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短編

復讐? いいえただの意趣返しのつもりでした

作者: 猫宮蒼



 マリシア・シャルティエは王子の婚約者であった。

 王子――レオンとの仲は決して悪くはなかった。

 政略結婚であったとしても、それでもお互い確かに想いあっていると言えたはずだった。


 だがしかし、マリシアは最近その婚約を解消されてしまったのだ。


 破棄でなかっただけ良かったのかもしれない。


 たとえ王家側の有責であったとしても破棄であった場合、事情をそこまで詳しく知らぬ者が一方的にマリシアにこそ瑕疵があるなどと思い込みよろしくない噂を流す事もあり得たのだから。


 もしマリシアがレオンの事はただの政略で結ばれた相手で何とも思っていなければ、婚約の解消は喜ぶべきものだったのかもしれない。

 次の結婚相手を見つけるのに時間がかかるかもしれないが、それでも好意を抱けそうな相手と結ばれる事もできるかもしれないという希望を持っていたかもしれないし、その逆に相手がいなくて更に望まぬ結婚をする事になっていたかもしれない。

 もしくは、修道院に行く事になっていたのかも。


 どんな未来であれ、それでも好きでもない相手との結婚から一度は解放された、という解放感を抱いたはずだ。

 だがしかし実際マリシアはレオンの事を慕っていたし、だからこそ王妃教育だってひたすら辛いだけだと思わず努力もできた。

 自分のためであり、好きな人のための努力。頑張れば頑張った分だけ決して無駄になる事もない――はずだった。


 だがしかしレオンに言い寄る女がいた。

 エリーゼ・エグラス。

 かつてレオンの婚約者候補だった女である。

 他にも婚約者候補はいたけれど、その中から選ばれたのがマリシアだった。けれどもエリーゼは諦められなかったらしく、密かにレオンに接近し自分を売り込んでいたらしい。


 あからさまに体の関係を持ったりしてはいなかった。というか、そんな娼婦みたいな真似を彼女の家がさせるような教育、するはずがない。

 ある意味で彼女は正攻法で口説き落としたのである。レオンを。


 家の格は大体同じ。どちらが上だとか下だとかというわけでもない。

 エリーゼはそこで自分の優秀さを売り込んで、自分こそがこの国の王妃となるのに相応しい、とレオンに全力アピールしていたようだ。マリシアはその頃王妃教育でひぃひぃ言ってたので後から聞いた話ではあるが。


 婚約者候補の中から選ばれなかった時点で諦めるという選択肢がなかった、という部分でエリーゼがレオンに抱く想いも本物だと思えなくはない。ないけれど、マリシアからすればそれにしたってという話である。


 マリシアだってレオンの事が好きで、だからこそ必死に努力してきたのだ。


 けれどもそれが全部水の泡――とはいえ、王妃教育もまだそこまで重要な部分には入っていなかったからこそなのだろうけれど。


 正直マリシアからすると、自分もエリーゼも能力的にはさほど変わらないのでは? と思っている。


 ただ、エリーゼは自分の魅せ方が上手かったのだろう。

 大体同じくらいの能力しか持ち合わせていなかったとしても、エリーゼの方が確かになんだか優れているように聞こえる感じでプレゼンしていたようだし。

 そしてそれ故に、王子は揺らいでしまった。

 とはいえ王命での婚約だったから、自分一人で決めるわけにもいかない。


 そうして両親に相談し――国王夫妻もエリーゼの方がよいかもしれない……と思ったからこそ。


 婚約は無かったことになったのである。


 王妃教育はまだ終わってすらいなかったが、それでもそれなりの時間を費やしていた事に変わりはない。

 王家はマリシアの新たな婚約に関して協力すると言ってくれたけれど、だったらそのままレオンと結婚させてほしかった。とはいえ、言ったところでもう無意味なのだろう。

 マリシアの両親は王家に思う部分があったようではあるけれど、婚約者であるのに冷遇されていたという事実もなければ、解消される前まではきちんと婚約者として大切にされていたくらいだ。

 けれども、国を支えるという点から見て、当時はマリシアが良いだろうと思われていたものが月日を重ねた結果やはりエリーゼが適任である、という結論に至ってしまった。


 ただ、それだけの話と言ってしまえばそれまでだ。


 あくまでも国としての決断であり、そこに個人の意思はない。


 などと言われてもマリシアからすれば鼻で嗤ってしまいそうなものではあるが。


 自分とそこまで変わらないだろうエリーゼが、しかし自分より優れていると思われているのもマリシアには悔しく思えた。

 エリーゼもマリシアもそれなりに周囲からは美しいと言われていたが、どちらがより上かとなるとその答えは出ていない。学習面においてもその他の面でも、エリーゼがマリシア以上に優れていると称される程のものはなかったのだ。

 まぁ、しいて言えば要領はきっとエリーゼの方が上だった。


 だからこそこうして候補の時点で選ばれずとも、最終的に婚約者としての立場を得たわけだし。


 マリシアは自分が王子の婚約者という立場に胡坐をかいて何もしなかったというわけではない。

 日々精一杯だった。もっと自分が能力的に優れていれば、エリーゼが入り込む隙間なんてなかったかもしれない。けれども、そう悔やんだところで今更だった。


 マリシアじゃなければ駄目なんだ、そうレオンに想われるまではいかなかった自分にも落ち度はあったのかもしれない。


 いや、でもしかし。


 とっくに婚約してる相手に近づいて奪うような真似する方がどうかしてるわ!!

 邪魔だから殺しちゃお、でマリシアの命が危険に晒される可能性もあったとはいえ。



 マリシアは別にレオンの事は恨んでいない。

 彼は彼なりに国の今後を考えた上で、その上でより優れた相手を王妃にした方がいいと判断したのだろう。相談された国王夫妻だってそうだ。

 マリシアの恨みや怒りはどちらかといえばエリーゼに向かっている。


 自分を売り込むにしてもだ。やり方が気に入らない。

 明らかにエリーゼの方が自分よりも優れているとマリシアだって認めるくらいに凄ければマリシアだって諦めがついた。その上で王子にお幸せに! と笑顔を向ける事もできただろう。

 王子が幸せになれるのなら。

 その相手が自分も認めるような相手であるならば。


 だがしかし。

 実際は自分とそこまで実力とか能力的な差はほとんどない、外見だって優劣を決めるにしても人の好みによる、としか言えず正直どっちもどっちだろ、と言われるくらいの、誤差程度の差しかない状態で。

 さも自分の方がより優れていると思わせるのはどうかと思う。結果エリーゼよりも更に劣っていると思われたマリシアの心の中はとても荒れていた。


 それに人の事を貶めるような、というか下げる発言をして自分を上げるのはまぁ、わかりやすい手法であろう。上手くいくかどうかは別として。


 ただ、その中のエピソードの一つとして、マリシアは踊りが下手だから、みたいに言われたのは腹が立っている。


 別に下手ではない。


 ダンスに関してはむしろお墨付き貰えるくらい踊れるわ。

 エリーゼが言ったエピソードは、たまたま靴を新調した時のやつだ。新しく用意したはいいけれど、今までのよりヒールが少し高くていつもと勝手が違ってちょっとバランスを崩した時の話だ。

 とはいえ、それだってその後その高さに慣れてふらつくような事もなかった。


 ずっとそう、というのなら言われてもわかる。

 けれども別に本番で失敗が許されない場面でのやらかしでもなかったあの一件を、さも重要な場面でやらかした失敗のように言い、あまつさえそのまま踊りまで下手くそ、と誤解を招くような言い方をしたのはどうかと思っている。


 大体、そのやり方が有りならこっちだってエリーゼの幼い頃の失敗エピソードをいくつかばら撒けるというのに。けれどももうとっくに昔の話だから、そんな話を今更されても……と思っていたしむしろそんな昔の話をさも最近の事のように語るのも場の空気も何も読めないと言うようなものだ。

 だからこそ、マリシアはわざわざ言わなかっただけだというのに。


 なのにあの女……ッ!!


 もっと正々堂々とやりあって負けたなら諦めもついた。

 でもなんていうか、マリシア的にはとても卑怯で姑息な手段で立場を奪われたような気分だったのだ。


 とりあえず、これだけは声を大にして言いたい。


 自分とエリーゼは能力的な面で然程差はありませんッ!!


 ちなみにこれはマリシアの思い込みではなく、マリシアやエリーゼに関わった事がある家庭教師の話や、貴族たちが通う学院での成績などできっちりと証明されている。


 なのでなんというか、余計に腹立たしかったのである。


 自分より上の相手にやられたならば、まぁ当然ですわね、と言えた。

 自分より下だと思っていた相手なら、多分とても苛ついたかもしれないけれど同時に自分を超えていったという部分を認めただろう。

 だが、何というかほぼ同レベルだと思っていたエリーゼに関しては、出し抜かれたという気持ちが強すぎて認めようとは思えなかったのだ。そもそも自分の立場を今更のように奪っていった相手でもあるので。


 マリシアがエリーゼに負の感情を持つに至った決め手は、と言われればまぁダンス関連についてである。

 たまたま新しくした靴のヒールが高かっただけで、慣れるまでにちょっとふらついたりしただけの、正直失敗とも言えないような話だ。

 公式の場でやらかしたならともかくそうでもなかったわけだし。

 ダンスの講師だって新しい靴は慣れるのに少し時間がかかりますよね、でその一度ふらついてしまった事に関してとやかく言ったりはしなかったのだ。本番ならともかく練習なら失敗も付き物であるために。


 その本番ですらなかった場での事を、さも本番でやらかしたみたいに言ったエリーゼがとにかく許せなかったのである。

 第三者が聞けばとても些細な話だろう。けれどもマリシアにとっては重要であったのだ。だって公式の場ではそんな失態晒した事などないのに、実際はやらかしてそれを隠しているかのように思われるような言い方をされたのだから。


 いずれ王妃となった暁には不様な姿を晒せない。それはわかっている。王妃として公の場にいる時は決して失敗など許されない。完璧でなければならない。

 そう思われるのもわかっている。

 けれども、だからといって公式の場ですらない、公私で言うなれば私事の部分でまで完璧であれるはずもない。誰が聞いても醜聞である、というようなものをその公私の『私』部分でやらかしたならともかく、そうでもなかったのだ。

 ちょっと悪い噂を流してマリシアの足を引っ張ってやろう、そう考える令嬢が他にいなかったわけじゃない。

 けれども、そうならないようにマリシアは今まで努力してきたのだ。

 悪い噂を流されても、そんなの事実無根、むしろ一体何がどうなってそのような出まかせが? とさらっと受け流していたのに。

 マリシアが貶められた一件に関しては、たまたまあの新しい靴でふらついた姿をエリーゼが目撃したからというのもある。

 王城ではなくマリシアの家での練習だった。そしてそこに、たまたまエリーゼが訪れていただけの話だ。エリーゼがマリシアに用があったわけではない。家同士でのやりとりであって、エリーゼはそれにくっついて足を運んだに過ぎなかった。

 そして折角来たのだから、という親の好意でエリーゼはマリシアとちょっとした話でもしていけばいい、と案内されて――そしてそのたまたまの場面を目撃されてしまった。


 エリーゼとマリシアの家は代々それなりに付き合いがある。常に仲良くべったりしているわけではないが、マリシアがエリーゼの幼い頃の失敗談を知っているのはそれも原因だった。二人はそういう意味では幼馴染であったのだ。


 エリーゼが、レオン王子の事をずっと昔から好きで好きでどうしようもない、というのであればまぁ、今回の事もわからないではなかったのだ。

 けれどもエリーゼの初恋は別の相手である事をマリシアは知っていたし、その初恋が実らなかった事も知っている。そして、マリシアがレオンの婚約者に選ばれた後エリーゼの婚約者を決めるべく彼女の両親が家と娘の幸せを考えてあれこれ悩んでいたのも、マリシアは両親経由で知っていたのだ。


 なんだろう、この、なんていうか裏切られた感。


 婚約者としていい相手がいなかったわけではなかったはずだ。

 そこら辺の話も親からふわっとした噂程度であってもマリシアは聞いていたのだから。

 けれどもエリーゼはその婚約が成立する前に行動に出て、王子の婚約者になった。


 幼い頃からエリーゼの事を知っている。

 それはつまり、エリーゼだって幼い頃からマリシアの事を知っているわけで。


 エリーゼは一体何を思ってあえてこんな事をしたのだろう。


 ただやられっぱなしで泣き寝入りするような女じゃない事くらい、わかっているだろうに。



 レオンとの婚約は無かった事になってしまった。その事実を更に変えようとは思っていない。

 彼らもきっと散々悩んだのだから。悩んだ上で、王家として、国のためを考えた結果より優れた相手をと思うのは別に愚かな事ではない。マリシアだって努力はしていたけれど、けれどもそれでも、マリシアに至らぬ部分があったからこそこうなってしまった、と考えられる。もっと非の打ちどころのない女であったなら、こうはならなかった。


(やっぱり気に入らないわ……)


 どうにか気持ちを落ち着けようと考えても、最終的に行きつく先はどうしてもここだった。

 レオンや国王夫妻に恨みはない。マリシアが婚約者であった時、将来は自分もその立場になるのだからと厳しくも優しく接してくれていた。だからこそ辛いしきついと思う事があっても弱音一つ吐く事なく努力してきた。大変だと思う事はあってもそれは決して苦ではなかった。


 とりあえずマリシアは勢いで何もかもを決めるのはどうかと思ったために、まずは落ち着いてエリーゼとそれに関連するものを調べてみる事にした。


 その結果手元にやってきた報告書を見て、マリシアは鎮火しつつあった怒りの炎を再び燃え上がらせる事となった。


 報告書に記された内容は、大半の人物が見たとしても特に問題はない、と判断するだろう。

 けれどもエリーゼの事を昔から知っているマリシアにとっては、問題しかないものだった。


 エリーゼの初恋の相手――名は伏せるが――はエリーゼよりも年上で、幼い頃のエリーゼにとっては憧れのお兄さんと言うべき存在だった。幼い、といっても無邪気に何もわからないような年齢でもなかったからこそ、エリーゼはその初恋を秘めていた。ただ、マリシアにはこっそりと打ち明けてくれていたからこそマリシアだけは知っていたのだけれど。


 そんな初恋の君は早々に結婚することになったのである。エリーゼの初恋が叶わなかったのはつまりそういう事だ。

 初恋の君は次男で家を継ぐのではなく婿入りとなった。婿入り先の家は大きな商会を経営していて初恋の君はその商会で働く事になり、最初は慣れなかったようだがそれでもコツコツと経験を積んでいった結果、今ではすっかり周囲に認められている。彼の妻も社交界では有名な存在だけれど、お互いに忙しいらしくこの夫婦が社交の場に出てくる事はそこまでなかったのである。出てこなくとも商会絡みの話題はよく流れていたので会わずとも二人の様子は大抵の貴族が知っていた。

 噂だけを聞けばこの夫婦、お互いが忙しくろくに顔も合わさないような冷え切った夫婦かと思われていたのだが実際はその逆。誰が見ても熱々、今でも新婚かと思われるくらいに仲睦まじい。


 だからこそエリーゼが付け入る隙などどこにもない。

 エリーゼだってそれはわかっているのだろう。

 けれども。


 マリシアは察してしまった。

 この初恋の君とその奥方。商会が更に規模を拡大した事で今までは領地やその周辺で忙しくしていたようだがこの度王都に仕事の場を移す事になったらしい。それについては確かに社交界でも噂になっていた。ますますあの商会が大きくなっていくのか、と何だか凄いわと遠い世界を見ているような気分にマリシアだってなったのだ。


 だが、それが今回の原因の一つである、とはその時思うはずもなかった。


 そう、エリーゼは王都に憧れの初恋の君がやってくると知り、今更彼とどうにかなろうと思ってはいないようだがそれでも。

 それでも愛する者の近くにいたいと願った結果――


 やらかしたのだ。


 レオン王子の婚約者という立場を奪ってしまえばエリーゼは未来の王妃。

 そしてあの商会は更なる拡大を遂げた事でこれからは今まで以上に社交界にも夫婦ともに姿を見せる事もあるだろう。

 愛する人のお姿を一目だけでも……なんて言葉にしてみれば健気ではある。

 そんなヒロインがいる恋愛小説を読んでマリシアだってきゅんとした事もある。


 だがしかし、現実でそれをやった挙句そのとばっちりが自分に来たとなれば話は別だ。


 つまりあの女は。

 決して明かす事のできない秘めた想いを胸に愛する人を見る事ができる距離にいる事を望んだ結果、人の婚約を台無しにしてくれたのである。

 彼を近くで見る事ができるのであれば、そのための苦労は厭わない。

 そんな気持ちでこれからきっと王妃教育に臨むのかもしれない。


 これがただの物語であればマリシアだって、報われない想いのために苦労してるヒロインってなんて健気なんでしょう……! とヒロインに感情移入できた。


 だが現実はそのヒロイン気取りの幼馴染のせいで自分の婚約は無かったことになるし、しかもなんだかダンスが下手くそみたいな噂が流れてるし、これから先自分の新しい婚約者選びでそれはもう面倒な事になるしで、ヒロインに頑張ってなんてエールを送れる余裕などどこにもない。


 せめて。

 せめて一言相談してくれれば、王妃の友人ポジションとしてこちらに招くとかして憧れの君と顔を合わせる機会を作るくらい協力はしたと思う。そうして接点を作ってあとはそっちで交友関係続けていけるようにサポートくらいはしたかもしれない。


 けれども今となってはそんなもの『かもしれない』としか言いようがない。

 だってもうレオンの婚約者でもなくなってしまったわけだし。


 ある意味で、真実の愛なのかもしれない。

 けれどもそのとばっちりを食らったこちらからすれば、なんて傍迷惑なんだとしか言えないもので。


 マリシアがこの短期間に人の評判をちょっと落としたりしたついでに自分の能力を高めていたから差がついてます、というのならまだしも、実際そこら辺を調べてみても恐らくマリシアと能力的な部分はほとんど変わらないのもまたマリシアの怒りに火をつける結果となった。


 この女の秘めた恋心のためだけに、何故自分がという思いが強まるばかり。


 報告書の内容が当たり障りがなさすぎてエリーゼに問題があるような内容でなかったとしても。

 マリシアは、マリシアだけはエリーゼの真の目的に気付いてしまったのである。


 許せない……っ! 許せませんわ!


 などと怒りの炎を燃え上がらせたところで、今更何を言ってもマリシアの婚約は解消されてしまったし、新たな王妃となるべくはエリーゼだと周知されてしまっている。

 一応王家からも申し訳ない……といった感じの気持ちばかりの便宜はあったらしく両親はマリシアを叱責する事もなければ王家に対して敵対の意を示すような事もなかった。何も思う部分がないというわけではないだろうけれど、既に事は収まってしまったのだ。


 そこで今更マリシアがエリーゼがレオン王子に近づいたのは初恋の君の近くにいるためです、とか言ったところで……という話である。

 人間関係に多少の亀裂をいれるくらいはできるかもしれないけれど、その後の事を考えるとマリシアの立場が悪くなる。ただでさえエリーゼが自分を売り込むのにマリシアの評判を若干落としてくれたせいで、これ以上自分の立場が悪くなるような事は避けたい。

 でも、このまま黙って二人の仲を祝福する気分にもなれなかった。


 もっというなら、エリーゼには何か仕返しをしてやりたいとすら思っている。


 けれども仕返しの内容次第ではやはりマリシアの立場が危ぶまれる事もある。


「泣き寝入りだけは絶対イヤ……!」


 この怒りを燻ぶらせ続けるような事だけは、イヤだった。いつまでもこの件を引きずって生きていくのは精神衛生上よろしくない。せめて一発平手でもかましておけばよかったわ、と思ったけれどこれもまた今更だった。


「……あ。そういえば、打ってつけな相手がいるじゃない」


 そしてここでマリシアは思い出した。


 王都には、魔女が経営している薬屋があるという事を。



 ――魔女、と言ってもその魔女は何か凄い魔法が使えるとかそういうわけではないらしい。

 簡単な魔法は使えるらしいが、効果は微々たるもの。

 どちらかといえば薬作りの腕が凄いらしく、怪我によく効く薬や病気に対しての薬など、それはもう様々な物が売られているのだ。


 マリシアはそんな魔女の店に訪れていた。


「いらっしゃい、今日はどういうお薬をお求めですか……?」


 ぼそぼそと喋る魔女とは視線が合わない。魔女がこちらを見ようとしていないのだ。こちらが魔女をじっと見ていても、その視線を感じてはいるのか気まずそうに首を縮こめて視線を合わさないようにしている。


「お薬も欲しいのだけれど、魔法に関しての頼みもあるの。いいかしら?」

「魔法……ふふ、このような落ちこぼれの魔法をお望みですかぁ……お客さん、そんなに切羽詰まってるんです……?」


 自嘲するような笑みを浮かべ、そこで魔女はマリシアを見た。

 魔法に関する願いなら、他の魔女をあたれ、とでも言いたげである。


「切羽詰まってるというよりは……あまりやりすぎたくないのよ。でも泣き寝入りはしたくない。ほんのちょっとの嫌がらせ程度の仕返しがしたいだけなの」


 そう。確かに婚約を解消されて新たな相手がエリーゼだと知って、しかもそのエリーゼは別にレオンを好きでもなくただ初恋の君を近くで見ていたいとかいう理由をマリシアが察した事でそりゃあ怒りもしたけれど。

 ここでエリーゼが大怪我だとか死ぬような事になったらまたレオンの婚約者がマリシアになるか、となると微妙なところである。というかそうなったとしても、その場合マリシアがエリーゼに何かしたのではないかと疑われるだろう。


 流石にそこまではしたくなかった。でも何もしないというのも何かイヤ。

 我儘な感情であるとは理解している。

 だからこそ、本当にちょっとした嫌がらせをして、それで留飲を下げようと思ったのだ。

 なので、あまり強い魔女を頼ると思った以上の大惨事になりそうだ、とマリシアは考えていた。


 その点ここの魔女は魔法そのものはあまり強力ではないらしいので、マリシアにしてみれば丁度良かったとも言える。

 呪うにしても下手に命に関わるような事になったら。

 マリシアはエリーゼの事をムカつくきぃい~~~~!! と思っていても別段あの女死んでしまえばいいのに、とまでは思っていない。

 マリシアはそれなりに気が強く、またそこそこ小心者であった。貴族令嬢、しかも一時期は将来の王妃となるべきはずの人間の器としてはどうかと思われるが、今まではそれらをきちんと淑女の仮面で隠してきたのだ。


 魔女もとりあえず事情話して? と首を傾げて問いかけたので、マリシアは遠慮なく何もかもを喋った。



「いいよ。それくらいなら手を貸してあげる。手間でもないしね」

 暗にもっと面倒だったら断ってた、というのを隠しもしないで魔女はこくんと頷いていた。


「欲しい物は一つの薬と一つの呪い。うん、お薬は作るのに少し時間がかかるけど、出来たらお家に届けてあげる」

「ありがとうございます」


 すっと頭を下げて礼を述べるマリシアに、魔女は何とも言えない顔をしてそんなマリシアの下げられた頭を見ていた。まるい。いい形。きっと頭蓋骨がいい形だからかしら。死んだあとでいいからもらえないかな。

 なんて思っていたが流石に所望された品の対価として頭蓋骨を強請るのはいかがなものかと思って堪える。


 その後はマリシアが店を出るのを見送って、それから魔女は薬の作成にとりかかったのである。頭蓋骨に想いを馳せながら。




 ――エリーゼは自分の望みのためとはいえ、幼馴染にして友人であるマリシアの婚約を無かったことにしてしまった事にちょっとだけ申し訳なかったかしら、と思いながらもそれでも今更引き返そうとは思っていなかった。


 ずっと好きだった初恋の相手。とっくに婿に行ってしまって自分の手が届かない人。

 時折社交の場で噂を聞くくらいで、会う事なんてほとんどなかった。

 だから、自分も婚約者を見つけてそちらの家に嫁として行けばもう噂も耳にする事もないだろうし、そうなればいつかはきっと忘れられる。そう信じていた。


 けれどもそんな初恋の君が近々王都を拠点とするなんて噂を聞いてしまえば。


 今までは婿に行った家の領地やその周辺で活動していたからこそ、エリーゼは顔を見る機会も何もなかった。ただ風の噂程度に話が時々聞こえてくるだけ。けれど、王都に来るのであれば。

 噂話だけではない。その姿を一目であろうと見る事ができる。声を、聞くことができるかもしれない。


 そう思うと、今までしまい込んでいた恋心が、ずっとずっと胸の奥底で熟成されていた恋とも愛とも呼べないような執着心が。

 どろりと音を立てて溢れ出るのを感じたのである。


 聞けば妻となった人とは仲睦まじくやっているらしい。

 だから、邪魔をする気はなかった。

 けれど、それでも。


 物理的な距離が近づいた事で、エリーゼの封じ込めていた思いはあふれてしまった。そうなると、今まで抑えられていた欲望は一瞬で肥大し抑えがきかなくなってしまった。


 商会の規模が大きくなった。

 王都を活動拠点とするとなると、王家ともそれなりに付き合いがあるかもしれない。そうじゃなくたって、夜会だとかで顔を出す回数は間違いなく増えるはず。


 そこら辺のあれこれを考えたら、もう居ても立っても居られなかったのだ。


 だから、エリーゼは王都に留まる理由を考えた。

 婚約者を決めて地方の貴族の家に嫁入りしてしまっては、初恋の君と出会う事はなくなってしまう。けれど、せっかくの機会なのだ。逃したくない。


 だからこそ。

 エリーゼは手段を選ばずレオン王子に近づいて、自分の方こそが王妃として相応しいとアピールをする事にしたのである。

 実際自分とマリシアの差はそこまであるとは思っていない。けれど、それでも自分の方こそが優秀で、王妃とするには相応しいと思ってもらわなくてはならない。

 マリシアのちょっとした失敗談はそれこそ他の令嬢たちよりも知っている。幼馴染でお互いの家を行き来する事だってあるのだ。だからこそ、相手を引きずり落とすための手札はそれなりにある。

 とはいえ、それらの失敗談とて公式の場でやらかしたものではない。だからこそ、噂を流すにしてもそこまでのダメージを与える事はできないだろう。けれど、でも。


 エリーゼは言葉巧みにマリシアの印象を下げるべく昔の失敗談ですら最近したかのように話してみせた。

 一つ二つなら可愛らしい失敗であっても、塵も積もれば何とやら。しかもそれらがここ最近のものだと思わせた事で王子は少しだけ不安に思ったのだろう。

 こんな調子で王妃になって、もし失敗が許されない場でやらかしてしまったら……と。


 案外そそっかしいですよね。でもそこが可愛らしいところでもあるんですけれど。あ、でも、王妃となったら……なんて自慢の幼馴染トークをしている風を装ってレオンに不安の種を植え付けた。


 一つ一つのエピソードは大したものじゃない。

 けれどもエリーゼはコツコツと王子の不安を煽るようにマリシアの話題を提供し、決定打はきっとダンスだった。

 ヒールの高い靴に慣れていないのか、マリシアったら思い切りよろけちゃって。

 あぁでも、諸外国との外交の際はどうしたってヒールの高めな靴になってしまうのでしたっけ? 大丈夫だとは思うけど……でも万が一の事を考えると少し不安ね。

 そんな風に言えば、レオンもそう思ったらしい。


 そんな感じでコツコツとマリシアが王妃になった時、不安だと思われるような内容を積み重ねて。


 結果、マリシアよりもエリーゼの方がよいのではないか、という決断が下された。

 これから王妃教育をするとなるとエリーゼだって大変な事は承知の上だが、それでも今でも憧れている初恋の君との接点が増えるのであればそんな苦労は苦ではない。

 決して明かせぬ想いだけれど、それでもエリーゼにとってこれは真実の愛であった。


 彼とその妻の仲を引き裂くつもりはない。

 ただ、近くで彼を見守っていたい。それだけだ。

 そのためならレオンと結婚して子を産む事だって何も問題はなかったのだ。



 とはいえ、流石に幼馴染を放置するのも忍びない。

 一応謝罪の言葉を改めてしておくべきだろうか。こんな事になって申し訳ないけれど、それでも貴女の幸せを祈っている。白々しいかしら。

 そんな風に考えながら、エリーゼは一度マリシアの家を訪れた。


 もしここでマリシアが逆上してエリーゼを害するような事があったなら、と一瞬だけ考えたけれど、それならそれで自分の立場がより盤石な物になるだけだろう。


 などと考えていたけれど、その予想はあっさりと外れた。

 マリシアから見れば自分の人生に横やりを入れてきた相手だ。嫌味の一つや二つは覚悟していたのだけれど、エリーゼの予想を裏切ってマリシアは穏やかに、それでいてある意味で急な訪れであったエリーゼを快く迎え入れたのである。


 こんなことになってしまったのは残念だけど、それでも応援しているわ。


 用意されたお茶と茶菓子を前に、マリシアはそう言って笑っていた。


 これから自分の婚約者を決めなければならないのは大変だけれど……そうね、もしいい相手がいないのであれば修道院に行くことも考えているわ。


 お前のせいでな、というような当てこすりの感情はなかったように思う。エリーゼがそう思わないように隠していたかもしれないが、エリーゼだってマリシアとの付き合いは長いのだ。もしそうならきっと気付けた。


 それか、そうね、いっそ他国へ留学してそっちでお相手を見つけるのもいいかもしれない。


 ふふ、と笑うその様子からマリシアがエリーゼの事を怒っていないというのがわかって、エリーゼは知らず入っていた肩の力をここでようやく抜くことができた。


「レオン様の事はお慕いしていたけれど、好きという感情だけじゃどうにもならない事だってあるものね。

 ねぇエリーゼ、貴方ならきっと素敵な王妃になれるわ。いいえ、なってちょうだいね」

 にこ、と微笑むマリシアに、エリーゼは「えぇ勿論よ」と頷いた。


 その言葉に、声に、もっと恨みのようなものが含まれていたならばエリーゼだってもっと警戒しただろう。けれどもマリシアの態度はあまりにも普通過ぎて、長年の付き合いである幼馴染を応援しているとしか思えないようなものだったからこそ。


 エリーゼは、気付けなかった。

 既にマリシアは行動に移っていた事を。


「そうよね。貴方なら私みたいにヒールの高い靴であっても難なく履きこなすのでしょうね。どんな状況にあってでも」


 口の中に流し込んでいた紅茶を逆流させなかったのは、エリーゼの意地だった。

 怒っていないと思っていた。実際その表情に怒りというものは感じられない。けれども貴族令嬢として感情をあからさまに表に出すような事はないわけで。

 顔にも声にも怒りというものはないけれど、しかしそれでもマリシアはとっくに気付いていたのか、とエリーゼは内心で嫌な汗をかいている感覚に見舞われた。


 まぁそうだろう。と内心で納得もする。

 普段、人目に付く場所でマリシアがよろけるような失態をした事などないのだ。

 ただあの時、ダンスを教えていた教師とその日たまたまマリシアの家を訪れたエリーゼだけがあの光景を見ていた。

 教師が外で吹聴するはずがないし、そうなれば話の出所はどこか、となれば決まっている。


「怒らないのね」

「今更怒っても意味がないもの。そりゃあ、思う部分がないわけじゃないけれど。でももう仕方のない事だわ」

 てっきりマリシアなら一発殴らせろ、みたいな事を言いだすかと思ったが、しかしマリシアはひょいと肩をすくめるだけだった。


「だからこうして私も前に進むために一つ、実行したのだから」

「え……?」

「いずれわかるわ」


 相変わらずマリシアは笑みを浮かべたままだ。


 けれどその笑みが。


 エリーゼには別のものに見えた気がした。


 そのせいだろうか。出されたクッキーが、やけに苦く感じられたのは。




 ――結局のところ、マリシアはその後隣国へ留学すると決めたらしい。あっさりと手紙で知らされたエリーゼは、隣国でいい出会いがあるといいな、と願った。自分でやらかしておいてなんだが、別にマリシアを不幸のどん底に叩き落してやろうとまでは思っていなかったのだ。自分の我儘で彼女に迷惑をかけたという思いはある。けれども、それでも引き返そうだなんて思わなかった。


 想いが報われる事などない。わかっている。

 けれど、それでも。

 あの人の近くにいたかった。


 そのためだけに王妃を目指そうなどと酔狂の極みだとも思っているが、他にいい方法が浮かばなかったのだ。そしてその選択をしてしまった以上、もう引き返すつもりはない。こうまでしたのだ。せめて立派な王妃となってみせる。



 そうして張り切り過ぎたからだろうか。

 しばらくするとエリーゼはダンスの後足がじんじんと痛むようになってきていた。

 最初はいつも以上に張り切って踊ったからかと思っていた。いつもより多く練習をしたからだと思っていた。そのせいで足が疲れてしまったのだろうと。


 けれども、その小さな痛みはダンスをしていない日でもその存在を主張するようになっていて。


 どうしようもないくらい痛む、とかではない。

 まだ我慢できるから、エリーゼもそこまで大袈裟に考えていなかった。

 これくらいなら少し休めば治るだろう。


 けれども、その小さな痛みは一向に良くなる様子がないまま少しずつその痛みも増してくるようになって。

 そこでようやく今更のようにエリーゼは寝る前、素足を自分の目で確認したのだ。

 痛いのはつま先付近。もしかして指のおかしな部分にマメだとかそういうのができてしまったのかしら……? なんて思いながら見ても、タコだとかそういうものができているわけではない。けれども確かに傷みはそこにある。

 えぇ……? 何なの? と困惑しながらも更によく観察すると、足の爪が少し内側に食い込むような状態になっている事に気付いてしまった。


「やだ、巻き爪になってる……」


 ガッツリ内側に食い込んでいるわけではない。軽度と言えば軽度だ。これくらいなら爪と皮膚の間にテープなりクッション性のものを挟んでおけばまだどうにかなるだろう。

 思えばダンスを踊る際の靴は足の先が細くなっている形状だ。そういう意味ではつま先に負担がかかるのも無理はない。レオンとの身長差を考えて、今まで履いていたものよりもヒールの高さが上がっている。それでつま先により負担がかかってしまったのだろう。ダンスをする時以外でもこの高さに慣れておこうと思ったのもよりつま先に負担がかかる原因だったはずだ。

 応急処置をしようにも、手元に丁度いい道具があるでもなく。

 とりあえず今日はもう寝て明日、相談しようと決めた。



 ――応急処置をして足に負担をかけないようにしても、結局のところ移動する時だとかダンスの練習だとかで足に負担はどうしたってかかる。悪化させないように気を付けていたけれど、悪化速度がゆっくりになっているだけでエリーゼの足は常に痛みを訴えていた。

 肉に刺さりかけてる部分の爪を切ろうにも、切りすぎると伸びてきた時にまた深く刺さるだけ。

 それどころか余計悪化させかねないので爪は丁寧にやすりで削るようになったものの、日々忙しくなってきた現状、手の爪ならともかく足の爪まで丁寧にやすりをかける時間的余裕はあまりなかった。


 結局あまり伸びてくるようだと靴の中で爪が当たって余計痛くなるし、ついついざっくり切ってしまっていたのもよくなかったのかもしれない。

 伸びてまた痛くなればすぐさま切る。そういう事をしていくうちに、エリーゼの足の爪は常に深爪状態になっていたし、ちょっとでも伸びてくると痛くなるししかも端の方は気付けば爪切りで切ろうにも上手く切れないくらいに食い込んでしまっていた。


 どうにもならなくなって、いよいよ医師に相談したら一度爪を剥がしてからの処置をしなければならないと言われてしまった。それ絶対痛いやつじゃない! と思ったものの、とりあえず一時的に痛みを感じさせなくさせる魔法薬と爪を早く伸ばす魔法薬があるとの事なので、痛いのは一瞬だと思い直す。


 そうして一度爪を剥がすという事になってしまったものの、どうにか巻き爪とオサラバ……したはずだった。


 次は深爪をしたりしないように、と気を付けていたけれど気付けばやはり緩やかに端が食い込みかけている。爪と皮膚の間に薄い布をいれてどうにか爪がこれ以上食い込まないようにと対処してみたけれど、恐らく効果があったのは最初の二日くらいだけだった。その後は布越しに食い込む感覚がしたので結局またも医師に相談する事となる。


 とはいえ、魔法薬は効果は普通の薬と比べて圧倒的だけどそう頻繁に使えるものではない。使いすぎるとよろしくないのだ。

 なので次に魔法薬を使っても大丈夫だ、となるまでは魔法薬は使わない方向性でと医師に言われ、一先ずの応急処置だけをされたが痛みは残ったままだった。


 激痛が走る、とまではいかないが日常でいつもその痛みが自己主張をしてくる事で、エリーゼは移動する時内心で無駄に警戒するようになってしまった。

 普通に歩く分にはそこまで痛いわけではない。けれど、例えば外を歩いた時。中庭を散策するような場合、小さな石を踏んだ事で力のかかり具合がエリーゼの予想していなかった方向に加わって思わぬ痛みを訴えたり、ダンスの時などはステップを踏むたびにじんじんとした痛みが主張してくる。

 力を入れ過ぎないようにしても、踊っている時は下手に力を抜きすぎるとバランスを崩したりよろけたりするので、結局のところしっかりと床を踏みしめなければならなくなる。


 普段はそれなりに我慢できる程度の痛みだけれど、それでもふとした瞬間思った以上にズキンと痛む事もあって、エリーゼはダンスの練習が憂鬱になっていた。

 ダンス以外にも学ばなければならないものはある。だから当面はそちらに力を……と思っていたが、いつまでもダンスだけを避けるわけにもいかない。

 この国だけで踊るなら最低限ワルツだけ覚えておけば充分ではあるけれど、同盟国などの友好的な関係を結んでいる国の中にはパーティーの際ワルツ以外を踊る事もある。外交でそういった国へ行った時にそれらのダンスが踊れないのは問題であった。


 何故ならこの国だけではない。周辺の国々も神話の時代に踊りを司る神がこの周辺の土地に降り立っただとかの伝承がやたらとあるせいで、踊る事はそれなりの意味があるのだ。

 真相は不明だが、神事の際神へ捧げる踊りがあまりにも不出来だった年は作物の収穫量が下がったり、天候が安定しなかったり、災害が多く発生したりする事が重なるので少なくともこの大陸では踊るという事はそれなりに重要視されるものなのである。


 だからこそ、エリーゼがマリシアを追い落とす際に口にしたダンスに関する失敗談は効果的だった。

 本番での失敗でなくとももしかしたら本番でも……と思わされるような不安感を煽ったからこそ、王家も考え悩んだ末にマリシアとの婚約を解消したのだから。


 だというのにエリーゼがダンスを踊る事を拒否するような事をすれば、王家のエリーゼへ向ける目がどうなる事か……多少足が痛もうとも、踊るのを拒否する事だけはできなかった。


 そうして日々は過ぎて、エリーゼはレオンとともにとあるパーティーに参加する事となった。

 とある、というがその実婚約者のお披露目のようなものだ。本当ならばきっとここにいたのはマリシアだが、しかしその前に婚約者は変更されてそれ故にエリーゼがレオンの隣に立っている。

 婚約者が変更されたという話は既に社交界にも広まっていたので、レオンの隣にいるのがマリシアでなくエリーゼだからとて一体何があったのか……? と周囲がざわつく事もなかった。


 マリシアが教わっていた王妃教育はまだ序盤も序盤で知られたところで国に何か不利をもたらすものでもなかったからこそ、こうも簡単に婚約者が交代されたのもあるし、直前まで悩んでいたけれど最終的に彼女に決まりました、という報せはマリシアの落ち度を広めるものでもなく。


 下位貴族ならまだしも王家ともなればまぁ色々と込み入った事情もあるのだろう、と大半は勝手に深読みして納得していた。あくまでも表向きは。

 勿論裏で何かあったのではと勘繰る者もいたようだが、そのあたりは各自で情報を集める事だろう。そうして特に裏もないとわかればやはり今この場で勝手に納得した者たち同様、完結する話である。


 踊るという事に重きを置かれた国でのパーティー。簡単な挨拶の後は早速とばかりにレオンとエリーゼはファーストダンスを踊り、参加者たちもそれぞれ音楽に身を委ねるようにして踊り出す。

 その中に、エリーゼの初恋の君とその奥方も存在していた。


 ずっと恋焦がれていた相手だ。

 その姿を見れば想いが更にあふれ出してしまうのではないか、と思っていた。

 しかし――


(……どうしてかしら、何とも思わない)


 奥方との関係は良好と聞いていたからこそ、仲を邪魔するつもりはこれっぽっちもなかった。幸せそうな二人を祝福するつもりでいた。けれども同時に、胸の奥底で嫉妬心が出てしまうのではないか、とも思っていた。


 けれどもエリーゼは踊りながら不自然にならない程度に初恋の君の姿を見ていたが、驚くくらいに何の感情も湧かなかったのである。

 そんな事よりもつま先のじんわりとした痛みの方が気になってしまう。

 靴を履く前にできる事はしておいたけれど、それでもやはり気休め程度。



 昔と比べて年をとった。けれどもそれはお互い様だ。エリーゼはまだ若いと言われる年齢だけど、初恋の君は年上だからこそ、その分余計に年をとって見えるのかもしれない。それでも、こうもなんとも思わないだなんて事、あるだろうか?


 例えば、いつの間にか彼の事は綺麗な思い出として昇華されてしまったとして。

 では、自分の想いは今どうなっているのだろう……?


 パートナーであるレオンを見る。交代したばかりでそこまで交流を深めてはいないけれど、それでもレオンはレオンなりにエリーゼを大切にしようという思いはあるのだろう。それは言葉や態度からも窺える。

 マリシアから奪うようにして得た立場。

 王子の事など何とも思っていないのは確かだ。

 現に今、こうして向かい合って踊っているけれど王子に対する想いは初恋の君と比べると驚くくらいに凪いでいるのだから。


 踊りながら、視線を不自然にならない程度に初恋の君へと向ける。

 もう、思い出の中の存在なのかしら……そんなはずないのに……あんなにあの人の事を考えるだけで胸が苦しくなって、それでも幸せになれる気持ちがそう簡単に消えるとも思えない。しかし実際に今、エリーゼの心は一切何の反応も示そうとはしていなかった。


(じゃあ、そうなると……私は一体何のために王妃になるための努力をしているの……!?)


 少しでも近くで彼の事を見ていたいから。あわよくば声を聞く事ができたなら。

 それだけで、充分だと思っていたはずなのに。


 けれどもそれらが無意味なものになり果ててしまったというのなら。

 色々と大変な王妃教育を乗り越えるモチベーションは果たしてどうやって捻出するべきなのだろう……?



 婚約者のお披露目。それについては何事もなく終える事ができた。

 だが大々的に知らせた事で、もう後戻りはできない。今更やっぱり婚約者を辞退させて下さいなどと言えるはずがなかったのだ。


 これから何を心の支えにすればいいのかしら……

 今日も今日とて王妃教育をこなし、思った以上にぐったりしながらもエリーゼはそんな風に考えた。

 彼の近くにいられればそれだけで充分だった。見ているだけで幸せだった……はずだった。


 そんな事よりもエリーゼの意識を占めているのは巻き爪のせいで痛む足だ。

 常に痛むわけじゃない。けれども痛くないからと気にせずいたら突然痛んで意識をそちらに嫌でも向かせてくる。歩いている時、ダンスをしている時、それ以外でも寝る時、ベッドの中に入って寝具に擦れた時にもちょっとした刺激が思わぬ痛みを生む事もあった。


 マリシアから奪った立場。

 あの時は申し訳なさもあったけれど、それでも初恋の君を近くで見る事ができるという想いが強くてこれから先なんだって乗り越えられると思っていた。

 けれども、その想いが消えてしまったら……?


 キラキラと輝くような未来は、気付いた時にはどんよりとした色合いへ変わってしまっていた。




 ――そんなある日。

 エリーゼのもとにマリシアから手紙が届いた。


 隣国へ留学しに行ったマリシアは、どうやら向こうで結婚相手を見つけたらしい。幸せですと言わんばかりの文面を見て、何とも言えない気持ちになる。

 良かった、はずだ。

 だって本当ならマリシアが今頃レオンの婚約者としているはずだったのに、その立場を奪ったのだから。

 だから、彼女が幸せになってくれたのは本当に喜ぶべき事のはずで。

 けれどもエリーゼは素直に喜べなかった。


 自分が幸せではないからかもしれない。


 本当なら今頃、顔を見る機会が増えた初恋の君の存在で胸の中は幸福であふれていたはずなのに。

 幸せムードたっぷりな手紙を読むのも正直苦しく思えてくる。

 けれども、お披露目前だったからとはいえエリーゼはマリシアからその立場と婚約者を奪ったのだから。せめてきちんと見届けなければ……と思ったのである。自分なりのけじめのつもりだった。実際はただの自己満足に過ぎないが。


 だがしかし、そうして読み進めていった結果、エリーゼは手紙を持つ手に力がこもり、尚且つ目を限界まで見開く形となってしまったのである。



 あの時恋心を忘れる薬を魔女に頼んで良かった。

 そういえばあの時その薬を混ぜたクッキーを貴方も食べていたけれど、少量だから問題はないわよね? 私と違ってその程度でなくすような気持ちでもないでしょうし。


 要約するとそんな事が書かれていたのだ。


 あの時。

 そう言われて思い出すのはマリシアが隣国へ行く前、エリーゼが訪れた時しかない。

 確かにあの時、出された茶菓子はクッキーだった。


 そういえばあの時の言葉は――


 マリシアが何だか含みを持たせた事を言っていたのを思い出す。


 前に進むために一つ実行した、と。あの時は何を? と思っていたけれど、それはつまり――


 マリシアはレオンへの恋心を忘れるために魔法薬を頼んだという事。

 そうして隣国で新たな恋を見つけたのだろう。


 あの時エリーゼはてっきりマリシアの事だから、一発殴らせろくらいは言われるだろうかと思っていた。けれどもそんな事は言われなかった。

 だが――


(自分の恋心を捨てるなら、私の恋も捨てろと……いう事……?)

 だから、彼の事を見てもなんとも思わなくなっていた……?


 それなら、理解できなくもない。

 かくん、と力が抜けてエリーゼは床に座り込む形となってしまった。こんな事なら最初から椅子に座ってから手紙を開封すべきだった、と思ったのは床に思った以上に強く尻を打ち付けたからだが、そんな思いも一瞬だった。

 政略で結ばれた婚約なのだから、恋はないだろうと思っていた。だから、というのもあった。もしマリシアが本当にレオンに恋をして愛していたのなら、エリーゼだって割り込むような真似はしていなかった……はずだ。

 けれどもその恋を奪ったのは――


「ぁ……わ、私……そんなつもりじゃ……」


 ゆるゆると首を横に振るも、それを見ている者など誰もいない。

 自分の我儘だと理解していた。けれども、彼の近くにいる事ができるならそれがどれだけ茨の道であろうとも構わない、と覚悟も決めていた。マリシアに面倒をかける事になるのは仕方ないけれど、でも政略で結ばれたものならば壊してしまっても特に問題はないだろう。そう、気軽に考えていた。

 それに、マリシアならば。

 仮に婚約が無かったことになったとしても、それでも次の道はすぐに見つかるだろうとも。


 もしかして、マリシアはそんなエリーゼの思惑を見透かしていたのだろうか。

 だから、自分の恋心を捨てる時に、自分も巻き込んだ……?


 なんてことをしてくれたの! とマリシアに掴みかかりたい衝動に駆られたけれど、彼女は現在隣国である。それに、元をただせばこうなったのはエリーゼが原因だ。初恋の君の近くに居たいだけでしでかして、結果マリシアはそのとばっちりを受けた。


 だからエリーゼがマリシアにこの一件を糾弾する権利はない。

 むしろ何てことしてくれたの! はマリシアのセリフなのだろうから。


 とはいえ、失った恋心のせいで初恋の君を見てなんとも思わなくなってしまったという事実はエリーゼにどうしようもない程焦燥感を抱かせる結果となった。

 そうでなくとも巻き爪のせいで日常のちょっとした時に痛みを堪えなければならないのだ。ただでさえ大変な王妃教育に、不定期で襲い掛かってくる痛み。これのせいで頑張ろう! と思っていてもそんな気持ちすぐさま消失してしまうというのに。

 これから何を支えに頑張れというのだ。


 それでなくとも自分とマリシアは能力的に然程違いがなかったのに。それを、ちょっと言葉で飾り立て、時として見栄を張って自分の方が上であると見せかけて得た立場。

 婚約者として周囲にお披露目をしたので今更婚約を無かったことに、とするには余程の理由がなければ無理だが、王子が今から他の女に目移りするか、はたまた自分に醜聞でもあって破棄されるかでなければ婚約を無かったことにはできないだろう。

 だがレオンはあれでいて誠実な部類の人間である。国のため、という理由を第一に置いているので傍から見れば冷たい印象を与える事もあるが、国のためであるならば汚泥に塗れる事すら厭わないタイプだ。

 そんな男が今更他の女にうつつを抜かす事はないだろうし、そうなればエリーゼが有責になるような醜態を晒さない限り婚約を無かったことにはできないだろう。

 けれどもエリーゼが有責となってしまえば、今後の人生お先真っ暗なのは言うまでもない。


 このまま本来の想いが消えた状態でいたとしても、未来は色あせたままだ。


 どうにかしないといけない。

 そのためには……と、エリーゼはマリシアが頼ったであろう魔女の所へ行く事を決めたのである。心当たりは普通にあったので。


 魔女の所へ行く、と言えばもしかしたら反対されるかもしれない、と思っていたが名目はあった。

 巻き爪を治せる薬の調達である。

 薬を作るのがとても上手いと評判の魔女の話はエリーゼも知っていた。他にも数人魔女の話を聞いてはいたけれど恐らくマリシアが頼った魔女はきっと彼女だ。


 そう思って訪れたものの。


 エリーゼが得る事ができたのは、巻き爪の進行を遅くさせる塗り薬だけであった。




 ――エリーゼが立ち去った後、魔女は薬を調合する合間に作っておいたマフィンをもぐもぐしながらふと呟いた。

「あんまいい頭の形してなかったな……」


 ふと以前訪れたご令嬢の頭蓋骨を思い出す。

 恋心を消す魔法薬。

 確かにそれを頼まれて作った。

 どうやら先程きた彼女は、その薬を摂取したらしい。


 とはいえ、一瓶まるっと全部飲んだわけでもない感じだったし、そうなると恋心は一時的に消えるだけで時間の経過とともにまた恋心は復活することもある。

 未来永劫ずっと消えるというわけではない。仮に一気に瓶の中身を飲み干したとしても、対象者に対する恋心が数十年単位で消える程度である。

 それだけの年月が経過していれば、他の誰かに恋をする事もあるだろう。そうなれば、仮に薬の効果が切れたとしてもその頃には他の誰かに興味・関心が移っていてかつて恋をしていた相手などすっかり思い出となる。


 聞けば薬を混ぜたクッキーを数枚食べた、程度だったようだし、であれば薬の効果は短くて数日、長くても一月とかそこら辺だろうか。

 魔法薬は人によって効き具合が大分異なるので、多く摂取してもあまり効果がないなんて者もいるし、ちょっとしか摂取してないのに効果覿面、なんてのもいる。

 だが、仮にとても薬の効きが良い相手であったとしても、ほんのちょっとの量で一生涯、なんて事はない。

 大体体内に摂取する薬だ。その薬効が未来永劫続くとか、あるはずもない。


 なので、エリーゼの持っていた恋心は、消えてしまったはずの恋心はとっくに復活していてもおかしくはないのだ。その事実を告げた時、エリーゼは「そんなはずは……」ととても動揺していた。

 現に今、彼女はその初恋の君に何の感情も持っていないようなので。だからまだ薬の効果は続いていると思い込んでいる。


 けれども、魔女は理解していた。

 マリシアが語ってくれた内容には勿論エリーゼの事も含まれていたのだから。

 恋心を持っていた婚約相手との間に割り込んだ女。

 そのせいで諦めるしかなかったマリシアの恋心。

 捨てようと思っても心というのはそう簡単に切り替えられるものでもない。諦めようと思えば思う程いつまでも心に残り続けるものだってあるし、逆に覚えていたい事であったとしても驚くほどあっさりと心の中から消えてしまう思いだってある。


 マリシアは訴えた。

 自分が恋心を捨てるなら、相手にも一時的とはいえ恋心を忘れるくらいしてもらったっていいではないかと。あのままいけばマリシアは好きな相手と結婚するはずだったのに、そこに割り込んだのだからそれくらいは当然だろうと。

 これで、エリーゼがレオンの事をどうしようもなく好きになってしまったから、という理由であればまだマリシアだって納得できたのだ。好きな相手を手に入れるためになりふり構わず、というのであればマリシアだってその気持ちを理解したかもしれない。

 けれどもエリーゼが好きな相手は今もまだ初恋の君であって、レオンではない。

 それが、マリシアには許せなかった。

 許せない、といっても既に婚約は解消されてマリシアはレオンの婚約者ではなくなってしまった。だから何を言っても今更ではあるけれど。


 けれど、そのまま何もかもを許せるか、となるとそうではない。

 自分が前に進むためにはレオンに抱いていた思いを捨てる必要がある。持っていてももう叶わぬ想いだ。いつまでも引きずって前に進む事が中々できないというのもマリシアにとってはあまり良い事ではない。

 一時的にでもその気持ちを忘れて、新たな恋をしたいのだと訴えていた。

 魔女としてもその気持ちはわからないでもなかった。

 失恋の傷を癒すのは新たな恋だ。勿論それ以外もあるけれど、やはり新しい恋をする事で前の恋は思い出になるので気持ちの整理をつけやすくもある。


 だから一時的に持っていた恋心を忘れる薬をマリシアは魔女に願った。

 そしてその薬の効果は確実に切れた。作ってマリシアに届けたのはもう随分と前の話なのだから、薬の効果を思った以上に強くうける相手であっても確実に切れたと断言できる。

 もし今でも効果が続いているのなら、魔女は知らないうちにまた薬作りの腕をとんでもないくらい上げてしまった事になるが、普段作っている薬などを見てもそういった感じはしない。



「なら、彼女のあれはもう恋ではなくなってしまった、って事なんだろうなぁ……」


 ぽろ、と口の端から落ちてしまったマフィンの欠片を拾い上げて、ごみ箱に捨てる。


 マリシアから聞いた話ではエリーゼの初恋の君に対する想いが芽生えたのは間違いなく彼女が幼い頃だ。

 そのままずっと持っていた気持ち。

 物心がついたあたりで、恋とはなんであるか、というのを知った時にエリーゼは初恋の君に対して自分がそういった感情を抱いていると自覚したのだろう。

 けれど、その気持ちを忘れてしまって、薬の効果が切れて。

 また同じ気持ちを持つには、当時のエリーゼと今のエリーゼはあまりにも違いすぎてしまった。


 幼い頃の気持ちは確かに恋で、憧れもあったのだろう。

 その頃には既に向こうには婚約の話が出ていたらしいし、そうして結婚した後はもう顔を合わせる機会もなくなってしまった。

 自分の胸の中で大事に大事にしまいこんで育てていた気持ちは、きっと本人が自覚しないまま美化されていたに違いない。


 そして一時的にその気持ちは消えた。

 だが、新たにまた同じ気持ちを抱くには、もうエリーゼはあの頃と違いすぎてしまった。

 幼い頃のキラキラした思い出と、今改めて見た初恋の君とでは、きっと情報が一致しなかったのだろう。

 初恋だった。けれど、とうの昔に思い出になっていたにも関わらずそれを本人が自覚していなかった。だが薬で一時的に恋心を失った事で、ここでようやく完全な思い出になった。


 また新たに恋をするにしても、既に妻がいる相手に不用意に近づくわけにもいかない。たとえ話をする機会があったとしても、それは間違いなく当たり障りのないもので、恋をしている、というのを匂わせる事もないだろう。そもそも初恋の君はエリーゼに恋をしていた事などないだろうし。

 エリーゼだって婚約者がいるのだから、初恋の君にまた恋をするに至るまで関わる事はできないはずだ。



 けれど、魔女はエリーゼを可哀そうとは思わなかった。

 かつての恋に終止符を本人が望まざるとも打ってしまったのだから、新たな恋をすればいいだけの話なのだ。わざわざ他の女から奪った婚約者がいるのだから、そちらと恋や愛を育めばいい。

 失った物にばかり目を向けず、新たに得た物に目を向ければ幸せは案外身近に転がっているのだから。


 国のため、という理由で婚約者を変更したレオンであるが、魔女が調べた限りではエリーゼの事を義務だけではなくきちんと向き合おうとしているようであるし、エリーゼの気持ちがそちらに向けば何も問題はなくなる。そもそもマリシアという婚約者がいた時点で割り込む程に自分の事を想っている、という勘違いもないわけじゃないが、それでもエリーゼの気持ちがレオンに向けばそれだって嘘ではなくなる。


 今後幸せになれるかどうかは、全てエリーゼの行動次第であった。



 ちなみに、巻き爪の進行を遅らせる薬を処方したけれど、巻き爪が治るとは言っていない。

 何故ならマリシアは魔女に頼んでエリーゼに呪いをかけた。

 それが巻き爪になりやすくなる呪いである。

 婚約者を奪われた形になってしまった事に関しては、お互い一時的に恋心をなくす事で手打ちにした。


 けれども、その時に流した噂でさも普段からダンスで失敗をしているようなのは笑って流せなかった。

 呪いはその意趣返しであったのだ。ちょっとヒールの高い靴でよろけた事を笑いものにするのなら、貴方ならどんな状況であっても乗り越えられますわよね? という意趣返しのつもりで。


 足が動かなくなる呪いだとかではない。巻き爪といっても比較的軽度の状態で処置をすればいい。

 もっと言うなら完全に爪を剥がして二度と生えなくすれば巻き爪とはおさらばできる。何せ爪がなければ巻く爪もないのだから。とはいえ、流石にそれは生活をする際ふとした瞬間困るかもしれない。

 マリシアはあくまでも巻き爪になりやすくなる、程度の呪いしか魔女に頼まなかった。もっと酷い呪いをかける事もできただろうけれど、巻き爪のせいでよろけたりして醜態をさらすかもしれない恐怖を抱け、くらいの気持ちだったのだろう。


 あくまでもなりやすくなる、であって必ずしもなるわけではない呪いとしては本当に微々たる威力のものだ。正直呪いがしょぼすぎて呪われてると思われないくらいの微弱な呪い。

 なんなら魔法薬で巻き爪の進行を遅らせるのも普通にできる。完全に巻き爪にならない薬というのはないけれど、気をつけてさえいれば以前と同じ生活を送る事は可能だ。

 まぁ、ちょっとした事で巻き爪になりやすくなるので常に日常に注意は必要になってしまうが。



「何かを得るにしても、そのための手段って大事よな……」


 魔女はしみじみと呟く。

 マリシアが失ったのはレオンの婚約者という立場。得たのは新たな恋と結婚相手。新たな相手は王子のような高位身分ではないようだけれど、それでもマリシアは新たな幸せを得る事ができた。

 ダンスが下手、という国内でさも真実のように広まってしまった噂もしかし隣国では信じられる事もないだろう。


 そしてエリーゼが失ったものは、かつての初恋の君に対する想い。今までずっと宝物のように胸の奥底にしまい込んでいたはずのもの。

 得たものは、婚約者。それも王子。いずれ自分は王妃となる、とくれば絵に描いたような幸せを誰もが想像するだろう。実際それが本当になるかどうかはさておき。


「仮に他の魔女とエリーゼが会う事になっても、あの呪いに気付く魔女がいるかどうか……いやまぁいたところで呪い返しはこないだろうけど」

 悩んだ末にもう一つマフィンに手を伸ばし口へと運ぶ。

 呪いである以上、解呪も可能だしなんだったら呪い返しだって可能である。


 ある、のだけれど……恐らくあの呪いは微弱すぎてそれを呪いと気付ける者が果たしてどれだけいるという話だ。これが命に関わるような強大な呪いであれば、その力の大きさ故に気付く者は大勢いただろう。それこそ同業者の魔女だけではなく、魔法に精通した人間ですら。

 だが、魔女がかけた巻き爪になりやすくなる呪いは呪いのレベルが小さすぎて多分ほとんどの者は気付かない。仮に気付けたとしても、わざわざ解呪を申し出る者が果たしているかどうか……呪いがしょぼかろうとも解呪には一定の力が必要になるのだ。強大な呪いならそれを解くのもそれだけコストがかかると納得できるが、あの呪いを解呪するために使う労力は正直言って無駄にしか思えない。


 例えるならば銅貨一枚で買える物をわざわざ金貨一枚で買いとるようなものだ。割に合わない。

 呪い返しも同様だ。

 これまた強力な呪いであれば、返してしまった方が呪いをかけた相手にもそれなりに痛手を負わせられるので解呪よりもこちらを選ぶ可能性は高い。だが、仮にあの呪いを呪い返しされたとして、返ってくる先は呪いをかけた魔女本人である。契約を結べば最悪呪い返しをした時に被害に遭うのはマリシアになっていたかもしれないが、今回その契約は結ばなかった。


 というのもだ。


 呪いを返されたとして、そうなると巻き爪になりやすくなる、という呪いが更に威力倍増で返されるわけだから、恐らくほぼ巻き爪になるだろう。

 だがしかし、ブーツで素足を見せた事はないが魔女の足は人のモノとは異なる。爪はあれど、人間のような巻き爪にならないので呪いを返されたところで巻き爪になりようがないのだ。



 エリーゼから呪いに関して対処できると謳い解決料として大金をせしめる、とかいうあこぎな魔女にでも目をつけられれば話は別だが、恐らくそうでない魔女と出会って仮に呪いに気付いてもその魔女もまたエリーゼの呪いについては見なかった事にすると思われる。

 なんというかコスパが悪いのだ。もしエリーゼ本人が呪われていると気付いたならともかく、そうでなければ大半の魔女は何も言わずだんまりを決め込むだろう。実際魔女だって別の魔女としてそんな場面にでくわしたら沈黙を選択する。



 とりあえず、と魔女は最後の一口を放り込んで咀嚼する。

 これからはきっとエリーゼはうちの店のお得意さんになってくれそうだし、今のうちに巻き爪の進行を遅らせる薬は多めに作っておいて良さそうだ。

 呪った魔女本人からその進行を遅らせる薬を買う、というのもエリーゼが真実を知ればきっと不毛な話だと思うだろうけれど。



 マッチポンプだろうがなんだろうが、稼ぎがあるのはいい事ね、と魔女は鼻歌まじりに薬の調合を再開したのである。

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[一言] おおう...。 足の親指の巻爪治療で爪を縦に半分、ハサミで切り剥がされた自分としては酷い呪いだ...泣。 視覚的にも痛み的にも拷問だったよ。あれは何でも白状しちゃう。 エリーゼさん強く生き…
[一言] 嫌な事をする人に、足の小指をぶつける呪いを常々しているのだが それが間違ってないという気持ちになった。 好きでもない他人の恋を奪う人 ダンスが下手という重箱のすみをつつくような噂を広めた…
[気になる点] 読み返してて気になったのですが >対象者に対する恋心が数十年単位で消える程度である。 魔女の寿命は知りませんが、人間の寿命だと数十年は長すぎます 低く見積もっても二十年以上、本来の…
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