第四話 あの時ピアノを習っていたら
俺の幼い頃の夢はピアノ奏者だった……なんて言ったらきっと俺を知る誰もが笑うだろう。
今の俺は楽譜はおろか楽器なんてリコーダーぐらいしか触ったことがない。小学生の頃から音楽の成績はずっと悪く、音楽的なセンスというものは全くない。けれど、鍵盤ハーモニカで一生懸命曲を演奏しようとしていた記憶は今でもある。もし許されるなら今からでもピアノの勉強をしてみたい──とは思っている。
「いいか、留木! お前のデカい図体は何のためにあると思ってるんだ?! お前は投げ落とすように投げれば球速が早まってキレが増すんだ!」
「……はい」
「お前……なんでもっとやる気を出さないんだ?!
姿勢や技術云々よりもお前には熱意が足りん!
明日までに俺に言われたことを良く考えてくることだな!」
「申し訳ありませんでした……」
今日もまた監督に目をつけられて説教をされる。
俺は小学生の頃から野球クラブに所属していてピッチャーをしていたので必然的に抜擢された。だがこうも毎日怒鳴られてばかりだと憂鬱になってしまう。
夏休みに入って初日の今日。いつもと変わらずに10分ほどの有難いご指導をいただき、ようやく他の一年生の部員と合流して後片付けに取り掛かった。
「留木〜災難だったな、まあでもアレでお前のことを高く評価してるんだよ監督は」
「わかってはいるんだが……こうも毎日だとな」
「一年生のエースは大変だな……あーそれで悪いんだけどさ」
「……またバイトか?」
うんざりした気分を隠さずに友人に目を向ける。
そいつは多少は申し訳なさそうな顔をしたが、手を合わせて俺に頼み込んできた。
「そうなんだよ! だから今日も…な?」
「わかったよ……ほらさっさと帰れ」
「お前ってちょっと無愛想だけど優しーよな、サンキュー〜」
彼は調子良くその場を後にする。後片付けは一年生で持ち回りの仕事になっている。こうして色々と条件をつけて代わってもらうことが多く、そして俺は何度も掃除を押し付けられていた。
押し付けられる──それが俺の人生の縮図なような気がする。
実を言えば俺は特段、野球が好きなわけではない。ただ父が野球好きでそんな父に熱心に勧められたから小学生から野球クラブに入っていた。当然のように中学も高校も野球部に入るように言われたのだ。
幸い体格には恵まれたのでそれなりに活躍してはいる。だけど正直言ってもしも父がサッカーをやれと言い出したら、俺は明日にでもサッカー部に入るかもしれない。
(そして……俺はそんな現状に抗えないでいる……)。
嫌なら反抗すればいいのだが、俺はどうにもそういう気にならなかった。
それは厳格な父と喧嘩になるのが怖かったというのもあるし……自分の気持ちを抑えつけるのに慣れてしまったからかもしれない。
今の学校だってそうだ。俺の通う私立最上院学園高校はスポーツ推薦で入った。けれど本当は俺は家から近い公立の高校に入りたかった。そうすれば中学の友人とも別れずに済んだだろうに。
だが学費が一部免除されるとの理由で、親からの薦めを断りきれずにそのままこの学校に入ることになったのだ。
俺──留木京治という男の人生は、誰かの理想を押し付けられて出来ていた。それはこれまでもそうだし、俺がこのまま変わらない限りはずっとそうなのだろう。
掃除がやっと終わった頃には、夏の昼の長さに関わらずもうすっかりと日は暮れてしまっていて、薄暗がりの中で自転車置き場に置いた自分の自転車を探し出して鍵を差し込む。
そのまま足で自転車ライトのスイッチを入れようとして……しかし何故か点灯することはなくて少し戸惑う。
(壊れたか、まあこの自転車も長いしな)。
幸い帰り道は街灯で明るいから特に問題は無い。だがボロボロになった自転車に乗っていると思わず感傷に浸ってしまう。
きっと俺もこの自転車のように誰かの想いを乗せて草臥れるまで使われるのだろう。そして壊れた時には捨てられてしまう──。
(それでも──俺はそんな人生を歩み続けるのか?)
俺には何も改善なんて出来ない。そんな勇気も無いというのに、もやもやと胸の中で不満が溜まっていく。溜まっていくだけでそれは吐き出されることもなく、澱となるだけなのだが。
そして──俺は自分でも図らずとも人生の転機を迎えたのだった。
学校からの帰り道に彼女──凛堂四葉さんを轢いてしまったことで、無惨にも俺の人生の歯車は音を立てて砕け散った。
もし俺が友人からの身勝手なお願いを跳ね除けていたら、こんな遅い時間にこの道を通らなかった。
もし俺が野球部に入るのを拒否して、その前にこの高校に入るのを拒んでいたら、この道を通ることはなかった。
もし俺がピアノを本気でやりたいと両親に告げていたら──。
しかし現実は非情で、これは全て俺の怠惰な性格が招いた出来事だった。
そのせいで俺は……一生をかけても償いきれない罪を、この身に背負うことになったのだ。