痴女ヒロインあらわる!
「おっほ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♡」
放課後の空き教室、おほ声がこだまする。
俺は目の前の女、天宮清乃のおほ声を聞いていた。
「どうですか! 私のおほ声は!」
いや、どうと言われても困る。
―天宮清乃―
清美可憐、成績優秀、品行方正の学校のマドンナ。
流れるような長い黒髪と華奢な体、大きな瞳。
放課後、勉学に努める俺の目の前に現れ、突然おほ声を叫ぶ奇人。(NEW!)
「天宮さん? とりあえず説明して」
この状況を一瞬で処理するのは、たとえスーパーコンピュータであっても難しいに違いない。
「ああっごめんなさい。ええっと…あなたが“一ノ瀬律”さんですよね?」
そう、俺の名前は“律”。苗字は一ノ瀬。ともに教師である父と母を持ち、愛すべき妹が一人。高校一年生。
「そんなことはどうでもいい、いや誰かも確認せずに奇声を上げたのか!?」
「ごめんなさい、私あがり症で。急に驚かせてしまいましたよね」
「そんなレベルの話ではないと思うけど。とにかく何の用?こう見えて真面目でね、勉強の途中なんだ」
わざとらしくノートをペンで叩く。俺は今日習った生物の科目の復習中だったのだ。細胞の組成についての知識を深めているところをおほ声で中断された。ひどい話だ。
「律さん、部活に入っていませんよね?」
「確かに入っていないな」
わが学び舎、前立学園は部活動では部活動への参加が義務付けられている。6月に入っても無所属である俺は、最近では諦められて教師から何も言われなくなっていた。
「実は私も部活動に入っていないんです」
ふむ、意外な話だ。優等生の彼女ならとっくに入っているものと思っていた。チア部とか野球部のマネージャーとかしてそうなのに。茶道部なんかも似合いそうだ。
「それと、最初のおほ声になんの関係がある?」
俺がそう言うと、彼女はその薄い唇をわずかに上げる。そして急に俺の耳元で囁いた。
「……やはり知っているんですね、“おほ声”を」
―しまった
“おほ声”。成人向け漫画や同人音声などで用いられる嬌声、喘ぎ声。その獣のような鳴き声の下品さを売りとし、多くの紳士諸君の間で嗜まれている。
何を隠そうこの俺、一ノ瀬律は同人音声の愛好家なのである。
ゆえに俺がおほ声を知っていることは必然。しかし、もちろんそれを人に知られるのは好ましいと言えない。同じ学校の女子に知られるなどもっての他だ。
くそ、天宮さんなんかいい匂いするし、見た目いいからから緊張して“おほ声”という単語を出しちまった。おほバレだ。しかも、こいつちょっといい声してるんだよな。念の為言っておくが、決して普段俺が女子と話す機会がないから緊張したのではない。
“やはり”?
『やはり知っているんですね』とこの女は言った。それはつまり俺が“おほ声”を知っているという子をこの女も知っていたということでー
「俺に何の用だ?」
結局、この質問に回帰するのである。ただし、最初よりもさらなる疑問と警戒を伴って。
「私と一緒にASMR同好会を作って欲しいんです」
放課後の教室を夕暮れの色と静寂が包んだ。
〜一ノ瀬家自宅〜
午後11時。
自室のベッドの上で俺はサークル“ブドウ屋”の『清楚委員長の雌堕ちASMR〜どすけべおほ声連呼えっち〜』を聞いていた。
このチョイスに天宮清乃は一切関係ないことをここに断言しておく。元々、お気に入りの作品なのだ。
俺は聞き慣れた冒頭音声を聞いている間、放課後の一幕のことを思い返した。
「私と一緒にASMR同好会を作って欲しいんです」
「断る」
俺はキッパリと告げる。
同好会は部活動の一種に含まれ、入れば規則の部活への強制参加はクリアされる。そのため、部活に入りたくない生徒が比較的活動のゆるい同好会に入っている例も多い。部活に入っていない俺としても体裁のために悪くない誘いではある。
「どうしてですか!? あなたもASMRが好きなんでしょう!私、知っています!」
しかし、俺には同好会にすら入りたくない理由があるのだ。というか、体裁を気にするならASMR同好会なんてものに所属するよりは無所属の方が幾分ましな気もする。
「ASMR同好会を作りたいと言ったら、生徒会長さんが律さんのところに行けっておっしゃっていました。『彼なら喜んで協力してくれるだろう』って」
ふむ、情報の出所は生徒会長らしい。なんで? 俺と会長には全く接点がない。なぜ、俺の趣向を会長が知っているんだ。
「とにかく、俺はそんなことに付き合うつもりはない。天宮さんだって評判に関わるんじゃないか?ASMRってそこまでメジャーじゃないし、好奇の目で見られるかも知れないだろ」
「構いません。私はそれでもASMRが好きなんです。自分の声で至高のASMRを作りたいんです!」
作る?ああ。なるほど。それで最初におほ声を聞かせてきたのか。自己アピールのつもりで。
「別にそれは部活としてする必要はないんじゃないか?やろうと思えば自分一人でも出来るだろう」
「それはそうですが….」
「まあ、やるのは勝手だが、他をあったてくれ。それに同好会には三人必要だろ。その感じだと、あと一人の目処もたっていないんだろう」
そう言ったところで天宮さんは完全に黙ってしまった。少し言い過ぎたかも知れない。
ただ、これでいいのだ。何となくの馴れ合いや半端な活動で貴重な10代を浪費したくない。この時期は優れた知能と進路の獲得こそが重要なのだ。
「じゃあ、俺は帰るから」
「待ってください!せめてこれだけでも」
彼女の手にあるのはUSBメモリだった。
「これは?」
「私の自作のASMRです」
ゴクリ。
―学校のマドンナ、天宮清乃のASMR音声―
なんて背徳的な代物だ。学校の男子で欲しがるやつなんていくらでもいるだろう。天宮さんのものでなくても身近な女子のASMR音声を聴くなんてとんでもないことだ。
「これは受け取れない。これはその何というか受け取ってはいけないと思うんだ」
さすが、一ノ瀬律。名前に自律の律を関するだけある。己を見事に律した毅然とした態度、あっぱれである。時代が時代ならこれだけで恩賞が出ただろう。
「? ありがとうございます! ぜひ、帰ってからでもゆっくり聞いてください!」
そう言って、天宮さんは笑顔で教室を去った。
俺の手にはUSBメモリがぎっちりと握りこめられていた。
改名手続きって、お金かかるのかなあ
「おっほ、やべっ♡やっべ気持ちい〜、いっぐ〜〜〜♡」
『清楚委員長の雌堕ちASMR〜どすけべおほ声連呼えっち〜』が佳境に入り、清楚委員長がどすけべな声をあげている。しかし、今日は何だか身が入らない。
そう思って、音声を止めた俺は机の上に置いてあるUSBメモリに目をやった。
「聴くだけ聴くか」
俺は自室のパソコンにメモリを差してから有線のヘッドホンを装着する。ワイヤレスは万が一、家の他の機器に接続された時に人生が終わるからだ。
「さて、どんなもんかな」
マウスを動かす俺の手は微かに震え、汗が滲んでいる。気づけば息が止まっている。この稀有な体験を前に緊張しているようだ。俺は唾を大きく飲み込む。そして、ゆっくりと再生ボタンをクリックした。
「おっほ♡〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
耳が死んだ。
頭を絞る金切音。襲う眩暈。足が天井を向いている。後頭部を打った!?どこが痛いかもわからない。これはまずい。爆音ASMRで失聴なんて笑い話にもならない。いやなるか。どうでもいい。何だこれは?あいつは誘いを断った俺を殺すつもりだったのか!?
「はあ、はあ、はあ」
どれくらい経っただろう。俺は少しずつ冷静さを取り戻していった。とりあえず、明日のタスクに天宮清乃への説教が加わった。
「兄ちゃん〜。なんかすごい音したけど大丈夫か〜?」
わが愛しの妹“一ノ瀬律花”が隣の部屋から様子を見にきた。妹の声を聞いて耳が無事であったことに安堵する。
「おお妹よ。兄ちゃん、学校の女子から遠隔で殺されそうになってたんだ」
「あ?よくわかんないけど、大したけがもなさそうだし大丈夫そうだな。夜なんだから静かにしろよ。ママに怒られるぜ」
「ふっ。心配してきてくれるなんて優しいな律花は」
「はあ?何言ってんだバカ兄貴!こんな遅くに大きい音立てたら誰でも見にくんだろ!」
ふふっ、妹はツンケンしているが実は優しい女の子であることを俺は知っている。中二の頃、急に金髪にした時は両親との仲裁にかなり手を焼いたがそんなお茶目なところも可愛らしい。受験生なこともあって今は黒髪になっている。俺は金髪も似合っていたと思うが。
「どうした? 兄ちゃんはもう大丈夫だから部屋に戻っていいぞ。それとも今日はおしゃべりしてから寝るか?」
返事がない。どうしたのだろう。何か機嫌を損ねることでも……
「兄ちゃん….ひっくり返るほどエッチなビデオだったんだな」
妹が蔑むような、憐れむような絶妙な表情で俺を見ている。
ヘッドホンから天宮さんの下品なおほ声が漏れ聞こえて部屋に響いている。
「パパとママには黙っておいてやるよ」
「待ってくれ、誤解なんだ。兄ちゃんははめられたんだ!」
俺の全力の弁明も虚しく、妹が菩薩のような張り付いた優しい表情で部屋を後にした。
その後、俺は天宮のASMRを血の涙を流しながら聞いた。ダメ出しを100個まとめて叩きつけるためのノートを取りながら。