心に従って
いつの間にか放課後になっていた。
俺の頭は昨日の千春のことでいっぱいだった。俺は律花のときと同じようにまた何かを見落としているのだろうか。
距離のあった天宮は昨日の帰りのことに気づいていないらしく普段通りだった。
「この調子なら同好会設立も近いですね!」
そんな天宮の言葉に俺は曖昧な返事しかできなかった。
下駄箱で帰り支度を始める。教室で話しかけることができなかったから、今日は山に行ってちゃんと話したかったが……
外は土砂降りだ。これでは行ったところで千春もいないだろう。
「帰るか」
勉強をしてから遅れて教室を出たため、辺りに人気はない。この天気なので部活動も行われていないようだ。
「それでいいのかい?」
下駄箱の裏から声がした。人がいたのか。考え事に夢中で全く気が付かなかった。
「君はそれでいいのかい?」
声が低めでわかりづらいが、女性だ。
「それでいいのかって、何のことだ? というか誰だ」
声の主は答えない。回って確認してもいいが、そんなことする気力も今はない。
「村上千春君のことさ。気にしてるんだろ?」
「なんでそれを」
何だこいつ。どうしてそれを知っている?
「言うべき言葉が見当たらない時どうするべきかを私に教えてくれた人がいた」
「……」
黙って聞く。
「そういう時は自分の心に従うのがいいらしい」
「何だそれ。それで間違えたらどうする?」
「所詮それまでということさ。心を曝け出して破綻するような関係は元から無かったのと同じだろう」
「それでも壊したくない関係があるから人は心を隠して言葉を探すんだろ」
「ならば、その“壊したくない”というのが心なんじゃないのかい」
―壊したくない。俺にとって千春との関係は自分が思っているよりも大事なものだった。律花の進学のことで頭がいっぱいだった時期には考えられないことだ。
「よかね、律には居場所があって……」
居場所。
少しずつ自分の考えがまとまる。それでもやはり言うべき言葉は見つからない。
だが、やるべきことはわかった気がする。
「学校の近くに山があるだろう?」
俺と千春がいつも会っている山のことか。
「今日、そこにうちの女子生徒が向かう姿があったと報告を受けている。大雨の中、傘もささずに歩いていくから不審に思った近隣の方から学校に連絡が来たそうだ」
まさか千春こんな雨の中、山に行ったのか!?
「そんなに大きくない山とはいえ土砂崩れや転落、遭難の危険性は十分にあるだろう。いや先にずぶ濡れで気温の低い山の上にいれば低体温症になるか」
姿の見えない女が最悪の、そして十分にあり得る可能性を次々に述べる。
「ああ、あそこには川があったな。この大雨では増水しているに違いない。全く危険なことをする生徒がいたものだ」
聞き終わる前に俺は学校を飛び出していた。あの女の正体など今はどうでもいい。
ここから走ってどれくらいかかる!?
連絡があってからの時間経過を考えるともう山に入っているかもしれない。
俺は雨を切りながら全力で走る。
「律さん!」
目の前にタクシーが止まる。乗っているのは天宮だ。
「何でお前が」
「いいから乗ってください!」
タクシーに駆け込んだ俺に天宮がタオルを渡す。タクシーはすぐに出発する。行き先はいうまでもない。
「知らない人から電話が来て、山に女子生徒が向かったらしいが何か知らないかって」
おそらくあの女だろう。タオルを握りながら、天宮の話を聞く。
「それから千春さんに電話しても繋がらなくて」
天宮の声は震えている。
それでも、連絡もせずに飛び出した俺よりはずっと冷静だ。
「焦る気持ちはわかりますが、こんな大雨の中、走っていこうとするなんて無茶です」
天宮は目に涙を浮かべて怒っている。そんな顔をさせてしまったことに胸が痛む。
「とにかく、冷静になってください。もうすぐ着きますから」
タクシーは止まることなく、最短で目的地に辿り着いた。
タクシーから降りるとあたりは騒然としていた。救急車やパトカーも見える。
「着いたか!二人とも」
山の麓には綾乃先輩が例のスーツを着て待っていた。
「先輩までどうして」
「電話があってな。どうやら後輩のピンチらしいということで駆けつけた」
二人がいてくれることに心強さを覚える。
「事態は芳しくない」
先輩があたりを見る。
「どうやら土砂崩れが起きたらしい。学校からの要請で捜索隊が来ているが、どこにいるかもわからない少女をこの雨と土砂の中探すのは……」
「そんな……」
事態はどんどん悪くなる。捜索隊は来てはいるものの、無闇な捜索はできずに二の足を踏んでいる。これほどの人の目があっては俺達が助けに行っても止められてしまうだろう。
「一ノ瀬君、これを着るんだ」
「これは……」
先輩の手には先輩と同じ忍のスーツがある。
「このスーツには体温の低下を防ぐ効果や耐衝撃の効果がある。捜索に入るなら必須だ」
「先輩、それって……」
「君たちが来るまでに、人に見つからないルートを確保しておいた」
スーツを強く握りしめて、先輩に礼を言う。
「無理はするなよ。スーツも万能ではない。勝手に入って遭難者が増えましたでは笑えないからな」
「綾乃先輩!私も行きます!」
天宮が先輩にスーツを求めるように手を広げる。
「ダメだ。危険すぎる。ここは私と一ノ瀬君の二人で入る」
「そんな、私はいったいどうしたら」
うなだれる天宮の手に先輩がそっと機械を渡す。
「これを見れば私と一ノ瀬君の居場所がわかる。何かあった時は頼んだ」
よく見るとスーツの太もも部分にGPSが埋め込まれている。
それから俺と天宮に無線イヤホンを渡す。
「二人とも必ず戻ってきてください」
気丈に振る舞おうとしているが、天宮のその小さな手は震えている。
「絶対、戻ってくる。三人で。そしたら作るぞ同好会」
無理矢理笑顔を作って言う俺に、天宮が涙を堪えながら笑って頷く。
俺は建物の陰でスーツに着替えた。見た目通りの動きやすさはもちろんのこと、冷えた体が温まるのを感じる。
イヤホンをつける。
「行くぞ。ついて来い」
俺と先輩は山に入った。