第一章 3
広場に作られた迷宮はかなり複雑な造りをしている。
これは画廊を見に来た客がなるべくゆっくり絵を見られるようにという工夫だった。歩くペースは人それぞれだが、一つ一つの通路が短ければペースは自然と調整される。それでいてストレスを感じさせない絶妙な構成になっていた。噂によるとソラリスと王宮の錬金術師が共同で構築したのだという。
本来、一気に最奥に行くのは難しいのだが、画廊の中には運営側の者専用の細い通路が用意されていた。アポロはそこを通って奥に向かっている。相変わらずブイレンは眠ったままだ。
通路の途中途中には展示スペースに通ずる抜け道があり、そこから画廊の様子を窺うこともできる。というより、目を閉じていない限り、否が応でも客の様子が目に入る。それが苦痛だった。
年に一度の品評祭。そのために作られる画廊。その全体の雰囲気は毎年異なるが、奥に行けば行くほど序列の高い画家の絵が飾られているという構成は同じだ。
ヘルメトスに常設されている小さな美術館も、本に載っていた別の島の展示場も、有名で実力のある画家の作品展示スペースは豪華で広く、大抵は奥にある。
その仕組みに文句があるわけではない。努力して上り詰めた画家がそれなりの待遇を受けるのは当たり前だ。
ただ、見学する人々が、少しずつ画廊の序盤に見た絵の事を忘れていくその様を目の当たりにするのは辛かった。
アポロが今回提出した作品は一枚。雨の中で窓に魔除けのお守りを飾る少女の絵だった。雲間から差し込む僅かな光が晴れを予感させる。そんな景色をヘルメトスで見られることは少ないので、ほとんどの部分を想像で描いた。
その絵は画廊の入り口から徒歩十歩以内の場所に飾られている。
品評祭の即席画廊では、絵画は額に収められず、そのままの印象がダイレクトに客達の視界に入る。アポロは額も含めて作品と考えるタイプだが、王宮の方針には逆らえない。
迷路を進む色とりどりの服を着た老若男女。出身も育った土地も異なるのだろう。統一感のない行列は、まるで使われる前のパレットの絵の具だった。
バラバラの高さからの視線が剥き出しの絵画に集う。一定の時間が経つと列の後ろに押し出されるように見学者は次の絵に向かって消えていく。その繰り返し。
果たして、この画廊を出た時、アポロの絵を覚えている人間はいるのだろうか。
そんな事を考えているうちに、画廊の最奥に到着する。
迷宮の中を無理矢理くり貫いたように、少し広めに取られた展示スペース。曲線を描く壁には三枚の絵が飾られている。
暖炉の側、椅子に腰掛けて物思いに耽る老人。時計は壊れ、カーテンが窓を覆っていて、時間の経過を感じさせない。
海の中、人魚が泡の中の宝石に指を当てている。これから何かの物語がはじまるような予感がある。
滅びた街。魔法を使った戦いによる被害か、紫色の炎が道を塞ぐ。崩れる煉瓦の塵一つまで丁寧に描かれている。
どれも素晴らしい絵だ。高い技術が惜しげもなく使われている。炎や泡にはおそらく魔法が施されていて、見る角度によって絵の印象が変化する。魔法は芸術の世界にも奇跡を与えた。
だが、どの絵もアポロには響かない。この感覚が嫉妬のせいと思った時もあったが、何度考えても、何度目にしても、彼らの絵が心を打つことはなかった。理由は明白だ。この作品の制作者達は王の為だけに絵を描いている。
誰かのために絵を描くこと自体が悪いとは思わない。そういう絵が美しくなり、多くの人を惹きつけることもある。しかし、今の宮廷画家の絵は、少しでも王に認められたいという裏の気持ちが透けてしまっている。こうしなければならないと脅されているかのような雰囲気がある。
そういう絵であっても、見学者が満足してしまう秘密が画廊全体に隠されていた。
画廊の順路。展示された作品の数。絵画の配置によって誘導される視線の動き。全てが計算されていて、最奥に辿り着く頃には、見学者の精神は画廊によって支配されてしまう。半ば夢うつつの状態でこの絵を見たとき、彼らは何かに救われたような錯覚を抱くのだ。絵画に額縁を使わないのはその仕組みを悟られないためである。自分達は展示物を堂々と見せているというアピールになっているのだ。
展示の配置に工夫を凝らすこと自体は珍しくないが、品評祭のやり方はあまりに度が過ぎていた。見学者の感性をぐずぐずに溶かしてから、そこに無理矢理こちらの価値観を注ぎ込んでいるようなものだ。以前、一度だけこのやり方に関してソラリスに抗議した事があったが、ヘルメトスの芸術の価値が広く伝わるのならそれで良いというのが王の考えであると一蹴されてしまった。
その目論見はきっと上手くいっている。今、アポロの近くにいる見学者は凡そ十数名。皆が皆、壁の絵画に釘付けになっている。息を飲む者、感動で手を震わせる者、まるで神か天使でも目撃したかのような反応だ。
彼らは明日、これらの絵画を手に入れるために芸術祭二日目の競売祭に参加する。大金を振るい、他者を出し抜き、そうして手に入れた戦利品と感動を、荷物に詰めて国に帰る。芸術とは違う力で感情を動かされているということには気づかないままだ。
アポロは視線を持ち上げた。画廊は見学者に閉塞感を抱かせないために天井が設けられていない。しかし、そこから見えるのは聳え立つ白き王宮のみであり、アポロはそれでは意味がないと思ってしまう。
星空を描くことは禁じられた。意味なく空を見上げることさえも、今の王宮は良しとしていない。空はそこに繋がる塔を持つ王族だけの所有物ということらしい。
誰も寄せ付けない真っ白な城壁も、中を透けさせない色の付いた窓も、六年間ずっと維持されたままだった。その向こう側にいる、かつて夢を語り合った相手に向けて、アポロは心の中で問いかける。
姫様の目指した国とはこのようなものだったのか、と。
「ちょっといいだろうか?」
やけに色気のある声で呼びかけられた。アポロは一瞬、心の中だけに留めたはずの問いが口から漏れていて、それを誰かに聞かれたのかと焦った。しかし、流石にそこまで馬鹿なことはしていないと考えを改める。
「もしもし、聞こえていないのか?」
耳というよりも心を直接震わせるような低い声に誘われてアポロは振り返った。
そこに一人の男が立っている。
男性としては平均的な体格。毛先まで真っ直ぐな灰色の髪。目つきは鋭く、鼻筋が通っていて、全体的に刃物のような印象の美男子だ。
着ているのはヘルメトスの衛士の物とは違う黒い軍服だ。武器も装備している。腰に短剣と長剣の二振り。軍靴の横に銃口が二つある拳銃。
観察していると男の鋭い視線と目が合った。色素の薄い瞳は近づくと引き寄せられて二度と戻って来られないような迫力がある。
男は何かを待っている。その様子を見て、アポロは自分が男の呼びかけに言葉を返していないことに気がついた。
「あ、えっと、す……いません。何か御用でしょうか?」
宮廷画家になって初めて品評祭に参加した時、ソラリスから接客のいろはを教わった。来場者の要望にはすぐに応え、言葉は隅々まで丁寧に且つ聞き取りやすく発音しなければならない。つまり、今のアポロは何一つできていない状態だ。にもかかわらず、男は不機嫌そうな素振りを全くせずに話を続けた。
「ここの画廊に展示されている作品はこれで全てだろうか」
一瞬何を聞かれているのか分からなくなりそうな問いだった。毎年ヘルメトスの即席画廊は多くの見学者が訪れるが、画廊の仕掛けの影響で誰一人不満を言わない。ところがこの男は、もっと他に展示物はないのかと尋ねているのである。このスペースは画廊の最奥なので、これ以上の展示物は存在しない。他の作品はここに到着するまでに全て目を通しているはずだ。
「全部ですね。画廊の続きは……ないです。商店街の方に美術館はありますが……」
常設の美術館でこの男を満足させることができるのか自信が持てず、先程よりもさらに歯切れの悪い返答になる。
実際、男の疑問と要望はアポロの答えでは解決しなかったのか、不思議そうな表情で首を傾けた。
「だが、そちらの作品は明日の競売祭には出品されないのだろう? ということは近年騒がれている傾国の絵画はここの展示物の中から誕生するということだ」
傾国の絵画という評価についてはアポロも知っていた。毎年、競売祭で高値が付いた作品を持ち帰った国では何かしら大きな事件が起きるというのだ。それは良い出来事の時もあれば、悪い出来事の時もある。噂を聞くようになってまだ数年なので、たまたま偶然が重なっただけだろうが、それでも世の蒐集家、支配者、富豪達はその話で色めき立った。
「そうは思えないってことですか?」
アポロは男に興味を持ちはじめていた。
「……こんなことを運営側の人間の前で語るのは失礼極まりないと理解しているが、それでも言わせてもらうのであれば、ここに飾られた絵はどこか不気味だ。味のついた薬を食べ物として提供されているような気分になった。これでは我が主は満足しないだろう」
「仕えている方が、芸術に厳しいんですか?」
「美しい物に目がない。というより、美しい物を見るために生きている。そういう方だ。ああ、ちょうどあそこに……」
話しながら男が展示スペースの左端を指差す。その仕草に違和感があったが、それよりもこの独特な雰囲気を持つ男の主人が一体どんな人物なのか気になってアポロは指の示す方を見た。
人魚の絵の前に、背が低くて恰幅の良い老人がいる。羽織った白い上着のいたるところに金と宝石の装飾が施されていて、少し趣味が悪いと思ってしまう程だった。手に握りしめた皮のケースも相当な高級品だ。そのすぐ隣では緑のカーディガンを羽織った男の宮廷画家が絵画の説明をしていた。アポロとはすれ違う時に挨拶を交わす程度の関係で、名前さえも朧気だ。向こうも同じだろう。
豪奢な老人は画家の説明を聞きながら曇りなき笑顔で何度も頷いている。「なるほど」「そりゃ凄い」「立派なもんじゃ」と太い声の褒め言葉も聞こえてきた。どう見ても心から画廊を楽しんでいる。
恐る恐るアポロは灰髪の男の様子を窺う。彼は困ったように頬を掻き、「むぅ」と唸っていた。
画家の解説が終わったのか、老人は自分のいた場所を後列に譲った。その後、すぐにこちらに気づき、ご機嫌な足取りで寄ってくる。
「やぁ、カ……ガーベル。お前も楽しんでいるかの?」
「グラン閣下、自分のことはトレイと。家族の名は俺には重すぎる」
トレイと名乗った灰髪の男は空気を抱き込むような仕草で頭を下げる。老人は呼び名を誤ったことを恥じているのか髪の薄い頭頂部を掌で撫でた。
グラン、トレイ。二人の名前をアポロは脳内で反芻する。そういえばグランという名はつい先程聞いたばかりではなかったか。
「あの、お二人はもしかして王都から?」
尋ねると、グランは一瞬の間を置いてから何度も頷いた。
「おお、そうじゃ、儂らは芸術祭の話を聞いて王都からやってきた。ええと、格好から見るにお主も宮廷画家かの?」
尋ねるよりも先に自分が名乗るべきだったことに気づいてアポロは慌てて頭を下げる。
「アポロと言います。序列、二十九位の宮廷画家です。四年前より王宮に仕えています」
宮廷画家は序列や経歴を隠すことを許されない。
「こりゃ丁寧にどうも。儂らも名乗らねばな。儂はグラン・モーリス。王都の財宝管理符の責任者じゃ、そしてこの男が……」
そこから先は自分が、と断りを入れてから灰髪の男が名乗る。
「王都騎士団所属、トレイ・ガーベル。グラン閣下の護衛を任されている」
世界に数多の街あれど、王都と呼ばれる街は一つしか存在しない。正式名、星王都市ノリア。世界で最も魔法の栄えた国の首都であり、六年前、アポロとククルが飛空挺で向かっていた場所だ。
人口三千万人が暮らす超巨大都市は、人が多い分、様々な事件が発生するという。それでもある程度の治安が保たれているらしいのだが、それはノリアが保有するいくつかの治安維持組織が優秀であるおかげだ。特に騎士団は王家を守る任務も引き受けるため、相当の実力が求められるという。トレイが独特の雰囲気を纏っているのは、多くの修羅場を潜ってきたからか。
そして、グランの方もまた大物だった。ノリアという街は王家が直接管理せず、十に分割された政府によって運営されている。財宝管理府はその一つであり、その責任者ともなれば与えられた権力は計り知れない。場合によっては彼の一言で街の行く末が変わることもあるだろう。
それにしては些か頼りなさそうな人物だと思ったが、そんなことを口にした日にはヘルメトスとノリアの関係は悪化し、最悪アポロは処刑だ。不敬極まりない感想は口に出さずに飲み込んでおく。
「そうじゃ、せっかくだからお主にも絵を解説してもらおうかのう」
グランの視線が楽しそうに壁に向く。そこに掛けられているのは燃える廃墟の絵。アポロは助けを求めて先程までグランに絵の解説をしていた宮廷画家を探すが、彼は既に別の客に対応していた。ソラリスが言っていた通り、解説の手が足りていないのだ。
「どうした?」
トレイがこちらを見た。それだけで身が竦む。心に触れられている気がする。
「い、いえ。大丈夫です。何でもありません。解説、しますよ」
視線を振り払うように早足で絵の前に向かう。それが礼を欠いた行動であると分かっていながらそうせざるを得なかった。
アポロはグランの横で燃える廃墟の絵についての解説をはじめた。
使われている魔法の種類とその効果。炎の配置がもたらす視線誘導とその狙い。街を廃墟にした絵は冒涜的に見えるが、あえて国や街が滅ぶ絵を描く事でその危機を避ける信仰があるということ。
蓄えた知識と学んだ技術を語ること自体に不安はない。ましてこの絵は昔なじみのソラリスが描いた物だ。他の作品よりも話せることは多い。
先程解説を躊躇したのは、ソラリスが画廊の最奥をアポロに担当させた狙いが分かっていたからだ。彼女は解説という行為を通じて、ヘルメトスの傾向をアポロに深く馴染ませようとしている。
普通の環境であれば、他者の作品を解説することは多くの学びを得られるため、むしろ積極的に引き受けたいとすら思うだろう。だが、この画廊に組み込まれた仕掛けは見学者だけではなく、画家にも作用する。他者の作品を語れば、その過程で強制的に王の好みに従うようにさせられてしまう。まるで完成した絵の上にさらに絵の具を垂らし、別の絵を描くかのように。
自分以外の画家がどうして平気なのか、アポロにはまるで分からなかった。
一通り説明すべきことを話し終えて一息つく。思っていたよりも喉の消費が激しく、グラン達が去ったら持参した水筒に口を付けようと心に決めた。
「お主の説明は大変に分かりやすいのう」
グランがにこやかに感想を告げる。誰と比べてということではないのだろうが、それでもアポロは内心喜んだ。自分の蓄えた知識を披露して、それが認められるのは単純に嬉しい。こんな気分を味わえるならこの仕事も……。
そこまで考えて慌ててかぶりを振る。言った側からつい先程まで抱いていた思考が塗り替えられそうになっていた。
「いや、オレはまだまだ未熟者ですから」
六年前にククルから言われた言葉を脳内で反芻し、それをそのまま口に出す。発した言葉は御守りのように作用してアポロの脳内をクリアにした。
「見事な解説だった。しかし、どこか苦しそうにも聞こえた」
一度空っぽになった頭に差し込まれる低い声。まるで見計らっていたかのようなタイミングだった。ロープや魔法によって縛られているわけでもないのに、アポロはその場から動けなくなった。軍靴で石畳を叩く音。トレイがアポロの顔がよく見える正面に回り込む。白い瞳が興味深そうに未熟な宮廷画家の様子を観察している。
「お、おい。トレイ、失礼じゃないか」
主であるグランの制止も聞かず、トレイは視線を外さない。
「グラン閣下の反応を見て俺の勘違いかと思ったが、そうじゃない。ここは異常だ。君は俺と同じでそのことに気がついているのか?」
焦る。彼が言っていることが間違っていないからこそ、対応に困る。その通りですと答えればアポロの立場が危うい。かといって、嘘をついたとしても、トレイの瞳はそれを簡単に見抜いてしまいそうだった。
「えっと……」
渇いた喉は上手く動かず、開いた口から気の利いた台詞は出てこない。言葉を詰まらせたまま十数秒が経過する。周囲の人々が何かあったのかとこちらの様子を窺いはじめた。そんな頃――。
どんと派手な音を立てて、小柄な人影がグランと衝突した。尻餅をつきそうになったグランの腕と腰を人影が支えて、小さな声で「失礼」と言った。
そのまま人影は見学者の作る列の隙間に消えていく。外套のフードを深く被っているせいで顔は見えなかった。
そこでようやくトレイがアポロから視線を外す。主に大事があったのだから当然だ。むしろ遅いくらいだろう。
「閣下。大丈夫ですか?」
「あ、ああ。怪我はないよ」
「……ケースはどうされました?」
見ると、確かにグランの手から先程まで握っていたケースが消えている。アポロはソラリスの警告を思い出した。
「スラムの盗人だ」