第一章 2
眠る直前に部屋が賑やかかどうかなんてことを考えていたせいだろうか。どこからか人々の楽しそうな声と、軽快な太鼓の音が聞こえてくる。微妙に太鼓と合わないリズムで頭を小刻みに揺らされていて、それが心底不快だった。
「起きロ。起きなければならないはずダ」
ぼやけた思考を貫くように、今日が何の日だったのかを唐突に思い出す。慌てて身体を起こすと胸に止まっていたブイレンが毛布に絡まって床に落ちた。
「酷い奴ダ。酷い奴ダ」
悪かったと誤りながら毛布を取る。
「ブイレン、集合時間まであとどれくらいだ?」
「十三分ダ」
「やばすぎる!」
数日前に皺を取り除いたシャツに袖を通し、カーキ色のズボンを穿く。その上から丈の長い浅葱色のフード付きカーディガンを羽織る。色付きのカーディガンは宮廷画家の正装だ。
最後に昔から愛用している布鞄を掴み取り、玄関を蹴飛ばすように開いて半地下から地上に駆け上がる。魔霧で覆われた曇天の下、街はいつも以上に活気に溢れていた。
「よう、アポロ。今起きたのかよ。そんなんで務まるのか?」
そう笑ったのはアポロの隣に住んでいる彫刻家の男。軒先で手作りのミニチュアを販売している。
見かけない豪奢な格好の男女が彫刻家の店で足を止め、王宮を模した作品に夢中になっている。おそらく、島の外から来た客だろう。滅多に見られないその光景にアポロは心を躍らせた。
「大丈夫。走ればギリギリ間に合うから!」
客のドレスに当たらないように気をつけながら、その場を抜けてやや下り坂の街道を駆ける。道の両側には色とりどりのとんがり帽子。職人達の住居だ。今日は特別な日なので、帽子の先端と先端を結ぶように旗が飾られている。遠くで景気の良い花火の音がした。どこかで火薬を扱う職人が客の目を惹くために一発放ったのだろう。
「楽しい雰囲気ダ」
「間違いない」
滑空するブイレンの感想に相槌を打ちながら、職人達の露店を通過する。彼ら自身は服も肌も汚れだらけだが、店に並べられた商品はどれも一つ一つ隅々まで眺めたくなるほど美しい。これらの作品は普段、王宮が購入するか、定期便に乗せられて商人の元へと運ばれる。
しかし、今日から数日の間だけは外から来た客が、手で触れ、目で見て、職人から直接購入できるのだ。
年に一度だけ行われるヘルメトスの芸術祭。街も民も、思う存分楽しんでいるのが空気を吸うだけで伝わってくる。芸術祭の全てが好きというわけではなかったが、この期間の商店街の雰囲気はたまらない。
とはいえ、いつまでも雰囲気を楽しんでいる余裕はない。アポロは一応、この祭りの主役の一人なのである。一刻も早く向かわねばならない場所があった。
緩やかな下り坂を駆け抜けること数分。肌に汗の膜ができるかどうかというところで目的地に到着した。
ヘルメトスの三つの街道が接続される大広場である。ブイレンはそこでアポロの肩に止まって静かに目を閉じた。こうなるとなかなか起きない。
王宮の一画に面した半円型の窪み。足下はカラフルな石が規則正しく使われていて、全体が虹色のケーキにも見える。常時はそこにベンチがあるだけなのだが、今日はそこに王宮と全く同じ素材、同じペンキで作られた白い壁が迷路のように設置されていた。
広場がケーキなら、壁はそこに伸びる王の手だ。指と指の隙間にはたくさんの人が集っている。彼らは服装も人種もバラバラだが、視線の集まる先だけは統一されている。
壁に掛かった数多の絵画。
広場の迷路は芸術祭の一日目、品評祭と呼ばれるこの日のために作られた即席の画廊だった。
画廊の外側に赤いカーディガンを羽織った女性を発見し、アポロはそこまで駆け寄った。女性もアポロに気づいて振り返る。
浅黒い肌、内側が金色に染められた長い黒髪。髪はよく見ると部分的に編み込まれている。妖艶な身だしなみと美貌はよく描き込まれた肖像画のような魅力を放つ。彼女はとにかく男性に人気で、現に今も、アポロが話しかける直前まで立派な装いの男性達と会話をしていた。
「やぁ、アポロ。息災かな? ちょっと到着が遅かったわね」
彼女の名はソラリス。アポロが幼い頃から何かと面倒を見てくれる、アポロにとっては姉のような存在だ。彼女も王宮に仕える宮廷画家の一人なのだが、その立場はアポロとかけ離れていた。
二十名いる宮廷画家は王によって序列が定められる。彼女は現在第一位の画家でアポロは下から二番目だ。赤と浅葱、それぞれのカーディガンの色が順位を明確に表している。
「ソラリスさん。す……いません。遅れました」
アポロは六年の時を経て、目上の人間に対して言葉使いを変えることも覚えた。どうしてもぎこちなくなってしまうのだが、最低限の態度を見せるだけでも相手を不快にさせにくくなる。ひとまず平和に生きていこうという分にはそれで問題ない。
「ううん、時間にはギリギリ間に合っているのだから謝ることはないわよ。そこに触れた私も良くなかった。さて、今日あなたに頼むのは……」
ソラリスは側頭部に指を当て、記憶を直接叩いて呼び起こすような仕草をした。何かを思い出そうとする際の彼女の癖だ。記憶力が良く、様々な事を覚えられる代わりに検索に時間が掛かるのが悩みだと、以前に愚痴を言っていた。
「えっと、来場者に画廊の解説をするようにって……」
今日になって業務内容が変更された可能性もあったのであまり強くは言わなかった。しかし、変更はなかったらしく、ソラリスはそれだと言いながら手を叩いた。
「どこからそんな話が出てきたのか分からないけど、芸術祭が今年最後になるかもしれないという噂が広がっていてね。その分今年はお客様が多いの。解説の手が全く足りていないわ。だからって、画家以外の人に解説を頼むわけにはいかないでしょう?」
「まぁ、そうですね」
ヘルメトスの政治は毎年少しずつ閉鎖的な方向に進んでいる。それはククルが即位した後も変わらなかった。その流れを外の人間が知ったとしても不思議ではない。門が閉じられれば、中にいる者だけでなく、外にいる者も気づくのだ。
「それで、オレの担当はどこです?」
尋ねると、ソラリスは自らの左掌の根元を右の人差し指で示した。
「最奥ブロック。上位生の作品を頼みたいの」
即席画廊の展示順は基本的に宮廷画家の序列で決まる。複数出品している場合はそれに応じた調整がなされるが、基本的に奥に行くほど序列が高くなっていく仕組みだ。
ソラリスは人差し指をアポロの肩に移して軽く叩いた。
「貴方は絵画に対する理解度が深い。務まるわ」
その気遣いから、アポロは自分が苦い顔をしていたことを悟る。それを与えられた仕事に対する不安とソラリスは感じ取ったのだろう。だが、アポロが気にしていたのはそこではなかった。
アポロの宮廷画家としての序列が低い理由をソラリスは分かっている。その理由を解決するために、アポロに序列上位の絵を間近で見せ、他者に解説させようということだ。だが、アポロは今の宮廷画家の評価基準で上に登ろうと思っていなかった。
だが、その気持ちを今ここで吐露したり、職務を放棄したりするわけにはいかない。解説が足りていないというのは事実のはずで、そこで来場者のもてなしよりも自分の都合を優先させてしまうのは宮廷に仕えている者として正しい振る舞いではない。
「ありがとうございます。早速、行ってきます」
決意が鈍らない内に行動しようとしたが、ソラリスの話はまだ終わっていなかったらしく、よく通る声がアポロを呼び止めた。
「注意事項があるの。今回の画廊には景観、雰囲気を壊さないために衛士を配備していないわ。もちろん画廊の外側は巡回しているけど、それだけじゃ中の安全までは保証できない」
「つまり、不審者がいないかチェックするのもオレ達の仕事?」
先を読んで尋ねてみると、ソラリスは満足そうに大きく頷く。
「察しが良くて助かるわ。スラム街の人間が何か盗みに来ているかもしれない。昨晩も不審者が街を彷徨いていたみたいだし」
昨晩の不審者と聞いて、一瞬鼓動が荒ぶる。間違いなくアポロのことだ。だが、ソラリスの言葉を聞くに、外套を着ていたおかげで正体はばれていないらしい。
「今回はそれだけじゃないわ。王都から来たグランという方が言うには、最近この島の周辺で空賊が出没したみたいで、その連中が紛れ込んでいるなんてこともあるかも」
「空賊?」
六年前の飛空挺での事件を思い出す。あの時、船を襲ってきたのはオルグという魔獣だったが、要するに空賊とは、似たような行動をする人間のことを指す。
「それも、ただの空賊じゃない。昔とある国の賢者と呼ばれる姫から大切な物を奪ったことがあるって」
どれくらいの規模の国かによって多少変わる話ではあると思うが、それでも王とその家族の周辺は基本的に警備が堅いはずである。そこから何かを盗み出したというのなら、なるほど、それは確かにただの空賊ではない。
だが、どんな空賊であろうとも、アポロにとっては憎しみの対象だ。何の罪も無い人々から強引に資産を簒奪する行為が許せない。それによって未来が大きく変わる者もいる。
「分かりました。気を付けておきます」
自然と返事の言葉に力が籠もる。それをやる気と取ったのか、ソラリスは嬉しそうに笑ってアポロに手を振った。「くれぐれもお客様に失礼のないように」という、毎年必ず聞かされている小言の土産付きだった。