没落一歩手前の男爵家に嫁がされました。幸せです
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「…………」
「…………」
つい先月、『悪役令嬢』として断罪されたヴィオラは、罰として没落に片足突っ込んでいるカーン男爵家への嫁入りを命じられた。
そんなヴィオラは今、新たな旦那様となったエドワードと見つめ……否、睨み合っていた。
ヴィオラは自他ともに認める鋭い眼光をいつにも増して強くした。そんな妻をエドワードは感情の読めない瞳で見つめ返す。
睨み合いの末に、ヴィオラが真っ赤な唇を上下に開けた。
「エ、エドだなんて……ッ! 愛称で呼ぶだなんて、なんてふしだらな!」
「君の貞操観念どうなってるんですか!? 呼んでくださいよ! 一回呼んでくれたじゃないですか」
「嫌よ! そんな呼び方もう一度した暁には、」
「暁には?」
「私、恥ずかしすぎて爆発するわ!」
ギャン、と眼光は鋭いままだが頬を赤らめ叫んだヴィオラの可愛らしさにエドワードは「んッ゙」と心臓を射抜かれた。
「……ヴィー」
「キャー! 破廉恥!」
エドワードは凡庸な顔を困ったように歪め、そっとヴィオラの真っ白な手に己の小麦色の手を乗せた。
淑女らしくない「ぎゃぁ!」という声が屋敷中に響き渡る。
もう既に己の主人の妻となった少女の性格を熟知している優秀な使用人たちは、報われない主人を憐れみながら自分たちの職務を粛々と全うし続けた。
◇◇◇
「ヴィオラ、お前のような者は王妃に相応しくない! 婚約破棄だ!」
「……どういうことでしょうか?」
呆然と、ヴィオラは呟いた。
今日は、3ヶ月後の結婚式の発表の為の夜会だったはずだ。間違っても、婚約破棄を宣言する場ではない。
だが、婚約者である王太子の彼は、腕に可愛らしい少女をぶら下げながらヴィオラに婚約破棄を宣言してきた。
「用がある」と言ってどこかに行ったと思ったら、帰って来る頃にはもう知らない少女が側にいた。
――あぁ、とヴィオラはうめいた。違う、あの少女をヴィオラは知っている。少女の名はカレン。ヴィオラの婚約者である王太子と学園で恋仲という噂が流れている少女であった。
そして、その噂が流れると共に、
「お前はカレンと俺の仲に嫉妬し虐めたそうだな!? 今すぐカレンに謝れ!」
――ヴィオラは愛しの婚約者に近づくカレンに嫉妬し、虐めを働く『悪役令嬢』という不名誉な噂が立った。
最初はヴィオラに同情的だった周囲も、教科書を破りすて授業を受けれなくし、制服にインクをかけ学校に来させないようにし、本棚を護衛に頼み倒し子爵令嬢の足に全治二週間の怪我を負わせ、階段から突き落とした、という所でヴィオラを見限った。
勿論ヴィオラはそんな真似していない。ヴィオラは虚像に殺されたのだ。
――誰かが彼女を悪役令嬢と言った。その言葉は驚く程の速さで伝播した。
ヴィオラの首を『悪役令嬢』が締め、彼女の息すら奪い取った。
再三、王太子にヴィオラは言った。
「付き合う友人は選ぶべきです」
最初は「彼女とはそんな仲じゃない」と否定していた彼も、回数を重ねる度に段々と言葉は粗雑になり、ついに先日、ヴィオラを突き飛ばし「お前には関係ないだろう!」と怒鳴りつけてきた。
顔立ちがキツく、ほぼ表情を出さないヴィオラは、そんな事をしても傷つかないと思ったのだろう。
だが、違う。感情はヴィオラの中で若葉を芽吹かせている。陽の光をたっぷりと吸い込み青々とした葉がどうして、虫食いに遭わぬというのだろう。
「わたしぃ、ヴィオラ様に虐められてとぉっても悲しかったの!」
子爵令嬢のカレンが王太子に甘えるようにして叫ぶ。
そんな事、ヴィオラはしていない。むしろ喰われ消費されているのはヴィオラの方だ。
「なんて女だ、心底吐き気がする!」
こんなにも、心はボロボロなのに。
「ヴィオラ様が虐めたのって本当だったんだ……」
「最初はヴィオラ様可哀想だな、て思ってたけど、あんな凄い虐めしてたって知ると同情できないよね……」
「怖い顔。絶対自分が正しいって思ってるんだよ」
穴ぽこだらけの心は、ヴィオラに痛みを与える。
熱に浮かされたように所在なさげに視線をウロウロと彷徨わせたヴィオラは、背中に脂汗をかきながらカーテシーをした。
それは、どれだけヴィオラが真剣に王妃教育に取り組んでいたのか、一目でわかる見事なカーテシーだった。
だが、そのカーテシーに気づこうとする人間はおらず、王太子にいたっては「おい、そんな礼で誤魔化そうとするな!」と声を荒げた。
どうやら、『君主』へ捧げるカーテシーをしているヴィオラの真意に、彼はとんと気づかないらしい。
『私は、貴方にとって恥ずべきモノとなる行いはしていません』という必死の弁解であるのに。
額から伝った汗が、ヴィオラの目に入る。その痛みにもだえそうになりながら、ヴィオラはカーテシーをする手を止めない。
誰か。それはヴィオラを王太子の婚約者に任命した国王陛下。
誰か。それは「どんな時も正しくありなさい」が口癖だった、ヴィオラに王妃教育を叩き込んだ王妃。
誰か。それはヴィオラを17年間育ててくれた両親と兄。
どうか、誰か来て。ヴィオラの真意に気づいて。
もうとっくに足も腕も限界を迎えていて、ぷるぷると震え、気を一瞬でも抜くと崩れ落ちてしまいそうになる。
――お願い、早く、早く。
「……助けて」
「大丈夫ですか?」
額を柔らかいハンカチで拭われた。高位貴族達がよく持っている刺繍が施された硬いハンカチではなく、それはとても柔らかかった。
顔を上げると、そこには凡庸な顔をした茶髪の青年が立っていた。
彼が耳元で囁く。
「凄い汗ですよ」
猫のように目を細めた彼は、こちらを面白そうに見てくる。
「貴方は……」
「カーン男爵家当主のエドワードです」
それは、没落に片足突っ込んでいると囁かれる男爵家。なんでも長男が娼婦に貢ぎまくったらしい。
その長男は絶縁されたから、『当主』と名乗る彼は次男で優秀だと言われているエドワードなのだろう。
体を支える為にとエドワードが差し出した手に、ヴィオラはそっと手を乗せた。
途端、王太子が噛みついてくる。
「おい、なにやってるんだ!」
「ヴィオラ様が今にも倒れてしまいそうでしたので」
「お前の名は」
「カーン男爵家のエドワードです、王太子殿下」
カーン男爵家、という名を聞いた瞬間、王太子は閃いた、とばかりにニヤリと笑った。
「ヴィオラ! カレンを虐めたお前は罰としてそいつの元に嫁ぐんだ!」
「……はい?」
「かしこまりました」
ヴィオラの返事を待たず、エドワードがうやうやしく一礼をした。そして、ヴィオラの手を取ったまま歩き出す。
ヴィオラが後ろを振り返ると、王太子と子爵令嬢は仲睦まじそうに寄り添い、皆がそれを祝福していた。
そっと、ヴィオラは自分に背を向け歩いているエドワードを見る。
金髪を持つ王太子と比べると華やかさに欠け、顔立ちも少し幼いが、柔らかな茶髪に――なによりヴィオラに手を伸ばしてくれた彼に、心が揺れる。
会場から外に出ると、ヴィオラは彼の手から、自分の手をそっと剥がした。驚いたように振り向く彼を、真っ直ぐ見据える。
彼に責任を押し付けるなんて、そんな事あってはならない、と。
「私のせいで、なんの罪もない貴方が罰を負う事態になってしまったこと、深く謝罪いたします。私と貴方が結婚しないようにとりはからうので安心して……」
「謝らないでください。……ふふっ」
笑いだした彼に首をかしげると、「いえ」と彼はもう一度笑った。
「むしろこんなにも可愛い方がお嫁さんになってくれて、僕としてはラッキーだったな、と」
「……ふぇっ」
「……『ふえ』?」
「なんでもありません」
コホン、とヴィオラは咳払いをした。
王太子とは最初から義務的な関係しか築いておらず、『可愛い』と言われたのが初めてで動揺したなど、ヴィオラは口が裂けても言えなかった。
◇◇◇
その場の流れといえど『王命』と同義である王太子の言葉から、エドワードはヴィオラと結婚する運びとなった。
ヴィオラの家族は、キズモノとなった娘を庇うことなくこれ幸いとカーン男爵家に売った。不名誉な噂の火の粉が自分たちにもかかることを恐れたのだろう。
その際両親が借金返済の為お金、つまりは娘を売る為の慰謝料をという話をエドワードにしたが、彼はそれを「自分の力でヴィオラを幸せにするので、どうか安心してください」ときっぱり断っていた。
その清々しさに少し頼もしい、と思った程だ。
「……でも、借金をどうやって返済しますの?」
「そう焦らないでください」
ふふ、と彼は軽やかに笑う。そしてヴィオラの顎に手をかけた。
「あと少しの辛抱ですよ。ヴィー」
「『ヴィー』!?」
「愛称です。ヴィーも『エド』って呼んでくださいね」
「む、無理です」
エドワードの顔がヴィオラに少し近づいた。
「ほら、呼んでみてくださいヴィー」
「ちょ、ちょっとそれ以上近づかないで……」
また少し、近づく。もう一歩でも動いたら、ヴィオラの唇にエドワードのそれがあたってしまうだろう。
「エ、エドワード……」
「違いますよ、ヴィー?」
二人の距離が、ゼロになる。その瞬間のほんの僅か前に、ヴィオラは叫んだ。
「にゃあああああああああああああああああっ!」
「えっ、ヴィー!?」
そしてそんなヴィオラの声に呼応するように、凄い勢いでメイドやら執事やらが走ってきた。
「奥様!」
「どうなさったのですか奥様!」
「離れなさい、野蛮やろう! ……って、旦那様!?」
「なにやってるんですか!」
「そんな人だとは思っていませんでしたっ」
「えっ、えっ」
メイドや執事から非難を浴び、当のヴィオラは鼻をクスンクスンしながらカーテンにくるまっている。
エドワードは情けない声をあげながらヴィオラをチラリと見た。その瞬間、ヴィオラは顔を背ける。
それは淑女なのにあんな大声を上げ、カーテンにくるまっているという羞恥心から来るものであったが、もちろんそんなヴィオラの心中をちっとも知らないエドワードは傷ついたような顔をして床に崩れ落ちた。
そんな二人を見て何かを察した使用人たちは、ヴィオラにハンカチとマシュマロが載ったココアを渡し、部屋から去っていった。
カーペットの上でうずくまっているエドワードの姿に、顔ほど心は凶悪じゃないヴィオラは思う所があったのか、カーテンから出て、エドワードに近寄る。
「……なんですか、ヴィオラ?」
「……っ」
戻ってしまった名前に、なぜか涙が誘われた。
ヴィオラはエドワードに覆いかぶさるようにして抱きついた。
「――違います。殿下とは、こんな関わり方をしたことがないから、上手にできなかったんです。ごめんなさい、エド」
口をとがらせたエドワードが、寝返りをうちヴィオラを見上げた。
「愛称で呼べば、赦されると思ってるんですか? 罪な子ですね、僕の純情を弄んで」
「違います!」
エドワードはハッと自身の失態に気づいた。顔を真っ赤にし、今にも泣き出しそうな顔をヴィオラはしている。
そんな顔をさせたいわけではなかった、とエドワードがヴィオラの頰に手を伸ばすと、ヴィオラは一瞬怯えるように震えた。
それでも、気丈な瞳はそのまま。
「エドが、あの日助けてくれた時から、ずっと、好きなんです。……多分」
「急に曖昧」
「当たり前じゃないですか! その……初恋、なんですから」
「へ」
今度はエドワードの顔が真っ赤になった。
ヴィオラは額をコツリと合わせる。
「……ヴィー、もう一回『エド』って呼んでください」
「は、恥ずかしくて無理です!」
ゴッ、と鈍い音が響く。
エドワードの額めがけてヴィオラが額を振り下ろしたのだ。
エドワードが額を押さえてもだえる。
「あれ、僕達両想いになったんですよね!?」
「りょ、両想いって、まるでエドワードが最初から私の事が好きみたいな……」
エドワードが顔をキリッとさせて「そうですよ?」と言った。両手は額に当てたまま。
「好きじゃなかったら、わざわざ助けません」
「だ、打算的!」
もう一発エドワードの額にヴィオラの額が振り下ろされた。
◇◇◇
「ヴィー、これプレゼントです」
「もう。お金に余裕が出たからってこんなにポンポン宝石を買うのはどうかと思いますよ」
数カ月後、エドワードが投資していた鉱山から偶然にも大量の金が発掘され、今ヴィオラは優雅な生活を送っている。
更に、エドワードがそのお金を使って他国から仕入れた布が社交界で大流行し、カーン男爵家は没落一歩手前から一転、栄華を極めることとなった。
そんな優良物件へと昇華したエドワードに、色々な家の娘の釣り書が送られてきたりもしたが、彼はそれを全て無視した。
「僕にはヴィーだけですから」と笑うエドワードにヴィオラは涙が出そうなくらい嬉しくなった。
エドワードから貰った大粒のサファイアがついたネックレスを、ヴィオラは大事に箱にしまう。
本当に、プレゼントをポンポンと贈ってこなくて良いのに、と嘆息しながら。だって、ヴィオラにとってはエドワードがいることが一番嬉しいのだから。
ガーデンチェアに腰掛けたヴィオラの髪を、エドワードが指で一房つまんだ。
「そういえばヴィー。来週夜会に行きませんか?」
「……別に、いいですけど」
エドワードの人気はうなぎのぼりだが、未だヴィオラには『悪役令嬢』という異名がついたままだろう。ヴィオラはカーン男爵家に嫁いでからお茶会もせず新聞も読ませて貰えないので、あくまで想像の域を出ないが。
そんな自分を連れていっていいのかと首をかしげつつ、エドワードと一緒に夜会に行けることにヴィオラはたまらず笑みがこぼれた。
夜会の日。ヴィオラは水色のエンパイアドレスに、エドワードがプレゼントしてくれた宝飾品を身に纏った。
「世界で一番綺麗です、ヴィー」
「過大評価し過ぎです!」
うっとりと呟くエドワードに噛みつくようにヴィオラは叫ぶ。
「――世界で一番綺麗なお姫様。貴女をエスコートできる名誉をどうか賜らせてくれませんか?」
「……貴方以外、手を取って欲しい人なんていないわ」
エドワードの手に白いレースに包まれた己の手を乗せたヴィオラは、僅かに口元に笑みをたたえていた。
会場にはどこか浮ついた空気が流れている。
皆の噂の格好の的は、ヴィオラとエドワードだ。エドワードは言わずもがな、ヴィオラにまで皆がそわそわとしているのには理由がある。
王太子が、公爵令嬢を何の承認も得ず婚約破棄した事と、子爵令嬢に貢ぐために国庫金を横領した事が露見し、王位継承権を剥奪され、そんな王太子を誑かした子爵令嬢は国外追放されたのだ。
それに伴い、ヴィオラが虐めた、というのは全て子爵令嬢の自作自演だった事が発覚した。
それを知った時、皆――特に未婚の令息たちの頭に浮かんだのはヴィオラへの謝罪ではなくヴィオラとお近づきになる事。
ヴィオラはとても優秀で、顔は怖いがそれを覆す程に美しい。第二王子も例に漏れず、虎視眈々と彼女を新たに自分の妃にする事を目論んでいる。
――そして、エドワードの手を取り会場に入ったヴィオラは、断罪された時と変わらず、むしろその時より綺麗になっていた。凡庸な顔のエドワードには、もったいない程に。
シャンパンを持ち第二王子がさりげなく二人に近づく。
だがすぐに、第二王子は足を止めた。
こちらを射殺さんばかりの目で、エドワードがこちらを見ていた。そこにはいつもの凡庸で人畜無害な笑顔を浮かべる男はいない。
そこで、ふと第二王子は思った。
どうして、娼婦に縁のなかったカーン男爵家の長男が、急に娼館に入り浸るようになったのだろう。まるで誰かから勧められたように。カーン男爵家が没落一歩手前だったから、王太子、いや元王太子はカーン男爵に嫁げと言ったのだ。
どうして、丁度いいタイミングで鉱山が見つかったり、布が流行したのだろう。まるで時期を知っていたかのように。
まるで、全てがヴィオラが断罪されるのを待っていたかのような完璧なタイミング。
第二王子は、知らず知らずの内に唾を飲み込んだ。
考えてみれば、子爵令嬢はエドワードの従姉妹だった。二人が学園で話している姿を、見たことがあった気がする。
それならば、子爵令嬢が王太子に貢がれたという話をエドワードが知っていても、不思議ではない。だって横領は、匿名の手紙によって発覚したのだから。
そして、子爵令嬢が虐めをでっち上げたという話。あれには一つだけ、不可解な事があった。
本棚を倒して子爵令嬢の足を挟んだ、というのには人手が必要なのだ。ヴィオラには護衛が付いていたが、子爵令嬢である彼女に護衛はいない。学園のセキュリティは厳しいから外部から人を呼ぶ事は出来ないため、学園内にいる誰かに頼む必要がある。その誰かが、エドワードだとしたら……
いや、よそう。と思考を止めた第二王子は水色のドレスを身に纏った美しい少女を見た。
悪役令嬢という不名誉な噂は死に、一人の男に愛される少女は無邪気に笑っている。
きっと一生、自分を悪役令嬢に仕立て上げ殺そうとしてきた相手に気付かないまま、少女は生きていくのだろう。
エドワードにキスを頬に落とされ「ふあぁ!?」と声を上げるヴィオラに向かって第二王子は小さく「俺も可愛い嫁、見つけるか。退散退散」と呟いた。
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