先輩達
「……無事に終わったみたいだな」
「そうだね」
青白い月光のわずかに差す廊下に二人の声がこだまする。そして、それを掻き消すように
「はあああああああああああ」
クソデカため息が響く。
「……ど、どうしたんだ? 九重君」
「どうしたもこうしたもないですよ。ここまで持ってくるのにどれだけ大変だったか」
不満を一切隠さず、廊下に背をもたれる彼女はいつもの眼鏡を自分の傍に置く。
「ええっと、ここまで持ってくるっていうのは?」
「会長のことです。そもそも、最初から素直にああやって会話していれば良いものを! 拗らせて、こんな大掛かりなゲームまで初めて本当に馬鹿としか言いようがない」
「それはつまり、君は最初からこうなるように仕組んでいたと?」
「まさか。そこまで天才ではないですよ、私は。ただ、これが一つの理想的な着地であったことは確かです。ゆえにあの二人が一対一で心をぶつけ合える時間が欲しかった」
「それであんな時間稼ぎを」
「ええ。あなたたちが六星さんを早く倒しすぎたせいで台無しでしたが、まあ結果的には彼女を弱らせないと本音は出なかったでしょうから助かりました」
服部綾乃が少しむず痒そうに頬をかく。
「しかし、ならば最初の天宮君を攫って脅してきたのはなんだったんだ? 今回のゴールには関係なさそうだったが」
九重鍵天はよく見えないその目でぼんやりと遠くを見る。
「まず一つは単純に彼女を野放しにすると単純に私たちが負けると思ったからです。彼女と一ノ瀬律の組み合わせというのは非常に危ない。会長が気持ちを打ち明ける云々の前にゲームが終わる可能性があった」
「それは……わからないでもないが」
「それともう一つ。これは洞察力のあるあなたなら気づいていたのでは?」
「何をだ?」
「あなたたちの関係性の歪さですよ」
ゲーム終了によって緩んでいた服部綾乃の表情がわずかに引き締まる。
隣の高梨恵も口元に手を当てて廊下の一点を見つめている。
「天宮清乃と一ノ瀬律の関係は共依存にしか見えない」
「……」
「さらに本人、特に天宮清乃はその恋愛感情を否定と来ている。おそらく村上千春、それに高梨恵、あなたたちの気持ちを知っているから」
「でも、別にそれがどうして」
「彼女にとって居場所の喪失とは極めて重要な問題であり、そしてトラウマでもある。母親を亡くし、父親は神経衰弱に陥ったことで崩壊した家庭のトラウマ」
「天宮君は彼女が一ノ瀬律を恋愛対象に、そしてその恋愛が成就された時に今のASMR部の関係が崩れると危惧している、ということだな」
「何を今更、理解したような言い方を。本当は知っていたでしょうに」
「……」
服部綾乃は隣の高梨恵からの視線の痛みに耐えながら沈黙する。
「じゃあ、君があんな真似をしたのは天宮君に恋愛感情を無理やり認めさせるためか?」
「それもあります」
「随分と荒々しい治療だな。そんな強引なやり方をすべきでは」
「問題を引き延ばすのはあなたの悪い癖ですよ」
「ッ!」
服部綾乃が思わず引き抜こうとした短刀は、しかし鞘から抜ける直前にその勢いを失った。
「随分と彼女達の世話を焼いてくれるのだな」
「あなたもそこに入っていますよ」
「どういうことだ?」
「彼女らと会った日のことを覚えていませんか? いつもなら締まっているはずの美術室の鍵が開いていたのを」
「ッ!? まさか、あれも君が!?」
「会長の命で彼らのことをずっと見ていて、そろそろ面倒だし他の業務も溜まってきていたところ、ちょうど彼女らの世話を押し付け──いえ、任せられそうな人がいたので」
「君ってやつは……私がどれだけあの変わった後輩達に手を焼いているか」
「いや綾乃ちゃんも十分、
変、といいかけて高梨恵は口をつぐむ。客観的に見れば、自分も人を非難できる立場にない気がしたからだ。
「さて、彼女達は今頃どうなっているでしょうか。こっちは丸く治りましたが」
「? 何を言って」
「ああ、知らないんでしたね。あの時、動画を見ていたのは彼女だけでしたから」
「動画って、清乃ちゃんの?」
「一ノ瀬律も仕事が甘い。あのカメラ、ギリギリ生きてましたよ。だから、村上千春は一ノ瀬律と天宮清乃の間に会ったことを知っている。あの場からいなくなったのは、ただお守りを持って逃げるためだけではないと私は読んでいますが」
服部綾乃の足に力が入る。
「行ってどうするつもりですか? もうあの二人に何があったのか、村上千春が何を見たのか、察しているのでしょうが、あなたが言っても何にもなりませんよ」
「しかし……」
「少しは後輩達を信じてあげなさい。忍として孤独に生きてきたあなたにとって後輩が可愛いくて仕方ないのはわかりますが」
「べっ、別にそこまでじゃ!」
「綾乃ちゃんのガチ照れ、めずらし」
高梨恵に指摘され、顔の校長がさらに耳まで昇る。
それを見た九重鍵天の頬が心なしか緩む。
「少しは後輩たちに委ねなければいけませんよ。大切なら、なおさら。だって、私たちは先輩なのだから。彼らよりも先にこの学舎を」
「今は言わないでくれ。私もわかっているつもりさ。ただ、今はもう少しだけ彼らと同じ時間を過ごしていたい。愚かかもしれないが」
服部綾乃の目は月光によってほのかに潤んでいる。
「それに綾乃ちゃんも全く過保護ってわけじゃないよ。今回は律くんにあのスーツ着せてないし」
「……ああ、そうだな」
「? 何、その反応」
「いや、なんでもない。それより過保護と言ったら御園君もだろう」
「あっ、噂をすればだね」
暗い廊下の向こうから淑やかな声がする。
「ヒッ!!」
「あれは……三上さんや十一路さんの迅速な治療が要りそうですね」
禍々しい赤色が、夜の暗い静けさを割いて現れる。
それとすれ違って九重鍵天はその場から去った。
「夜にこれと出会したら、流石の私でも尻尾を巻いて逃げるぞ」
「なんの話でしょうか? それよりも先ほどの方は絞めなくて良かったのですか?」
「マリアちゃん、出てる、出てるよ、ヤンの部分が」
「ああ、すみません。少し言葉遣いが汚かったですね」
彼女の暴力性を一挙に背負わされた“言葉”もさぞ困惑しているだろうと思いながら、高梨恵は会話を続ける。
「マリアちゃんの方は随分とかかったみたいだね」
「ええ、かなりあの方達がしつこくて。今は壁に埋まっているので追ってくる心配はありませんよ」
「御園君、ゲームはもう終わっているぞ」
「そうなのですか!? いけませんね、駆けつけることに夢中で」
「うん、それでね、さっき彼女と話していたのは」
実は珍しいASMR部の2年生だけの会話。
「そうですね、確かに過保護な部分があるかもしれません。でも、一ノ瀬さんといい天宮さんといい、無茶ばっかりしますから」
「あははっ、それはたしかにそうだね」
「まったくだ。つい手を出してしまう、というより手を出さないとすぐに死んでしまいそうだからな」
「ええ、本当に」
「僕たちもまだ卒業できそうにないね」
雲のない夜空に3人の先輩達の優しい笑い声がした。




