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私のおほ声を聞け!  作者: 冷泉秋花
夜の大運動会編
123/254

第一種目(4)

「走れっ」

 まだ文乃さんと距離があるうちから綾乃先輩が叫ぶ。文乃さんは一瞬、驚いたように目を開いたがすぐに走り始めた。しかし、俺と環先輩の作戦を見ていた他のチームが走り出そうとする文乃さんを妨害しようと動く。

「綾乃先輩っ!」

「わかっている!」

 瞬間、何かが空気を裂く音が聞こえる。目には見えなかったが、おそらく綾乃先輩が何かを投げたのだろう。途端に辺りが煙幕に包まれた。

「何だこれっ!?」

「煙幕!?」

「誰かASMR部を止めろ!」

 そんな怒号が飛び交う中、煙幕の中から人影が飛び出す。

「文乃さん!」

 決して速くはないが、追っ手はおらず、大きな胸を左右に揺らしながら一人で走っている。


「天宮、次の走者は頼んでいいか? 俺は理乃ちゃんを諭しつつ、千春と話をする」

「わかりました。任せてください!」

「怪我だけはしないようにな。別に負けてもいいから」

「ありがとうございます。でも負けませんよ」

 そう言って天宮は立ち上がり、煙幕に包まれたスタートラインへと向かっていった。


「まずは理乃ちゃん、離れてください!」

 もう完全にビビって俺の脇腹にしがみついている理乃さんの方を引き剥がす。

「文乃さん、行きましたよ。いいんですか? このままで。別に無理強いはしませんが、ルール上、理乃ちゃんが走らないとうちのチームは敗退になりますよ」

「いやっいやっ」

 完全に駄々っ子になって俺のお腹に頭をぐりぐりと押し付けている。これはダメそうだ。走り終わってから文乃さんに来てもらうのがいい気がする。

「わかりました。とりあえず、ここにいてください」

 よって俺は理乃ちゃんの説得は諦めて千春の方に向かった。そう、今はこっちの方が重要だ。


「千春」

「律? どうしたと?」

 俺の真剣な表情から察したのか、千春もまた神妙な面持ちで俺の方を向く。

「今回のレース、なりゆきでまだ走っているけど俺は棄権したいと思ってる。危なすぎるし参加理由は部費だ。それよりもみんなの安全の方が大事だから。帰零先輩や他の部の人には俺が説得するよ」

 俺たちASMR部は防音設備とダミーヘッドマイクと引き換えに三年間の部費がない。だから今回の話は美味しいし、俺の教材のこともあるから、お金が欲しかったのは事実だ。ただ、みんなの安全と比べれば何ということはない。

 千春には申し訳ないが、教材も千春が以ているものを拝借しつつ、お小遣いから捻出しよう。この前の家出騒動で減ったとはいえ、貯金も多少はある。そこから出せばいい。

「私まだ1周、残っとる」

「いやだから、この大会自体を棄権しようってー

 そこで千春の険しい表情にハッと気づく。

 千春は怒るような泣き出しそうな、そんな顔をしていた。

「私、清乃ちゃんが、後輩たちのためにって言った時に、こんな部活に後輩は入らんやろって思った」

「ああ、俺もだ」

 昨日の部室で、後輩のために教材を充実させたいと天宮は言っていた。確かに3年間部費がなければ、当然これから入ってくる後輩たちは部費なしで活動しなければいけなくなる。それは少し酷だろう。まあ入ってくればの話だが。

「でも私、同時に思ったと。もし、私たちが卒業した後も部があればそれは私たちを繋ぐものになるんじゃないかって。そこが私たちの帰る場所になるかもしれないって。だから、清乃ちゃんの話を聞いた時にいいなって思った」

「千春……」

 ASMR部ができた時に話していた卒業後の話。故郷を離れざるを得なかった千春にとって居場所というのはかなり深い意味を持つ。今でもこの場所を失うことが、この時がただの過去になってしまうことがきっと恐ろしいのだろう。

「私は後輩を作りたい。そしてその子達に部費はないって言いたくない。だから私はここで諦めたくなか! 絶対に意地でも私の役割を、もう1周を走り切る。私もみんなのASMR部の一員やから!」

 そう言って千春が立ち上がる。すでに向こうでは文乃さんから御園先輩にバトンが渡っていた。

「……まだ、怪我してるんだから動かない方がいいわ。もう少し休んでいなさい」

「理乃ちゃん」

 千春の真面目な話の途中にも俺の背中に頭をつけて情けなくしがみついていた理乃ちゃんが千春の肩にそっと手を置いて立ち上がる。

「次は私が行くから」

「理乃さん……」

 千春も理乃ちゃんに諭されて納得し座り直した。


「理乃ちゃん、大丈夫なんですか?」

「嫌よ。でもあの子の話を聞いたら私だけ行かないわけには行かないでしょ」

「理乃ちゃん……ありがとうございます」

 ポンコツを露呈した時はどうかと思ったが、完全に見直した、やっぱり、この人は見た目だけではないのだ。

「でも、できればあの強い綾乃先輩や御園先輩からバトンを受け取るのがいいわ。それ以外は嫌」

「言われなくてもわかってます」

 やっぱり、そうでもなかったかもしれない。


「おおっとASMR部、強い! 以前として一位をキープしたままバトンが御園マリアが走り終えようとしている! しかし、前回の服部綾乃の後続がそうであったように未だ煙幕が立ち込める中、味方を見つけ出せるか!?」


 そうだ、まだ煙幕が晴れていない。御園先輩はもうそこまで来ているがこのままじゃ天宮にバトンを渡せない。どうするつもりだ!?

 その時、煙幕の中から聞き覚えのある、いやできれば聞き覚えのありたくない声が聞こえた。


「お゛っほ♡ やばっ♡ イ゛ぐイ゛ぐっい゛っぐ〜〜♡」

 煙幕の中から突然、低音おほ声が響く。

 会場は何が起こっているのか理解出来ず、騒然とする。

 恥ずかしさに顔を赤らめるものや気まずそうに目を逸らすもの、反応は様々だ。その中で御園先輩は意味を理解し、声の方に向かって煙幕へと突入する。


「ええっと、別に反則ではありませんがそのぉ淫らなことはやめましょうね〜。私も実況しづらいですから。ねぇ九重さん」

「ええ、そうですね。どこの誰かは煙幕のせいで全くわかりませんが」


「なんて汚いおほ声なの! 他のチームも油断ならないわね!」

「あっいや、あれは」

 天宮のことを趣味嗜好を知らない理乃ちゃんは声の主が誰か気づいていない。天宮、外面だけはいいからな、無理もない。

 チームの絆のためにもあの声が天宮だと言うことは黙っておこう。


「煙幕から出て来たのはまたもASMR部! 部長の天宮清乃だ! そしてこれまた速い!とても文化系の部活とは思えない速さだ! ASMR部は粒揃い、紛れもないダークホースだ!」


 天宮が煙幕から出てくる時に、わざとらしく「さっきの声、何!?」みたいな顔して後ろ見てたのはかなり腹が立ったが、走りは順調だ。煙幕は薄れて来たが、これなら後続と差は縮まる気配はない。

「速いな、天宮君」

「ですね」

「煙幕の中で、機転もきかせてくれましたし。少し下品ではありましたが」

「ですね……あれ?」

 思わず話しかけて来た二人の方を二度見する。綾乃先輩と御園先輩は不思議そうな顔をしている。

「なんで二人がこっちに!?」

「何でって走って来たんだから当然だろう?」

「いや、そうですけど」

 しまった、妨害を避けることに夢中で人間の配分を忘れていた。考えてみれば、こっちから走ったのは環先輩、文乃さん、天宮と非戦闘要員だけ。偏るのは当然だ。

「次は……知音先輩がスタートに立ってる!」

 しかし、不安そうにちらちらとこっちを見ている。どうやらノープランらしい。今からあっちに走っても間に合わないし、体力の無駄すぎる。


「ASMR部、再びバトンパスに入ろうとしているが、何か策があるのか!? このままだとさっきの二の舞だぞ! しかもスタートラインには先ほど、千春選手に妨害を成功させた陸部男子がいるぞ! どう思いますか? 九重解説」

「ASMR部は配分をしくじりましたね。目先の安全にとらわれた結果でしょう」


 くっ、返す言葉もない、九重さんの言うとおりだ。

「綾乃先輩っ! 何かありませんか!?」

「そんなこと急に言われても、あっもうバトンパスに入るぞ!」

 ASMR部全員が騒然とする中、やはり妨害に動いたのは千春を飛ばしたあの男だ。走ってくる天宮の軌道に入る。

「避けろ! 天宮!」


 ドッッ


「これは──


 凄まじい音とともに体が横に弾け飛んでいた。そう、妨害に入った男の体が。


「これは凄い! 天宮選手、見事な横蹴りだ! 完全に急所に入ったぞ、あれはしばらく動けないか!?」

「……彼女の爆発力は得体の知れないものがあって怖いですね」


 あいつ、綾乃先輩のことを感情的とか言ってたが人のこと言えないな。


「あのっ鬼の会長補佐九重さんが引くほどの気迫! 他の選手も唖然として妨害どころでない! あっ陸部の皆さん、妨害に入った時点で次走者確定なので死体を勝手に下げないでください」


 四ノ宮さんが天宮の蹴りをもろに喰らったメンバーを引き下げようとする人を止める。そのたま、スタートラインには陸部の男子が寝そべっていた。

「なるほど、トラック内で行動できるのは走者と次走者のみだから妨害した時点でメンバー交代ができないのか」

 綾乃先輩が小さく頷きながら呟く。

 それを聞いた御園先輩と恵先輩が何か怪しい顔をしていたが見なかったことにする。これは荒れそうだ。


 そして次の走者の知音先輩。決して速くないスピードでトラックを走る。蹴りからの復帰で時間のかかった陸部を除き、後続との距離がぐっと縮まる。


「よしっ私が走る、大丈夫大丈夫、なんともないわ」

「ちょっ理乃ちゃん!?」

 前の会話から完全に上がりきっている理乃ちゃんがぶつぶつ言いながらスタートラインへ向かう。

「ちょっと待って理乃ちゃん! ここは俺が走るから!」

 後続との距離が縮まり、バトンパスは知音先輩から。妨害を防ぎようがない。スタートラインに立った理乃ちゃんを呼び戻そうとするが

「みんな、最初の妨害が印象的すぎてしないけどさ、こうすればいい話だと思うんだ」

「えっ」

 そこで隣の走者にがっしりと腕を掴まれていた。

 そして、掴んでいるのは美咲ちゃんだった。



 腕を突然掴まれた理乃ちゃんが呆然とする。

「えっと……これは?」

 困惑する理乃ちゃんに、美咲ちゃんはただ不吉な笑みを返す。

「理乃ちゃん、戻って来て!」

「無理よ! この人、力強いんだから!」

 そうこうしている間に知音先輩が着いてしまった。こうなると、妨害もくそもないので他のチームもただその様子を見ている。

「えっと一ノ瀬ちゃん、これどうすればいいのかな?」

「引き剥がせ……ないですよね」

「うん、無理」

 どうしようもなく知音先輩が立ち尽くし、あっという間に後続がやって来た。


 もちろん自分のチームが来たところで、美咲ちゃんは手を離して走って行った。

「ここでASMR部、最下位に転落! これはえっ?この部活名であってる?」

「SEX研究部であっています」

「そんな部活がこの学校に……ええ、気を取り直して。SEX研究部の黒井理乃! どんどん差をつけられている! 頑張ってください!」


 体育祭恒例の頑張ってくださいをこんな殺伐としたイベントでも聞くことになるとは。まぁ、それぐらい差は開いているからな。

「どうするんだ!? 一ノ瀬君!」

「どうするって」

 他のチームはすでに次の走者にバトンが渡りそうだ。そして、俺たちの理乃ちゃんはというとへとへとになりながらやっと100mを走っていた。

「頑張れ! 理乃ちゃん!」

「はぁ、はぁ、ぜぇぜぇ」

 文乃さんと同様に豊かな胸を揺らしながら、霞んだ瞳で必死に走っている。

 勝ち負けは確かに大事かもしれないが、今は理乃ちゃんを応援する。なんというか、小学生の娘の運動会とかってこんな感じなのかな。


「律! よかけん、次の走者を決めて!」

「えっああごめん。次は環先輩を」

 そう言いながら向こうにサインを送る。


 そして、他のチームがバトンを渡す。もはや互いに僅差のため、妨害はほとんどない。ASMR部に対しては言うまでもなく、逆に必死に走る理乃ちゃんを皆が温かい目で見守っている。


 そして

「ゴール! よく頑張った! 会場からも大きな拍手が起こっています!」

「よく本当に頑張りましたね」


「律くん、この大会ってこんなんじゃないよね?」

 回復して来た恵先輩は会場の空気感について来れていないようだ。

「ええ、理乃ちゃんが変えてくれました。ひぐっありがとう、そしてよく頑張った」

 涙で前が見えない。しかし、潤んだ視界の中で、向こうの待機列から黒い髪を揺らして近づいてくる影がある。

「お疲れ! 理乃ちゃん!」

 頑張った理乃ちゃんを抱擁しようと近づいた瞬間、腹部に重い衝撃が走る。


「やってる場合ですか!?律さん!」

「げほっ、なんだ天宮か」

「もう一発、殴りますよ?」

 パンチの衝撃で崩れ落ちた俺は半ギレの天宮を

 見上げる。普通に怒っているらしく、顔が怖い。

「待て、天宮。これでいいんだ。美咲ちゃんのは予想外だったが、遅かれ早かれこうなった。だから、今はこれでいい」

「どういう意味ですか?」

 表情は不機嫌なままだが、話を聞いてくれる気になったらしい。

「まだ千春、知音先輩や環先輩も走る回数が残ってる。さっきから姿が見えないけど、帰零先輩も。妨害されないためには最下位になるのが手っ取り早い」

「もう妨害がある以上、皆さんにの分も私たちで走ったほうがいいんじゃ」

「千春が勝ちたいって言った」

「えっ」

 天宮が少し驚いて千春の方を見る。それからわけを尋ねるように俺の方を見つめる。

「後輩が欲しいらしい。それでその後輩のために部費が欲しいって。俺はまだ実感がわかないが、本気なのは伝わった。俺は力になりたい」

「……それならやっぱり私たちが走ってしまうのがいいんじゃ」

「だめだ。これはまだ1種目目、これから4種目もこなすんだぞ。その調子じゃ最後に絶対負ける。先が見えない以上、安全確保できる方法で他のみんなにも負担を分担させる必要がある」

「そこまで考えて」

 天宮が感心するように呟く。うん、だからいきなり殴ったのは謝ってくれてもいいんだぞ。


「まぁこれまで苦労を共にしてきて同衾までした女の子を他の子と間違えたのは変わりませんけどね」

「ごめん」

 しかし瞬く間に俺が謝る羽目になっていた。まぁ、言われてみれば確かに俺が悪い。だが同衾ってのは……家での時のラブホテルのことを思い出す。

「俺が悪かったから同衾って言うのはやめような」

「でも一緒のベッドでー

 もちろん、天宮の口を塞ぐ。例の如く、天宮はその状態でふがふがと

「ちょっ!? おい! やめろ、舐めるな!」

 最悪だ! こいつ、口を塞ぐ俺の手を高速で舐めてやがる。めちゃくちゃくすぐったい。

「何してるの? 律くん」

「また、天宮君の口を塞いで、何かやましいことがあるのか?」

 騒いでる俺たちの元に皆が集まり始めた。まずい! ここは

「みんな、今回の勝負、絶対に勝つぞ!」

 誤魔化す。

 皆は一瞬だけぽかんとしていたが、すぐに気を取り直し

「おー!」

 ここにASMR部の狼煙が上がった。

 天宮がめちゃくちゃ睨んでいたのは知らないふりをした。

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