第二話 出会い
蝉が五月蝿く鳴いている。日が完全に落ち切った。
だというのにコンクリートは熱気を放っていて、それを俺は背中で感じていた。
(……い、ったぁ……腰を……強く打ったか……?!)
骨が軋むような感覚。
身体のあちこちに痛みが走っている。じりじりと硬い地面から熱が上がってきてすぐに起きあがろうとしたが、身体は思うように動かない。
かろうじて動く首であたりを見渡す。
隣にはキュラキュラと未だに車輪を回している俺の自転車。その前輪はぐにゃりとひしゃげていて籠も原型を留めていないようだ。
咄嗟に体が動いてくれたものの、自転車から投げ出されて運悪く受け身をとれていなかったら。
あんな風に自分の身体が変形していたのだと考えて、夏だというのに強烈な寒気が走った。
(待て……俺はなんで自転車から投げ出されてるんだ……?!)
そもそもの原因がわからないことに今更気づいて、瞬間的に飛んでしまった記憶を蘇らせようとして頭に鈍痛が走る。
それでも足に力を込めて懸命にフラフラと立ち上がりながら周囲を確認すると、果たしてそれはあった。それは良く晴れた夏の歩道にはあるはずのなく、奇妙でしかし鮮烈に興味を惹かれるもの。
(水……溜まり……?)
今日は朝から雨は降っていないのに何故か目の前には水溜り。何か大きな黒いものがその近くにある。
猛烈に嫌な予感が俺の中で膨れ上がっていく。
街路樹の影に隠れて見えないそれをよく見ようとして目を凝らす。行き交う自動車の明かりでそれがなんなのかようやく理解できた。
いや、理解してしまった。
一気に早まっていく動悸と噴き出す汗。
長い髪、細く白い手足があらぬ方向に曲がっている。異様な姿。そしてなによりもその顔は赤く血で濡れているが──。
それは紛れもなく、一人の少女だった。
「なっ……!? そんな、俺が……?!」
一気に鮮明になっていく意識。
そうだ、俺は学校帰りのこの坂道を勢いよく自転車で下っている最中、木陰から出た何かに驚いて……そして咄嗟に急ブレーキをかけたけど間に合わなくて──
「きゅ、救急車を……! 助けを呼ばないと……!」
よたよたと言うことを聞かない足を動かす。
周囲を確認して携帯を入れたバッグを探す。
お目当てのものは自転車の影からすぐに見つかった。足を引き摺りながら近づいて中身を漁る。
こういう時に限って手が縺れて震えて、それでも自分の身体に喝を入れて何とか操作する。
(119……! 119……!! 早く出てくれ……!!)
生まれて初めての番号を叩くように携帯に入力する。もどかしいコール音の後、ようやく出てきた緊急隊員へ怒鳴り込むように状況を説明しようとする。
しかし肺から出てくる息は通りが悪い。何回かゲホゴホと咳をした。口の中に鉄の味を感じながらも懸命に言葉を紡いでいく。
『こちら緊急電話です、消防ですか? 緊急ですか?』
「もしもし! 今自転車で人を轢いてしまったんです! あ、緊急で……早く助けに来てください! 頭から血が流れてて、手足が……折れてるみたいで……」
『緊急ですね、落ち着いてください、今から指示をしますので!』
深呼吸するように言われたが、落ち着くことなどできるはずもない。早鐘のように鼓動を鳴らし続ける胸を抑えてなんとか呼吸を整える。
とりあえずは周囲の安全の確保、自動車による二次被害を避けるために周囲を確認して──!
今いる現在地の報告、清潔な布で止血することなどを手短に指示されて、半ばパニックになりながらもそれらの指示を頭の中で反芻してこなしていく。
「大丈夫ですか……意識はありますか!?」
使っていない部活のタオルを鞄から引っ張りだして、それを手に倒れている少女の元に急いだ。
少女は俺の言葉に少しだけ身じろぎした。
それでも返事が無いということは相当な傷を負ってしまっているのだろう。
思わず駆け寄って抱き起こそうとする自分の衝動を無理矢理抑え込む。
緊急隊員の人からはあまり患者を動かすなと言われていた……下手をすれば折れた肋骨などが肺に刺さるかもしれないと──!
幸い歩道に倒れているから動かす必要はないが、彼女に下手に触れてしまうのは病状を悪化させてしまうかもしれない……!
おそるおそる近づいて頭の出血箇所にタオルを当て止血を試みる。みるみると赤く染まっていくタオルに悲鳴をあげそうになる。それを必死に堪え、それでも血が止まってくれと願っていたその時。
──彼女が俺をその視界に捉えた。
「…………やっと会えた……」
俺の頬に折れていない方の左腕が添えられる。そして微かに微笑んだかと思うと、その手は力無く地面に落ちた。
その笑顔はこの場においては場違いに思えるようなもので、俺は──息を呑むのも忘れてその微笑みの美しさに見入ってしまった。
一瞬の静寂の後、我に返って再び目を閉じてしまった彼女に声をかける、だが彼女は沈黙したまま今は何の反応も示さない──!
「……大丈夫ですか?! しっかりしてください! ……ぐ、あ……?!」
何故か意識が遠のいていくのを感じる。
……後から聞いた話だと脳震盪による失神だったらしい。遠くで救急車の音がして少し安心したと思った時には、くらりとして意識を手放して彼女の横に倒れ込んだ。
最後に見たものは──血溜まりの中で眠るように微笑む彼女の幸せそうな寝顔だった。
これが俺と四葉さんの初めての出会いだった。
俺たちの出会いは──自転車で俺が彼女を轢いてしまうという、最悪の出会いだった。