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私のおほ声を聞け!  作者: 冷泉秋花
ASMR制作編
108/253

いつかの海

 電車がついたのは静かな港町だった。電車を降りてからしばらく歩いている。日はすでに沈みかかっていたが、今ならまだ海を見てからもぎりぎり街へ帰ることができそうだ。

「天宮はここには来たことがあるのか?」

「小さい時に一度だけ。なので土地勘はないです、すみません」

「いやそれは別にいい。それよりも海を見にいくんだろ。早く行こう。夜の海は怖いからな」

 冗談めかして言うと天宮も合わせて笑う。俺と天宮の声以外に音はなく夕日に染まる町には波の音だけが響いている。俺たちは波の音のする方に向かって歩いた。

「母と昔、来た海。ここは綺麗な水平線が見えるんです。海に行くと実際は島や船、周りの建物とかが見えちゃうじゃないですか。でもここは本当に何一つ余計なものがない綺麗な水平線が見えるんです」

 鼻歌まじりに天宮が前を歩く。しばらくすると向こうのほうに砂浜が見えてきた。遠くから見る海はすでに夕日色に輝いている。

 二人で砂浜を歩く。波の音に俺たちが砂を踏む音が加わる。そして波際に立って海を眺めると、そこには何一つ邪魔のない綺麗な水平線が広がっていなかった。

 ほとんど完璧に近い水平線の中にポツンと建物の影のようなものが見える。子供で背の低かった天宮が気づかなかったのか、天宮が見た後に建てられたものなのか。それとも天宮のただの思い違いか。

 俺は隣の天宮を気づかれないように横目でそっと見る。その顔には哀愁が漂っていた。過去の幻想が打ち砕かれた悲しみか、母親との記憶への郷愁か、どういう気持ちでこの海を眺めているのかはわからない。

「なんかすみません」

「いや別に。これでも十分に綺麗だし、ここまで綺麗な水平はなかなか見れないだろ」

「ですね」

 どことなく天宮はしおらしい。

「なんか変な空気になっちゃいましたね。せっかく海を見に来たのでキスでもしときます?」

「しない」

「まあ私なんかとはしたくないですよね」

「いやそういうわけじゃなくて。お前、ツッコミづらいボケするなよ」

 天宮が少し笑う。しかしすぐにまた真面目な顔に戻った。

「ボケじゃなかったらどうします?」

「それって……」

 天宮の大きく潤った瞳は俺の目を見つめている。細い唇が夕日に照らされて薄いピンクの色に色づいている。その美しさに俺は何も言葉が出なかった。

「まあ、冗談ですけどね。本当にすみません、帰りましょうか」

 そして天宮が砂浜の方へ振り返り、来た道を引き返そうと歩き始めた。その振り返る一瞬、天宮の顔に悲哀の色を見とめた。俺は思わず、天宮の腕を掴んでいた。

「? どうしたんですか、律さん。早く行かないと電車なくなっちゃいますよ」

「……」

 俺はどうにも湿っぽい空気が苦手な節があるが、今回はそれとは別に何か強い感情で体が勝手に動いた。ああ、そうだ。俺は天宮にこんな顔をしてほしくない。こいつにはいつも馬鹿な顔でふざけていて欲しい。この気持ちが何に当たるかはわからない。だけど、行動せずにはいられない。

「こっちに来い」

「はい?」

 きょとんとしている天宮を強引に俺の胸の前に引き寄せる。

「ちょっとどうしたんですか律さん」

「いいから」

 そうして顔を両手で横から挟んで狭めた天宮の視界を海の方へ向ける。

「これで綺麗な水平線だろ」

「綺麗な水平線って、律さん……」

 普通に見ると見えてしまう建物の影。それを避けて海を見るとどうしても周りの風景が視界に入ってしまう。だから天宮の視界を俺の手で狭くしてから建物の影を避ける。これで

「完璧な水平線ではないですね。律さんの手がバッチリ見えてます」

「それは言うな」

 それから天宮が急に噴き出して笑い始めた。

「何やってるんですか律さん。バカすぎますよ」

「うるさいな、これしか方法が浮かばなかったんだから仕方ないだろ」

 恥ずかしくなってそっぽを向く俺の横で天宮は笑い続けている。不服ではあるがこれはこれでいいか。そろそろ電車のこともあるし帰ろう、そう思って町の方へ歩き始めた俺を天宮が引き止める。

「律さん」

「どうした?」

 さっきの笑い涙を浮かべたままの天宮は真面目な顔をしているが少し前までの暗い面持ちはない。その口元には少しだけ笑みが残っている。そしてその天宮を美しい夕焼けと海が背後から照らしている。

「いつか二人で見ましょうね。完璧な水平線」

 そう言って誤魔化すように笑いながら天宮も町に向かって歩き始める。

「ああ、約束だ」

 そうして、俺と天宮は駅に向かって一緒に歩いて行った。


 駅に着き電車を待つ。

「これからどうする?」

「それなんですけど、私に一つ案があるんです」

「へえ、聞こう」

 こういう時、天宮が得意顔をしていると大抵はおかしなことを言ってくるのだ、半分期待せずに聞く。

「私たち、ASMR部だって言ったのにちゃんとしたものはまだ作ってないじゃないですか」

「まあ確かにな」

「それなのにお母様の言うことを否定して部活をしたいって言うのはおかしいと思うんです。漫画を一回も書いたことがないのに急に漫画家になるって言って学校や仕事を辞めちゃう人みたいな感じですよ」

「まあそうだな」

「だから作ってお母様に聞いていただくんです。私たちのASMRを!」

「お前のおほ声を母さんに聞かせて説得しようって言いたいのか」

「はい!」

 目を輝かせて天宮が言う。こいつ、やっぱり馬鹿だな。砂浜に埋めてくるべきだった。


「でも、やっぱりそうしないと筋が通らないですよ。それにASMRという単語を出した以上はいずれバレる話でもあります。私、お母様の前でおほ声晒しちゃいましたし」

「それはお前が悪いだろ」

 とはいえ、筋が通らないというのは一理ある。御園先輩を勧誘するときに筋が通らないと言って成人向けASMRを聞かせた俺がこれを否定するのはおかしい。

「わかった。ただ作るのはいいとしても機材は学校だ。多分、俺たちが学校に行けば流石に家に連絡が行くと思うぞ」

「だからこれから行くんです。夜の学校で録音してそれを残し、千春さんに編集していただくんです。どうでしょうか」

「う〜ん、色々と問題はありそうだがそれぐらいしかないか」

 実際、こんな生活も長くは続けられない。いずれは警察に連絡されるだろうし、お金も尽きる。だからと言って他に何かできることもないし天宮の案に乗るか。

「お前はいいのか? これから先、母さんと気まずくなるぞ」

「ふふっ、律さんこれからのことを考えてくれてるんですね。いや、もしかしてこれからって……。お義母様の方がいいでしょうか」

「やかましい」

 天宮の頭を小突くとヘラヘラと笑っている。そんな天宮を見て呆れていると、電車がやってきた。俺たちはそれに乗り込み学校へと向かった。

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