序章 6
ふわりとした風が頬に触れる。その感覚をきっかけに自分の意識を自覚する。
視界が滲む。目が上手く開ききらない。暗い景色の中にごつごつした男の顔が差し込まれた。出会った時よりも少し髭が伸びている。ホエルだ。
「よう。目が覚めたか」
声に引かれるように身体を起こそうとすると、その背に分厚い手が添えられた。よく見ると自分の身体の上には毛布が掛けられている。場所はボートの上。周囲の景色は飛空挺に乗っていた時と変わらない。世界は相変わらず魔霧に包まれている。
「無理はするなよ。さっきまで生死の境を彷徨っていたんだ」
その言葉で、自分が意識を失う前に銃撃を受けたことを思い出す。慌てて服の上から身体を触るが、傷らしい感触はない。
「弾は抜いといた。傷も塞いだ。島に戻ってからちゃんとした知識を持つ奴に診てもらう必要はあるが、まぁ大丈夫だ」
ホエルは何でもないことのように言ったが、設備も道具も不十分なはずのこの場所でそれだけの治療をやり遂げたというのは驚くべきことのような気がした。
「ホエルは武器職人なんだろ? よくそんな事できたな。治療用の魔法でも覚えてたのか?」
ホエルは視線を逸らして自らの髭を触る。
「うーん。まぁそんなところだ。お前よりも長く生きてるからな。専門分野じゃなくとも便利な技術の一つや二つは身につけているのさ」
何となく誤魔化されたような気がしたが、それ以上深くは聞かなかった。大人は人に言えない秘密を抱えているものだと祖父に教わった。自分も何か秘密を持った時に大人になるということかもしれない。
「そんなことより、アポロ。もうすぐ良い物が見れるぞ。この辺は気流の乱れが激しくて、島に戻るためには一度、霧の薄い場所まで出なきゃならないんだ。足下はどうか分からんが、上は霧の向こう側を確認できる可能性がある」
楽しそうに喋りながら、ホエルは身を屈ませて操縦席に戻った。ボートに残ったのはごうごうと唸るエンジン音。飛空挺にいた時よりも僅かに暗くなった霧の世界。そこを抜けた先に何が見えるというのか。
ボートが速度を上げて、流れる風の勢いが増す。船の下は相変わらず白いままだったが、それより上は少しずつ霧が解けはじめていた。
毛布を畳んで船底に置き、重りになりそうな物を探す。船の起動準備に使ったのか、いくつもの工具が舟底に散乱していた。その中から小さなハンマーを選んで毛布の上に置く。素足にサンダルを履いた状態のアポロは道具で足を傷つけないように気をつけながら、ゆっくりとその場で立ち上がった。何かの予感がそうさせた。
白く濁っていた世界がベールを外す。
アポロは目を見張る。黒に青を混ぜたような夜空は、決して暗くなかった。
銀の花のような眩い星々の連なり。
魔物のように怪しく光る巨大な丸い月。
そこに一つとして同じ輝きは存在しない。千差万別の光の強弱が空に不思議な深みを与えている。手を伸ばせば届きそうでもあり、どれだけ近づいても触れられないようでもある。
「これが……星空か」
「そうさ。すげーだろ」
職人は自慢げに笑う。自然は誰の物でもないが、もしアポロがこの景色を先に知っていたのなら、やはり誰かに自慢したいと思ったに違いなかった。
濃い魔霧に空を覆われたヘルメトスではここまではっきりと空を見ることはできない。密航の発覚、オルグの襲撃。様々な出来事を越えて、アポロはついに世界の神秘、その内の一つを目撃した。
「姫様もこの空を見ただろうか」
もし見たとすれば、彼女はこの銀色の空をどんな風に表現しただろうか。否、彼女ならきっと、お前はこれをどう描くのかとアポロに尋ねたに違いない。
だが、操縦席から聞こえてきたホエルの声がその想像を根本から否定する。
「姫様はおそらく見ていない。先に出た脱出艇は気流の流れを無視できる推進力があった。おそらくまっすぐヘルメトスに戻ったはずだ。ここまで来なきゃこの景色は拝めない」
「そっか。でもあの姫様の事だ。きっとまた外の世界を見たいと言って船に乗る」
しかし、ホエルは同意しなかった。
「ホエル?」
「……おそらく、姫様が外の世界を見る機会はもう訪れない。今回が最初で最後のチャンスだったんだ」
アポロは夢のような夜空から視線を外して操縦席の窓に駆け寄った。ボート用の小さな舵輪を握るホエルの表情は硬い。曖昧な推測で言っているわけではなさそうだった。
「どうして?」
「今のヘルメトスは少しずつ外の世界との関係を切り離している。今回の旅も王宮に住むほとんどの人間に反対されていたのを姫様が無理矢理決めたようなものなんだ。それで魔獣に襲われたんだから、今の王……姫様のお父上はますます姫様を外に出したくないと思うだろうよ」
「でも、姫様は今の仕組みを変えると言ってた」
正確には宮廷画家の仕組みを変えるという発言だったが、あれほど外の世界に目を向けたいと願っていたククルが、島と外界との関わりを薄くしたままにするとは到底思えなかった。
「ああ、それはできるだろう。でもな、その権力を手にした姫様は、そう簡単に島から出られない。仕組みを変えた恩恵を受けることができるのはあくまで国であって姫様本人ではないんだ。自分のために国を作り替えるようなやり方はきっとしない」
彼女は島で生み出された芸術を王家だけが愛でられる状態を好まないと言っていた。そこから考えるにホエルの推測はおそらく正しい。ククルは決して、王となった自分のためだけに国や民を動かさない。
「そんな……あんな粗暴な魔獣達のせいで姫様の夢は途絶えるのか」
ククルは国を変えるため、まず自分が世界を目撃して見聞を深めようとした。しかし、その道は今回の一件で閉ざされてしまったということになる。たとえ世界を知らなくともヘルメトスを変えることはできるかもしれないが、彼女はおそらくその道に満足することはないだろう。
冒険の果てに待っていた残酷な現実にアポロは打ちのめされる。人ならざる者達の暴力は、最も大切な物を奪っていった。
自分の指を頬に当てる。まだはっきりと王女の掌の感触を覚えている。あの見張り台で交わした約束と、その時に得た熱がそこにある。だが、アポロは早くも目的地を見失いそうになっていた。
「おい。お前が落ち込むのは違うだろ。姫様の夢は途絶えちゃいない」
操縦席を見ると、ホエルが厳しい視線をアポロに向けていた。密航するアポロを見つけた時も、オルグと交戦していた時も、どこか常に余裕のある態度を取っていた彼が、今は一切の手加減のない真剣な表情をしている。
「あの聡明な姫様のことだ。脱出する時にはもう、いや、オルグの襲撃があった時点でどんな結果が待っているのか分かってたはずだ。その状態でヘルメトスの未来にはお前が必要だから助けて来いと俺に言った」
アポロは自分が落ち込むのは違うと言われた理由を理解した。外の世界を見ることが絶望的になっても尚、ククルは自分の夢を諦めていなかった。完璧な形での成就は叶わなくとも、それに近い結果に寄せることはできる。希望を捨てていない彼女よりも先に、期待されている人間が勝手に諦めてしまうというのはあまりにも不義理だ。
「でも、今のオレに何ができる……?」
自分の両手を眺める。広大な夜空を目撃した直後のせいか、その肌はあまりにも頼りなく感じてしまう。その片方を、豆だらけの大きな手が握った。
「今のお前である必要はないだろう。姫様がお前に期待した物が何だったのか思い出せ」
日頃から火の魔力を操っているせいか、職人の手は熱い。その温度がアポロの心の底に火を付けた。王女は再三言っていた。アポロには熱がある。人はどこかに辿り着こうとしていればいつの日か必ず目的地に辿り着くことができる。
「うん。分かる。そうだ。オレはただ、諦めなければ良い。ただ呆けて無為に日々を過ごさなければ良い」
何をすればいいか分からないのではなく、何から初めても良いと解釈を変えた。その瞬間、未来の選択肢が一気に広がった。
「そうだ。まずはあの星空を描こう。見れなかった姫様の代わりにオレが絵にすれば良いんだ」
もう一度空を見る。光の列は今も尚、その迫力を維持し続けていた。これを筆で描くためにどれほどの修練が必要なのかは分からない。見て描いただけではとても小さなキャンバスにこの衝撃を収めることはできない。
「良い考えだ。ヘルメトスの島からでも場所と条件が合えば空を見れるらしい。記憶の補完もできるだろうよ」
アポロは小さなボートの上で、何かを誓うようにそっと空に向けて手を伸ばす。頭の中でこれをどんな風に描くか、そのためには何を学ぶ必要があるのか、思考が回転し続けている。
ククルは人の歩みを船に例えた。アポロの船は今加速しはじめた。島にいた頃に感じていた行き詰まったような感覚は消えている。目指すべき目的地は見えた。共に夢へと歩む者とも出会えた。
ホエルがボートのエンジンを強く唸らせる。きっともう数刻でこの景色も見納めだ。
一夜の冒険は終わり、また新たな旅がはじまる。
その予感を握りしめるように手を戻し、アポロはボートの縁に背を預けて目を閉じた。今は少しでも多く体力を回復する時だ。
銃で撃たれて暫く意識を失っていたにもかかわらず、アポロはすぐに深い眠りの中に落ちていった。
どこからともなく呪文にも似た歌が聞こえてくる。
『朝の風
運ばれていく黒い雲
世界は戻り、包まれていた鎖は鈍色の光を放つ
遠く向こう。再生の音階が消えていく』
歌が終わり、遠い記憶の中から意識が戻ってくる。
序章 終