第九話 虫が食ったクローバーを手渡して
暗闇の中、自転車をこぐ。
自分はこれから何が起こるかを知っている。
ライトはつかない、足はペダルから離れない。
そのまま道を変えることもできずに坂道を降って行く。
ある少女の姿が見えた。
その少女、四葉さんは手を広げて笑顔で俺を受け止めようとする。
俺は……そのまま、勢いをつけて──!
「──ッッ! はぁッ はぁ……」
飛び起きて、これがいつもの悪夢だと気づいて深呼吸する。こんな消えない記憶が毎日毎日夢の中で自分を苛んでくるのだ。
その度に何故自分がこうして無傷で生きているのかを考えて暗い気持ちになる。
そんなことを一晩繰り返していくと、いつのまにか朝になっていて。
俺は智樹さんからの連絡で、目にできた隈を擦りながら身支度を整えると四葉さんの待つ病室へと向かった。
四葉さんのお見舞いに訪れるとにこにことした彼女の笑顔に出迎えられた。
一緒に出迎えてくださった四葉さんのお母さん、徳子さんはとても訝しげ。こちらを睨みつけていたのだが。四葉さんはそんなこと知ったことではないと言わんばかりだ。こちらの手をとってにっこりと上機嫌である。
「えっと……その、四葉さんは……普段から……?」
「そんなわけないでしょう」
徳子さんにキッパリと不機嫌に切り捨てられる。
「夫から話は聞いたし私も何度も四葉を説得したの。
貴方のような人間をこの子のそばに置いておくなって。
けれど、四葉はその度に癇癪を起こして暴れるの。
言葉を出せない代わりに必死になって貴方をこの病室に連れてくるように私たちにすがるの」
「俺も、自分はここにくるべきではないとわかっています」
「理解してくれているならいいわ。今すぐに私の目の前から──」
ガシャンと何かが落ちて割れる音。
床には砕け散った花瓶の中に花が無惨にも散っている。四葉さんの冷え切った目を見るに彼女の仕業だ。自分の母親を見据えている瞳は、相当に怒りを溜めているようだ。
「──わかったわ! 京治くんと会ってもいいから……どうか落ち着いてちょうだい……!」
ギロリと実の母親に冷たい視線を向ける彼女。図らずも父親の智樹さんによく似ている。その威圧感に言葉を無くした徳子さんが助けを求めるように俺を見てくる。
「京治くん……四葉はどうしたの?
貴方は四葉に何をしたの?」
「わかりません……俺と四葉さんは確かに事故の前までは初対面のはずなんですが……」
四葉さんの行動にすっかり動揺した徳子さんが俺に縋るように聞いてくる。生憎それはこちらが聞きたいことだった。
すると、四葉さんはそんな空気にも関わらず嘘のように顔を綻ばせて車椅子と、俺を交互に指差した。
「えっと……外に出たい。ですか?」
こくこく
「──はぁ……わかったわ四葉。
今介助の方を呼んでくるから……」
凛堂さんが席を立って出て行こうとすると四葉さんがいやいやと首を振る。そして俺をまた指差した。どうやら自分に車椅子に乗せてもらいたいらしい。
「四葉は子供の頃から、私の言うことに素直な聞き分けの良い子なのに……どうしてこんな……」
凛堂さんはもはや、涙を浮かべてすらいた。
自慢の娘が自分の娘を傷つけた加害者になぜか懐き、しかも母親である自分を無碍にしているとなればそうなるだろう。
居た堪れない雰囲気を感じる。そんなことはどうでもいいと我関せずといった様子の四葉さんに促され、その指示のままに車椅子を用意する。
そうでもしないと、また四葉さんが暴れてしまうかもしれない。
「ええと……どうすればいいんですか?」
「……ねえ、やっぱり専門の方を呼びましょう? 四葉」
当然のことながら車椅子への乗せ方なんて知らない。すると、四葉さんが両手を開いてこちらを見てくる。
「だっ、抱っこ……ですかね?」
チラリと徳子さんに許可を求める。
徳子さんはこちらを恨みがましく睨みつけるが、どうしようもないと思ったのか許可を出した。
「よいしょ……っと」
四葉さんを正面から抱きかかえる。その起伏に富んだ身体に少し意識を削がれてしまう。
それにどういうわけかとてもいい匂いがして、驚かされた。
「──ん、あれ? よ、四葉さん?」
何故か四葉さんがそこから動こうとしてくれない。
むしろ無事な左腕を中心にぎゅうっと力を込めて、そのまま引き倒そうとすらしてくるのを感じた。
しばらくどうしようもできずにそのままになっていると──。
「──いつまで抱きあってるつもりッ!
早く車椅子に乗せてあげなさいッ!」
十数秒ほど経った後に徳子さんのヒステリックな制止の声で中断されるまで、四葉さんはハグを止めようとはしなかった。
病院の中庭に出ると夏の日差しと蝉の声が響いていた。日傘を差して四葉さんの影を作りながら慣れない車椅子を押す。
「………………」
……♪
「あー、その、暑い……ですね」
……♪
指を差された場所にゆっくりと足を運びながら、会話をしようとするも……どうにもならない。
そもそも彼女は言葉を発せないのだ。指定された木陰に車椅子を停めて、そのまま数分が経とうとしていた。
四葉さんのお母さんは着いてきてくれなかった。というより四葉さんが非常に雑にしっしっと追い払っていて、その場で泣き崩れてしまった。
あの悲しみようと怨みと怒りの篭った目はたぶんずっと忘れられないだろう。四葉さんに似ていてとても美人な方なのでなおさらだ。美形の人の怒った顔は迫力があって恐怖を感じさせた。
俺にしたって四葉さんが何をするかわからないので着いてきて欲しかったが、四葉さんのお願いは断ることができない。
言葉を無くして佇む。不意に四葉さんが指を差した。見るとそこには──どうやらクローバーの花が咲いているようだ。
「もしかして、四葉のクローバー……ですか?」
こくこく
当たりだったようだ。彼女は車椅子から立てないので自分に探して欲しいとの事だろう。
数十分ほど日差しの中で汗をかきながら探して、ようやく少し虫に食われたものを見つけることができた。
「四葉さん。見つかりましたよ」
車椅子の前で片膝をつき、目線を合わせて渡す。
すると──それを受け取った彼女は、ぱあぁと顔を明るくした
……♪
とても……喜んでいるらしい。
くるくると隅々まで眺めたかと思うとふんわりと掴んで自分の胸に手を当て、ゆっくりと瞳を閉じた。かと思うと今度はこちらにそのクローバーをそっと手渡してきた。
「ええと……貰っても?」
「………………」
「いただきます」
そうして、俺は四葉をその手に掴んだ。
そしてハッと気づく──四葉のクローバーとはつまりは──
その時の彼女の笑顔は、今まで見たこともないほどに輝いていた。