博雅の誹りありて大鏡に手を触れしこと
この作品はひだまりのねこさまご主催の「集まれエッセイ企画」参加作品です。
秋を歌った百人一首の話をしようと思ったのです。企画主様が「競技かるた」のご経験があるようでしたので。
それがどうしてこうなった?
ネットの波に揉まれているうちに、ウィキペディアが私の大好きな源博雅をディスっているのを発見してしまいました!!
これは黙っていられません。
小右記の著者、藤原実資から言われた、「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠の白物なり」のことじゃありません。
こんなのもう言い古されてて博雅推しはもう誰もビクともしない。
「そこが博ちゃんのいいとこぢゃん!」で終わり。
博雅が政務に精を出したり、出世を気にしたりして、安倍晴明のおでかけ要請に応えられなかったらどうするんですかっ!
とはいえ、安倍晴明と源博雅が仲良しだったというのは史実なのかどうか、私はよく知りません。
今昔物語か何かに、一緒に行動している話があるのでしょうか?
それとも、夢枕獏先生の小説『陰陽師』から?
もしご存知の方がおられましたら、教えてください。
さて、話を戻しまして。
源博雅は、怠け者で暇そうに見せていて、帝の楽器を取り戻すためには深夜鬼にも会いに行く胆力があって、琵琶、笛、和琴、何でもござれ、作曲もしちゃう大音楽家だから素敵なのです。
し・か・し・
今回の誹りは彼の管弦能力(?)を疑ってきている!!
――――管弦では、敦忠の死後に管弦の名手であった源博雅が音楽の御遊でもてはやされるのを見た老人達が、敦忠の生前中は源博雅等が音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかったと嘆いた、との逸話が『大鏡』で語られている[3]。――――
引用元:ウィキペディア「藤原敦忠」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%95%A6%E5%BF%A0
これ、藤原敦忠のほうが、管弦が上手だったって言ってますよね?
敦忠がいれば博雅なんていなくてもよかったのに、って宮中の白髭の長老たちがひそひそ話してるのが聞こえるようです。
「ぴっきーーーー!」と切れました。
私にとって敦忠は、百人一首の「あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」って詠んだ優男!というイメージしかない。
管弦が得意だったなんて、今回ウィキ開くまで知らなかったってぇーの。
「読んでやろうじゃないの、大鏡!!」
現代語訳もマンガで読むこともしてこなかった、私にとっては未知の怪文書、『大鏡』。
大鏡と検索するだけで、さすが古典、無料でベタ打ちの本文がサクッと出てきました。
最初の問題は第一巻がどれだけ長いのか、字面だけ追って私は大好きな「博雅」という文字に辿り着けるのかです。
ウィキの脚注[3]に、ご丁寧に『大鏡』の該当箇所「第二巻10段」と書いてあったので、第一巻はスルー!
パッと見、冒頭は平安時代の天皇様のお父さんやお母さんが誰でというお話が続いてるみたいでした。
こういうときは、老眼が役に立つのかもしれません。見えない文字は読まない。博雅という文字だけ見えればいい。もしくはライバルの敦忠!
大鏡さま、お願いです、どうか、右大臣とか左大臣とか、枇杷中納言とか長秋卿とか、別名で書いていないでください、古典で大変なのは人を役職名とか隠居後の名前とかで呼んで誰が誰だかわからなくなることなんですから。
そんな気持ちでかっ飛ばしました。
助かったのは、すぐに菅原道真公の左遷の話になったこと。
このお話なら概略知っているので止まることができました。
左遷の黒幕は醍醐天皇と藤原時平。
時平は藤原敦忠のお父さんです。
そして、源博雅にとっては、父かたの祖父と母がたの祖父に当たる両名。
本文では、道真公が亡くなった年月日が出てきたと思ったら、探していた個所はすぐでした。
それもそのはず、道真公の祟りのせいで、藤原時平一族は短命であるという文脈だったのです。
え。博雅にも天神様の祟りフラグ?
時平が死んだ、娘の仁善子が死んだ、皇太子だった孫の慶頼王も死んだ、時平の長男、保忠卿も死んだという何とも陰鬱な段落を挟んで、次に敦忠のことが出てきました。
段落の始まりは「保忠卿の御弟にあたる敦忠の中納言もお亡くなりになった。この方は和歌の名人で、管弦の道にも優れていらっしゃった」。
敦忠は943年薨去、享年38歳。
博雅は還暦越すまで生きられてよかった!
きっとこれは安倍晴明のお陰。フラグを折ったのは晴明だ。
続きの古文をさらりと読み通すと、私にでもわかりました、ウィキのほうが変。
「博雅の管弦が敦忠より下手だから」なんてどこにも書いていないし、「敦忠が長生きしたら博雅に出番はなかった」って意味でもない。
簡単なので、皆さんもこの原文読んでみてください。
「世に隠れ給ひてのち、御あそびあるをり、博雅三位の、さはる事ありて参らざるときは、
『今日の御あそびとどまりぬ』とたびたび召されて参るを見て、」
―訳―
(敦忠卿が)亡くなられた後、管弦の催しがある折に、博雅三位(はくがのさんみー位階を付けた呼び方)が支障あって参上しない時は、「今日の管弦の御遊びが中止になってしまう」と何度も呼びにやらせて、(やっと)参上するのを見て、
です。博雅は都合が悪くて来れないとか遅れてるんです!!
この部分がウィキでは抜けてしまってる。
そんな時に、宮中のご老人方が、
「もはや世の末、なんとも情けない。敦忠中納言がご存命の折には、このような管弦の宴において、博雅の三位なぞを、帝を初めとして、この世の一大事のように思うことになるとは思いもしなかったのに」
と言われたのです。
原文これです。
「古き人々は、『世の末こそあはれなれ。敦忠中納言のいますかりし折は、この三位、おほやけを初め奉りて、よの大事に思ひ侍るべきものとこそ思はざりしか』とぞのたまひける。」
博雅の管弦の腕が悪いのではなく、居てほしいときにその場にいない博雅にイラついてるだけ。
だって、博雅は徹夜であやかし退治をしていたかもしれないし、お酒も飲まなきゃいけないし、逢坂の蝉丸さまに琵琶を習いに行ってトンボ返りしたのかもしれないんです。
宮中の老害たちは、そんな博雅の姿を知らずに、表向きに見せている天下懈怠なとこだけみて批判しちゃって。
親王の息子ということで位階だけは早くから高いけれど、敦忠が亡くなった頃、20代の博雅がどんな官職に就いていたのか、ウィキにも載っていません。
対して中納言だった敦忠は内裏にしょっちゅう参内して、出ずっぱりだったんでしょう。
父親の失策を取り返そうと必死だったかもしれませんし、若い頃身分違いで引き裂かれた恋があって奮起したとも聞きます。
お召しがあれば、もしくはなくても、ここで一曲、なんて演奏してたりして。
2人の間にはそういう違いがあるよーというだけのことでした。
『大鏡』、手に取ってみてよかったです。
久々に古文に触れるのもまた快感でした。興味のあることだから古文も何とか読めちゃいました。
はうぁ、やっぱり、博雅、好き。
いつも咲く花とは見れど白露の 置きてかひある今日とこそ見れ――――博雅三位
私には、儚さとその刹那の存在感を強調する秋の風情の歌に思えます。
藤原敦忠の「あひみての」のドロドロ情念とはまったくかけ離れていますよね。
こちらはこれで比類のない歌だと思っていますが。
三十六歌仙でもある敦忠は、イケメンで恋多き男性だったそうな。
博雅からすれば敦忠は、母親の異母兄。12歳年上の伯父さんです。
もっと音楽談義もしたかったろうし、一緒に合奏したかったはずです。
自分の腕を磨くためなら誰にでも教えを乞う博雅だったと思うので、もし宮中で「敦忠卿が生きていてくれたらお前なんて」などと言われたとしても、静かに「その通りですね」と答えていたのではないでしょうか。
こんな話にお付き合いくださりありがとうございました。