流れる血
「もしも俺が武器を失った、あるいは持っていなかった場合はどういうふうに立ち回ればいいんですか?」
風紀委員会との戦いに備え、綾乃先輩と一週間の訓練中。俺の質問に対して綾乃先輩はすっと目を細めて厳しい口調で答える。
「すぐに逃げろ。勝ち目は万に一つもない」
ナイフを持った男と向き合いながら、そんなやりとりを思い出す。
「田中さん、芽衣ちゃんを連れて逃げてください。今すぐ」
「馬鹿なことを言わないでください。逃げるならあなたと芽衣です。その歳で死にたいんですか?」
「冗談じゃないです。死ぬ気もありません。だから早く。守りながらは無理なので」
「……怪我しても介護しませんから」
そう言って田中さんが芽衣さんを抱くようにして後ろに向かって走り出す。まったく……田中さんは普段もあんまり介護してくれてないだろう。
「おいおいおい、逃げられると思ってるのか?」
後ろの混戦場を田中さん達が抜けられるか心配だったが、人が壁に強く当たる音が複数聞こえた。あの二人が合わせてくれたのだろう。田中さん達の足音が遠くなる。
「逃げられたみたいだな」
しかし、男は余裕の表情を崩さない。
「ったく、分かってないな。このホテルは俺たちとぐるなんだぞ? 簡単に逃げられると思ってるのか?」
「!?」
まさか、この部屋以外にも組織の人間がいるのか! ホテルに来てから、いや芽衣ちゃんを見つけるのに無理をしてから耳の調子が悪い。ここについてからも部屋の中に入るまで芽衣ちゃんの状態がわからなかったし、ホテル内に他の敵がいることも気づけなかった。
「くそっ、誰かホテル内のメイちゃんと田中さん────?」
インカムで誰かに助けを求めようとした瞬間、男がナイフを差し込んでくる。それを横に飛んで避ける。掠った左腕が少し熱い。
「……」
相手は俺の腕を掠め、血の滴るナイフをじっと見ている。そして、再び
「っ!」
ナイフを斜めに振り下ろしてくる。後ろに身を引いてそれを避けるが、胸元の制服が破れ、薄皮一枚切れる。
「刺しては来ないんだな……」
「なんだ? 刺されたいのか?」
そして男は、ナイフの先をこちらに向けて突進してくる。
「と言ってもそれでも君はいざという時に身を挺して戦ってしまうのだろう?」
呆れ顔の綾乃先輩の言葉を思い出す。
その突進を後ろに飛びつつ避ける。後ろは壁。これ以上、逃げ場はない。そこに目掛けて男が、止めと言わんばかりにナイフを心臓目掛けて突きつけてくる。
「腹部や胸部、頭部は論外。首や太ももなんかの太い血管が通る場所もだめだ。どうしても刺される状況ならそれ以外。それでも失血死する可能性はあるが、まあ即死は免れるだろう。言っておくが、これは本当にどうしようもない時だからな! とにかく逃げろ! いいな、約束だぞ」
すみません、綾乃先輩。
「なっ、んだっこいつ!?」
「はあ、はあ、ここで一緒に警察を待つか……はあ」
ギリギリで体を逸らしてナイフが突き刺さったのは左肩。そして右手で相手のナイフを持つ手を強く握る。
「離せっ! ガキっ!」
「誰が離すか……!」
こいつが左手に後生大事に持っているケースには芽衣ちゃんの映像データがある。未遂といえど、下着姿まで映るそれをネットに流されでもしたら、芽衣ちゃんの未来に必ず影を落とす。それだけはさせない。
それにこのナイフを抜かれると、出血で俺もやばい。
そして、部屋の外が騒がしくなり始める。複数の走る重い音が聞こえる。田中さんが部屋に入る前に呼んだ警察だろう。随分と遅いが、まあいい。これで間に合った。
「くそっ、ガキがっ! 一人で死んどけ!」
「がっ!?」
男は俺の手を強引に振り解きナイフから手を離すと、俺の腹に蹴りを入れた。そして
「おい! 道を開けろ!」
男が部屋の外に逃亡する。
「逃すかっ!」
蹴られた衝撃で怯む体に鞭を打って、後を追いかけた。
男はホテルの非常階段を凄まじいスピードで駆け降りていく。俺も後を追って、階段を走るも体制が安定しない。というより視界が安定しない。ただ、左肩、そして軽傷と思っていた胸元から想像以上に流血しているのはわかる。何度も転びそうになりながら、階段を駆け降りるも段々と差が開いているのがわかる。
「映像だけは絶対に……」
今、自分が何階にいるのかもわからない。ただ、非常階段を降りる大きな足音が一つなくなったことを考えると、相手はもう一階に着いたらしい
「くそっ誰か! 誰か!」
インカムに向けて叫びながら、俺も一階に到着する。そこでは男が黒塗りの車に乗り込むのが見えた。
「ま……て」
瞼が異様に重い。気づくと、膝が地面についている。全く力が入らない。体がどんどん冷えていくのがわかる。これは本当にまずいかもしれない。
だが、目は閉じない。せめて男の車のナンバーだけでも確認する。
1121
よし、これで……いやだめだ。俺が死んだらわからなくなる。
そう思って自分の胸元を流れるインクで地面に殴り書きする。これで大丈夫。
ぼやけていく視界の中では、黒い車が宙に浮いていた。ついに現実と夢の区別もつかなくなったらしい。もう膝で体を支えることも難しく、全身が地面に沈む。
「ごめん、律花、天宮」
こういう無茶をした時に、一番怒りそうな人達への謝罪の言葉が漏れる。
「遅れてすまない! 大丈夫か一ノ瀬君!」
「……?」
暗闇の中で声が聞こえる。
「これは……! 本当に君はいつもいつも! 少し痛むが我慢してくれ」
何かが、ちくりと腕に刺さる。注射だろうか。そして、少しずつ体が温まるのが感じられる。
「綾乃先輩?」
「あまり無理はするな。一時的な処置だ。今から応急処置をする」
「それより、黒い車を追ってください。そこにナンバーが」
動かない腕の代わりに、目でその位置を伝える。
「うわっ! 君、こんなメッセージを残してたのか……ちょっと引くぞ。これじゃダイイング…は今は縁起が悪いか。あと、車は大丈夫だ。私がワイヤーで宙吊りに……ってああ、あれは」
そうか、ならあれは夢じゃなかったのか。そして、綾乃先輩の視線の先では、飛んできた御園先輩が怪物じみた形相で車を宙から叩き落とし、中の男ごとスクラップにしている。あっちは夢であってほしい気がする。
「……ああ、そうだ。田中さんと芽衣ちゃんを保護しないと」
「はあ、その問題はありません。私たちは無事です」
「お兄さん! これって大丈夫なんですか!? 血がたくさん! お姉ちゃん、治してあげて!」
「私は医者じゃないといつも……」
文句を言いながら田中さんが綾乃先輩から受け取った包帯を使って応急処置に加わる。
「痛むかもしれませんが、流石にナイフはここで抜けないので我慢しなさい。すぐに救急車が来ます」
「……よかった」
本当に何が何やらって感じであるが、とにかく全部上手くいったらしい。俺は安堵感とともに意識を失った。




