第三話 私の命の恩人
──くぐもった声が聞こえる。
意識が寝起きのようにはっきりとしない。
思わずこのまま寝かしてほしいなと思う。
そういえば何で私はこんなところで寝転んでいるんだろう?
蝉の鳴き声と、キーンという耳鳴りが聞こえる。
そして頭に響く誰かの声。泣きそうなぐらいに必死で、どうしてそんなになってまでも誰を呼んでいるのかわからない。
だんだんと意識が微睡のような混濁から抜け出てしてくる。その声が私を呼んでいるのだと気づいた。可哀想だから早く返事をしてあげなきゃと思うのだが──思うように身体が動かなくて、特に身体の左側の手足の感覚が曖昧だ。
ああ──そういえば私、自転車で轢かれたんだったな。とどこか他人事のように思い出す。
その瞬間の記憶は全く思い出せないけれど……こうして地面に横たわっているあたり、それは相当な衝撃だったのだろう。
不思議なことに痛みは無い。のだけれど全く身体が動かない。こんな経験は初めてで途端にとても怖くなってしまう。もしかしてこのまま私は死んでしまうのだろうか?
すると──私の頭に誰かが何かを押し当てたようで、その痛みに驚いて急激に意識が覚醒していく。
気づいたら先ほどから聞こえる声がとても近くにあることがわかったので、きっとこの声の主が私を救おうとしてくれている人なのだろうと思った。
(じゃあ……目を開けて、その顔を確かめないと……)。
本当は私は大丈夫だよ、と必死なその人に声をかけてあげたかったけど、どういうわけかそれは出来そうにない。
ならばせめて私の命の恩人の顔だけでも見ないと私の気が済まない──!
力を振り絞って重すぎる瞼を開けようとする。
もう私は死んでしまってもいい、せめて一目でいいから私を救おうとした人の顔を見て逝きたい。
最期に見るものは……その人の顔がいい──!
そしてだんだんと視界が光に包まれて、そこにいたのは一人の短髪の男の子だった。
「……やっと、会えた…」
万感の想いでそう告げる。視界が憎たらしいほどぼやけてあまり見えないけれど、ならばせめて触りたいと思って動かせる左手を彼の顔に添える。
すると彼の頬には血がべっとりとついてしまって、ああこんなにも出血してるならやっぱり私は助からないのかなと諦観の念が湧いた。
でも、満足だ──。
もし私がここで死んでしまったとしても、私を救おうとする彼の顔を一目見ることができた。
私は彼に……最期に恋をすることができた。
それだけで私の心は暖かくなる。
そして、次第に意識が薄れていくのを感じる。
もっと彼と話をしたい。助けてくれてありがとうと言いたい。そんな想いは叶えられることはなく、ただ暗闇の中に沈み込んでいく。
でも十分だ。最期に私にとっての救世主の顔を見ることができたのだから。
私の人生はこの瞬間のためにあったのかもしれない。この充足感のためにこれまでの人生を生きてきたのだ。
幸せな気分を抱えたまま、私は微笑んで眠った。