って頷く。天宮は適当な言葉を探すが、うまい言葉が見つからなかったようだ。無言で俯いている。
「妹の受験は今年だから、あと半年頑張ればひとまずは妹の高校入学が決まる。だから勉強に手は抜けないし、部活に入っている余裕もないんだよ」
「しかし、お金の問題ではないのでしょう?大学はともかく、高校はどこであれ行くべきだと私は思います。そんなことは条件などつけずとも、説得すれば了承されるのではないでしょうか?」
「そうだといいな」
俺は吐き捨てるように言った。俺も両親の考えは異常だと思う。異常だが、それを異常であると指摘することには意味がない。子供と親の関係なんてそんなものだ。
そして、話はここで終わりだ。
「じゃあ、俺は帰る。家で授業の復習をしないといけないからな」
「事情は全てわかりました。」
わかってくれたのなら何よりだ。こんな家庭事情、他人に話すことではないからな。
納得してくれたのなら甲斐があったというものだ。
「であれば、私が妹さんの家庭教師になります」
こいつ、なんて言った?
「もちろん、お給金は要りません。妹さんが偏差値70を越えればいいのでしょう。任せてくだい!」
「いやいや、急に困る! そもそも同好会はどうなった?」
「同好会には部室が与えられません。私が律さんのお宅にお邪魔して妹さんを教えつつ活動を行うというのはどうでしょう!」
「教えるって、お前….」
天宮は成績がいい。高校が始まってから3回の大きな模試と試験、常に10位内に名前があった。たしか、入試も主席だったはずだ。その天宮が教えてくれるのは、妹にとってかなりありがたい。俺は自分の勉強で手一杯だし、何より他人に教えるのが致命的に下手だ。
「だが、これは俺の事情で….他人を巻き込むわけにはいかない」
「他人……ですか」
天宮が肩を下げて俯く。いや、そりゃ昨日初めて話したばかりの人間は他人に分類されてもおかしくは……あれ? こいつ泣いてない?
「そうですよね。グスッ。私なんか他人ですよね。勝手にこちらだけ舞い上がってお友達だと勘違いして、グスッ」
「いや、お前、それはなんというか言葉のあやだよ。悪かったから泣き止んでくれ」
「でも私がお家に行くのは嫌なんですよね。私がキモいから。グスっ」
「わかったから! いいよ来て。俺としても助かる」
「ありがとうございます! では、さっそく明日お邪魔してもよろしいでしょうか」
天宮はピッタリと泣き止んだ。演技だったのか…。この演技力なら成人向けの音声じゃなくてもいいものが作れるのでは?
「ああ、妹と話して調整してみるよ。詳しいことは明日学校で伝える」
「明日?」
天宮が笑顔でスマホを差し出してくる。
「連絡はスムーズにできたほうがいいですよね?」
「ああ、すまない。俺、スマホ持ってないんだ」
「嘘ですよね?」
バレたか。こいつと連絡先交換するの少し抵抗あるな。うるさそうだし。
俺は観念してスマホを取り出す。連絡先に天宮が登録され、デフォルメされたうさぎがお辞儀するスタンプが送られてきた。
「これから末永くよろしくお願いしますね。律さん」
「ああ、よろしく天宮」
俺は差し出された手を握り返す。
天宮が離してくれない。
「ところで、律さん。私、キモくないですよね?さっき否定してくれませんでしたけど」
「保留で頼む」
天宮からロケット頭突きを顎にかまされた。